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少女地獄(しょうじょじごく)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-11-9 9:18:56  点击:  切换到繁體中文


 その時に校長先生が、どんなに狼狽ろうばいしてお出でになったことか。お顔色こそわかりませんでしたが多分、真青になっておられたことでしょう。暗黒にれて来た眼でソッと覗いてみますと、運動会用の大きな張子の達磨だるま様のお尻の間に平突張へいつくばって、威丈高になっていられる虎間先生の前に両手を突いて、半泣きの声を出しながら、どんなにペコペコと謝罪あやまられましたことか。
「いいえ、間違いとは言わせません。貴方は妾ばかりじゃない。コンナ風にして何人も何人も女をだましてお出でになるのです。私は何もかも知っているのですよ。成績の悪い生徒の点数を良くしてると仰言って、その生徒やお母さん達に貴方が何を要求してお出でになるかも、よく存じておりますのですよ。貴方の商売道具は、貴方のポケットの中に在る全校の生徒の試験問題ですからね。貴方の下宿のお二階に尋ねて来られた生徒さんとお母さんのお名前は皆、私のノートに書き止めて御座いますよ。貴方の下宿のお神さんが、こんな事に就いて口の固い理由わけも、妾はズット以前から詳しく存じているのですよ。ホホホ……。
 そればっかりじゃ御座いませんよ。今の五年の優等生の殿宮アイ子さんは、貴方の実のお子さんではありませんか。イイエ。お隠しになっても駄目です。毎日毎日お顔を見ているうちにはハッキリとわかって参ります。メンデルの法則って恐ろしいものじゃありませんか。女の児は父親に男の児は母親に似るってほんとうですわね。よく御覧なさい。貴方に生写いきうつしじゃありませんか。貴方は、貴方が妊娠させて卒業おさせになったトメ子さん……舞坂トメ子さんの気の弱いのに付け込んで、欺したりすかしたりして、あの色男の好色漢の殿宮小公爵の処へ媒酌なすったのでしょう。そうしてその殿宮の甘ちゃんに遊び事で取り入って、どこどこまでも温柔おとなしい、日本婦人式に謹しみの深い天使のような殿宮夫人を、二重にも三重にも苦しめ苛責さいなむのを、一つの秘密の楽しみにしてお出でになったのでしょう……イイエ。貴方はソンナ性格の方なのです。御自分の無良心な、二重人格式の性格の人知れぬ強さを、どこどこまでも深刻に楽しみ、誇って行こうとしておられる、変態趣味的に極端な個人主義の凝固こりかたまりなのです。
 こんな事を知っているのは今のところ妾と舞坂トメ子さん……今の殿宮夫人と二人だけで、御本人のアイ子さんもまだ、お気づきにならないようです。ただ一途に貴方の事を立派な人格の校長さんとばかり思い込んで尊敬してお出でになるようです。そうした有難い舞坂トメ子さんの心遣いが貴方におわかりになりますか。私と舞坂さんとは、二人でこの学校の寄宿舎にいた時分から、大切な大切な親友だったのですからね。その大切な大切な舞坂さんをお泣かせになったのが貴方ですから、どうして知らないでおられましょう。……私はソンナ処から貴方の御生活に興味を持って、いろいろと苦心しながら、貴方に近付く機会を狙っていたのですからね。ね、おわかりになったでしょう。女の一心というものは怖いものですよ。オホホ……。
 いいえいいえ。妾は黙っておる訳には参りません。私は在来ありきたりの手も力もない日本式の女性とは違うんですからね。意地になったらドコドコまでも意地になって行ける自信を持った女ですからね。自慢では御座いませんが、女の腕一つで男の子を二人育てて来た女ですからね。一通り世間の事は知り抜いている女ですよ……貴方が二十年前に、あの天使のように美しい舞坂さんを抱き締めて仰言った愛の言葉を発表する方法を存じておりますよ。どうぞどうぞこの淋しい独身者ひとりものを憐れんで下さい……とね。ホホホ……」
 それから先の問答は、気が顛倒てんとうしておりましたせいか一々記憶に止まっておりません。けれども、かいつまんで申しますと、校長先生の一所懸命の御弁解で、虎間先生はやっと間違いの原因を納得されました。そうして虎間先生を奏任待遇にすることと昇給させる事を条件として、校長先生の過ちを許して上げると言う事で、お話が折合った模様で御座いました。
 それに引き続いて今度は、私の口をふさぐ方法に就いてヒソヒソと話し合っておられたようでした。クスクス笑いの声と一緒に「大阪」とか「廃物利用」とか言ったような言葉がチラチラと洩れて来たようでしたが、大部分はほとんど聞こえませんでした。他人に言えと仰言ってもコンナ秘密をお喋舌しゃべりするような私ではないのにと思い思い、胸を一パイにして聞いておりました。そうして最後にお二人はコンナ問答をされました。
「よう御座いますか森栖さん。万一、貴方が奏任待遇と昇給のお約束をお忘れになると、貴方が大変な御損をなさる事になるのですよ。妾はもうこの春に二人の子供が大学と専門学校を一緒に卒業するばっかりになっておりますし、一生喰べるくらいの貯えは今でも持っているのですから、世間からドンナ事を言われても怖い事はありません。ただこの上の欲には二人の息子の結婚費用と恩給を稼がせて頂けばいいのですから……どんな事でも発表出来るのですからね。よう御座いますか、森栖さん」
「ヘエヘエ。決して忘れません。たしかに承知致しました。ああ意外な間違いで心配しました」
「それにしてもあのは、どうしてここに入って来たのでしょう。気色きしょくの悪い……」
 これだけ聞きますと、私はソッと切戸から離れました。弓道場の蔭の防火壁の横から外へ出て、裏門際の共同便所で髪毛かみのけと顔を念入りに直して、コッソリと自宅へ帰りました。

 その晩は頭の中がツムジ風のように渦巻いて、マンジリとも出来ませんままに、左右の手首がシビレるほどシッカリと胸を抱き締めて、夜を明かしました。死刑の宣告を受けた人間でも、あんなにまで夜の明けるのを恐れはしなかったでしょう。
