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暗黒公使(ダーク・ミニスター)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-11-10 9:48:03  点击:  切换到繁體中文


   岩形氏の死状[#ゴシック体]

 ◆屍体が発見された場所 東京駅ステーション・ホテル第十四号特別寝室。
 ◆死亡推定時間 大正七年十月十四日午前零時前後。
 ◆屍体発見当時の室内の状況 電燈は点けたまま。窓も明け放したまま[#「窓も明け放したまま」に傍点]であるが、そこから何者かが出入りした形跡は無い。ただ窓枠の上下際に岩形氏の泥の指痕(ゆびあと)が附着しているのみ。なお、スチーム暖房は止めてある。
 ◆屍体の外見状況 帽子は栓をした小瓶や注射器と一緒に、枕元に正しく置いてある。そうして泥靴を穿いて、右手の袖口を泥まみれにした外套と上衣を着て膝の処を左右とも泥だらけにしたズボンを穿いて[#「右手の袖口を」から「ズボンを穿いて」まで傍点]、南を枕にして、左手を下に[#「左手を下に」に傍点]敷いた西向きに横臥し、眼を一ぱいに見開いて、窓の外を凝視したまま[#「窓の外を凝視したまま」に傍点]死んでいる。そのワイシャツと、その下のラクダの襯衣(シャツ)は両方とも、同じ左腕[#「左腕」に傍点]上膊部を二枚重ねて横に三寸程鋏様(はさみよう)のもので截(き)り裂いてあって、そこから注射をした痕は、絆創膏(ばんそうこう)を貼ってないために、淡(うす)い血と淋巴(りんぱ)液が襯衣(シャツ)の裏面に粘り付いている。

   容貌と体格[#ゴシック体]

 ◆容貌 蒙古人種(モンゴリアン)系の大きな顔で、赤味がかった頭髪はまだ左程(さほど)に禿(は)げていず、全体に醜くはないが、好男子という程でもない。しかしどことなくノッペリしたところは貴族的で婦人に敬愛されそうな顔立ちである。かなり高い顳※骨(しょうじゅこつ)と、薄い眉とは犯罪性をあらわし、狭く尖(とが)った鼻の頭と、稍(やや)角張った大きな顎(あご)は敗け惜しみの強い性格をあらわしているが、小さな分厚い唇はどちらかといえば考えの浅い、お人好しの性格を見せている。これに反して広い平ったい額は疑い深い、もしくは底意地の強い才智の働きを表明し、耳は又、女性的で温順(おとな)しい恰好をしているなぞ、随分矛盾した特徴を持った顔で、全体を綜合した印象から云っても、ちょっとどんな性格か要領の得難(えにく)い表情と云わねばならぬ。ただ、眼だけは誰が見ても酒精(アルコール)中毒で、白眼が黄色く濁って、暴風雨の後(のち)の海を見るような気味のわるい光りを放っている。
 ◆体格 身長五尺六寸余。酒肥りにデブデブ肥っていて体量も二十貫位ありそうに見える。顔も手足も真黒く日に焼けているが地肌は酒で色付いている胸部を除いては、白い方である。又、昔はかなり烈しい労働に従事したらしく手足の皮が厚くなっているし、腕力も相当にあるらしく、左の腕に一度小さな刺青(いれずみ)をして焼き消した痕がある。しかし、それがずっと前に東京市内で流行した不良少年用の花型のものか、外国の無頼漢用の骸骨(スケレトン)式のものか、それとも普通の恋愛沙汰から来たハート型に頭文字(イニシアル)の組合わせ式のものかというような事は、ちょっと判別出来なかった。

   服装[#ゴシック体]

 ◆服装 外套は焦茶色の本駱駝(ほんらくだ)で、裏は鉄色の繻子(しゅす)。襟(えり)は上等の川獺(かわうそ)。服は紺無地(こんむじ)羅紗(らしゃ)背広(せびろ)の三つ揃いで、裏は外套同様。仕立屋の名前はサンフランシスコ・モーリー洋服店と入っている。持主の頭文字(イニシアル)は初めから縫い付けてないらしく引き剥がした痕跡もない。外套、上衣とも襟の処には葉巻の芳香と、熟柿(じゅくし)臭い臭気とが沁(し)み込んでプンプンと匂っている。帯革は締めず。青い革のズボン吊り。本麻、赤縞ワイシャツに猫目石のカフスボタン。三つボタンは十八金。襟飾(ネクタイ)は最近流行し初めた緑色の派手なペルシャ模様。留針(タイピン)は物々しい金台の紅玉(ルビー)。腕輪はニッケルの撥条(ばね)。帽子は舶来の緑色ベロアに同じ色のリボン七吋(インチ)四分の三。但し内側はかなり汗じみている。青スコッチの靴下。靴は舶来のボックス十二文で俗にいうブルドッグ型編上である。

   携帯品[#ゴシック体]――右、左、内、外、後とあるのはポケットの位置を示す――

 ◆外套 【右外】何かを拭いたらしい棒のように絞り固めた白麻のハンカチ一つ。敷島らしい煙草の屑。【左内】ハバナ製葉巻を三本容(い)れた鉄製の容器一個。岩形氏の掌(てのひら)と同様の泥の指紋が附着した小さな鋏一個。
 ◆上衣 【右内】万年筆のインキの切れかかったままのもの一本。鰐皮(わにがわ)の紙入れ一個。その内容は百円札七枚、十円札二枚、五十銭札五枚。一銭銅貨二枚。計七百二十二円五十二銭也(なり)。岩形圭吾と印刷した名刺十三枚。外にもう一枚岩形の形という字の上部から横に破り取った下半分の名刺。及び、岩形と彫った小型の水晶印一個。【左外】濃紫色の女持絹ハンカチ一枚[#「濃紫色の女持絹ハンカチ一枚」に傍点]……その他中略……。
 ◆胴着(チョッキ) 【左外】ウォルサム製廿型(にじゅうがた)金時計。金鎖。蓋附磁石。十四金鉛筆附。いずれも頗(すこぶ)る古いもので、その時の正確な時間十時十五分を示している。
 ◆ズボン ……一部中略……【右後】残弾四発を有する旧式五連発ニッケル鍍金(めっき)小型拳銃(ピストル)。旋条がかなり磨滅し、撃鉄や安全環はニッケルが剥落して黒い生地(きじ)を露(あらわ)し、握りの処のエボナイトの浮彫(うきぼり)も、手擦れで磨滅してしまっている。少くとも十年以上使用したものである。
 ◆附記 注射器は日本製で岩代屋(いわしろや)の刻印があり、最近に求めたものらしく、針は予備針とも、最小のしなやかなものである。又、注射用の毒薬を入れた小瓶は普通の茶色の小瓶で、買った店の受取証のようなものは無論見当らず、中には極少量の薬液が附着しているようであるが、何が入っていたものか見当が付かない。ただ軽いアルコールらしい臭気が残っているばかりである。そうして注射器の筒にも、茶色の小瓶の栓や外側にも、岩形氏の掌(てのひら)と同様の泥の指紋が真白に附着している。
 ◆備考 (一)岩形氏の持物の中(うち)で注意を要するものは、この外(ほか)に一個もない。但し押入れの中のトランクもスートケースも、その中に投げ込んである毛布、長靴、その他のござござも皆、最近に買ったらしい新品である事と、状袋(じょうぶくろ)、レターペーパー等という書信用の品物を一つも持たず、ホテル備え付の分を使用した模様もない事が、注目に価する位のものである。
 ◆備考 (二)遺書、もしくはそれに類するものはどこにも発見されなかった[#「遺書」から「発見されなかった」まで傍点]。

