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江戸川乱歩氏に対する私の感想(えどがわらんぽしにたいするわたしのかんそう)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-11-8 14:10:32  点击:  切换到繁體中文


 ……白昼の人通りの中で、天日に顔をさらしながら、ダラシなく涙を流す中年男……うす暗いところで開け放しにされている水道の栓……ドラッグの人形の奇妙な形と光り……その中にまじったぶ毛だらけの実物標本……そのようなものが力なくつながり合い、重なり合いながら描き出す白昼夢の交響楽……事実以上のこころの真実……虚偽以上の自然の虚偽……その純な、日本風な、ヤルセのない魅力に、私はスッカリ強直させられてしまいました。
 ……日本でもコンナ小説が生み出され得るのか……この種の小説で純日本式の気分を取り扱ったものとしては谷崎潤一郎のものを読んだ記憶があるだけであるが、これは又、全然、別世界を作った純真、純美なものではないか……と思うと、感激とも感謝とも形容の出来ない、タマラナイ読後感に囚われて、眼を大きく大きく見開きながら、いつまでもいつまでも同じクラ闇を凝視させられた事でした。
 私は、こうして初めて乱歩氏の偉大さを知ったのでした。硝子ガラス窓が深夜にワナワナとふるえるようなポーのペンに対して、眼のたまが白昼にトロトロと流れ落ちるような乱歩氏の筆が対立している事を初めて知ったのでした。
 ポーが地上に残したモノスゴイ薬品のにおいに対して、乱歩氏が生み出すオドロオドロしい黒砂糖の風味が存在している事を、生れて初めて教えられたのでした。
 私はソレ以来、江戸川乱歩というペンネームの安っぽさを、忘れてしまったのでした。そうして、それと同時に……かどうかわかりませんが……日本人のこうした種類の作品を、いつの間にか軽蔑しないようになっていたのでした。
 大変に失礼な引例のしかたですが、正直のところ、小酒井不木氏の「恋愛曲線」を読んで、乱歩氏とは違った感じの「美の戦慄……戦慄の美」が日本にもう一つ存在する事を知ったのは、たしかに、それから後の事でした。甲賀三郎氏の「従弟の死」を読んで、純日本式の「良心の遊戯のモノスゴサ」がズンズン開拓されつつある事を知ったのも、それから後の事でした。羽志主水氏の「監獄部屋」に両手を握り合わせ、城昌幸氏の「神ぞ知ろしす」に襟を正し、渡辺温氏の「可愛相な姉」に素敵を叫けび、小舟勝二氏の「或る百貨店員の話」に頭を下げ得るアタマになる事が出来ましたのも、やはり、それ以来の事に相違ないと思われるのです。
 そうしてソレ以来、私は乱歩氏の幾多の作品を読んで、或はその脚色に失望し、又はその作風の執拗さに幾度となく反感をそそられながらも、その全体を通じての、氏、独特の筆力と、持ち味の魅力に引きずられながら、ある時は、その一と息の長さに「トテモかなわぬ」と歎息させられたり、又は「成る程、そんな方向からも見られるものかナア」と首肯させられたりしつつ「やはり、こんなものは乱歩氏でなくては……」と時折りに思い思い今日に到ったものでした。