 あくる朝になりますと私は、身体中が変にダルくってしようがないのに気付きました。激しいトレイニングの後できたくなる時のような疲れを感じて、窓の外の太陽の光が妙にきな臭くて、起き上ろうとすると眼がクラクラして堪りませんので、生まれて初めて終日、床に就いておりましたが、あれは多分、烈しい神経の打撃からだったのでしょう。両親には風邪気味と申しましたので、夕方になって、近所に住んでおられる大学の助教授さんとか言う、若いお医者さんを呼んでくれましたが、別に何処と言って悪い処は御座いませんし、熱も何もなくて、脈も変っていなかったので御座いましょう。お医者様はしきりに不思議がって、首をかしげておられました。そうして私の左手からすこしばかり血を取ってお帰りになりましたが、あの血の一滴が、校長先生と私とをコンナ破目に陥れる重要な血だった事を、あの時の混乱していた私が、どうして気付き得ましょう。
 その次の次の朝……あれから四日目の朝早くでした。私はやっと、平常に近い静かな気持になって眼をます事が出来ました。それは前の晩に若いお医者様から頂いた睡眠薬のお蔭だったのでしょう。私は寝間着のままお庭に出て、ユーカリの樹の梢に輝く青い青い朝の空を、ゆっくりと見上げる事が出来ました。
 けれども、その時の私の悲しゅう御座いましたこと……。
 校長先生。私は人から何と言われても、やっぱり女だったのです。
 それが道ならぬ、いまわしい事と知りつつも私は、校長先生をお怨み申し上げる気持に、どうしてもなり得なかったのでした。それよりも、そんな道ならぬ忌わしい事をなさらなければならぬ校長先生の弱い、卑怯なお心が、その時の私にはこの上もなく御痛わしいものに思えて仕様がなくなっていたのでした。そうしてそのお痛わしい、淋しい校長先生を、仮令たといどのような忌わしい方法ででもお救い申し上げて、正しい、明るい道にお帰りになるようにおいさめ申し上げるのが、私のような女に授けられた道ではないのでしょうか。それが私の持って生まれた運命なのではないでしょうか……とさえ思うようになっておりました。私には、
「この憐れな、淋しい老人を救ってくれ」
 と仰言ったお言葉が、校長先生の真実のお心から出たお言葉のように思えて仕様がなかったのでした。たとい、それが間違って私に仰言ったお言葉であったにしても……。
 私はもう、私の知らない間に虚無ではなくなっていたのです。校長先生の御蔭で、女としての純情に眼ざめ始めていたのです。
 ……底の知れないほど愚かな私……。

「大阪に行かんか」
 と父から相談をかけられたのはその朝食前あさごはんまえの、応接間での出来事でした。いつもですと私の事に就いては、ずいぶん冷淡でした私の継母も、この相談には深い興味を持っておりましたらしく、眼を光らして私の傍の椅子に参りました。
 倹約家の父は珍しく金口を吹かしながら、いつになくニコニコした口調くちょうで申しました。
「お前は新聞記者になりたいって言った事があるだろう」
「ええ。そんな事を考えた事もありましたわ」
「写真も嫌いじゃなかったろう」
「ええ大好きですわ」
 父は、私がいろいろな新聞や雑誌に投書したり、写真サロンに入選したりしている事を知っているのに、どうしてコンナ事を改まって尋ねるのだろうとチョッと不思議に思いました。
「……だから、ちょうどいいと思うんだがね。大阪の新聞社で女の運動記者を欲しがっているんだ。女学校の運動部を訪ねてまわって、話を聞いたり、写真を撮ってまわったりするのが仕事だそうだがね。昨日わざわざ森栖校長先生が俺の役所(営林所)に訪ねて来られて、お前が承知してくれさえすれば、先方では願ったり叶ったりだと言っている。洋行も出来るようにしてると言っているそうだから、コンナ良い口はまたとないと思う。俸給は百円でボーナスは三月分だそうだが、御承知ならば私が大阪へ電話をかけるから、直ぐにも出発出来るだろうって言う事だがね……」
 と言うお話でした。
 私はあの時に、よくあれだけ落ち着いておられたと思います。実際、三、四日前の廃屋の中の出来事よりも、この時に父から聞きました大阪行きのお話の方が、ガア――ンと私をタタキ潰したのでした。
 私はこの時ほど、私の気持を裏切られた事はありませんでした。校長先生が私を大阪へ遣ろうとしておられる……と言う事が、私を絶望的に悲しませたのです。
「……考えさして下さい」
 と返事をするうちに私はもう涙で胸が一パイになってしまいました。何故だかわからないままシクシクとシャクリ上げ始めました。
 それを見ました父はまた、椅子の上から一膝進めて申しました。
「これぐらい、有難い事はないじゃないか……大学を卒業した男の学士様でさえ三十円、二十円の口がない世の中だよ。考える事なんかないじゃないか……それとも何かい。お前には、どうしても大阪へ行けない理由わけでも在るのかい」
 私は後にも前にも、あんなに厳粛な父の声を聞いた事は一度もないのでした。ですから思わず顔を上げて両親の顔を見まわしますと、両親は父の言葉付以上に、大罪人でも訊問しているかのように厳粛な、わばった顔をして、白々と私を凝視しておりましたので、私はいよいよビックリしてしまいました。
 それでも私は何の気も付かずに頭を左右に振りながら申しました。
「いいえ。別に何にも、そんな理由はありませんわ。ただもう二、三日考えさして頂きたいだけなのです。一生の事ですから……」
 両親はこの時にチラリと異様な白い眼を見交したように思います。それから父は改まった咳払いを一つしました。
「ふうむ。それならば尋ねるが、お前は何か私たちに隠している事が在るのじゃないかい。そのために大阪に行かれないのじゃないかい」
 私はハッと胸をかれましたが、すぐに気を落ち着けて、何気なく頭を左右に振りました。ため息を一つしながら……。
「いいえ。何も……」
「それじゃ……お前は再昨日おとついの晩、何処へ行っていたのだえ」
 継母が氷のように冷たい静かな声で、横合いから申しました。
 私は音のない雷に打たれたようにドキンとしながら、ガックリと俛首うなだれてしまいました。多分、私の顔は死人のように青めていたことでしょう。ただもう気がワクワクして胸がドキドキして、身を切るような涙がポタポタと寝間着の膝の上に滴るばかりでした。