 私はこれだけの事実を極度の注意を払って検査した上で、もう一度、岩形氏の枕元に在る注射器と茶色の小瓶と、ポケットから出た小鋏とを更(かわ)る代(がわ)る取り上げてみた。そうしてもう一度、内部のアルコールらしい臭いを嗅いでみたり、光線に透かしてみたり、硝子(ガラス)の栓を瓶と合わせてみたり、又は鋏をきちきち合わせてみたりなぞ、無用の努力を五六分間繰返しながら、内心では色々と推理を組み立てては壊し、判断してみては考え直してみた。しかし何度繰返して考え直して見ても、私の推理は同じ鉄壁にぶつかって一歩も進めなくなるばかりであった。この推理観察の金的(きんてき)ともいうべきこの瓶と注射器と、鉄に附着している指紋が、岩形氏以外の誰のものでもない事と、その附着した位置や、力の入り工合が如何にも自然で、あとから故意にくっ付けたものではないという一同の意見が一致している以上、ほかの情況証拠がいくら他殺らしく見えていても、他殺と断言する事は不可能であった。もっと有力な他殺の形跡が発見されない限りは……であった。況(いわ)んやこの屍体を取り巻く幾多の情況が、他殺とも見え、自殺とも見えるに於てをやであった……。
 私は心の底で人知れず溜息をしいしい三つの品物を岩形氏の枕元に投げ出した。……こんな掴みどころのない、得体のわからない変死体に出会(でくわ)した事は、実に、生れて初めてだったからである。これだけ腕を揃えた連中が判断に苦しんだのは尤も至極だと思ったからである。
 読者諸君ももう既に気付いていられるであろう。見たところ岩形氏の死状はどうしても自殺と考えるのが至当らしいという事を……。すなわち岩形氏は、昨夜誰も居ないうちに自分で外套と上衣を脱いで、自分の鋏でシャツを切り破って、そこから自分の注射器でアルコール臭を有する毒液の注射をして、それから寒くなったのでもう一度上衣と外套を引っかけて、寝台の上に転がったもの……と見る事が出来るので、注射の個所を消毒した形跡もなく、絆創膏を貼った痕もないところ……又は帽子と注射器を枕元に正しく置いて絶息しているところなぞを見たら、ほかの条件がどんなものであろうともとりあえず自殺と決定したくなるであろうことを……。
 しかしこの時の私の頭にはどうしてもこの決定が閃(ひら)めかなかったから不思議であった。しかも、それは私がこの十四号室に這入る前に発見した、彼女の靴跡が先入主になっていたせいでもなければ、岩形氏が手を洗い浄めないまま注射をした……もしくは遺書を認(したた)める間もなく、衣服を改める隙(ひま)もなく、腕をまくる隙(すき)もない程急迫な自殺をした……という事が、私を疑い迷わせたからでもなかった。それよりももっと直接な、大きな疑問……すなわち現在眼の前に横わって、冷たく強直してしまっている岩形氏の屍体の姿そのもの[#「屍体の姿そのもの」に傍点]が、今まで見た事のない、何とも説明の出来ない異常な感じをあらわしている……その異常な感じそのもの[#「異常な感じそのもの」に傍点]が、それをじっと見下ろしている私に向って何事かを訴えるべく、無言のまま呼びかけているのではないか……というような疑問がちらちらと私の頭の中に閃めいて仕様がないからであった。
[#ここから1字下げ]
……もっと私の屍体を研究して下さい。もっとよく調べて下さい。私の死んだ原因は、普通の人間には絶対に解りません。ただ貴方だけにしか解らないようになっているのです。……私は貴方がお出でになるのを待っていたのです。私のこの異常な死方(しにかた)の裏面に隠されている、或る驚くべく、恐るべき秘密を看破して下さるのを一刻千秋の思いで待っていたのです。……私のこの異状な、不自然な、奇抜な死方(しにかた)をもっともっとよく研究して下さい。そうして私の死を無駄にしないようにして下さい。どうぞどうぞお願いします……。
[#ここで字下げ終わり]
 ……と身動きも出来ず、声も出せない憐れな姿のままに、刻一刻と私に呼びかけているのではないか……というような深刻な疑問が私の頭の中一ぱいに渦巻いて、どうしても屍体の側を離れることが出来なかったからであった。
 けれども遺憾ながらこの時の私の頭はこの疑問を解剖するだけの観察力と推理力をあらわす事が出来なかった。ただ、同じ疑問を扇風機のように頭の中で廻転させながら一ぱいに開いた屍体の黄色い眼を凝視するばかりであった。そうして、やがてもう一度心の奥底で溜息をしながら……これでは俺の頭は傍に立っている三人の頭と大差ない事になる……と思いながら、何気なく岩形氏の屍体の鼻の先に置いてある、絞り固めたハンカチを取り上げてみた。これは前記の通り岩形氏の外套の右の外側のポケットから取り出したものであるが、掌(てのひら)が泥だらけになったままでいるのに一体何を拭いたものであろう……又何か拭いたにしてもこんなハンカチの一つぐらい棄ててしまいそうなもの……と思うと、何となく岩形氏に不似合な所持品と思われたので、溺れかかった人間が藁(わら)でも掴むような気持で検査してみる気になったものであった。
 そのハンカチの棒のように絞り固めた中心(なか)の方はまだ薄じめりしているらしく、外側の捩(よ)じれた皺(しわ)の上には、今まで入っていたポケットの内側の染料が赤く波形に染み付いていた。鼻に当てて嗅いでみるとウイスキーと珈琲(コーヒー)との交(まじ)った臭気がぷんとしている。これは多分ウイスキー入りの珈琲がこぼれたのを拭いたもので、ポケットの内側の色が染み付いたのは多分アルコールの作用であろうと思いながら、念のためにポケットの内側を覗いてみると、それは赤い色ではなく、他の処と同様に鉄色の繻子(しゅす)であった。そうしてその奥底の方のハンカチの潤いを吸うた部分だけがハッキリとした赤黄色に変色しているのであった。
 私はそのハンカチを持ったまま、衆人環視の中をつかつかと、窓の処に近づいて行った。そうして出来るだけ方々に指を触れないようにそのハンカチを引き拡げて、隅の両端を摘(つま)んで、皺を伸ばすために二つ三つはたくと、粘り付いていた煙草の粉が皆飛んでしまった。それを間もなく照り出した日の光りに透かしてみると、半乾きのハンカチの繊維が皆、真白に輝いて見えた。
 ハンカチの向うの広場には、電車や、人力車や、自動車や、自転車が引っきりなしに音を立てて通った。オーイオーイと呼ぶ人間の声も聞えた。太陽が明るくなり、又暗くなった。朝風がそよそよ窓から入って来て私の持っているハンカチを弄(もてあそ)んだ。その間じゅう私は、自分の眼の前にぶら下っている一尺四方ばかりの白いハンカチの中から順々に現われて来る怪現象に見惚(みと)れて、身動き一つ出来なくなっていた。
 珈琲の汚染(しみ)は殆んど全部に亘っていて、汚れていない処は右上の角の一部分しかない。そこ、ここに、ポケットの内側の変色した部分と同じ色の淡(うす)い汚染(しみ)が、両端の尖った波の形をして散らばっている……その中に、巻煙草の粉の形をした小さな短冊型が薄青く輝きながら、群をなして現われて来た。それからその真中あたりに、茶色にぼやけた半円形が二つ半? ばかり辛(かろ)うじて見えて来たのは指を拭いた痕跡らしく、大方脂肪分が変色したものであろうと考えられる。そのほか極めて淡(うす)い雲のような汚染(しみ)の形が処々に見えるが、何の痕跡だか推定出来ない。
 そんなものを一渡り見まわした私は、最後に、右上の端の珈琲の汚染(しみ)の附いていない処に眼を注いだ。そこには極めて鮮麗な紫色がかすれたようになって附着しているが、その色が珈琲の汚染(しみ)になった処に這入ると急に流れ拡がって、淡い緑色に流れ出している。この紫色はもう一つの絹ハンカチの色とは違って、眼に沁みるほど華やかで、確かにタイプライターのリボンを抓(つま)んだ指を拭いた痕跡に違いないと思われた。それから私はハンカチの上の両端を左右の拇指(おやゆび)と食指(くすりゆび)でしっかりと摘んで、強く左右に引っぱって見たが、まだそんなに力を入れもしないうちにハンカチは何の苦もなくびりびりと裂けて、左右の二つに別れてしまった。
 私は思わずほっと一息しながらハンカチから眼を離したが……振り返って見ると私の周囲にはいつの間にか二三十の眼が集まって、私のやる事を不思議そうな顔をして見ていた。
「この室(へや)にはタイプライターは……」
 と私は独言(ひとりごと)のように云いながら見まわした。
「いえ。ないのです。この紳士の指は太くて固くて、とてもそんな小まめな器械はいじれません。そしてインキの代りに泥が爪の中までこびり付いています」
 と志免警部は即座に答えた。私の背後(うしろ)から覗き込んで紫の汚染(しみ)に気が付いていたものと見える。
 私は引き裂いたハンカチをそっと寝台の上に置いて、隣の室(へや)に行って洗面器で手を洗って来た。直ぐにもう一つの紫の女持(おんなもち)絹ハンカチを摘み上げて、同じように窓の明りで透かしてみたが、これには何も見当らず、ただ強いヘリオトロープの香気がしただけであった。……この香水はこのハンカチとは調和しない。紫のハンカチには大抵バイオレット系の香水が振りかけてあるものだが……とその時に私は思った。
「ヘリオトロープの香水はどこにもなかったね」
「ありませんでした。只洗面台の処に濃いリニー香水と仏国製のレモン石鹸があっただけです」
 と又も志免警部が即答した。私のする事を一々眼に止めながら……。
 私は考えに沈んでこつこつと室内を歩きまわり初めた。
 ほかの連中は多少の倦怠を感じて来たらしい。熱海検事は小声で何事か古木書記に口授し初めた。志免警部は両手を背後(うしろ)に廻して、屍体の頭のてっぺんから足の爪先まで見まわし初めた。そのほかの連中も窓の近くでぼそぼそ話をしたり外を眺めてこっそり欠伸(あくび)をしたりしていた。
 私はその間に今のハンカチが見せてくれた奇怪な暗示材料を、岩形氏の死状と照し合わせて、万に一つも間違いのない結論に到達しようと努力した。そうしてほんのもう一歩か二歩で結論に手が達(とど)きそうな気持ちになっているところへ、最前から所在なさにぼんやりと煙草(たばこ)ばかり吹かしていた杉川医師が突然思い出したように私の方を振り返った。
最早(もう)ボーイが気付いているでしょう。一寸(ちょっと)行って見ます」
 私はちょっとの間(ま)眼に見えないものを取り逃がしたようにいらいらしたが、すぐに落着いて答えた。
「……どうか……もし意識がたしかになっているようでしたら今些(すこ)し問いたい事があります」
 杉川医師は首肯(うなず)きながらすぐに室(へや)を出て行ったが、その足音が廊下に消え去ると間もなく、隣の室の卓上電話が突然にけたたましく鳴り出した。
 私はすぐに飛んで行って受話器を外(はず)した。
「……もしもし……もしもし……貴方(あなた)はステーションホテルですか。十四号室に居られる狭山さんを……」
「僕だ僕だ。君は金丸君だろう」
「あ。貴下(あなた)でしたか……では報告します」
「銀行から掛けているのかね」
「そうです。報告の内容はここに居る人が皆知っている事ばかりです」
「ああいいよ。どうだったね」
「意外な事があるのです。この銀行から岩形氏の金を受け取って行ったのは岩形氏自身ではありません。岩形氏の小切手を持った日本婦人です」
「ふむ。それでやっとわかった。そんな事だろうと思った」
「……はあ……私は意外でした」
「まあいい……その婦人の服装は……」
「……思い切った派手なもので、しかも非常な美人だったと云うのです。顔は丸顔で……もしもし……顔は丸顔で髪は真黒く、鏝(こて)か何かで縮らした束髪に結って、大きな本真珠らしい金足(きん)のピンで止めてあったと云います。眉は濃く長く、眼は黒く大きく、口元は極く小さくて締まっていたそうです。額は明瞭な富士額で鼻と腮(あご)はハッキリわかりませんが……もしもし……ハッキリと判りませんが兎(と)に角(かく)中肉中背の素晴らしい美人で、顔を真白く塗って、頬紅をさしていたそうで……非常に誘惑的で妖艶な眼の覚めるような……ちょっと君等……ちょっと笑わずにいてくれ給え……どうも電話が卓上電話なので……もしもし妖艶とも云うべきものだったそうです。しかし服装はあまり大したものではなく普通の上等程度だったそうで……被布(ひふ)は紫縮緬(むらさきちりめん)に何かちらちらと金糸の刺繍(ししゅう)をしたもので、下は高貴織りか何からしく、派手な柄で、何でも俗悪な色っぽいものだったそうですが、まだ冬にもならぬのに黒狐の襟巻をして、時計入りの皮の手提げと、濃い空色に白縁を取った洋傘(パラソル)と紫色のハンカチを持っていたそうです」
「金はどうして渡したのか」
「それがです……それが怪訝(おか)しいのです。金を預けてから三日も経たぬ十日の朝に岩形氏は電話でもって支配人を呼び出して、近いうちに自分の預金全部を引き出すかも知れないから、そのつもりでいてくれと宣告したそうです。それで支配人はどこかの銀行へお送りになるのならばこちらで手続きをしましょうかと云ったら……いや全部現金で引き出すのだ。しかしまだ一日や二日の余裕があるから、それまでに準備しておいてくれ。但し、利子だけは残しておくと云ったそうです。支配人は少々困ったのでこう云ったそうです。どうも現金が十万円以上となるとどこの銀行でも一寸には揃いかねます。他の銀行か何かへお組み換えになるのか何だったら今日只今でも宜しゅう御座いますが……と云うと岩形氏は多少怒気を帯びた声で……これだから日本の銀行は困る。自分が一昨日(おととい)預けた時は現金で十四万円を行李に詰めて持って来たではないか。その時には黙って受取っておきながら今更そんな事を云っては困る。これは自分が金を扱う方法だから仕方がない。君の銀行はこの間から大株でかなり儲かっている筈だから、それ位の事はどうにかならぬ事はあるまい……と高飛車で図星を刺されましたので仕方なしに承知をしたのでした。実は支配人も驚いたのだそうです。取引所の事情を知り抜いている話ぶりなので……そうして内々で準備をしていると一昨々日(さきおととい)……十一日の朝になって岩形氏がひょっこり遣って来て、いつもの通りの態度で三千円の小切手を出した序(ついで)に、例の金の準備はどうだと尋ねたそうです。これに対して支配人は、準備はちゃんと出来ている。しかし何とかしてもらえまいかと頼みますと岩形氏はじっと考えたあげく極めて無造作な口調で、それではその五分の四だけ引き出す事にしよう。そうして受取り人には田中春(はる)という極く確かな女を出すからよろしく頼む。なお間違いのないように、割(わ)り符(ふだ)を渡しておこう……と云って自分の名刺を半分に割(さ)いて、一つを支配人に渡し、残りの一つを自分のポケットに入れたそうです」
「ええと。一寸待ってくれ。その名刺の半分はそこに在るのかね」