「陰獣」では、その読者を引っかけて、引きずり込んで行く、新らしい蜘蛛の糸のような底深い筆のネバリと、飜弄自在なトリックに恐れ入りつつ、その脚色の末尾のドンデン返しの一節に到って「牛鍋」の中から「牛の毛」を発見させられた程度の残念さを、シミジミ味わせられた事でした。
「人間椅子」では、あの主人公の性格をもう一息、突込んで脚色してもらいたいと思いながらも、椅子というものの不可思議な感じを、あそこまでエグリ付けられた氏の大手腕に、羨ましいまで感心させられてしまいました。
「赤い部屋」では、その前置きの材料を集められたハタラキと、その配列と、トリック、脚色を、あそこまで洗練し、有機化しつつ、最後に茶化してしまわれた大器量に対して、思わず「満点」を叫ばせられました。
「踊る一寸法師」では、その材料のステキサと、ノロノロと推移するリズムの詩的?なモノスゴサに、それらの出来事のワザトラシサをハッキリと気付きながらも、喜んで魅惑されて行きました。
「屋根裏の散歩者」では、おしまいにあのキザな、あらずもがなの素人探偵が出て来て、下らなく威張り散らしたために、スッカリ打ち壊されたように思いましたが、しかし、殺人行為までの前半の興味は、私をかなり夢中にしてしまいました。その中でも、被害者が毒を飲まされてから息を引き取る迄の手みじかな、平気な描写は、描写ではない真実の光景として、覗いている節穴の形と一所に、今でも私の眼にみついております。
 これに反して「パノラマ島奇譚」では、ほとんど初めからおしまいまでスッカリ失望させられてしまいました。前半の作者の苦心や、後半の作者の気持ちよさが、どこまでもアクドク受け取られただけで、私としての収穫は、コンクリートの柱から引き出された女の髪の毛一本だけと云ってもよいのでした。
 けれども最近に「蟲」を読みました時には、乱歩氏の頭脳のスゴサに徹底的にハネ飛ばされてしまった感じがしました。
 もっとも「蟲」の主人公が殺人を遂行する迄の筋道は何となく冗長なようで、あまり感心しませんでした。しかもその冗長さは、乱歩氏独特の気味のわるいネバリを持ったものでなくて、幾分固くるしいような感じのものでした。
 それから今一つその終末に、主人公が屍体に爪と頭を打ち込むところで、何となく「余計な真似」というような感じがしました。これが乱歩氏の特徴で、同時に弱点に相違ない。「悪夢」の結末ではこうした頭の余力?が全体を悪夢として裏書きすべく、スバラシク成功しているが、「蟲」や「陰獣」では却って失敗に帰している。これは多くの作者に共通した迷いの種かも知れぬが……又読者の好みや、玩味の程度にも依る事であろうが……と思いました。
 ……とはいえあの「蟲」の主人公が、女優の屍体を土蔵の中からトウトウ取り出し得ずに、変テコになってヘタバッてしまう迄の極度にあられもない気分の変幻を、あんなに平気で扱い去った筆力の凄まじさには「鬼か人か」と叫びたいくらい、いらせられてしまいました。私の寡読のせいかも知れませぬが、あのような描写を見せられた事は、今までに一度もなかった事を、私は躊躇ちゅうちょせずにお答えする事が出来ます。
 まだこの外にも乱歩氏の作品は色々読んでおります。評させて頂きたい事も山々ありますが、一々こんな風に書いて行くと大変ですから略させて頂きます。

 以上……私は自分勝手な理由の下に、あまりにも大胆に、乱歩氏を冒涜して来ました。全く未見の先輩、且つ恩人である乱歩氏に対する私の、私的な感じを、あまりにも無遠慮に述べ立ててしまいました。
 これが「猟奇」の読書諸賢に対して、どのような感じをあたえるか……そうして、それがどのような天罰、もしくは人罰となって報いられて来るか……というような事を、私は出来るだけ考えずに書いて来ました。或はこれは人知れず、心の中で思うべき種類の感想で、徳義上、社交上、発表を許されない程度のものかも知れない……と思いましたが、文壇の儀礼を体験した事のない私は、そんな事も問題にしまいと思って……眼をつぶって……自分の一切を棚に上げて……手加減なしにグングン書いて来ました。
 これだけ書くために、精神的な意味で生命いのちがけの思いをしている事をお察し願って、すべてを許して頂けますれば、私の面目これに過ぐるものはありませぬ。





底本:「夢野久作全集11」ちくま文庫、筑摩書房
   1992(平成4)年12月3日第1刷発行
入力:柴田卓治
校正:mineko
2001年4月23日公開
2006年2月26日修正
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