 ……私の破滅は校長先生の破滅……校長先生の破滅は私の破滅……私の破滅……校長先生の破滅……何もかも破滅……現在タッタ今破滅しかけているのだ。……そうして、どんな事があっても破滅させてはならないのだ。白状してはいけないのだ。私と校長先生とは二人きりでこの秘密を固く固く抱き合って、底も涯てしもない無間地獄の底へ、何処までも何処までも真逆様に落ちて行かなければならないのだ。……と……そんなような事ばかりをグルグルグルと扇風機のように頭の中で考えまわしているうちに、私の全身をめぐっております血液が、みんな涙になって頭の中一パイにみちみちて、あとからあとから眼の中に溜って、ポタポタと流れ出して行くように思いました。それにつれて私の心臓と肺臓が、涯てしもない虚空の中で互い違いに波打って狂いまわる恐ろしさに、声も立てられないような気持になって行きました。
 その私の耳元に、父の鋭い、冴え返った声が聞こえました。
「隠してもわかっているぞ。一昨日お医者様が取って行かれたお前の血清を、大学で検査された結果、お前がもう処女でないことがわかってしまったんだぞ」
 継母が私の直ぐ横で、長い長いため息をしました。赤の他人よりもモットモットつめたい、もっともっと赤の他人らしい溜息を……。
「一昨日、お前をて下さった……昨夜ゆうべも診に来て下すった先生は、その方の研究で墺太利オーストリーまで行って来られた有名な医学博士だったのだぞ。どんな言い訳をしても通らない、科学上の立派な証拠を……俺は……俺は……眼の前に突き付けられたのだぞ……」

 ……何と言う恐ろしい科学の力……。
 私がもう清浄な身体からだでないこと……自分でもそうは思われないくらいのはかない一刹那の出来事……それがタッタ一滴の血液の検査でわかるとは……。
 ……何と言う残酷な科学の審判……。
 私はモウ何の他愛もなく絨氈じゅうたんの上に……両親の足元に泣きくずれてしまいました。
 絶体絶命になった私……。
 父は私に是が非でも相手を打ち明けよと迫りました。決して無理な事はしない。キット添わせて遣る。お前の事をソンナにまで思って下さる人がおられる事を俺達が気付かなかったのが悪かったのだ。どんな相手でもいいから打ち明けよ。親の慈悲というものを知らぬか……と両親とも涙を流して迫りましたが、私は死ぬほど泣かされながら、とうとう頑張り通してしまいました。校長先生のお名前を打ち明けるような空恐ろしい事が、どうしても私には出来なかったのです。
 私は生まれて初めて親の命令にそむいたのです。親様の慈悲を裏切ったのです。校長先生の御名誉のために……。私はどうしてあの時に狂人にならなかったのでしょう。
 それから私はその日の正午頃になってヘトヘトに泣き疲れたまま、寝床に入りました。アダリンを沢山たくさんんで、青めた二人の妹に見守られながらグッスリと眠ってしまいました。このままで死んでしまえばいいと思いながら……。

 その翌る日の三月二十二日は、私たち二十七回卒業生の、校長先生に対する謝恩会が催される日でした。
 ああ謝恩会……私に取って何と言うミジメな、悲しい、恐ろしい謝恩会でしたろう。
 私はまだ睡眠剤から醒め切れないような夢心地で、死ぬにしても生きるにしても、どちらにしても考えようのないような考えを、頭の中一パイに渦巻かせながら、今一度、母校の正門を潜りました。
 もう一度校長先生のお顔を見たい。どんな顔をなすって私を御覧になるか……と……それ一つを天にも地にもタッタ一つの心頼みにして……。
 いつもの通り古ぼけたフロックコートを召して、玄関に立ってお出でになった校長先生は、やはりいつもの通りに、私を御覧になるとニッコリされました。それは平常の通りの気高い、慈悲深い校長先生のお顔でした。
「……やあ……甘川さんお早よう。貴女にちょっとお話がありますがね。まだ時間がありますから……」
 と落ち着いた声で仰言って、私の手を引かんばかりにして正面の階段を昇って、二階の廊下のズッと突き当りの空いた教室の片隅に、私をお連れ込みになりました。そうして、やはりこの上もない御親切な、気高い、慈悲深い顔をなすって、
「どうです。お父さんからのお話を聞かれましたか。大阪へ行く決心が付きましたか」
 と仰言って、もう一度ニッコリされました。
 その校長先生のお顔は、二、三日前の御記憶なんかミジンも残っていないお顔付きでした。柔和なお顔の皮膚がつやつやしく輝いて、神様のような微笑がお口のまわりをさまようておりました。……あの晩の事は夢じゃなかったのか知らん……あたしは何かしらとんでもない夢を見て、こんなに思い詰めているのじゃなかったか知らん……とさえ思ったくらいでした。
 それでも私は、考えようのないような考えで頭の中を一パイに混乱させながらも、キッパリと大阪行きをお断りしたように思います。その時には別段に嬉しくも、悲しくも、腹立たしくも何ともなかったようですが、多分、私の脳髄がまだシビレていたせいでしたろう。
 しかし校長先生は、お諦めになりませんでした。
「これは貴女のおためですから……この就職口さえ御承諾になれば、貴女にはキットいい御縁談が申し込んで来る事を、お約束出来るのですから……運動好きの若い紳士が、その新聞社に待っておられるのですから……」
 とか何とか仰言って、いよいよ親切をめて、繰り返し繰り返しお説教をなさいましたが、その言葉のうちにうなだれて聞いておりました私が、そっと上目づかいをして見ました時の、校長先生のお眼の光の冷たかったこと……人間を喰べるお魚のような青白い、意地の悪い、冷酷な光が冴え返っておりましたこと……。
 その何とも言えない無情な、冷やかなお眼の色を見ました一刹那に、私はモウ少しで……悪魔……と叫んで掴みかかりたいような気持になりましたので、こっそりと一つ溜息をして、頭を下げてしまいました。何もかもメチャメチャにしてしまいたい私の気持が、私自身に恐ろしゅう御座いましたので……。
 その時に校長先生のお言葉が……お話の初めの時よりもずっと熱烈な……祈るようなお声が、私の耳元に響きました。
「……ね……甘川さん。考えて下さいよ。貴方は万が一にも大阪にお出でにならぬとすれば、貴方の御両親やお妹さん達に、どれだけの精神的な御迷惑をおかけになるか御存じですか。貴女を今のままにしておいては将来、家庭をお作りになって、満足な御生涯をお送りになる可能性が些ない事になると仰言って、御両親がの目も寝ずに心配してお出でになるのですよ。これは私が心から申し上ることです、貴女は一体、将来をどうなさるおつもりですか。これほどに貴女のおためを思っておる私の心が、おわかりにならないのですか」