「はい。私がここに持っております」
「それは名刺の上半部で、岩形の形という字の上が残っていはしないか」
「そうです。どうしておわかりになりますか……」
「その下の半分はこっちに在る。岩形氏の背広のポケットから出て来た」
「……………」
「それからどうした」
「一寸支配人が代ってお話をしたいとの事ですが宜しいですか」
「ああどうか。まだ報告があるかね」
「ありません……それだけです」
「それじゃ君はもっと詳しくその婦人の様子を銀行員から聞き出してくれ給え。俥(くるま)に乗って来たかどうか。どっちから来てどっちの方へ去ったか。金はどんなものに入れて持って行ったか、その他服装や顔立ちなぞをもっと細かく……そして直ぐ帰って来て……」
「アア……モシモシ……アア……モシモシ……狭山さんですか。初めてで失礼ですが……私が当行の支配人石持(いしもち)です。どうも飛んだ御手数で……先程の二十円札はたしかに当行から岩形さんの代理のお方にお渡ししたものです。実は岩形さんの件に就きましては、その中(うち)に一度お調べを願おうかと思っておりました次第で……岩形圭吾というのは紳士録には青森県の富豪と載っているにはおります。しかし昨日(きのう)、同地方出身の友人に会いましたから、それとなく様子を聞き糺(ただ)してみますと、その岩形圭吾氏と申しますのは本年の二月に肺炎で死亡致しておりますそうで……」
「岩形氏の事は今調べているところです。いずれわかったらお知らせします。……で、それに就いて少々お訊ねしたい事がありますから何卒(どうぞ)御腹蔵なく……」
「は、はい。それはお言葉までもなく……」
 それから私が問い糺したところによると、石持氏は流石(さすが)に小銀行の支配人だけあって、相当苦労をしているらしく、着眼点が普通と違っていた。石持氏が真先に気付いたのは、女が平生あまり化粧をした者でない事であった。真白くコテコテと塗り立てているにはいたが、それは処々ムラになっていて、額の生え際なぞは汗で剥げかかっていた。尤も地肌は白い方であったが眉は正(まさ)しく描いたもので、本来の眉よりはずっと幅広く長く見せかけてあった。背丈は普通より稍(やや)高く、五尺三寸位のところで、着物の着こなしがどことなく身体(からだ)にそぐわぬように見えた。姿勢は非常にいい方で、日本人の女としては幾分反(そ)り気味に見えた。その顔の特徴は二重瞼の張りのある眼と、女にしては強過ぎる程きりりと締まった口元とであった。しかしその言葉付きと眼の光りは、如何にも日本婦人らしい清(すず)しさをあらわしていて、混血児らしいところや、支那婦人らしい物ごしは毛頭感じなかった。
 その女は一昨十二日の午後一時きっかりに東洋銀行の表口へ俥を乗りつけて、応接間で石持氏に面会すると、革の手提袋から岩形氏の名刺の下半分と、岩形氏直筆の十一万五千円の受取証と、それから田中春と書いた小型の名刺を出して、つつましやかに石持氏に渡した。石持氏はそれを一応調べると、店員に命じて紙幣を丸テーブルの上に積み上げさせて、念のために今一応自身で勘定をして見せたが、相当時間がかかったにも拘わらず、女は極めて注意深く石持氏の手許を見詰めていたようであった。それから石持氏は、
「どうしてお持ちになりますか」
 と訊ねてみると、女は矢張りつつましやかに、
「どうぞ恐れ入りますが新聞紙で真四角に包んで頂きとうございます」
 と云ったからその通りにしてやると、女は手提の中から大きな白金巾(かなきん)の風呂敷を出して、丁寧に包んで、それから俥屋を呼ぶと新橋二五〇九と染め抜いた法被(はっぴ)を着た、若い二十代の俥屋が這入って来た。そうして白い風呂敷包を金とは気が付かぬらしく、女が命ずるままに無雑作に抱え出して俥に乗せた。女はそのまま丁寧に挨拶をして俥に乗って、帝国ホテルの方へ行ってしまったが、支配人と店員の一二名とは見送ったまま門口に突立って、俥のうしろ姿が見えなくなるまで見送っていた。
「その婦人はどんな香水の香りがしていましたか」
 と私は語り終った支配人を追っかけるように訊ねた。支配人は面喰ったらしく急に返事をしなかった。
「……さあ……どんな香水でしたか……アハハ……どうも……」
「そうして岩形氏の預金は、あとにどれ位残っておりますか」
「たしか三万円足らずであったと思います」
「どうも有り難う。いずれ身元がわかったらお知らせします。あ……それから貴下(きか)は岩形氏の住所を御存じですか」
「はい。鎌倉材木座の八五六で岩形と承わっておりますが……」
「その他に、東京の方で事務所か何か御存じですか……通知なぞを出されるような……」
「別に存じませぬ。何分極く最近の取引で、こちらでも行届きかねておりましたような事で……御用の節はいつも岩形さんが御自身にお見えになりましたので……」
「いや有難う。いずれ又……」
 と云い棄てて電話を切った。そうして急いで寝室に引っ返して、彼(か)の半分に裂けた岩形氏の名刺を鼻に当てて嗅いでみると果して……果して極めて淡(うす)いながら、疑いもないヘリオトロープの香気が仄(ほの)めいて来た。この名刺が一度、岩形氏の手から女に渡されて、又、何かの理由で岩形氏のポケットに帰って来たものである事は、もはや十中九分九厘まで疑う余地がなくなった。
 私は事件のまとまりが、やっと付いたように思ったので内心でほっと安心をした。そうして今聞いた電話の要点だけを熱海検事に報告したが、そのうちに今まで熱心に岩形氏の屍骸の周囲(まわり)を検査していた志免警部は、突然つかつかと私の傍へ近づいて来て、岩形氏の泥靴を私の鼻の先へ突き付けた。
「……何だ……」
 と私は面喰って身を引きながら云ったが、志免刑事がそうした理由は直ぐに判然(わか)った。その靴の踵(かかと)の処と、爪先の処に両方とも、普通と違った赤い色の土が、極く細かな線になってこびり付いていた。
「……うん……赤煉瓦(れんが)の水溜りだね。あそこの家(うち)の……」
 と云いながら私はうなずいた。
「……だろうと思うんですが……他の処にはないようですから……」
 私はもう一度深くうなずいた。
 すると殆んど同時に入口の扉(ドア)が開(あ)いて金丸刑事が帰って来たが、汗を拭き拭き私に一枚の名刺を渡した。それは女持ちの小型なアイボリー紙で上等のインキで小さく田中春と印刷してある。それを受け取るとすぐに鼻に当ててみたが思わずニッコリ笑った。すると飯村は、それを冗談とでも思ったのか一緒になって笑い出した。
「いや銀行でも弱ったんです。私が女の事を貴下(あなた)にお話しているうちに、若い行員どもが、引っ切りなしにゲラゲラ笑うんで困りました」
 私は事件の緒(いとぐち)がいよいよハッキリと付いて来たので急に気が浮き浮きして来た。
「ああ。いい臭いだ。おれが犬なら直ぐに女を探し出すんだがなあ。……こんな時にスコットランドヤードの探偵犬(ボッブ)が居るといいんだがなあ」
 この時に杉川医師も階下(した)から上って来た。
「ボーイがやっと意識を回復したようですが。……どうもヒステリーの被告みたいに、神経性の熱を四十度も出しやがって譫言(うわごと)ばかり……」
「どんな譫言を……」
 と私は急に真面目になって問うた。
「黒い洋服だ。黒い洋服だ。美人美人。素敵だ素敵だなぞと……そうして今眼をあけると直ぐに起き上って、側に居たボーイ頭に、もう正午(ひる)過ぎですかと尋ねたりしておりましたが、馬鹿な奴で……貴下(あなた)に睨まれたのが余程こたえたと見えまして……」
「ははは。意気地のない奴だ」
「何かお尋ねになりますか……」
「いや、もう宜しい。犯人はもう解っている」
「え」
 と皆は一時に私の顔を見た。私はちょっと眼を閉じて頭の中を整理すると、すぐに又見開いて、皆の顔を見まわした。
「犯人はやはりその女です。その女……田中春というのは多分偽名でしょうが……その女は泥酔している紳士に麻酔剤か何か嗅がして、シャツの上膊部を切り破って、薬液を注射して殺した。そうして覚悟の自殺と見せるために、瓶や鋏に被害者自身の指紋をつけたばかりでなく、上衣の外套を着せて、泥靴まで穿かせて、帽子や注射器までもきちんと整理して出て行った」
「その女を犯人と認める理由は……」
 という質問が極めて自然に熱海検事の口から出た。私はその方にちょっと頭を下げながら説明を続けた。
「第一の理由を述べると、女はその前にも一度、この紳士を殺そうとしていることを、今しがた私が引き割いたこの白い麻のハンカチが証明している。すなわち今から二十四時間経たない以前にこの紳士は、その女と一緒に或るカフェーでウイスキー入りの珈琲(コーヒー)を飲んでいるらしいが、その珈琲にはアルカリ性の毒薬が入れてあった。その毒薬というのは私の知っている範囲では多分支那産のもので、『婆鵲三秘(ばしゃくさんぴ)』という書に載っている『魚目(ぎょもく)』という劇毒らしい。実物を手に入れた事がないから分析的な内容は判然しないが、強いアルカリ性のものである事は間違いないようである。すなわちこの毒を検するに彩糸(さいし)を以てす。黒糸(こくし)を黄化す、青糸(せいし)を赤変す。綾羅錦繍(りょうらきんしゅう)触るるもの皆色を変ず。粒化(りゅうか)して魚目に擬し、陶壺中(とうこちゅう)に鉛封(えんぷう)す。酒中(しゅちゅう)神効(しんこう)あり。一粒(りゅう)の用、命(めい)半日(はんにち)を出でず。死貌、悪食(あくじき)に彷彿すとあるが、ちょうどそれと同じような作用を、このハンカチに浸(にじ)んだ毒薬が起しているので、如何に烈しい毒であるかは、このアルカリ分に触れたものが皆色を吸収されて変色しているばかりでなく、ハンカチ自体でも、直ぐに裂ける位に地が弱っているのを見てもわかる。
 ……女がこのウイスキー入りの珈琲を紳士に勧めると、紳士は直ちに毒と覚(さと)って引っくり返して、自分の鼻をかむハンカチで拭いた。女は、それが後日の証拠になる事を恐れて、自分の紫のハンカチを男に遣って、汚れたのと交換しようとしたが、紳士はその手には乗らずに、濡れたハンカチを絞り固めて外套の衣嚢(かくし)に入れたばかりでなく、女の紫のハンカチと一緒に、金受取りの割符にした名刺の半分までも取り上げて仕舞い込んでしまった。そのために、女は一層殺意を早めて、その夜の中(うち)にここに来て、被害者にアルコール類似の毒液を注射し、遂にその目的を遂げた。
 ところで私の知っている範囲ではアルコール臭を有する猛毒はメチール系統のもので、泥酔者に注射をすると殆んど即死するものがあると聞いているが、被害者に用いられたものもその一種ではないかと考えられる。しかし木精(メチール)系統の毒薬は非常に興味があるにも拘わらず、分析の範囲があまりに広過ぎるために私は研究を後まわしにしていたので、目下のところこの毒物が何であるかは明言出来ない。尚(なお)、また、日本でこの種の毒物が使用された事実をまだ聞かない事と、高等な医学と有機化学の知識と、優秀な看護婦程度の経験が、この毒物の製造と応用に必要な点から推して、この女が容易ならぬ学識手腕を持っているか、又は女の背後に意外に深刻な魔手が隠れて、女を操(あやつ)っているのではないか……という仮定が成立しそうに思えるが、しかしこれは単に仮定であって軽々しくは断定出来ない。何故かと云うと、この女の犯罪行為の中(うち)には如何にも素人じみた失策が幾つも在るので、この女を使用してこんな犯罪を遂行させた人間がもしいるとすれば、それは殆んど女と同等の素人でなければならぬとも考えられるからである。だからこの場合は、全然毒殺の経験を持たない女が、この紳士に対して殺意を持っているうちに、このような毒物を手に入れたので、俄(にわ)かに思い付いた犯罪と見るのが、至当ではないかと考えられる。
 ……ところでその女の失策というのは、今数えて見ると四つばかりある。
 その第一は自分の手に、紫のアニリン染料が附いているのを気付かないで、紳士の濡れたハンカチを取ろうとしたために、隅の方に紫の指痕を附けた。その変色していない部分は布地(きれじ)が乾燥していたために化学変化を起さなかったので、そのためにこの女はタイプライターを扱う女という事実が推測され得る事になった。
 その第二はこの室(へや)に来ておりながら、毒薬を拭いたハンカチを奪い返さずに立ち去った事で、その第三は鍵を掛けないで逃げて行った事である。これは何かに驚いたためではないかと考えられるのであるが、しかしこの第三の鍵を掛けなかった失策は、その以前にボーイに大枚二十円を与えて口止めをしていたので大した失策にならずに済んだ。
 ……最後にこの女は、非常に注意深い性質でありながら、犯罪行為には慣れないと見えて、到る処に大きな犯跡を残している。その中でも指紋に関する知識はまだ一般に普及されていないから、ワニス塗りの扉(ドア)に手を触れたのは咎(とが)めないとしても、油引きの廊下の左端の方を選(よ)って歩いたのは、如何にも馬鹿馬鹿しい不注意である。足跡を残すのはまだいいとしても、万一辷りたおれでもしたら、それこそ大変な事になったであろう。
 ……なお他殺という事は、この紳士の性質と行動を見ればわかる。この紳士が、ずっと以前に人気の荒い南部加州あたりで労働をしていたらしい事と、その趣味が余り高くない事は、その風采と、所持品と、強い酒精(アルコール)中毒であろうと推定される。それからその後に、最近まで引続いて長い間、生命(いのち)がけの仕事をしていたことは、その所持しているピストルが、非常な旧式を使い狎(な)らしたもので、且つ銃口(つつぐち)の旋条が著しく磨滅しているのを見れば、容易にうなずかれる。つまり手狎(てな)れているために出し入れが迅速で、従って近距離の命中が確実なために、がたがたピストルながら手離しかねていたものと見るべきで、殊に、その五連発の中(うち)から最近に一発撃ち出されているのは決して無意味でない。所持品の中に予備弾のケースが見当らない以上、この紳士は多分一週間前に、このピストルを一挺だけ持って、どこからか逃げ出して来たものである。しかもその貴重な五発の中の一発を発射したのは余程の危険に迫られた結果と見る事が出来る。
 ……なおこの紳士が外国から逃げて来たもので、今も尚行方を晦(くら)ましている者らしい事は、預金の取り扱い方と、手荷物の皆新しい事と、着物にも帽子にも名前(イニシャル)が付いていない事と、手紙の類を一通も出さず、ホテルの名前入りの状袋(じょうぶくろ)や紙も無論使用しなかった事と、銀行の支配人に出鱈目(でたらめ)の住所や名前を云った事と、訪問客も手紙も絶無であった事などによって明かに推測される。事によるとこの紳士は一週間前に着のみ着のままで日本に逃げて来て、新しく買ったトランクやスートケースを提げてこのホテルへ逃げ込んで来たものではないか……そうして絶えず一身の危険を脅かされていたものではないかと考え得べき理由がある。