 その校長先生らしい……この上もない人格者らしい威厳と温情の籠もっているらしいお言葉つきの憎らしゅう御座いましたこと。私は今一度カッとなって、何もかもブチマケてしまいたい衝動にられましたが、しかしその時には最早もう、私の決心が据わっておりましたので、身体中をブルブルとわななかせながら、我慢してしまいました。
「校長先生のお心はよくわかっております。けれどもモウ二、三日考えさして下さい。決して先生のお心にそむくような事は致しませんから……」
 これは私が生まれて初めて吐いた嘘言うそでした。
 この時に私が決心しておりました事は、先生のお心に背くどころでなかったのでした。もしこの時に私が致しておりました決心の内容が、ホンの一部分でも校長先生にお察しが付きましたならば、校長先生はその場で気絶なすったかも知れません。
 私は先生の平気な、石のようにガッチリしたお顔色を見ておりますうちに、トテモ人間並の手段では校長先生を反省させる事が出来ないと深く深く思い込みました。私が火星から来た女なら校長先生は土星から降ってお出でになった超特級の悪魔に違いないと気が付きましたから、ドンナ事があっても間違いない……そうして先生をドン底まで震え上らせる手段を考えなければならぬ……殺して上げるくらいでは追い付かない……この地球表面上が、校長先生に取っては生きても死んでもおられない、フライなべよりも恐ろしい処にしてしまわなければならないと固く固く決心してしまったのでした。
 私は微笑を含みながら静かに立ち上って教室を出ました。そうすると入口で様子を聞いておられたらしい虎間デブ子先生にバッタリ出会いましたが、私はモウすっかり落ち着いておりましたから、何も知らん顔で丁寧にお辞儀をして階段を降りて行きました。あとで校長先生と虎間先生が何か御相談をしてお出でになるようでしたが、そんな事はもう問題ではありませんでした。
 階下の待合室になっている裁縫室に入って行きました私は、卒業生仲間のお話の中に交って一緒に笑ったり、お菓子を頂いたり何かして一時間余りを過しましたが、私があんなに打ち解けて皆様と一緒に愉快そうにはしゃいだ事は生まれて初めてだったでしょう。その間じゅう私は、自分のノッポも、醜さも、火星の女である事も何もかも忘れて、何となく皆さんとお名残が惜しい気持が致しますままに、出来るだけ大勢のお友達と顔を見合って、笑い合って、手を取り合ってなつかしみ合ったのですが、あの一時間こそは私の一生涯のうちでも、やっと人間らしい気持のした、一番楽しい一時間だったのでしょう。

 それから間もなく始まった謝恩会の模様を、私はすこし詳しく書かなければなりません。それはこの世に又とない校長先生の悪徳を、眼もくらむほど美しく、上品に飾り立てた芝居だったのですから。それは私以外の人達が一人も気付いてお出でにならない……そうして同時にタッタ一人私だけを苛責いじめ、威かすために執行とりおこなわれた、世にも恐ろしい、長たらしい拷問ごうもんだったのですから……。
 最初に全校の生徒の「君が代」の合唱がありましたが、その純真な、荘厳この上もない音律リズムの波を耳に致しておりますうちから私は、もう身体中がゾクゾクして、いても立ってもおられないくらい空恐ろしい、今にも逃げ出したいような気持になってしまいました。……心のドン底から震え上らずにはおられない……「君が代の拷問」……。
 それからその次に、父兄代表として視学官の殿宮さんが壇上にお立ちになった時の演説のお立派でしたこと。校長先生の御高徳を、く極く詰まらない事までも一つ一つ挙げて、説明して行かれた時の満場の厳粛でしたこと……。
 校長先生の銅像の寄付金の事に就いて、教頭の小早川先生が報告をなすった後に、卒業生代表の殿宮アイ子さん……まだ何も御存じないアイ子さんが、集まったお金の全額の目録を捧げられた時の、校長先生の平気な、すこし嬉しそうなお顔……。
 それから川村書記さんの事務報告に続いて、校長先生が感謝の演説をなされました。そのお言葉の涙ぐましかったこと……その真情の籠もっていたこと……そのお姿の神々こうごうしかったこと……そうして、そうでありましただけ、それだけにその演説の意味が、どんな詩人でも思い付かないくらいに悪魔的でしたこと……。
「私は自分の子というものを一人も持ちません。ですから、いつも皆様を私のホントウの子供と思っております。……この五年の間にお名前から、お顔から、お心持までも一々記憶して、何のきずもない玉のように清浄に育って行かれる皆様のお姿を、心の底まで刻み付けているのであります。その皆様をこの浪風の荒い、不正不義に満ち満ちた世の中に送り出す、その最後のお別れの日の今日只今、私がどうして平気でおられましょう。どうして感慨なしにおれましょう。それが繊弱かよわい、美しい、優しい皆様でありますだけ、それだけに、雄々しい吾児を戦場に見送る母親の気持よりもモットモット切ない思いで胸が一パイになるのであります。
 ……申すまでもなく人生は戦場であります。この社会は現在、あらゆる素晴らしい科学文明の力で、かくも美しく飾り立てられているのでありますが、しかしその内実はドンナものかと考えてみますと、ちょうど野生の動植物の世界……ジャングルとか原始林とか、阿弗利加アフリカの暗黒地帯とか言うものの中と同様に、精神的にも物質的にも、お互い同士が『喰うか喰われるか』の恐ろしい生存競争場であります。その止むに止まれぬ生存競争から生み出される、あらゆる不正不義な意味の社会悪が到る処に『喰うか喰われるか』の意味で満ち満ちているのでありますからして、わけても心の優しい、うら若い皆様に取りましては、是非善悪に迷われるような深刻な、危険な、恐ろしい立場が、到る処に待ち受けている事を、今から覚悟していて頂かねばなりません。
 ……度々申しますように、今日までの人類文化の歴史は、男性のための文化の歴史であります。そうしてその男性の歴史というものは個人個人同士の腕力の闘争史から、団体同士の武力の競争時代を経過して参りまして、只今は金銭の闘争時代に入っております。すなわち弓矢鉄砲と名づくる武器が、金銭と名づくる武器に代っただけの時代であります。それでありますからして昔の武力闘争時代に於て、戦争のため、すなわち敵に打ち勝つためには、如何なる奸悪かんあく無道な所業といえども、止むを得ない事として許されておりましたのと同様に、現在の社会に於ても、金銭と、これに伴う名誉、地位のためには、法律に触れず、他人に知れない限り、如何なる悪辣あくらつ、非人道をも、どしどし行って差支えないと考えられているのであります。もっと極端に申しますと現在の世界は、国際関係に於ても、個人関係に於ても、平気で良心を無視し、人道を蹂躙じゅうりんし得るほどの、残忍、冷血な者でなければ、絶対に勝利者となる事の出来ない世の中と申しても大した間違いはないと考えられるのであります。
 ……すなわち現代の男性は、金銭の武器をもって戦うところの、暗黒闘争時代の闘士であります。無良心、無節操なる暴力とか策略とか言うものを平気で、巧みに行ない得る男性が勝者となり、支配者となりまして、そんな事の出来ない善人たちが、劣敗者、弱者となり下って行く証拠が、日常到る処に眼に余るほど満ち満ちているのであります。……ですから世界中が優しい、美しい、平和を愛好する婦人たちの心によって支配される時代は、まだまだ遙かの遠い処に在ると申さねばなりません。
 ……ですから皆様は、婦人に生まれられた事を喜ばなければなりません。御存じのお方もありましょうが、太閤記の浄瑠璃じょうるりで、主君を攻め殺して天下を取ろうとする明智光秀が、謀反むほんに反対する母親や妻女を『女子供の知る事に非ず』と叱り付けております。あの時代でも只今でも同じ事で、婦人はそのような、醜い、邪悪な、生存競争の全部を、世界始まって以来男性に任せ切りで、自分たちは皆申し合わせたように美と愛の生活を独占して参りました。その純真、純美な愛の心によって、料理、裁縫、育児の事にのみいそしんで、その家庭生活を美化し、平和化し、子孫を正しい、美しい心に教育する事ばかりに努力して来ました。そうして次第次第に腕力、武力の野蛮な闘争の世界を克服して、昔の人の想像も及ばぬ幸福安楽な、今日の文明世界を生み出して参りました。
 ……ですから皆様は決して恐るる事はありません。私は皆様に平和をたっとぶ心を植え付け、忍従と美を愛する心掛をお教え致しました。皆様はこの心をもって、男性が作る残酷な、血も涙もない、厚顔無恥な悪徳の世界と戦わなければならぬ使命を、まだ歴史のない大昔以来、心の底から本能的に伝統してお出でになるのであります。ですから、その皆様の、美しい、優しい平和と忍従を尚ぶ本能のまにまに、この世界を一日も早く浄化し、良心化して、人類相互の心からなる平和の世界……婦人の美徳によってのみ支配される世界を一日も早く、育て上げられるように、毎日毎日全力を揚げて働いてお出でになりさえすれば、それでよろしいのであります。
 ……それは決して困難な事でも、わかり難い事でもありません。家庭に於ける婦人の美しい本能……清らかな愛情は、この男性と戦う唯一、無敵の武器であります。どんなに気の荒い、血も涙もない男性でも、この婦人の底知れぬ忍従と、涯てしもない愛情によって護られた家庭の中に在っては、底の底から安心して平和を楽しむ心になるのであります。そうして知らず知らずのうちに大きな感化を、その心の奥底に植付けられて行くのであります。家庭内に争議を起す婦人は災なるかな。……どうか皆様は一日も早く健全な家庭を持たれて、潔白な、正直なお子さんを大勢育て上げられて、来たるべき日本国を出来るだけ清らかに、朗らかに、正しく、強くされん事を、私は衷心から希望して止まないのであります。
 ……私はこの希望一つのために、生涯をててこの事業に携わっておる者であります。……繰り返して申します。皆様は私の心の子供であります。この子供たちをかような尊い戦いのために、今日只今から社会に送り出す私の心持……お別れにのぞんで……」
 校長先生のお話がここまで参りました時に、満場から湧き起った拍手のたまらないうず巻き……それからしばらくの間続いたススリ泣きと溜息……。
 それから卒業式の時と同様に唄い出されました、涙ぐましい「螢の光」……。
 ああ。何と言う感激にみちみちた光景でありましたろう。何という神々しい校長先生のお姿でありましたろう。

 その謝恩会がすみますと直ぐに私は、帰り道の途中に在る殿宮視学官様のお宅をお訪ねしました。そうして学校一の美人で、学校一の優等生と呼ばれてお出でになる殿宮アイ子様にお眼にかかりまして、大切な秘密のお話がありますからと申しまして、二人きりで応接間に閉じこもりました。
 殿宮アイ子さんは在学中、私の大切な大切な愛人アミだったのです。お友達のうちで詩というもののホントウにおわかりになる方はアイ子さんお一人だったのです。誰も知りませんけれども、時々コッソリとお眼にかかった事が何度あるかわかりませんので、あの物置のアバラ家の二階で、虚無のお話をし合ったのも一度や二度ではなかったのです。けれども、こうしてお宅を訪問した事はこの時が初めてだったのです。
 殿宮アイ子さんはホントにシッカリした方でした。私の話をお聞きになっても、驚きも泣きもなさらないで、美しい唇をシッカリと噛みしめ、張りのある綺麗なお眼を真赤にして輝かしながら、私の長い長いお話をスッカリ受け入れて下さいました。そうして私のお話がすみますと、やっと少しばかりの涙を眼頭にニジませながら、思い詰めたキッパリした口調で言われました。美しい美しい静かなお声でした。
「……ありがとうよ。歌枝さん。お蔭で今まで私にわからなかった事がスッカリわかりましたわ。私が初めて知りました真実ほんとのお父さん……森栖校長先生を反省さして下さる貴女あなたの御親切に私からお礼を言わして下さいましね。貴女のなさる復讐ふくしゅうは、どんな風になさるのか存じませんけど、貴女の仰言る通りに、誰にもわからないようにその人を反省させるだけの意味の復讐なら、大変にいい事だと思いますわ。その方法は貴女にお任せしますわ。どんな方法でも私は決してお恨み申しますまい。そうして、それでもお父様……校長先生が反省なさらない時には、貴女から下すったお手紙を、きっと貴女のお指図通りに出しますわ。ええ、中味を見ないで……誰にも……母にも秘密を明かしませんから、どうぞ御安心下さい。私は貴女をドコまでも信じて行きますわ。……私は貴女に思う存分に恨みを晴らして頂くよりほかに父の……父の罪のつぐな方法かたを知らないのですから……。