 ……ところがその中にたった一人、この紳士の隠れ家を知っている者が居た。それがこの紫のハンカチを持った女である。この女がこの紳士を知っているとすれば多分外国……米国で知り合いになったものと考えられるが……。
 ……その女は少くとも三四日以前にこの紳士が日本に来ている事を発見して遂にその住所を突き止めた。そうしてこの紳士を脅迫したものであろう……多額の金を受取った。すなわちこの紳士には容易ならぬ旧悪があって、女がそれを知っていたばかりでなく、その旧悪に附け込んで、その所持金を奪って殺して終(しま)う計画を持っていた……とすればこの事件の全体が非常にハッキリして来る。これがその女を犯人と認める第二の理由……」
 ここまで説明して言葉を切ると、耳を澄ましていた一同は各自(てんで)に夢の醒めたような顔を上げた。そうして如何にも感服した体(てい)で私の顔を見た。飯村部長は低い嘆息の声さえ洩らした。
 しかし私はその時に何だか妙に腹が立って来た。これ位の事に感心して刑事事件に足が突込めるものかと思った。そうして……よし……それではここでもう一つ吃驚(びっくり)するものを見せてやろう……と思った矢先に、感心しながらもじっと考えていた熱海検事と志免警部の口から同じ質問が同時に出た。
「その女の特徴は……」
「こっちへお出でなさい」
 と云いながら私は入口の扉(ドア)を押し開けて廊下へ出た。そうしてあとから続いてぞろぞろと出て来た十名の先に立って、階段の降り口の処まで来ると、懐中電燈の光りで床の上の女の靴痕を指し示して、
「これをよく御覧なさい」
 と云った。
 十名の連中は代る代る腰を屈めて床の上を熟視した。そこは階段の向うに在る明り取りの窓から外の光りが明るく指し込んでいたが、それでも自分の懐中電燈の方が強く輝いていた。その光りの輪の中に印されている、あるかないかの二つの靴痕の上に、私の推理力は一人の女を連れて来て十四号室の方に向って立たせた。私はその姿を皆によく飲み込ませるために、多少の想像を加味しながら、十人に聞えるだけの低い音調で、順を逐(お)うて説明し出した。
「……この淡(うす)い靴痕が女のものである事は説明するまでもないであろう。爪先はこの通り稍(やや)外向きに開いていて、ちょっと見たところ西洋人のように思えるが、それは歩いている間だけで、このボーイの靴痕と向い合って立ち止まった処を見るとこの通り、ずっと爪先が近づいていて、生れ付き真直ぐか、内股に歩くように出来てる日本の女の足の特質を、不用意のうちに暴露している。これは随分永く外国で生活した日本人にでもよく見受ける習慣で、支那人や朝鮮人には絶無と云って差支(さしつかえ)ない。背丈は靴の長さと歩幅であらかた推測出来るものであるが、歩幅はこのような精神の緊張した場合には、非常に違うものだから除外するとして、靴の長さだけで推定すると、日本の女の足としては幾分細長い方で、ちょうど銀行に金を受取りに行った田中春の背恰好と一致する。それに銀行の連中の言葉や、ボーイの譫言(うわごと)を事実として綜合すれば絶世の美人で、中肉中背のすらりとした姿であろう。
 ……この日本美人をここから足跡の通りに歩き出さして、昨夜(ゆうべ)した通りの所作を今一度ここで繰返させるとこうなる。……まずボーイに教(おそ)わった通りに階段を昇って、ここに立ち止まって誰も居ない事をたしかめた。その足跡は他のよりも稍(やや)ハッキリしている。それから歩き出して扉(ドア)の処まで来ると、次第に爪先の方に力が入って、遂には爪先だけしか見えないようになっている。これは十四号室の中の様子を覗うために忍び足になったためで、扉(ドア)の処まで来ると腰を屈めて、鍵穴に耳を近づけて中の様子を覗った。把手(とって)の上に軽く残った左手の指紋がそれを証明している。
 ……ここで初めてこの女に着物を着せる事が出来る。服は勿論洋服で、腰をずっと低くしている割に足の踏み拡げ方が狭く、且つ両方とも爪先ばかりで屈んでいるところを見ると、それは二三年前に流行(はや)った裾の開きの極めて狭い袴(スカート)で、足の位置が割合に扉(ドア)から離れているのは、現在大流行をしている固いコツコツした、鍔(つば)の広い帽子を冠(かぶ)っているためである。その帽子の色は、ボーイの云う通り服の色が黒だったとすれば、黒か藍かの二つの色が一番よく調和する訳で、それ以外の色では十中八九あり得まいと思う。
 ……なお、この二三年程流行遅れの、質素な黒い洋服をハッキリと思わせる条件がいくつもある。銀行の支配人の言葉によって……これは私だけが聞いた事であるが……その女が、あまり白粉(おしろい)をつけた事がないらしいということ……日本服がよく落着いていなかったという事。紫インキで『タイプライターを扱う女』という事実が推定されること……なぞ……そんな事実を綜合するとこの女は平生洋服を着慣れている……事によるとタイピストかも知れぬと思われる程度の職業婦人である。そうとすれば汚れの着き難(にく)い服の色といい好みといい、丁度その職業にシックリと適当(はま)るものである。
 ……それからもう一つこの女の、それらしい生活程度を明かに示しているのは、今まで見て来た靴の跡である。この靴は多分舶来のもので三四年前に流行した非常に恰好の良い型であるにも拘わらず、その底と踵が著しく磨滅しているのは、この女が服と一緒に古いものを永らく使用している証拠で、その上にもう一つ想像を逞しくすると、この女は二三年前に外国から帰って来たもので、その時は最新流行の身装(みなり)で帰って来たのが、今は何かの理由でタイピストにまで落ちぶれているのではないかとも考えられる。そうすれば人を殺して迄も金を欲しがる理由が判る。
 ……この女はここでこんな風に跼(しゃが)んで、室の中の様子を覗った。そうして合鍵で扉(ドア)を開いて中に這入って、泥酔して睡っている岩形氏に麻酔か何かを施(ほどこ)してモルフィンの注射をして、自殺か他殺かの判断を迷わせるために色々な小細工をした。その中に何か物音を聞き付けてハッとしながら、慌てて出て来て見ると、あまり時間がかかるので、心配して様子を見に来たらしいボーイが立ち去るのを見た。それを……こっちへ来て御覧なさい。ここで呼び止めて何事か話し合った。この通り女の靴痕が、ボーイの靴痕と向い合って立っている。そうして話を済ましたボーイが安心して階段を降りて行くのを見送ると、女はもう一度引返して来て扉(ドア)の処まで来た。その足跡は前のと入れ違いになっているが今度は爪先ばかりでなく踵の跡もチャンと附いてずっと大胯(おおまた)になっている。これは犯行後に於て、犯人が非常に落ち着いた場合か、又は非常に狼狽した時にあらわれる足跡の表情であるが、鍵をかけるのも何も忘れて立ち去ったところを見ると、後者に属する足跡と見るべきであろう。
 そこで以上述べたところを綜合して考えてみると、つまりこの女は一度関係を結ぶか何かして別れた男が、金持になって、外国から帰って来たのを見て、これを脅迫するか欺(だま)すかして、金を奪った後で、後難を警戒するために殺したものと思われる」
 ここまで説明してから、又、十四号室の中に引返して来ると、皆もあとから這入って来た。その扉(ドア)を固く締めてから、熱海検事に脱帽して許可を得た私は、部下を岩形氏の枕元に集めると、次のような命令を下した。
「志免君と飯村君は東京市内と附近の銀行へ、いつもの通りの形式で通知を出してくれ給え。今のような女が、多少に拘らず金を預けに来たら急報してくれるように……それから、これは日比谷署にもお手伝いが願いたいのだが、市内でタイプライターを売っている店はいくらもあるまいから当って見ること……。タイプライターを本職にしている女だったら大抵家(うち)の近所か、又は勤め先の会社か何かに近い、きまり切った店でリボンを買うものだからそのつもりで……。それから借着屋を当らせること……。着物の種類はわかっているだろう……女がヘリオトロープの香水を使っている事を忘れないように……それからもう一つ新橋二五〇九という俥屋(くるまや)を探してもらいたい……こっちが先かも知れないがその辺は志免君の考えに任せる。相当手剛(てごわ)い女と思った方が間違いないだろう。……それから二種類の毒薬の分析は無論のこと、屍体解剖の序(ついで)に左腕の刺青(いれずみ)の痕を切り抜いてもらって、残っている墨の輪廓を出来るだけ細かに取っておくように……それだけ……」
 命令を終ると皆、眩(まぶ)しそうに私の顔を仰いだ。私の下した判断と処置が、あんまり迅速であったからであろう。皆互に顔を見合わせて突立った切りであった。
 やがて志免警部の顔に感動の色が動いた。飯村部長の顔にも動いた。二人とも懐中時計を出して、十時十五分を示している私のと合わせてから、熱海検事と私に一礼すると、日比谷署の連中や、直接の部下と一緒に活動の手分けをすべく、隣りの居室(いま)の方へ退いた。二人の眼には確信の輝きがあった。私の命令の意味を十分に呑み込んで、遠からず女を逮捕して見せるという私の自信を、そっくりそのままに自信しているものと見えた。
 けれども私は、居室(いま)に退いた連中が、まだ相談を初めないうちに、突然、眼を閉じて頭を強く振った。
「……オイ……いけない……ちょっと待った……」
「……………」
 腰をかけていた連中は皆立ち上った。屍体の足の処を行きつ戻りつして考え初めていた熱海検事も、その位置に停止した。窓の前で何やら話し初めていた杉川警察医と古木書記の二人も皆、面喰った顔を揃えて私の方に向けた。
 私は右手でぴったりと額を押えながら杉川警察医をかえり見た。
「杉川君……」
「ハイ」
先刻(さっき)ボーイの山本が意識を回復した時に……モウ正午(ひる)過ぎですか……とボーイ頭の折井に訊ねたのは、単に寝ぼけて云ったのでしょうか……それとも何か理由があって訊いたのでしょうか」
 杉川医師もちょっと横額(よこひたい)を押えた。
「サア。その辺はどうも……」
「私が行って訊いてみましょうか」
 と轟刑事が進み出た。
「ああ。そうしてくれ給え。今日の正午(ひる)まで妾(わたし)が来た事を黙っていてくれるように……と云って、女から頼まれたんじゃないかと云って、うんと威(おど)かしていい……心臓痲痺を起さない程度に……ハハ……」
 私の言葉が終らないうちに轟刑事は、うなずきながら室(へや)の外へ辷り出た。その小走りの跫音(あしおと)が聞えなくなると室(へや)の中が急に森閑となった。窓の外をはるかに横切る電車の音ばかりが急に際立って近付いて来た。
 厳粛な二三分が、室(へや)の中を流れて行った。
 そのうちに階段を駈け上る跫音が聞えたと思う間もなく轟刑事が息を切らして這入って来た。
「お察しの通りです。午砲(ドン)が聞えたら警察に自首して出ろ。その通りにしなければお前は生命(いのち)が危い。そうしてもしその通りにしたならば妾(わたし)がどこからか千円のお金を送ってやると云ってボーイの母親の所番地を聞いて行ったそうです」
「そうして又、気絶したかね」
「助けて下さいと云ってワイワイ泣き出しました」
「ハハハハハ。正直な奴だ。それじゃ今の命令は全部取消しだ」
「エッ」
 と皆は又も電気に打たれたように固くなった。その驚きと疑問に充(み)ち満ちた顔を見廻しながら私は冷やかに笑った。
「うっかりしていた。もう少しで犯人を取逃がすところだった……」
「……………」
「誰か最近の新聞で、横浜と、神戸と……いやいや東京ので沢山……今日の新聞を持っていませんか」
 古木書記は弾(はじ)かれたように両手をポケットに突込んで、今朝の東都日報を私の前に差出した。私はそれを手早く拡げて、広告欄の下の方を見廻した。
「よろしい。今日横浜から出る船は桑港(シスコ)行きで午前十一時の紅海丸しかない。神戸行きの方はリオン丸と筑前が欧洲航路だが、これは長崎に寄るのだから、まだ大分時間がある。下関なし。敦賀なし。函館もなしと。よしよし。志免君は、すぐに横浜へ電話をかけて、紅海丸の乗客を出帆間際まで調査するように頼んでくれ給え。念のために電報を打っといた方がいいだろう。変装しているかも知れぬと注意しておき給え。十一時過ぎて何の返事もなかったら、神戸と下関と長崎と函館へ手を廻してくれ給え。それから先の方針は前の命令の復活だ。……僕はこれから弥左衛門町のカフェー・ユートピアへ行く。すこし疑問の点があるから……当りが付いたら電話をかけ給え。あとはこっちから役所へ電話をかける……それだけ……」
「承知しました」
「では行って来る」
「ちょっと……待って下さい」
 今まで黙って聞いていた熱海検事は、出て行こうとする私を遠慮勝ちに呼び止めた。そうして氏一流の謹厳な態度で私の方へ近づいて来た。
「狭山さん。貴方のお考えは実に御尤も至極ですが、それに就(つい)てちょっとお伺いしたい事があります。これはほんの参考のために過ぎないのですが」
 丁度扉(ドア)に手をかけていた私は、そのまま振り返った。こんな温柔(おとな)しい検事が一番苦手だと思いながら……。
「何ですか」
「貴方はどうしてもこの屍体を他殺とお認めになるのですか」
 そう云う熱海氏の静かな音調には、ほかの生意気な検事連中にない透徹した真剣さがあった。私は私の自信を根柢から脅かされたような気がして思わず熱海氏の方に向き直った。
「……無論です。犯人が居るから止むを得ません」
「その婦人は果して犯人でしょうか」
「無論です。挙動が証明しております。……のみならず一度閉まっていた扉(ドア)がどうして開いたのでしょう」
「合鍵はこのホテルに別なのがあります」
 検事の言葉がだんだん鋭くなって来た。それと反対に私は落ち着いて来た。
「それは支配人が自分で金庫の中に保管しておりますので特別の場合しか出しませぬ」
「……しかし……私が最初にこの室(へや)に這入った時には、絨毯(じゅうたん)の上には紳士の足跡と、ボーイのと、支配人の靴痕しかなかったようですが……支配人もボーイも承認しておりますので、それ以外に靴の痕らしいものはなかったのですが……」
「絨毯の毛は時間が経つと独りでに起き上るものです。ことにあんな風に夜通し窓を明け放ってあります場合には、室(へや)の中の物全部が湿気を帯びる事になるのですから、絨毯の毛は一層早く旧態に返るのです。ですから紳士の足跡は泥で判然(わか)っても、女の足跡は残っていないのが当然なのです。支配人とボーイのは新しいからよくわかったのでしょう。……とにかくこの場は私に委せて頂きたい」
 と云い棄て私はホテルを飛び出した。そうしてホテルの前の広場に立って今一度、二階の左から五ツ目の窓を振り返ってみると、そこには熱海検事の顔が出ていて、気遣わしそうに私を見送っていた。