 ……ですけど……それはそれとして、大阪へお出でになったらキットおたよりを下さいましね……どうぞ……ね」
 そう言ってアイ子さんはタッタ一しずく涙をポトリと落されました。そうしてその涙を拭おうともしないまま走り寄って来て、私の手をシッカリと握り締められました。千万無量の意味のもった握手……。
 それで私の下準備したごしらえは終りました。

 私が大阪に行く事を承知しました時の両親の喜びようと、わざわざ訪ねてお出でになった校長先生のおめになりようは、それはそれは大変なものでした。そうしてその時に私が持ち出しました無理なお願い……大阪へ行く事を誰にも知らせないで、タッタ一人で出立したい。大阪の新聞社の支局へも挨拶しないまま、今から直ぐに出発したいという我ままな願いも、そんなに八釜やかましく仰言らずに承知して下さいました。
 けれども私は大阪へ行きませんでした。
 謝恩会のあったその日の夕方に、新しい洋装とハンドバッグ一つと言う身軽い扮装いでたちで、両親に別れを告げて、家を出るには出ましたが、その足で直ぐに殿宮視学のお宅をお訪ねして、イヨイヨ大阪へ行きますからと言って、無理にアイ子さんを誘い出しました私は、一緒に西洋亭へ上りまして、二人で思い切り御馳走をあつらえて、お別れの晩餐ばんさんを取りました。それから二人でモダン写真館へ行って記念写真を撮りますと、あそこの写真館のサロンで二人で抱き合って長い長い接吻を致しましたが、二人とも涙に濡れて、お互いの顔が見えないようになってしまいました。
 それから私の計画をチットモ御存じのないアイ子さんが是非とも見送ると言って停車場へ見えましたので、仕方なしに大阪へ行くふりをして汽車に乗るには乗りましたが、直ぐに途中の駅から自動車で引き返して、この町の外れのある淋しい宿屋へ泊り込みました。そうして近くの古着屋から買って来ました黒い背広に、黒の鳥打帽、黒眼鏡と言う黒ずくめの服装で、男のような歩き方をしながら、一所懸命に校長先生のアトをけ始めました。手に提げた学生用の手提袋には長い丈夫な麻縄と、黒繻子じゅすの覆面用の風呂敷と、旧式の手慣れたコダックと、最新式の小型発光器フラッシュランプと、蝋マッチと、写真の紙を切るための安全剃刀かみそりの刃を入れておりましたが、これは前の晩に宿屋の屋根で使い方を研究して置きました、練習ずみの品々で、校長先生に取っては、ピストルよりも、毒瓦斯ガスよりも、何よりも恐ろしい私の復讐の武器なのでした。
 そんな事とは夢にも御存じなかったのでしょう。却って私を大阪へ追払ってモウ一安心とお思いになったのでしょう。校長先生は謝恩会のあった翌る日の二十四日の夕方に、何処かへ出張なさるような恰好で、真面目なモーニングに山高帽を召して、書類入れのボックス鞄なぞを大切そうに抱えて、下宿をお出ましになると、夕暗ゆうやみの町伝いを小急ぎに郊外へ出て、天神の森の方へ歩いて行かれました。……サテは……と胸を躍らせながら一心にアトをけて行きますと、果して天神の森には二人の和服の紳士の方が待っておられました。……スラリとした影とズングリ低いのと……それが近付いてみますと、やはり私の想像通りに傴僂せむしの川村書記さんと、好男子殿宮視学さんに違いない事がわかりました時の私の喜びはどんなでしたろう。
 森の外の国道には、室内照明ルームを消した幌自動車が、三人の若い芸妓げいしゃさんを乗せて、ヒッソリと待っておりました。それに気が付きました私は、手提袋を腰に結び付けて、黒い風呂敷で手早く覆面をしますと、三人が自動車に乗り込まれるとほとんど同時に夕暗にまぎれながら、スペヤ・タイヤの処へ飛付いて、小さくかがまりながら揺られて行きました。そうしてその自動車の行先が、私の想像通りに温泉ホテルである事がわかりました時の、私の安心と満足……冒険心と好奇心……それはどんなにかドキドキワクワクしたものでしたろう。私の復讐は何もかも最初から、温泉ホテルを目標にして、研究して、計画しておったものですから……。そうして、それがもう第一日の一番最初から、ぐんぐん思い通りに、運んで行き始めたのですから……。
 けれども私が一寸ちょっとした思い付きから、あんな悪戯いたずらをしました時に、自動車の中の方々が、どんなにかビックリなすった事でしょう。
 あの自動車がシボレーのオープンでありました事は、ほんとに天の助けだったかも知れません。その上に私が、偶然に、安全剃刀の刃を用意しておりましたのは、これこそ一つの奇蹟だったかも知れません。ガタガタする車体の中で、メチャメチャにはしゃいでお出でになった三人は、私が安全剃刀の刃で、後窓アイホール周囲まわりをUの字型に切抜くのをチットモお気付きになりませんでした。
 その穴から片手を突込みました時に、校長先生は、一番左の一番可愛らしい舞妓まいこさんの背後から抱き付いてお出でになりましたが、その舞妓さんの花簪はなかんざしと、阿弥陀にかぶっておられた校長先生の山高帽を奪い取って、自動車から飛び降りて逃げだした時に、私の足の力がどんなにか役に立ちましたことか……若い運転手さんが「泥棒、泥棒」と叫びながら一所懸命で追い掛けて来るには来ましたが、日が暮れて間もない平坦な国道ですもの……。
 右手に花簪を、左手に手提鞄を抱えて、帽子をシッカリと口にくわえた私は、そんなに息切れもしないうちに、グングンと追跡者を引き離してしまいました。そうして町へ引き返して、ビックリしておられる殿宮アイ子さんをソッと呼び出して、私の仕事の中で思いがけない拾いものをした事をお知らせして、心から喜び合う事が出来ました。
 ですからあの山高帽子と花簪は、今でも殿宮アイ子さんのお手許に在るはずです。この手紙を御覧になりましたらば、直ぐにアイ子さんの処へ受け取りに行って御覧なさいませ。どのような劇的シインが展開するか存じませんけれども……。

 けれども私のほんとうの目的の仕事はまだまだ残っておりました。それくらいの事で反省なさる校長先生ではないことを、よく存じておりますからね。
「愛子さん……校長先生がホントウに後悔をなすって、お母さんにもお詫びをなすったら、この帽子と花簪を上げて頂戴……それでももし校長先生が受け取りにお出でにならなかったら、この二つの品物は、お母様と御相談なすって、お好きなようにして頂戴……」
 そう申し残しますと私は直ぐに別の箱自動車セダンを雇って一直線に温泉ホテルに向いました。
 ……ああ……温泉ホテル……あの有名な温泉ホテルこそは、私が校長先生に復讐を思い立つ前から、好奇心に馳られて、何度も何度も学校の帰りに温泉鉄道に乗って行って、裏から表から眺めまわして、詳しく探検していた家でした。そうして今度の仕事……私の一生涯を棄ててかかった仕事は、この家以外の処では絶対に成し遂げられない事を深く深く見込んでいる処なのでした。
 私は校長先生の御一行が、後へ引き返されるような事は多分なさらないであろう事を信じておりました。幌自動車の後窓アイホールを切り抜いて、あんな悪戯いたずらをして行った曲者が、何を目的にした者かと言う事が、あの時のお三人におわかりになるはずはありません。して最早もう、とっくの昔に大阪に着いているはずの私が、あんな事をしたとお気付になるはずはない。そうして折角三人も揃って思い立たれた今夜の計画を、これくらいの事にビックリしてお中止やめになるはずもない。ただアラビヤン・ナイトのような不思議な災難に驚かれて、ワヤワヤとお騒ぎになっただけで、そのまま先を急いでお出でになったであろう事を、私は九分九厘まで信じておりました。
 ですから私は温泉ホテルの前をすこし行き過ぎた湯の川橋のたもとで自動車を止めて貰いました。
 それから狭い横露地伝いに私は、温泉ホテルの三階の横に出まして、あすこの暗い板塀の蔭で長いこと耳を澄ましておりますうちに、高い高い三階の窓から、明るい光線と一緒に微かにれて来る校長先生の笑い声を耳に致しました私は、ホット安堵の胸を撫でおろしました。それから直ぐに、音を立てないように板塀を乗り越して、非常梯子ばしご伝いに三階の非常口まで来ますと、あそこから丈夫なあかがねの雨とい伝いに、軒先からクルリと尻上りをして屋根の上に出ましたが、さすがの私……火星の女も、その尻上りをした時に、はるか眼の下の暗黒の底の、石燈籠に照された花崗岩みかげいわの舗道をチラリと見下しました時には、思わず冷汗が流れました。
 そんな苦心をして、やっとの思いで目的の赤瓦屋根の絶頂にい上りました私は、口にくわえて来ました手提の中から取り出した細引のマン中を屋根の中心に在る避雷針の根元に結び付けて、その端を自分の胴中に巻き付けて手繰たぐりながら、急な赤煉瓦の勾配を降りて行きました。そうして屋根の端の雨樋の処から顔だけ出して、直ぐ下の廻転窓越しに、部屋の中を覗き込んで見たのでした。
 温泉ホテルの三階は、全体が一つの眺望用のサロンみたいになっているのでした。雨模様で蒸暑かったせいでしたろう。窓の上側が全部、開放して在りましたので、内部なかの様子が隅から隅まで手に取るように一目で見えました。
 私は、私の想像以上だったあの時の、あの部屋の中の有様を書く勇気を持ちません。ただ必要なだけ書いて置きます。
 大きな棕梠しゅろ竹や、芭蕉ばしょうや、カンナの植木鉢と、いろいろな贅沢ぜいたくな恰好の長椅子をあしらった、金ピカずくめの部屋の中では、体格の立派な殿宮視学さんと、ゾッとするような白光りする背中のこぶ露出むきだした川村書記さんと、禿頭の熊みたような毛むくじゃらの校長先生が、自動車で連れてお出でになった三人の若い婦人のほかに、土地ところ芸妓げいこさんでしょう、年増としまの二人と、都合五人の浅ましい姿の婦人たちを相手に、有頂天の乱痴気騒ぎをやってお出でになりました。獣とも人間ともわからない姿と声で躍ったり、跳ねたり、転がりまわり、いまわり、笑いまわり、泣きまわってお出でになりました。
 私は暫くの間、茫然とそんな光景を見恍みとれておりました。
「現代の文明は男性のための文明」と仰言った校長先生の演説のお言葉を思い出しながら、こうした妖怪じみた人間と美人たちの乱舞を生まれて初めて眼の前に見て、気が遠くなるほど呆れ返っておりましたが、やがて吾に帰りました私は、屋根の端に身を逆様にしながら、落ち着いてコダックの焦点を合わせました。そうして、わざと蝋マッチを一本パチンと擦ったアトで、皆様がこちらをお向きになった瞬間を見澄まして、発光器フラッシュを燃やしましたが、強い、青白い光線はズッと向うの広間の向う側までも達したように思いました。
 私が発光器フラッシュランプを眼の下の深い木立の中へ投げ棄てますと、長椅子の上で遊びたわむれておりました婦人たちの中にはキャア――ッと叫んで着物を着ようとした人もおったようでした。
「何だったろう、今のは……」
「恐ろしく光ったじゃないか」
「パチパチと言ったようだぜ」
「星が飛んだんだろう」
「馬鹿な。今夜は曇っているじゃないか」
「イヤ。星でも雲を突き抜いて流れる事があります。光が烈しいですから、直ぐ鼻の先のように見える事があります。私は一度見ましたが……小さい時に……」
「今夜は何か知らん妙な事のある晩だな」
「ちょうど窓の直ぐ外のように見えたがのう」
 そう言って校長先生が、ノソノソと窓の処へ近付いてお出でになるようでした。
 その瞬間にスッカリ面白くなりました私は、またも一つの悪戯いたずらを思い付きました。
 写真機と手提袋を深い雨どいの中へ落し込んだ私は、手早く髪毛かみのけを解いて、長く蓬々ほうほうと垂らしました。ワイシャツの胸を黒い風呂敷で隠しますと、思い切って身体からだの半分以上を屋根の端から乗り出しました。長い髪毛を逆様に振り乱しながら、息苦しいくらい甲高い、悲し気な声で叫びました。
「森栖先生エ――エ――エエエ……」
 部屋の中から流れ出る明るい電燈の光線で、窓の外の私の顔を発見された校長先生は、窓のわくつかまったまま眼を真白く見開いて私をお睨みになりました。浅ましい丸裸体のまま、あんぐりと開いた口の中から、白い舌をダラリと垂らしておられました。その恰好がアンマリ可笑しかったので、私は思わず声高く笑い出しました。