 これから先、私がどんな風に活躍したかという事実は、正直のところを云うと私としてはあんまり公表したくない話である。既に今まで述べて来た話の中でも、私は取り返しの付かない大きな見落しをやっているので、冷静な頭で読まれた諸君は最早(もはや)、とっくと気が付いておられる事と思う。そうしてこの狭山という男は、課長とか何とか偉そうな肩書を振りまわしているが、案外だらしのないそそっかし屋だ。おまけに下らないところで威張ったり、名探偵を気取ったりして、恐ろしく気障(きざ)な奴だ……とか何とか腹を立てておられる人が在るに違いないと思う。
 しかしこれは誤解しないようにして頂きたい。
 私は正真正銘のところ、私の名探偵振りを諸君に見せびらかすつもりでもなければ、自慢話を御披露したがっているのでもないのである。この記録の冒頭にもちょっとお断りしておいた通りの意味で、私の世にも馬鹿げた失敗談を公表しているに過ぎないのだ。世間から名探偵とか、鬼課長とか持ち上げられるのを真(ま)に受けて自分が豪(えら)いのだと確信していた私……いい気になって日本の探偵界を攪乱していたつもりの私が、どんな手順に引きずられて、知らず識(し)らずの中に、世にも恐ろしい秘密結社、J・I・Cの底知れぬ秘密の方へ惹き付けられて行ったか。そうして私の天狗の鼻が、如何に超自然な物凄い手で、鮮かに※(も)ぎ取られて行ったか……というその時その時の気持ちを正直に告白しているつもりなので、もう一つ露骨に云うと、私のようなものをおだて上げて、こんな酷(ひど)い眼に会わしたその当時の日本の探偵界の悲哀を、今日現在の日本の名探偵諸君に首肯して頂きたいばっかりにこの筆を執(と)っている者である。
 だから、これから先に記述する事実は、いよいよ得意になった私が、いよいよ失敗の深みに陥って行くところ……否……いよいよ失敗の深みに落ち込んで行きながら、いよいよ得意になって行くところ……いや……どっちにしても結局同じ事だが……そんな事ばかり書いて行かなければならぬので、読む方は面白いかも知れないが、書いて行く身になると実に辛い。書かない前から冷汗がポタポタと腋(わき)の下に滴(したた)る位である。
 しかしその時の私は頗(すこぶ)る真剣であった。後になってこんな冷汗を掻くだろう……なぞとは夢にも考えない、探偵の神様気取りの私であった。
 私はステーションホテルを出ると、たった一人で市役所の前から河岸(かし)に出て、弥左衛門町のカフェー・ユートピアの方向へブラリブラリと歩いて行った。その間じゅう私は、今までの出来事をすっかり忘れてしまって、何事も考えず、何事も気を付けないようにした。ただ漫然と空行く雲を仰いだり、橋の欄干を撫でたり、葉が散りかかっている並木の柳を叩いたりして行った。これは私の脳髄休養法で、こんな風に自由自在に、脳髄のスウィッチを切り換えて行ける間は、私の頭が健全無比な証拠だと思っている。
 弥左衛門町の横町に這入ると、急に街幅が狭く、日当りが悪くなって、二三日前の雨の名残(なごり)が、まだ処々(ところどころ)ぬかるみになって残っている。殊にカフェー・ユートピアの前は水溜りが多くて、入口に敷き詰められた赤煉瓦の真中の凹んだ処には、どろどろした赤い土が、撒(ま)き水に溶けて溜っている。これは夜になるとこの店の出入が烈しいために、自然と磨(す)り滅(へ)ってこんな事になるので、改良したらよかろうと思うが、嘗(かつ)て一度もこの赤煉瓦が取り除かれたためしがない。そうしてその煉瓦がいよいよ丼(どんぶり)型に磨り滅ってしまうと又、新しい赤煉瓦で埋める。こんなカフェーや洋食店は東京中のどこにもないので、恐らくこのカフェーの主人は、自分の店の繁昌と評判を、この赤煉瓦のお蔭と心得ているのであろう。志免刑事はよくこんな些細な事を記憶している男で、岩形氏の靴に赤い泥が附着(くっつ)いているところを見ると、氏は昨夜(ゆうべ)たしかにこのカフェーに這入ったに相違ないのである。
 二階に上って、窓に近い椅子に腰をかけると、まだ誰も来ていない。腕時計を見るともう十時半になっている。今の散歩が約十五分かかった事になる。
 室(へや)は繁昌する割に狭くて、たった二室(ふたま)しかない。天井も低くて薄暗い上に昨夜(ゆうべ)のまままだ掃除しないと見えて卓子(テーブル)の覆いも汚れたままである。床の上には果物の皮や、煙草の吸殻なぞが一面に散らばっていて、妙な、饐(す)えたような臭いを室中(へやじゅう)に漂わしている。私が烈しく卓子(テーブル)を叩くと、十六七の生意気らしいのっぺりしたボーイが襯衣(シャツ)一貫のまま裏階段から駈け上って来たが、珈琲を濃くしてと云う註文を聞くと、江戸ッ子らしくつけつけと口を利いた。
「まだお早くて材料が準備してございません。少々手間取りますが……お気の毒さまですが……へい……」
 私はこのボーイをちょっと憤(おこ)らしてみたくなった。わざと酔っ払いじみた巻き舌でまくし立ててやった。
篦棒(べらぼう)めえ。十時半が早けあ六時頃は真夜中だろう。露西亜(ロシア)じゃあるめえし……」
「へえ。申訳ござんせん……つい……」
「つい露西亜の真似をしたっていうのか。そんなら何だって表の戸を明けた」
「へえ。これから気を付けます」
「露西亜になれと云うんじゃねえ。第一お前(めえ)の家(うち)はそんなに夜遅くまで繁昌すんのか」
「へえ。お酒を売りますんでつい……」
「つい営業規則を突破するんだろう。二時か三時頃まで……」
「へへっ。お蔭さまで……へへ……」
「何がお蔭さまだ。俺あ初めてだぞ……」
「恐れ入りやす。毎度ごしいきに……」
「そんなに云うんならごしいきにしてやる。飲みに来てやるぞ。女は居ねえのか」
「はい。私くらいのもので……」
「…ぷっ……馬鹿にするな……全く居ねえのか」
「……お気の毒さまで……」
「……そんなら今日は珈琲だけだ。濃いんだぞ……」
畏(かし)こまりやした」
 と云うなり頭を一つ下げてボーイは飛んで降りたが、間もなく下の方で二三人哄(どっ)と笑う声がした。
「べらんめえの露助が来やがった」
「時間を間違(まちげ)えやがったな」
「なあに酔っ払ってやがんだ」
「言葉が通じんのか」
「通じ過ぎて困るくれえだ。珈琲だってやがらあ」
「コーヒー事とは夢露(ゆめつゆ)知らずか」
「コニャック持って行きましょか」
 とこれは支那人の声らしい。
「おらあ彼奴(あいつ)の名前を知ってる」
 と今のボーイの声……。
「ウイスキーってんだろう」
露探(ろたん)じゃあんめえな」
「なあに。バルチック司令官寝呆豆腐(ネボケトーフ)とござあい」
「ワッハッハ」
「しっしっ聞えるぞ。ホーラ歩き出した。こっちへ降りて来るんだ」
「……ロシャあよかった」
 それっきりしんとしてしまったが、扨(さて)なかなか珈琲を持って来ない。朝っぱらのお客はどこのカフェーでも歓迎されないものである上に、余計な事を云って戯弄(からか)ったものだから、一層憤(おこ)って手間を喰わしているのであろう。
 しかし、これが私の思う壺であった。
 私はその間(ま)に椅子から立ち上って、室(へや)の中の白い机掛けを一枚一枚検(あらた)めて行ったが、ハンカチで拭く程珈琲を引っくり返した痕跡(あと)はどこにも見当らなかった。大方あとで取り換えたものであろう。念のために机掛けをまくって、机の表面まで一々検めて行ったが、これも直ぐに拭いたと見えて何の痕跡(あと)も発見されなかった。あれ程の毒を拭かずにおけば、今朝迄にはワニスが変色するか、剥げるかしていなければならぬ筈である。
 私はちょっと失望した。
 私はこうして昨夜(ゆうべ)岩形氏と洋装の女が対座していた卓子(テーブル)を見付け出すつもりであった。そうして、ボーイが持って来て岩形氏のすぐ横に置いたに違いないであろうウイスキー入りの珈琲に、洋装の女がどんな機会を狙って、どんな方法で毒薬を入れたか……それを又岩形氏が、どうして感付いて引っくり返したか……という事実がどうかして探り出せはしまいか……それを中心にして二人の態度を細かく探ったら事件の経緯(いきさつ)がもっとハッキリなりはしまいかと期待して来たのであった。
 云う迄もなく私は、岩形氏を、尋常一様の富豪とは夢にも思っていなかった。毒と覚(さと)って珈琲を引っくり返したところなぞを見ると案外腕の冴(さ)えた悪党で、この事件の真相というのも実は、稀代の大悪党と大毒婦の腕比べのあらわれかも知れないという疑いを十分に持っていたのであった。……だから……従ってその片対手(かたあいて)の洋装の女が、どの程度の毒婦か。まだほかに余罪があるかないか。どこからどうして毒薬を手に入れたか……というような事実はこの際、焦げ付くほど探っておきたかった。又、そうしておけば、女が捕まった暁に、取調べの方も非常に楽になると思ったからであった。
 とはいえ、勿論こんなカフェー見たような処で、そんなところまで探り出すというのは、万一の僥倖(ぎょうこう)以外に、殆んど絶対といってもいい位不可能な事で、如何に自惚(うぬぼ)れの強い私でも、そこまでの自信は持っていないのであった。しかし、女というものは元来非常な強情なもので、自分の手を血だらけにしていてもしらを切り通すのが居る。殊に今度の女は、そんな傾向を多分に持っているらしい事が、あらかた予想されていたので、出来るだけ余計に証拠をあげて捕まったら最後じたばたさせたくない……というのが私の職務的プライドから来た最後の願望なのであった。(……読者はもう気付いておられるであろう。今度の事件の係りになっている熱海という検事は年こそ若いが頭のいい男で、捜索方針については殆んど警察側に任せ切って、ほかの検事みたいに威張ったり、余計な口出しをしたりしない。その代りに拷問というものを本能的に嫌うたちの男で、就任匆々(そうそう)某署の刑事の不法取調べを告発したという曰(いわ)く付きの男である。しかもこの点では私も同感で、犯人を拷問するのは自分の職務的手腕を侮辱するものであることを万々心得ている。だからこんな風に苦心をする事になるのである。)
 ところで、こんな事を考えてそこいらを見まわしているうちに、私は、今朝(けさ)役所を出てからここへ来る間の二三時間というもの、一服も煙草を吸わなかった事を思い出したので、ポケットから敷島(しきしま)を出して口に啣(くわ)えた。すると今度は燐寸(マッチ)のない事に気が付いたので、ボーイを呼ぶ迄もなく、自分で立ち上って室(へや)の中を探しまわったが、灰落しには吸殻が山のように盛り上ったまま、どの机の上にも置いてあるのに、燐寸(マッチ)は生憎(あいにく)一個(ひとつ)もない。大方昨夜(ゆうべ)の客人が持って行ったものであろう。
 私は大きな声を出してボーイを呼んだ。けれども返事すら聞えなかった。この時にやっと珈琲を挽(ひ)き出した電気モーターの音に紛れたのであろう。
 煙草を吸う人は皆経験しているであろうがこんな時には燐寸(マッチ)一本のために、大の男が餓鬼道に墜ちるものである。私はもう本職の仕事を忘れてしまった真剣さで、そこいら中をぐるぐる探しまわっていると、ふと隣の室(へや)のマントルピースの上に、小さな黒い箱のようなものが載せてあるのを見付けた。
 私は占めたと思った。これこそ燐寸(マッチ)……と思って近付いてみると豈計(あにはか)らんや、それは燐寸(マッチ)ではなくて黒い表紙の付いた小型の聖書であった。……こんな処にこんな物を……と私はその時にちょっと首をひねったが、大方これは客人が落して行ったものであろう……それをボーイが見付け出してマントルピースの上に載せておいたものであろうと思い思い、何の気もなく開いて見ると、それは最新刊の和訳の聖書で、青縁(あおぶち)を取った新しい頁に、顕微鏡式の文字がびっしりと詰まっている。……これは余っ程いい眼を持った人間でなければ読めないな……と感心しながら、なおも先の方の頁をぱらぱらと繰って行くうちに、忘れようとして忘れられぬヘリオトロープの芳香が、微かにその間から湧き出して来た。
 その瞬間に私ははっと職業意識に帰った。一しきり胸を躍らした。あたりを見まわした。そうしてその聖書を手早く外套のポケットに辷り込まして、何喰わぬ顔で椅子に帰っているところへ、やっとボーイが珈琲を持って上って来た。
 そのボーイに五十銭札を握らして燐寸(マッチ)を貰って敷島に火を点(つ)けながら、何でもないからかい半分の調子で色々と質問をしてみると、案外記憶のいい奴で、殊に岩形氏には多分のチップを貰っているらしく、その一挙一動にまでも眼を付けて記憶していたのは、時にとっての拾い物であった。その話を綜合するとかようである。
 たしか昨夜(ゆうべ)の九時前後と思われる頃であった。黒い大きな帽子を冠って、濃い藍色の洋服を着た日本婦人で、二十五から三十位の間に見える素敵な別嬪(べっぴん)がやって来て、現在私が腰かけているこの卓子(テーブル)を借り切って、小さな本をひねくりながら折々窓の外を見て、人を待っている風情であった。その時はちょうど客足が途絶えていたが、それでも二三組客が居て、皆その別嬪の方を見てひそひそ話をしたり笑ったりしていた。この家(うち)の料理番(コック)で好色漢(すけべえ)の支那人が、別嬪と聞いてわざわざ覗きに上って来た位、美しいのであった。
 すると、それから十四五分ばかりして一人の色の黒い、大きな男が、濃い茶色の外套に緑色の帽子を冠って、両手をポケットに突込んだまま、跫音(あしおと)高く階段を上って来た。この男は一週間ばかり前からちょいちょい此店(ここ)へ来て飯を喰ったり酒を飲んだりする男で、お金もたんまり持っているらしく、此店(ここ)に来る客人の中(うち)では上々の部であった。その男は女を見ると横柄にうなずいて向側の椅子に腰を卸(おろ)して大きな声でボーイに命じた。
「豆スープとハムエッグスと黒麺麭(パン)と、珈琲にウイスキーを入れて持って来い」
 女は何も喰べずに、男の様子をまじまじと見ていた。それから、やがて小さな書物を男の眼の前に差し付けて、顔をずっと近付けながら、何かひそひそと話していたようであったが、紫色のハンカチを時々眼に当てて泣いているようにも見えた。これに対して男も時々眼をぎょろ付かせて女を睨みながら、暗い顔をして耳を傾けていた。首肯(うなず)いたり、溜息をしたりしているようにも見えた。
 ところがそのうちにボーイがウイスキーを入れた珈琲を持って行くと、その男はどうした途端(はずみ)か卓子(テーブル)の上に取り落したので、慌てて外套のポケットから白いハンカチを出して押えた。それを女は引き取って綺麗に拭き上げて、よく絞ってから男に渡すと、男はそれを外套のポケットに入れた。その時に女は、自分の持っている紫のハンカチを男の方に差し出したが、男はそれを受け取ってちょっと指の先と口の周囲(まわり)を拭いたまま、すぐに女に返そうとすると女は……要(い)らない……というような手真似をしたので、男はそれを左のポケットにしまい込んだ。そうして急に大きな声を出して、
「おい。ボーイ。ウイスキーだウイスキーだ」
 と呶鳴(どな)った。女はやはり悲しそうに男の顔を見ていた。
 ところでここいらまではボーイも客人もちょいちょい二人の様子を見ていたが、間もなく大勢の客がどかどかと這入って来て酒を呑んで騒ぎ出したので、二人の存在がそれっきり忘れられてしまった。尤もその間の二十分間ばかりというもの、男と女はひそひそと話ばかりしていたが、しまいに男は又かなり酔っ払ったらしい声で呶鳴り出した。
「……ええうるさいッ。最早(もう)話はわかっているじゃないか。子供を思い切るという位、理窟のわかる貴様が、どうしてこれがわからないんだ。貴様は貴様の仕事をする。俺は俺のいいようにする。どこへ行こうと、何をしようと俺の勝手だ。貴様の知った事じゃない。黙っていろ」
 この声は二階中に響き渡って、客人の大部分に聴き耳を立てさせた。その口調の中には、こんなカフェーの中に不似合な、何ともいえない涙ぐましい響があったので、一時カフェーの中がしいーんとした位であった。一方に女は男からそう云われると、身も世もあらぬ体(てい)で、鼻紙で顔を押えて泣き声を忍んでいる様子であったが、そのまましゃくり上げながら立ち上って、しおしおと階段を降りて行った。
 こんな場面を見せ付けられたカフェーの中はすっかり白気(しらけ)渡ってしまった。そうして階段を降りて行く女の姿を見送った人々は、直ぐに視線を転じて、あとに残った男の方を凝視するのであったが、男はそんな事に気も付かない体(てい)で、椅子の背に横すじかいに凭(もた)れかかったまま女の出て行ったあとをじいーっと見詰めているようであった。
 しかし、それは大して長い時間ではなかった。やがて感慨深そうに眼を閉じて、何やら二三分間考えていた男は、急に高らかに笑い出しながら眼を開(あ)いて、そこいらを見廻した。
「アハハハハ。馬鹿野郎。何を考えているんだ。考えたって何になるんだ。アハハハハ。おい。ボーイ。酒だ酒だ。ウイスキーでもアブサンでも、ジンでも、キュラソーでも何でも持って来い。みんな飲んでやる。ねえ諸君……」
 と叫びながら今度は近い処に固まっていた五六人連れの学生にとろんとした眼を向けた。
「ねえ諸君……諸君は学生だ。前途有望だ。理想境(ユートピア)に向って驀進(ばくしん)するんだ。……吾輩もカフェー・ユートピアに居る。即ち酒だ。酒が即ち吾輩の理想境(ユートピア)なんだ。あとは睡る事。永遠に酔い永遠に眠る。これが吾輩のユートピアだ。アッハッハッハッ。どうだね諸君……」
「賛成ですね」
「うむ。有り難い。それでは諸君一つ吾輩の健康を祝してくれ給え。甚だ失敬だが、この瓶を一本寄贈するから……」
 と云ううちに、ボーイが持って来た二三本の酒の中から、シャンパンを一本抜き出して、学生連が取り巻いている机のまん中にどしんと置いた。そうして二十円札を一枚ボーイの銀盆の上に投げ出すと、並んだ料理は見向きもしないで、階段をよろめき降りて行った。
「いま迄にそんな事をした事があるかね……その紳士は……」
 と私はすこし真面目になって訊いた。ボーイは何かしらにこにこして、私の顔を見い見い、態度と語調を換えた。
「いいえ。ございません。いつもたった一人でちびりちびりやって、黙って窓の外を見たり、考え込んだり、新聞を読んだり……」
「……一寸待ってくれ……それはどんな新聞かね」
「英語の新聞です。日本のはなかったようです。二三度忘れて行かれましたが……」
「その忘れた新聞が残っていないだろうか」
「なくなっちまいました。料理番(コック)が毎日新聞紙を使いますので……フライパンを拭いたり何かして、あとを焚付(たきつけ)にしてしまいますので……」
「外国で発行したものかどうかお前には解らないだろうなあ」
「わかりません」
「西洋のポンチ絵が載っていやしなかったかい」
「さあ。気が付きませんでした。すぐにくしゃくしゃにして終(しま)いますので……」
「……ふうむ……惜しいな……ところで、その紳士には時々連れでもあったかね」
「いいえ。昨夜(ゆんべ)の女の方が初めてだったと思います」
昨夜(ゆんべ)その紳士が来た時には、客が少なかったと云ったね」
「申しました」
「幾組位、客があったかね」
「ええと。あの時は隣の室に一組と、こっちの室に一組と……それっきりです」
「合わせて三組だね」
「そうです」
「そのこっちの室に居た客人は学生かね」
「そうです。けれども留学生です」
「……ふうん。留学生。間違いないね」
「間違いこありやせん。早稲田の帽子を冠っておりましたけど、大丈夫日本人じゃありません」
「どこの卓子(テーブル)に居たね」
「あすこです」
 とボーイは料理部屋から上って来る裏口の階段を指した。
「何人居たね」
「……えーと。そうです。三人です」
「どんな風体(ふうてい)の奴かね」[#底本では受けのカギカッコの前に句点あり]
「失敬な奴でした。其奴(そいつ)は僕が……私がここのお客様に持って来ようとするウイスキー入りの珈琲(コーヒー)を捕まえて片言で……こっちが先だ。それはこっちへ渡せ……と云うのです。ウイスキー入りの珈琲は一つしきゃ通っていないのに、そんな事を云うんです。けれども僕は我慢して頭を下げながら……へい。只今……と云ってこっちへ持って来ちゃったんです」
「顔は記憶(おぼ)えているかね」
「みんなは知りませんが、そう云った奴の面付(つらつき)だけは記憶(おぼ)えています。色の黒い、痘痕(あばた)のある、瘠(や)せこけた拙(まず)い面でした。朝鮮人かも知れません」
「ほかに特徴はなかったかね」
「さあ。気が付きませんでした。薄汚ない茶色の襟巻をしておりましたが」
「着物は……」
「三人とも長いマントを着ておりましたから解りません」
「下駄を穿(は)いてたかね」
「靴だったようです」
「フーム。元来この店には朝鮮人が来るかね」
「よっぽど金持か何かでないと来ません。留学生はみんな吝(けち)ですから……女が居れば別ですけど……」
「ふふん。その連中の註文は……」
「珈琲だけです。何でも洋装の女より十分間ばかり前に来て、三人でちびちび珈琲を舐(なめ)ていたようです。客が多ければ追い返してやるんでしたけど……それから女が出て行くと直ぐあとから引き上げて行きました。癪に障(さわ)るから後姿を睨み付けてやりましたら、その痘痕面(あばたづら)の奴がひょいと降り口で振り返った拍子に私の顔を見ると、慌てて逃げるように降りて行きました」
「ハハハハ。よかったね。それじゃもう一つ聞くが、昨夜(ゆうべ)の色の黒い紳士が、何か女から貰ったものはないかね。紫色のハンカチの外に……」
「別に気が付きませんでした……あ。そうそう、女が立って行った後に残っていた、小ちゃな白いものをポケットに入れて行きました」
「どれ位の……」
「これ位の……」
 と指でその大きさを示した。それは丁度名刺半分位の大きさであった。
「もう御誂(おあつら)えは……」
「有り難う……ない……」
 と立ち上りながら私は一円紙幣を一枚と五十銭札を一枚ボーイの手に握らした。ボーイは躊躇して手を半分開いたまま私の顔を見上げた。
「……これは……頂き過ぎますが……」
「……いいじゃないか、それ位……」
「だって……だって……」
 とにやにや笑いながらボーイは口籠(くちご)もった。
「……何だ……」
「だって……貴方は狭山さんでしょう。警視庁の……」
「えっ……。知っていたのか」
「……へえ……新聞でよくお顔を……」
「アッハッハッハッ。そうかそうか。それじゃチップが安過ぎる……」
「もう結構です。又どうぞ……」
「アッハッハッハッ。左様(さよう)なら……」
「左様なら……」
 ボーイは逃げるように裏階段を駈け降りて行った。恐ろしく気の利いた奴だ。
 往来に出てから時計を出してみると十一時二十分過ぎである。今まで電話がかからぬところを見ると紅海丸には異状がなかったと見える。機敏な志免警部は最早第二の処置に取りかかっているであろう。
「……二人は夫婦だ。子供の事を口にしていたと云うから……」
 と私は独言(ひとりごと)を云った。そして考えを散らさないように外套の襟を立てて、地面(じびた)を見詰めながら歩き出した。