「……ホホホ……ハハハハハハ……ヒヒヒヒヒヒ……」
 部屋の中が、私の笑い声に連れて総立ちになりました。
「あれエ――ッ……」
「きゃあア――あッ……」
「……誰か来てエ――ッ……」
 と口々に悲鳴をあげながら逃げ迷うて、他人の着物を引抱えながら馳け出して行くひと……そのまま入口の方へ転がり出るひと……気絶したまま椅子の上に伸びてしまう人……倒れる椅子……引っくり返る卓子テーブル……壊れるコップや皿小鉢……馳けまわる空瓶の音……。
 ……真夜中に三階の屋根の軒先から、逆様に髪毛を垂らして笑っている女の首を御覧になったら、誰でも人間とは思われないでしょう……。
 それが間もなくシインとしずまりますと、あとには校長先生と同じに、私と睨み合ったまま、棒立ちになっておられる殿宮視学さんと、川村書記さんが残りました。その世にも滑稽こっけいな姿のお三人の顔を見廻わしますと、私は今一度、思い切った高い声で、心の底から笑いました。
「ホホホホホ……オホホホホホホ……私が誰だか、おわかりになりまして……?……校長先生……殿宮さん……川村さん……火星の女ですよ……オホホホホホホホホ……イヒヒヒヒヒヒヒヒ……アハハハハハハハハ……」
 校長先生は眼の玉を白くして、舌をダラリと垂らしたまま、大地震に会った仏像のように、仰向け様にドターンと引っくり返っておしまいになりました。それをほかのお二人は見向きもなさらないまま、私の顔を睨み詰めて棒立ちになっておられるようでしたが、私はそのまま綱を手繰ってモトの屋根の絶頂に帰りました。四つんいになったまま、ほおっ……と一つ溜息をして気を落ち着けました。
 私はもうその時に、立ち上れるかどうかわからないくらい、疲れている事に気が付きましたが、しかし、いつまでも休んでおる事は出来ませんでした。逃げた芸妓さん達が、着物を着てからホテルの人に知らせたものと見えまして、下の方で誰だかガヤガヤと騒ぎまわる声がしました。それに連れて古ぼけた非常提灯ちょうちんの光が二つ三つ、眼の下はるかのお庭の中に走り出て来たようでしたが、私はちっとも慌てませんでした。
 大切な写真機を入れた手提袋をシッカリと口にくわえますと、避雷針に結び付けた綱を放ったらかしたまま、屋根の絶頂に立ち上って登って来た時と反対側の突端に来ました。そこで雲の間から洩れ出した美しい星影を仰ぎました時に、私は何故かしら胸が一パイになって、眼の中に涙が溜まって困りました。そのまま屋根の斜面を馳け降りて、闇の庭の舗道に飛び降りて、死んでしまいたいような衝動に馳られましたが、下の方から非常梯子を登って来るオドロオドロしい足音を耳にしますとまた、気を取り直しまして、直ぐ足の下から引っぱって在るラジオのアンテナ伝いに、隣りのむねの二階の屋根に降り立ちました。それからその屋根に近い大きな松の樹の枝に飛び付いて板塀の外へ降りました。それから田圃たんぼの中の畦道あぜみちを横千切りに近道をして走りながら、一直線に温泉鉄道の停車場へ来て、やっとこさと終電車に間に合って、一時間経たないうちに町の宿屋へ帰って参りました。
 宿の私の部屋にはチャント床が取ってありました。その枕元に苦い苦いお薬のように出切った、つめたいお茶が置いてありましたので、私は坐る間もなくガブガブと二、三杯、立て続けに飲みましたが、その美味おいしゅう御座いましたこと……最前、温泉ホテルの屋根の上で、死にたくなった時とは正反対に、勇気が百倍して来たように思いました。

 その晩のフィルムの現像は百パーセントに都合よく行きました。小さいフィルムではありますが、浅ましい姿の三人の男性と五人の女性がビックリしてこちらを向いておる光景が、とてもハッキリと感じておりまして、引き伸ばしてみる迄もありませんでしたので、こんな事ならば、あんなに骨を折って、帽子だの花簪だのを後日の証拠に奪い取るような冒険をしなくともよかったのにと、一人で可笑しくなってしまいました。そうしてその晩から翌る日の正午近くまで私は、大満足のうちに骨を休めました。
 きょうの正午おひる過ぎに起き上りました私は、直ぐに全速力でこの手紙を書き始めました。こんなに長い手紙を三通も書いておりますうちには真夜中になるか、もしかすると夜が明けてしまうかも知れませんが、それでも私は構いません。夜の明けないうちに昨夜の写真を焼き付けて三、四枚ずつ、手紙の中に入れられるようにして置きます。
 私はこの手紙を三通とも別々の宛名の封筒に入れて、お頼みした通りの順序に出して下さるように書添えたものを同封にして、明二十六日の晩、町中が寝鎮まっている時刻に、愛子さんのお宅の郵便受ばこに入れて置きます。
 それからズット以前に、学校の化学教室から盗んで置きました××××と脱脂綿と、昨日買って置きました△△△△と△△△とを持って、あの母校の思い出の廃屋あばらやに忍び込みます。
 あそこに積んで在るわらと、竹と、紙ずくめの運動会用具を積み重ねて、△△△△を振りかけます。それから裸蝋燭を△△△△に濡れた畳の上にジカに置いて、二十分もしたらそこいら中が火の海になるようにして置きます。それから××××をタップリと浸した綿で顔をおおうて、積み重ねた燃料の下に潜り込むつもりです。私は揮発油を嗅いでも、すぐにフラフラになる性分ですから××××を沢山たくさんに嗅いだら、まだ火事にならないうちに麻酔し過ぎて、ほんとうに死んでしまうかも知れません。
 森栖校長先生……。
 私はこうして貴方から女にして頂いた御恩をお返し致します。それと一緒に、私の愛する心からの愛人、殿宮アイ子さんに、ほんとうの意味の親孝行をさせて上げたいのです。私はこうして、すべてを清算しなければ、モトの虚無に帰る事が出来ないのです。
 どうぞ火星の女の置土産、黒焦少女の屍体をお受け取り下さい。
 私の肉体は永久に貴方のものですから……ペッペッ……。





底本:「少女地獄」角川文庫、角川書店
   1976(昭和51)年11月30日初版発行
   1990(平成2)年2月20日26版発行
入力:ryoko masuda
校正:もりみつじゅんじ
2000年1月12日公開
2006年7月19日修正
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