 私の行くべき道は、ここで明かに二つに岐(わか)れてしまった。実に面目次第もないが事実の前には頭が上がらない。
 ……一つは女を犯人と認めて行く道……。
 ……もう一つは女を犯人と認めないで行く道……。
 女を犯人と認める理由は、最前ホテルで説明した通りである。殊に東洋銀行から大金を引き出しながら落ち着いて出て行ったところ……又紙幣の包みを金と覚(さと)られぬように、若い車夫を雇ったところなぞはなかなか一筋縄で行く女でない。況(いわ)んやステーション・ホテルでボーイに金を呉れて十四号室へ案内をさせてから後(のち)の奇々怪々な行動を見たら、誰でもてっきり犯人と認めるのが当り前で、決して私の逃げ口上でもなければ、負け惜しみでも何でもないという自信を今でも持っているのである。
 ところが私が女を犯人と認めるに至った根本の理由となっている、珈琲の中の毒薬の一件は、今のボーイの話によると全然消滅してしまう事になる。女が珈琲の中に毒薬の入っていることをまるで知らないでいた事は、その動作によって明瞭に察する事が出来るので、男の方が却(かえ)って毒薬と知って引っくり返したものを、わざわざ拭いてやって、恐ろしい証拠物件となるべきハンカチを男に渡してしまった上に、自分の持っていた紫のハンカチまでも与えている。この点から考えると、女を犯人と認める第一の理由は、あとかたもなくなってしまうので、帰するところ、私の推理に根本的な大間違いがあった事になるであろう……否……否……であろうどころではない。その根本的な推理の間違いは今やっと判明(わか)った。
 私は岩形氏を殺そうとしたものと、実際に殺したものとを、最初からたった一人の犯人と思い込んでしまっていたのだ。「魚目」の毒もメチールも、同じ人間が同じ目的で使用したものと信じたためにこんな間違いを犯したので、実は二人の手で別々に使用し得る……従って女は殺人と無関係であり得る……という大切な仮定の下に、もう一度推理をし直してみる必要があったのだ。
 その証拠には第一の仮定がぐら付いて来ると同時に、第二の仮定までもがどん底からぐら付いて来るではないか。すなわちステーション・ホテルで岩形氏を秘密に訪問した女の姿までは、殆んど寸分の狂いもない位的中したようであるが、その女がたしかに男を殺すつもりであったという事実上の証拠と認むべき第一回の珈琲事件の真相がこんな風に正反対に引っくり返って来るとなれば、第二回の注射事件に関する私の論証も、すっかりあやふやになって来る。第二回目にホテルに来て、扉(ドア)の外から様子を窺(うかが)ったのも、たしかに紳士を殺すつもりで来たとは断言出来ない事になる。殊にこの二人は夫婦関係の者で、女は何事かを諫(いさ)めるために、夫に聖書を突付けて泣いたりするような、心掛けのいい女とすれば、二度目にホテルへ来たのも、何かしらそんな目的で、もう一度諫めに来たものか……それとも何かの理由で夫の危急を知って救いに来たものとも考えられる可能性が出来て来る。但し、ボーイに与えた二十円は、余りに多額に過ぎるようであるが、これも想像を逞しくすれば、よく調べずに渡したものとも考えられるであろう。
 しかも……万に一つこのような想像が全部事実として、女が絶対に犯人でないとすれば、彼(か)の紳士は誰が殺したか。誰が珈琲に毒を入れたか。岩形氏が鍵をかけておいた扉(ドア)を誰が開いたか。
 そもそも何の目的で殺したか。
 私は最前ボーイが話した、朝鮮人らしい留学生を疑ってみた。岩形氏が註文した珈琲を、自分のものだと云いがかりを附けながら、その拍子に多分丸薬と思われる毒薬を投込んだものに違いないとは思ったが、そんなものがホテルに来た形跡は少しもないし、所持品も紛失したものがないようだから結局殺した目的はわからない事になる。よしんば、その不明の目的のために岩形氏を殺したとしても、その手がかりになる留学生は、唯、顔に痘痕(あばた)があるというだけで、探し出すにしても雲を掴むような苦心をしなければならぬ。早稲田の帽子を冠っていたと云うけれども、そんな奴の冠る帽子が当(あて)になった例は先(ま)ずない。
 最後に私は最前のボーイの話の中にあった岩形氏の言葉を思い出した。
 ……永遠に酔い、永遠に眠る……。
 ……「自殺」という考えが私の頭の中に閃めいた。けれども自殺とすれば何という奇妙な自殺法であろう。遺書(かきおき)一本残さずに、泥だらけの手で毒薬を注射して、上着と外套を後から着て、横向きに寝て、眼を一ぱいにあけて、開いたままの窓の方を睨んでいる自殺者は、永年変死人を扱い付けている私も、聞いた事すらない。何の必要があって、そんな変梃(へんてこ)な死に方をするのかすら見当の付けようがない。唯(ただ)御苦労と云うより外はないであろう。
 これで他殺の証拠も消え失せるし、自殺と認める理由もなくなった。あとは他殺と自殺の意味を半分宛(ずつ)含んでいる「過失」という疑問が残る。今まで過失で死んだものを他殺とか、自殺とかいって大騒ぎをした例は珍らしくない。私も二三度迷わされた事があるが、彼(か)の紳士も丁度、自殺と他殺の中間の恰好をしている。
 しかし「過失」とすれば彼(か)の紳士は何か持病があって、その苦痛を免(のが)れるために何かの注射をしていたもので、その分量を誤ったものと見なければならぬが、そんな持病のために一度一度襯衣(シャツ)を切り破るような、詰まらぬ贅沢をする人間もなかろうし、局部を消毒した脱脂綿も見当らなければ、注射の後で絆創膏(ばんそうこう)を貼った形跡もないのが第一奇怪と云わなければならぬ。反証はこれ一つで沢山だ。
 ところでいよいよ他殺でもなく、自殺でもなく、過失でもない……とすればあとには「病死」と「老衰死」とが残る。しかしこれを問題にするのはあとで読者をあっと云わせる探偵小説か何かの話で、実際にはあり得べき事でない。
 私は落胆(がっかり)してしまった。
 一たい今日の事件は手がかりが早く付き過ぎていて、判断の材料が複雑多岐を極め過ぎている。だからこんなに迷うのだ。……だからどっちにしても女を捕まえさえすれば見当が付く事と思って、彼(か)のカフェーでボーイの話を聞いているうちから、女が犯人でないかも知れないと気付いていたにも拘らず、そのままにして、志免警部の活躍に一任しておいたのであったが……。
 遣(や)り直し……遣り直し……。
 読者は嘸(さぞ)かし自烈(じれっ)たいであろう。私もうんざりしてしまった。しかし一人の絶世の美人が、貞烈無比になるか、極悪無道になるか、絞首台に登るか登らぬかの境目だから、今一度辛棒して考え直さなければならぬ。苟(いやし)くも法律の執行官たるものが、こんな無責任なだらしのない事でどうする……と自分で自分の心を睨み付けながらそろそろと歩度を緩めた。そうして全然別の方向からこの事件を観察すべく、鼻の先の一尺ばかりの空間に、全身の注意力を集中し初めた。
 すべて探偵術のイロハであって、同時にその奥義となっている秘訣は、事件の表面に現われた矛盾を突込んで行く事である。これは強(あなが)ちに探偵術ばかりでなく、凡(すべ)ての研究的発見は皆そうだと云っても差支(さしつかえ)ない位で、高尚なところでは天文学者が遊星の運動の矛盾から割出して新しい遊星を発見し、生物学者が動植物の分布の矛盾から推理して、生物進化の原理を手繰(たぐ)り出すのと一般である。もっと手近い例を取れば、一人の嫌疑者を取調べるにも、
「お前の云うところはここと、ここが矛盾している。これは何故か」
 と突込(つっこ)んで行くと遂には、
「恐れ入りました」
 と服罪するようなもので、理窟は誰でも知っているが実際に扱ってみるとなかなか裏表の使いわけの六ケ敷い、深刻な妙味を持った真理である。
 私はこの場合すぐこの原則を応用した。事件の表面に現われた矛盾の最も甚しいものを、がっしりと頭の中に捕まえた。それは矢張り彼女であった。自称田中春であった。
 この女は一方に質素な藍色の洋服を着て、せっせと働いているように見えながら、一方には派手な扮装(なり)をして、白粉(おしろい)をこてこてと塗って大金を受け取っている。どこに居るかわからぬ子供を思い切ると云うかと思うと、夫婦別れをするらしいのに夫の身の上を心配している。人が吃驚(びっくり)するような美人でありながら、醜い夫に愛着しているのも妙だし、そうかと思うと金を捲き上げているし、正直な風をして聖書をひねくっているかと思うと、その裏面では容易ならぬ曲者(くせもの)の手腕を示している。その癖又、弱々しいところもあるかと思うとしっかりし過ぎているところもあるし、落着いているようにも見えれば慌てているようにも見える。その他何から何まで理窟の揃わない辻褄の合わぬ事ばっかりしているので、その行動の矛盾撞着(どうちゃく)している有様が、ちょうど岩形氏の死状の矛盾撞着と相対照し合っているかのように見えるところを見ると、その間には何かしら共通の秘密が伏在していはしまいか。その秘密がこの事件の裏面に潜んでいて、二人を自由自在に飜弄(ほんろう)しているために、こんな矛盾を描きあらわす事になったのではないか……待てよ……。
 ここまで考えて来た私は、無意識の裡(うち)にぴったりと立ち止まった。……と同時にポケットの中で最前の聖書をしっかりと握り締めながら、ぼんやりと地面(じびた)を凝視している私自身を発見した。そこいらを見まわすと私はいつの間にか銀座裏を通り抜けて帝国ホテルの前に来ている。
 私はポケットから聖書を引き出して眼鏡をかけた。そうしてすたすたと歩き出しながら聖書を調べ初めた。
 それは日本の聖書出版会社で印刷した最新型で、中を開くと晴れ渡った秋の光りが頁に白く反射した。持主の名前も何も書いてないが、処々に赤い線を引いてあるのは特に感動した文句であろう。ヘリオトロープの香(かおり)は引き切りなしに湧き出して来る。
 私はこの聖書から是非とも何物かを掴まねばならぬという決心で、一層丁寧にくり返して調べ初めた。すると、あんまりその方に気を取られて歩いていたために、日比谷の大通りの出口で、あぶなく向うから来た一台の自動車と衝突するところであったが、自動車の方で急角度に外(そ)れたために無事で済んだ。
「危い」
 と運転手はその時に叫んだが、中に居た女らしい客人も小さな叫び声を揚げた。そうして驚いて振り返った私に向って運転手は、
「馬鹿野郎」
 と罵声を浴びせながら走り去った。
 その運転手の人相は咄嗟(とっさ)の間の事であったし、おまけに荒い縞の鳥打帽を眼深(まぶか)に冠って、近来大流行の黒い口覆(くちおお)いをかけていたから、よくは解らなかったが、カーキー色の運転服を着た、四十恰好の、短気らしい眼を光らした巨漢(おおおとこ)であった。自動車は軍艦色に塗ったパッカードで番号は後で思い出したが、T三五八八であった。
 一寸(ちょっと)した事ではあるが、このはっとした瞬間に私の頭の中はくるりと一廻転した。そうして新しい注意力でもってもう一度聖書を調べ直してみると……。
 ……私は直ぐに気が付いた。聖書の文句に引っぱってある赤線は、只の赤線でない。これは一種の暗号通信のために引いたものである。その証拠には、誰でも感服してべた一面に線を引くにきまっている基督(キリスト)の山上の説教の処には一筋も引いてなく、却ってその他の余り感服出来ない処に引いてあるのが多い。
 私は聖書をそのままポケットに突込んで、電車線路を横切って日比谷公園に這入った。それから人の居ないベンチをぐるぐるまわって探した揚句(あげく)、音楽堂の前に行列している椅子のまん中あたりの一つに引っくり返って、とりあえず聖書の中の赤い筋を施した文字を拾い読み初めた。――
 ――主(しゆ)たる汝(なんぢ)の神(かみ)を試(こゝろ)むべからず。
 ――向(むか)うの岸(きし)に往(ゆ)かんとし給(たま)ひしに、ある学者(がくしや)来(きた)りて云(い)ひけるは師(し)よ。何処(いづこ)へ行(ゆ)き給(たま)ふとも我(わ)れ従(したが)はん。
 ――癩病(らいびやう)を潔(きよ)くし、死(し)したる者(もの)を甦(よみがへ)らせ、鬼(おに)を逐(お)ひ出(だ)す事(こと)をせよ。
 ――罵(のゝし)る者(もの)は殺(ころ)さるべし。
 ――二人(ふたり)の者(もの)他(た)に於(おい)て心(こゝろ)を合(あ)はせ何事(なにごと)にも求(もと)めば天(てん)に在(いま)す我父(わがちゝ)は彼等(かれら)のためにこれを為(な)し給(たま)ふべし。
 ――心(こゝろ)より兄弟(きやうだい)を赦(ゆる)さずは我(わ)が天(てん)の父(ちゝ)も亦(また)汝等(なんぢら)にこの如(ごと)くし給(たま)ふべし。
 ――よばるゝものは多(おほ)しと雖(いへども)、選(えら)ばるゝ者(もの)は少(すく)なし。
 ――娼妓(あそびめ)は爾等(なんぢら)より先(さき)に神(かみ)の国(くに)に入(い)るべし。
 ――爾等(なんぢら)聖書(せいしよ)をも神(かみ)の力(ちから)をも知(し)らざるによつて謬(あやま)れり。
 ――高(たか)うするものは卑(いやし)くせられ自己(じこ)を卑(いやし)くするものは高(たか)くせられん。
 ――野(の)にありといふ者(もの)あるも出(い)づる勿(なか)れ。
 ここまで読んで来ると又気が付いた。……なあーんだ……と口走りながら苦笑した。私は何か余程六ケ敷い暗号ではないかと思って、一生懸命に注意しながら一句一句を読んでいたのであったが、よく見ると何でもない。西洋の若い男女がよく媾曳(あいびき)の約束なんかに使う極めて幼稚な種類の暗号で、何も聖書に限った事はない。小説にでも教科書にでも何にでも使える極めて手っ取り早いものなのだ。すなわち赤い線を引いた各行の頭の文字だけを拾い読みすればいいので、一番最初の数文字が、意味をなさない人の名前になっているためにチョット気が付かなかったのだ。
[#ここから1字下げ]
しむら、のぶこ[#「しむら、のぶこ」に傍線]よ。貴方の夫は裏切者です。彼は吾々(われ/\)ぜい、あい、しいの金七万八千弗(ドル)を奪つて日本へ逃げて来てぜい、あい、しいの暗号を日本の外務省に送りました。彼はぜ、あ、し[#「ぜ、あ、し」に傍線]から死の宣言を受けました。それと一緒に私は、貴女(あなた)を見張るやうに命令されましたところ貴方は窃(ひそか)に夫を探し出してその金を奪つて、どこかに隠れる支度をして居(ゐ)る事を留学生のをりん、ゆう、せき[#「りん、ゆう、せき」に傍線]がみつけましたから私はぜ、あ、し[#「ぜ、あ、し」に傍線]本部へ知らせました。しかし貴女(あなた)の死の宣告はまだ来ませぬ。貴方が美しいからです。お二人の事を知つてゐるのはりん[#「りん」に傍線]と私だけです。りん[#「りん」に傍線]はお二人を殺すと云つて居(お)ります。あなた夫婦を助ける者は私だけです。その理由(わけ)はお眼にかゝつて話します。色恋でも金のためでもありませぬ。日本のためです。信じて下さい。十四日午後五時に半蔵門停留場にお出でなさい。貴女(あなた)はいつもの黒い服。私は黄色い鳥打帽子。運転服。かしを。
[#ここで字下げ終わり]
 赤い線は一頁に二つか一つ半位の割合で附録詩篇の四十六篇の標題、
 ――女(をんな)の音(こゑ)の調(しら)べにしたがひて……。
 という処まで行って、おしまいになっている。
 いつの間にか起き上って、眼を皿のようにしていた私は、聖書をピッタリと閉じて老眼鏡を外すと黒い表紙の上をポンと叩いた。そうして思わず、
「成る程。わからない筈だ」
 と叫びながら音楽堂の上の青い空を仰いだ。
 今まで私の眼の前を遮っていた疑問の黒幕がタッタ今切って落されたのだ。そうしてその奥に更に大きな、殆んど際涯(はてし)もないと思われる巨大な、素晴らしい黒幕が現出したのだ。
 元来米国と欧洲の瑞西(スイス)は、世界各国の人種が出入りするために、各種の秘密結社の策源地のようになっている。その中でもJ・I・Cというのはどんな種類の秘密結社か知らないが、この文の模様で見ると米国に本部を置いているらしく、裏切者を片(かた)ッ端(ぱし)から死刑に処するのを見ても、その組織の厳重さと、仕事の大きさが想像される。しかも迂濶な話ではあるが、そんな強烈な秘密結社の支部が日本に設置されている事は、今日が今日まで私も知らなかったので、恐らく外務省なぞも同様であろう。況んや、その支部にしむらのぶこ[#「しむらのぶこ」に傍線]と呼ばれる怪美人やりん、ゆう、せき[#「りん、ゆう、せき」に傍線]と呼ばれる留学生や、かしを[#「かしを」に傍線]と名乗るタクシー運転手らしい男なぞが属していて、何等か秘密の活躍をしていた。そうして裏切者の岩形圭吾を問題にして、何かしらごたごた遣っていた……なぞいう事をどうして、何人(なんぴと)が察し得よう。
 ……しかし最早(もはや)逃がさぬぞ。J・I・Cの秘密をドン底まで叩き上げないではおかないぞ。……岩形氏を殺したのはJ・I・Cの黒幕の中から現われた手ではなかったか。そうして彼女は、その黒幕の蔭から現われ出て、岩形氏の急を救おうとしたものではなかったか。
 ……果然……果然……矛盾の本尊であった彼女は、今や、暗中一点の光明となった。そうして私が最初に予想した通り、私がこの女に会いさえすれば万事が氷解する段取りになって来たではないか。しかもその勝敗の決する時間は今日の午後五時……時計を出してみると、今から約三時間半の余裕がある。……彼女が紅海丸に乗らなかったのも、多分この会見に心を惹かれたためであろう。
 こう考えて来るうちに私は思わず武者振いをした。……この事件はちっぽけな殺人事件として片付ける訳に行かなくなった。うっかりすると日本民族の存立にかかわるような大事件を手繰(たぐ)り出すかも知れない。畜生。どっちにしても相手は大きいぞ……と逸(はや)る心を押し鎮めるべく敷島を一本啣(くわ)えながら公園の中にある自働電話に駈け込んで、警視庁に電話をかけて赤原警部を呼び出した。これは新聞記者を避けるために私が用いる常套手段で、このために私は殆んど毎日五銭以上の損害を新聞記者から受けていると云っていい。
 出て来た赤原巡査部長に何か報告はないかと尋ねると、直ぐに答えた。
「志免警部は十一時半までに横浜から何の報告もありませんでしたから、御命令の通りに各港へ電報と電話と両方で、女の乗客を調べるように通達致しました。それからタイプライターと法被(はっぴ)に関する報告が書き取ってありますが……」
「読んでみたまえ」
「……一つ……芝区に向いたる轟刑事第一報告(午後十二時五分着)新橋二五〇九と染め抜きたる新しき法被を日蔭町の古着店にて発見せり。売却人は若き車夫体(てい)の男にて『この法被はいらなくなったから売る』といいたり。古着店主辻孝平は該(がい)車夫が、番号の相違せる古き法被を下に着たるを怪しみ理由(わけ)を問いたるに『なに。この法被は貰ったんだけれど番号を改(か)えるのが面倒だから売る』と云いたるを以て三十銭に買い取りし旨を答えたり。時刻は昨夜九時頃にして、面体、及び、下に着せる古き法被の番号は明瞭に記憶せざれどたしか芝……〇二なりしと云えり。但し、その時俥は引きおらざりしとの事なり。小官はこの旨を新橋署にて調査中なりし金丸刑事に報告し、法被は店主に保管を命じ借着屋の調査に向いたり。
 一つ……金丸刑事第一報告(十二時二十五分着)新橋二五〇九の俥は実は芝一四〇二号なり。芝神明前俥宿手鳥(てどり)浅吉の所有にして挽子(ひきこ)は市田勘次というものなり。十二日午後二時頃、同人は客を送りて麹(こうじ)町区隼(はやぶさ)町まで行きたる帰途、赤坂見附の上に差しかかりたるに、三十前後の盛装したる女に呼び止められ、華族女学校横まで連れ行かれ、金五円を貰い、新しき法被を着せられ、山下町東洋銀行に到り、白き書類様の包みを受取り、市ケ谷見附まで引き行きて件(くだん)の客を下し、法被を脱ぎて帰るさ同見附駐在所にて呼び止められ『何故(なぜ)に毛布を垂らして俥の番号を隠しいるや』と叱責され謝罪して帰りたる由。因みに、その時同人は新しき革足袋(かわたび)を穿き、古きメルトン製の釜形帽を冠りおりたる由……おわり……」
「それだけかね」
「それだけです。あ……丁度志免警部が帰って来ました」
「電話に出してくれ給え」
「アアモシモシモシモシ」
 疑いもない志免警部の声であるが、どうしたものかすっかり涸(か)れてしまっている。
「モシモシ。課長殿ですか。課長殿ですか」
「どうしたんだ君は……僕だよ……狭山だよ」
「女の手がかりが付きました」
 これだけ云って志免警部は息を継いだ。
「どうして……どこで……」
 と私は態(わざ)と落着いて云った。志免警部は水か何か飲んでいるらしく頻(しき)りに咽(むせ)る音が聞えたがその間私は黙って待っていた。
「モシモシ。モシモシ。時間ですよ」
 と交換手の声が聞えて来た。私は又五銭白銅を穴の中へ入れた。その音の消えない中(うち)に志免警部は口を利き出したがもうぐっと落ち着いている。
「……や……失礼しました。あまり急いだものですから息が切れて」
「どうしたというのだ」
「タクシーで逃げるのを自転車で追(おっ)かけたのです」
「逃がしたのか」
「逃がしましたがその自動車の運転手が帰って来たのを押えて何もかも聞きました」
「御苦労御苦労……手配はしてあるね……」
「ハイ。それから熱海検事が今総監室に来ておられます。一緒に来られるそうです」
「検事なんか何になるものか。自動車はいるね」
「ハイ。皆出切っておりますから呼んでいるところです。……実は女(ほし)の隠家(あな)を包囲したいと思うんですが、十四五名出してはいけませんか」
「いけない。眼に立ってはいけない。国際問題になる虞(おそ)れがある」
「今どこにお出(いで)ですか」
「日比谷だ」
「それじゃお迎えにやります」
「来なくていい。そこまでなら電車の方が早い」
 日比谷公園の正門を駈け出すと、全速力の電車に飛び乗った私は五分も経たないうちに警視庁(やくしょ)の前で飛降りた。その姿を見ると志免警部は表の階段を降りて迎えに来たが、そのあとから選(よ)りに選(よ)った強力(ごうりき)犯専門ともいうべき屈強の刑事が三名と、その上に熱海検事、古木書記までも出かける準備をして降りて来た。ちょっと眼に立たないが、近来にない目の積んだ顔揃いで、早くも事件の容易ならぬ内容を察した志免警部の機敏さがわかる。おまけにどこをどう胡麻化(ごまか)したか新聞記者が一人も居ない。これだけの顔が出かけるとなれば、すぐに新聞記者の包囲攻撃を受けなければならないのだが……と……そう気が付いてキョロキョロしている私の腕を捉えて志免警部はぐんぐん数寄屋橋の方へ引っぱって行きながら、耳へ口を寄せるようにして囁(ささや)いた。
「女を隠れ家に送り込んだ、三五八八の自動車が帰って来ましたので……」
「えっ。三五八八」
「そうです。数寄屋橋タクシーです」
「……それじゃ……先刻(さっき)のがそうだったんだ」
「発見していられたんですか最早(もう)……」
「うん。そうでもないが……相手は大勢かね」
「はい。運転手の話によると女の外に、凄い顔付(つらつき)をした支那人や朝鮮人を合わせて四五名居ると云うのです」
「新聞記者が一人も居ないのはどうしたんだ」
「貴方が日比谷公園で迎えの自動車を待ってられると聞いて皆飛んで行ったんです」
「事件の内容は知るまいな」
 と云いも了(おわ)らぬうちに山勘横町(やまかんよこちょう)の角から一台の速力の早いらしい幌(ほろ)自動車が出て来て私達の前でグーッと止まった。先刻(さっき)の軍艦色のパッカードである。続いて来た一台の箱自動車は志免刑事の相図を受けて警視庁の入口の方に行った。
 私達は猶予なく自動車に飛び乗った。あとから追っかけて来た三人の刑事も転がり込んだ。
 志免警部は運転手に命じた。
「お前が今行った家(うち)へ……一ぱいに出して……構わないから……」
 運転手はハンドルの上に乗りかかるようにうなずいたと思うと、忽(たちま)ち猛然と走り出して電車線路を宙に躍り越えた。その瞬間に私は思った。これ位軽快な車はタクシーの中(うち)にも余りあるまい。今たしかに三十五哩(マイル)は出ている……と……その中(うち)に志免刑事が口を利き出した。
「いや。非道(ひど)い眼に会ったんです。私はタイプライターのリボンを手繰(たぐ)るのが一番早道と思いましたので、自動車で丸善から銀座を一通り調べましたが、その途中で一寸(ちょっと)電話をかけて、集まった報告を聞いて見ますと、女(ホシ)が市ケ谷の方向に消えたというのです。そこで今度は市ケ谷近くの四谷の通りから神楽坂(かぐらざか)、神田方面のタイプライター屋を当る考えで、公園前の通りを引返(ひっかえ)して来ますと、丁度今の公園前の交叉点で、この三五八八の幌とすれ違ったのです。運転手はやはりこの運転手でしたが、すれ違いざまに見ますと、乗っているのは黒い帽子を冠って藍色の洋服を着たすてきな美人なのです。私は夢中になって自転車で追っかけたのですが、やっとここ(参謀本部前)まで来た時にはもう、どこへ行ったか判らなくなってしまったのです。
 私はそれから直ぐに数寄屋橋に引っ返して三五八八の車を当ってみましたら、その車はたしか一時間ばかり前に電話がかかって、麹町の方へ出て行った。しかしもう帰って来るだろう。電話の声は女で、丁寧な上品な口調だったという返事でしたので、私は直ぐにタクシーの事務所から、電話で刑事を一人呼んで張り込まして、三五八八が帰って来たら直ぐにわかるようにしておきました。運転手なんていうものは……」
 自動車が突然にビックリするような警笛を鳴らした。と思う間もなく一気に濠端を突き抜けて、プロペラーのように幌を鳴らしながら三宅坂を駈け上った。後窓(アイホール)から振り返って見ると、熱海検事を乗せた自動車はまだ桜田門の前に来たばかりである。
「後の自動車(くるま)は大丈夫かね」
「はい行先を教えておきました。熱海検事はまだ犯人は決定している訳じゃない。しかしもうすこし調べておく必要があるから一緒に来ると云うんですが……」
 と云いながら志免警部は鋭い眼付きで私を振り返った。しかし私は返事をしなかった。ただ顔を見覚えておくために、眼の前に坐っている運転手の顔を、反射鏡で気取(けど)られないように覗き込んだが、見れば見る程ガッシリした体格で、肩幅なぞは普通人の一倍半ぐらい有(あ)りそうに見える。しかもその顔は私の思い做(な)しか知らないが、最前帝国ホテルの前で私に「馬鹿野郎」を浴びせた獰猛な人相の男に違いないようで、その軍艦の舳(へさき)のようにニューと突き出ている顎が背後から見てもよくわかる。しかし服装は最前と丸で違って、黒い口覆いも何も掛けていず青い中折帽から新しい背広服に至るまで、最前とはまるっきり様子が変っているので、もしかしたら私の思い違いかも知れない。第一あの運転手ならば、私が警視庁の人間である事を気付くと同時に、多少に拘わらず吃驚(びっくり)した表情をあらわす筈である……なぞと考えながらつい鼻の先に山口勇作と貼り出して在る運転手の名刺を見ているうちに自動車は最早(もう)、半蔵門の曲り角に立っている人混(ひとごみ)を電光のようにすり抜けて、麹町の通りを一直線に、土手三番町へ曲り込んだと思うと、二葉女学校の裏手にある教会らしい小さな西洋館の前でピタリと止まった。止まると同時に志免警部は、私に一挺のブローニングを渡しながら真先(まっさき)に飛び降りて、空色のペンキで塗った門の扉を両手で押したが門は締りがしてなかったと見えてギイと左右に開いた。そこから真先に躍り込んだ志免警部に続いて三人の刑事が走り込んだ。
 続いて私が降りようとすると、運転手は初めて気が付いたらしく、ギョロリと光る眼で私を見たが一寸躊躇しながら、丁寧に帽子を脱いで訊ねた。
「旦那……待っておりますでしょうか」
「うむ。そうしてくれ」
 と云い棄てて私は門を這入った。
 家は旧式赤煉瓦(れんが)造りの天井の高い平屋建で、狭い門口(かどぐち)や縦長い窓口には蔦蔓(つたかずら)が一面にまつわり附いていた。その窓の上にある丸い息抜窓に色硝子(ガラス)が嵌めてあるところを見ると昔は教会だったに違いない。私は永年東京に居るお蔭で、到る処の町々の眼に付く建物は大抵記憶しているつもりであるが、この家は今まで全く気が付かなかった。それくらい陰気な、眼に付きにくい建物であった。
 私は故意(わざ)と中へ這入らずに、万一の用心のつもりで門の処に張り込んだまま待っていた。そのうちに頭の上の高い高いポプラの梢から黄色い枯れ葉が引っきりなしに落ちて来た。予審判事の乗っている自動車はまだ来ない。家の中にも何の音も聞えず、予期したような活劇も起りそうにない気配である。
 私はあんまり様子が変だから表の扉(ドア)を開いて中に這入ってみた。見ると内部はがらんとした板張りで埃だらけの共同椅子が十四五ほど左右に並んでいる。正面には祭壇があって真鍮(しんちゅう)の蝋燭(ろうそく)立てが並んでいるが十字架はない。その代り左手の壁に聖母マリアの像と、それから右手に基督(キリスト)が十字架にかかっている図が架(か)けてある。……この絵を見ると私はやっと思い出した。それは何でも私が東京に来た当時の事で、驟雨(しゅうう)に会って駈け込んだ序(ついで)に、屋根の借り賃のつもりで一時間ばかり説教を聞いた事がある。その時に独逸(ドイツ)人らしい鷲鼻の篤実そうな男が片言まじりの日本語で説教をしていたが、その男が十年後の今日になって戦争で引き上げた後を調査したら、独探(どくたん)だった事が判明したので一時大騒ぎになって、その男の顔が大きな写真になって新聞に出た事がある。その時にもこの絵の事を思い出したが、私が関係した事件でなかったので忘れるともなく忘れていた。その跡を女が借りたものであろう。
 そのうちに私は窓の上を這っている電燈と電話の線を発見したが、電燈の方は室(へや)の中央に旧式の花電燈があるから不思議はないとしても、こんなちっぽけな教会に電話は少々不似合である。……ハテ可怪(おか)しいな……と思いながら祭壇の横の扉(ドア)を開くと八畳ばかりの板張りになって、寝台が一つと、押入れと、台所と戸棚が附いている。寝台の上の寝具は洗い晒(ざら)した金巾(かなきん)と天竺木綿(てんじくもめん)で、戸棚の中には小桶とフライパン、その他の台所用具が二つ三つきちんと並んでいる。水棚の上も横の瓦斯(ガス)コンロも綺麗に掃除してある。その先は湯殿と、便所と物置で、隣境いの黒板塀との間に金盞花(きんせんか)が植えてある。
 私は慌てて押入を開けてみた。鼠の糞(ふん)もない。その床板を全部検(あらた)めてみたが一枚残らず釘付になっている。
 私は裏口へ飛び出してみた。庭は四方行き詰まりで新しい箒目(ほうきめ)が並んで靴痕(あと)も何もない。
「逃げたな」
 という言葉が口を衝(つ)いて出た。そうしてそのまま表の説教場に引返(ひっかえ)すと、そのまん中の椅子の間に書記を連れた熱海検事が茫然と突立っていたが、私を見ると恭(うやうや)しく帽子を脱いだ。
「どうも遅くなりまして……自動車の力が弱くて五番町の坂を登り得ませんでしたので……犯人は挙がりましたか」
 私は無言のまま頭を左右に振った。それを見ると熱海検事は同氏特有の憂鬱な眼付きをして、森閑(しんかん)とした室(へや)の中を見まわしてから又私の顔を見た。志免警部を入れた四名の警官が煙のように消えてしまったのである。
 二三秒の間三人は、薄暗い教会堂のまん中で、色硝子の光線を浴びながら、青い顔を見合わせたまま立っていた。
 するとこの時、どこからともなくガソリンの臭いがして来た。熱海氏も気が付いたと見えてキョロキョロとそこいらを見まわしていたが、やがて「アッ」と叫んで私の背後を見た。私も振り返って見たが「アッ」と驚いた。正面向って右側の壁にかかった基督殉難の図が扉(ドア)のようにギイと開いて、最新式の小型な白金カバー式ランプを提げた志免警部が飛び降りて来た。そのあとから三人の刑事が次々に飛び降りてしまうと、後は又ギイと閉まって旧(もと)の通りになった。……私は開いた口が閉(ふさ)がらなかった。こんな教会にこんな仕掛がしてあろうとは夢にも思わなかった。やはりこの家は独探(どくたん)の家だったのだな……と思った。
 けれども志免警部と三人の刑事は私よりももっと失望したらしく、先程の元気はどこへやら、屠所(としょ)の羊ともいうべき姿で、私の前に来て思い思いにうなだれた。
「一体どうしたのだ」
 と私は急に昂奮しながら問うた。
「はい迅(と)うに逃げていたのです。居たのなら逃げようがありません。一方口ですから」
「麹町署に頼まなかったのか……見張りを……」
「頼んだのです。ところがあの教会なら怪しい事はない。志村のぶ子という別嬪(べっぴん)の旧教信者が居て熱心に布教しているだけだと、下らないところで頑張るのです」
「僕の名前で命令したのか」
「貴方のお名前でも駄目です。古参の警視で威張っているんです」
 私は泣きたいくらいカッとなってしまった。
「……馬鹿野郎……後で泣かしてくれる。……調べもしないで反抗しやがって……地下室か何かあるんだろうこの下に……」
「はい……電話線があるのに電話機がないので直ぐに秘密室があるなと感附きました。それでそこいら中をたたきまわりましたらあの絵の背後が壁でない事がわかりましたので、引っぱって見ますと直ぐ階段になって地下室へ降りて行けます。地下室には女がつい最前まで居て、何か片附けていたらしく、紙や何かを台所の真下にあるストーブで焼いてありまして何一つ残っておりません。只レミントンのタイプライターと電話器とこのガソリンランプが一台残っているばかりです」
 私は地下室へ這入って見る気も出なかった。皆と一緒にぼんやりと立っていた。
 するとこの時教会の入口の扉(ドア)をノックする音が聞えた。そうしてどこかで聞いたような錆(さ)びのある声が洩れ込んで来た。
「這入ってもよろしゅうございますか」
「よし這入れ」
 と云うと声に応じて扉(ドア)が開いた。それは最前の運転手で、内部の物々しい、静かな光景を見てちょっと臆したようであったが、直ぐにつかつかと近寄って来て、ひょっくりとお辞儀をしながら一通の手紙を差出した。
「こんなものが門の中にありました」
「門の中のどこに!」
 と私は受取りながら訊ねた。
「……扉(ドア)の内側に挟んでありましたのが、風で閉まる拍子に私の足下へ落ちましたので、多分旦那方の中(うち)においでになるんだろうと思いましたから……」
「よしよし。わかった。貴様は表へ出て待ってろ」
「いや。一寸待て」
 と志免警部が横から呼び止めた。運転手はぎくりとしたようにふり返った。
「へ……へい……」
「最前貴様がここへ来た時には、日本人や外国人取り交(ま)ぜて五六名の者がたしかに居たんだな」
「へい。それはもう間違いございません。私がこの眼で見たので……」
「よし……行け……」
 と志免警部は噛んで吐き出すように云った。そうして私が封を切って読みかけている手紙を熱海検事と二人で覗き込んだ。
 その手紙は記念のために、まだここに持っているが、白い西洋封筒の上に鉛筆の走り書きで、

   警視庁第一捜索課長

    狭山九郎太様  御許に[#「御許に」は小文字]

     志村のぶ子 拝[#地付き、地より5字アキ]

 と認(したた)めてある。中の手紙はタイプライター用紙六枚に行を詰めて叩いた英文で、よほど急いだものらしく、誤植や誤字がちょいちょい混っている。飜訳すると原文よりは少々長くなるようであるが、あらかたこんな意味である。

 取り急ぎますままに乱文の程お許し下さいませ。
 妾(わたし)は只今、貴方様の神速な御探索を受けております事を承知致しまして、とても助かりませぬ事と覚悟致してはおりますが、万に一つにも、お眼こぼしが叶いました節は、生きて再びお眼もじ致します時機がないように存じ上げますから、勝手ながら、妾の一生のお願い事をお訴え申上げたく、不躾(ぶしつけ)ながら手慣れておりますタイプライターの英文にて御意を得させて頂きます。
 その中(うち)にも何より先立ってお許しの程をお願い申上げとうございます事は、妾が世にも恐ろしい夫殺しの犯人でない事でございます。
 その仔細は、詳しく申上げますれば数限りもございませぬが、その荒ましは先刻お手に入(い)りました新約聖書の中の暗号文にてお察しの事と存じます。妾の夫、仮名岩形圭吾事、志村浩太郎と妾こそは、共々に、米国紐育(ニューヨーク)に本部を置き、ウルスター・ゴンクールと申す人を首領と致しております秘密結社J・I・Cの一員に相違ございませぬので、これは最早(もはや)、お隠し申上げるまでもない事と存じます。
 さてとや、この、J・I・C結社の性質と申しますのは、最早、御承知の御事(おんこと)とは存じますが、当座の申開きのため、あらましを申述べさして頂きます。
 妾が今日まで心得ておりましたところによりますと、この結社は、米国人が建国以来の理想と致して参りました正義人道と、平和愛好の精神から生まれ出たものと申し聞かせられております。でございますから、その仕事と申しますのは、普通に流行致しております声ばかりの平和運動と違いまして、世界各国の好戦的の行動をあらゆる直接の方法で妨害致しまして、一切の内政と外交を、経済的手段だけで解決しなければならぬように仕向けることでございます。そう致しまして只今の世界の経済状態が、他国民の不幸は、直ぐにそのまま自国民の不幸と変化して襲いかかって来るようになっております実情をハッキリと各国民に悟らせまして、世界中を米国と共通共同の経済団体と変化致し、互に相扶(あいたす)け合いまして、二度と再び、只今の欧洲大戦のような大惨事を惹(ひ)き起さないように努力致します目的の下に、米国に居住する各国人種によって組織されておるものと承わっております。
 そのような次第でございますから、申すまでもなく、J・I・Cの事業は、只今露西亜(ロシア)に流行し初めております過激思想などとは全く正反対の思想でございまして、米国内の各州がそれぞれ独立自由の政治を営んでおります通りに、各国、各人種の宗教と、政体と、階級制度とをそのままに認めながら人類社会の平和と幸福を計るのを理想と致しておるのでございますが、只今のように各国の政策が、戦争よりほかに平和の保ち方を存じませぬ軍閥と、資本家の手で支配されております世の中では、過激思想と同様の誤解を受けまして、恐ろしい反対と、迫害を加えられる虞(おそ)れが十分にございます。それで、J・I・Cの団員は、あたかも羅馬(ローマ)に於ける最初の基督教の布教者と同様の厳重なる秘密組織と致しまして、団員は一人一人に殉教者となる覚悟をもちまして各国に紛れ入り、その国の好戦的準備を妨害致す仕事を致しておりますので、妾の夫志村浩太郎は、その西部首領の仕事を引き受けておりましたものでございます。
 又、一方に、その志村浩太郎の妻と相成っておりました妾(わたし)は、或る恐ろしい事情のため、久しい以前から夫と、一人子の嬢次と三人、離れ離れになっておりました者で、その後、寡婦と同様の境遇に陥りました妾は、夫と愛児の行方を探すために、色々と辛苦艱難(かんなん)を重ねました後(のち)に、J・I・Cの情報主任と相成りまして日本に参り、××大使のお世話で当教会を借り受け、日曜毎(ごと)に説教を致します体(てい)を装い、日本内地に働いております、J・I・C団員の情報を集配(レポート)致しておったのでございますが、その傍(かたわ)ら、古い縁故を辿りまして外務省の英文タイピストの職に就き、日本の機密に属する暗号電報を盗み写しまして、米国紐育イースト・エンドのJ・I・Cの本部に送達致す仕事を受け持っていたのでございます。これは妾と致しまして誠に申訳もない浅ましい所業でございまして、このために貴方(あなた)様からお仕置を受けますような事に相成りますならば、少しもお怨み申上げる筋はないのでございますが、「世界の平和のため」という美しい標語に眼を眩(くら)まされておりました妾はついこの頃まで少しもそのような罪に気付きませず、むしろ日本のためと存じまして、非常な善(よ)い事を致しておりますような気持で、暗号電報の盗読を仕事と致しておったのでございます。
 ところが、そのような愚しい仕事を致しつつこの二三年を打ち過しておりますうちに、妾の斯様(かよう)な所業が、人間として最も浅ましい売国の重罪に当りますばかりでなく、J・I・Cの仕事の内容そのものが世界の平和と、正義人道のために許すことの出来ませぬ、最も憎むべき性質のもので、妾の夫と愛児と、日本民族とを同時に亡ぼそうとしているものでございます事が、判然致します時機がまいりましたのでございます。
 それはほかでもございませぬ。
 本年六月の初め頃になりましてJ・I・Cの西部首領と相成っております有力な日本人、K・NO・1(J・I・Cの仲間では首領のW・G氏以外は本名を明かしませずに番号ばかりで通信する規則になっておりますので、止むを得ませぬ時に仮名を使うだけでございます)と申す者が、或る重要な要件のため、外交界でよく申します「暗黒公使(ダーク・ミニスター)」と相成りまして、東洋方面に出張する事に相成りました旨、妾の手許に情報が参りました。それと同時に、その先発として、やはりJ・I・Cの一人となっております自称樫尾初蔵(かしおはつぞう)と申す者が、J・I・Cの東部と西部と双方の首領の護照(ごしょう)を持ちまして、去る六月の末頃から日本に参りまして日本のJ・I・Cに属する日、鮮、支人の身元と消息を詳しく取り調べ初めたのでございます。
 さて、この樫尾と申す者は、如何様(いかよう)な人物かと申しますと、若い折は露西亜人を装いまして彼得堡(ペトログラード)に入り込み、明石(あかし)大佐の配下に属してウラジミル大公の召使に住み込み、軍事探偵の仕事を致しておりました者で、日露戦争後は引き続き日本政府の信任を受けまして米国に入り、各種の秘密結社の内情を探っておりますうちに、前に申上げましたJ・I・C東部首領、W・ゴンクール氏と仲よく相成り、J・I・Cに加入いたしました人物と申すことが、後になって判明致しました。しかし最初のうち樫尾はそのような事を気(け)ぶりにも見せませず、ただJ・I・Cの仕事に就きまして色々と親切な忠告をしてくれましたので、私もこの二三箇月は何となく心強く存じておりました次第でございます。
 そのうちに時日が経過致しまして今月に相成りますと、J・I・Cの西部首領、K一号こと、仮名、中村文吉が五日横浜入港の阿蘇丸にて来着致します旨を電照して参りました。それと同時に私に宛てました、J・I・C首領、W・ゴンクール氏の名前で――中村文吉が日本に来着する以前の二日横浜発イダホー丸にて至急米本国へ帰来すべし。後事は樫尾に委託すべし――との暗号電報が到着致しました。
 私はかような不思議な命令を受けました事は今までに一度もございませんでした。J・I・Cの団員で新たに日本に到着いたしました者は、是非とも一度妾の処に立寄りまして、色々と打ち合わせを致しますのが、ほとんど規則のようになっていたのでございます。でございますからして、況(ま)して西部首領とも申す程の有力者が日本に参りましたならば、誰を差しおいても私が先に面会致しまして、事務の報告を致さねばならぬ筈なのに、これはどうした間違いかと存じまして、判断に苦しみました揚句(あげく)、至急に電話をかけて樫尾を当教会の地下室に呼び寄せて相談致しましたところ、樫尾は暫く考えました後(のち)に、
「この命令に背かれましたならば貴女(あなた)の生命(いのち)が危ないでしょう。しかし……しかし」
 となおも二三度口籠もって躊躇致しましたが、やがて思い切った体(てい)で私の耳に口を寄せまして、あたりに人も居ないのに声をひそめまして、
「中村文吉氏の本名は志村浩太郎氏です。志村君は貴女が当教会(ここ)に居られる事を出発直前に耳にしておられる筈です。……左様(さよう)なら……」
 と云い棄て教会の外へ駈け出し、そのまま自動車に飛び乗って姿を消してしまいました。
 妾は余りの事に驚き呆れまして、暫くは教会の門前に立ちつくし、茫然とあとを見送っておりましたが、それにしてもこの十数年このかた打ち絶えておりました夫の消息を初めて聞き知りました妾の身として、たとい、J・I・Cの厳命でございましょうとも、何しにこのまま立ち去る事が出来ましょう。ましてその命令の意味も全く不明なのでございますから、妾は色々と考えをめぐらせました後(のち)、たといJ・I・Cの制裁を受くるとも構いませぬ覚悟で、そのまま日本に踏み止まり、夫の到着を待つことに決心致しましたが、そう致しておりますうちに去る六日の朝、帝国ホテルに到着、宿泊しておりました夫より、至急、本郷菊坂ホテルにて面会致したい旨を、電話にて申込んで参りましたから、取るものも取あえず駈け付けたのでございます。
 さてその時の夫の申条(もうしじょう)、または私の返答致しました模様などは皆、妾の愚痴がましく相成りますから、ここには略させて頂きます。けれどもその結果、前に申上げました或る事情のために私の不貞を疑っておりました夫は、初めてその非を悟りましたものか、一言も物を申し得ぬように相成りまして、そのまま味気なく別れる事になりましたが、それから二三日の間と申すもの夫は一度も帝国ホテルに姿を見せませず、どこへか姿を晦(くら)ましてしまいました。
 妾はそれと知りましてどう致したらよいものかと、毎日時雨(しぐれ)勝ちの空を眺めて思案に暮れておりました。ほとんど食事も進みかねておりましたのでございますが、その折柄、去る九日の午前出勤中に外務省の機密局長M男爵閣下宛、配達致して参りました封書中に、夫の筆跡に相違ない無記名のもの一通を見付けましたので、思わず胸を轟(とどろ)かせました。そうしてその手紙をこっそりと自分の室に持ち帰りまして秘密に開封して読んでみますと、これこそ妾の夫志村がM男爵閣下に、J・I・Cの暗号基帳と、団員の名簿を手交致しますために、大森の山王茶寮で当夜の九時にお眼にかかりたい云々と認めました約束の文書でございまして見るも胸潰るる恐ろしい内容でございました。
 けれども妾はやっとの思いで心を落着けまして、その封書を元通りにして男爵閣下の机に返しました。そうしてその夜、大森の山王茶寮で、M男爵と面会して帰りかけました夫を途中で待ち受けまして、無理に当教会の地下室に伴いまして、J・I・Cに対する裏切りの行いを、きびしく責めたのでございますが、僅か二三日の間に見違える程やつれ果てました夫は、淋しく笑いますばかりで、私の申します事を少しも相手に致しませぬ。その上に兼ねてより酒類売買で蓄えておりました十五万円の財産全部を私に与えまして、永久に別れようではないかと申し出でました。
 妾はこの言葉を聞きますと同時に、夫が何かの原因で自殺の決心を致しておりますのを悟りましたので、あまりの悲しさに身も世もない気持になりまして、それならば一緒に外国に逃れてはどうかとすすめました。けれども夫は何か考えがありましたかして、何としても妾の申条を承知致しませず、ただ、自分一人だけ外国に逃げる事だけは辛うじて承知致しまして、その費用を除きましたあと全部を私に与えまして、妾の思い通りに使ってくれよと申しましたから、とりあえずその通りに致しました。
 けれども妾は、なおも夫が自殺の決心を持っているらしく思われてなりませぬので、恐ろしさと悲しさの遣る瀬ないままに、毎日のように夫のあとをつけまわしまして、度々面会致しては言葉を尽して諫(いさ)め訓(さと)しましたのでございますが、夫は只がぶがぶと酒を飲みますばかりで相手になりませず、妾の恐れと悲しみが弥増(つの)るばかりでございました折柄、昨十二日の午前中、小包郵便で前記の暗号入りの聖書が到着致しました。のみならず、間もなくその聖書を送りました本人の樫尾自身が妾の出勤先の外務省に飛んで参りまして、団員の一人である朝鮮人留学生、朴友石(ぼくゆうせき)の密告によりまして、私に対する死刑の宣告が、只今米国本部より樫尾の手許まで到着致した旨を告げ知らせました。そうして尚その上に――鮮人朴友石は一種のコカイン中毒から来た殺人淫楽者で、色々な巧妙な手段を以て不思議の殺人を行い、今日迄度々警察を悩まして来た白徒(しれもの)で、殊に異性の私を殺し得る機会を得ようと兼ねてから付け狙っていた恐るべき変態恋愛の半狂人である。なれども樫尾自身は日本政府の御命令で、あくまでも、J・I・Cに踏み止まるべき重大なる任務を持っているために、朴の行動に反対する事が出来ない。却(かえ)ってその計画に賛成して、色々と指導を与えておいた位だから、私の運命は風前の燈(ともしび)――と申すような恐ろしい事実を申し聞かせ――後(のち)とも云わず即刻、海外に逃れるよう、準備を整えよ――と言葉をつくして諫めました。
 けれどもその時に妾はなおも夫の事を気づかいまして、躊躇致しましたところ、樫尾は遂に、もどかしさに堪えかねましたものか――左程に疑わるるならば、かく申す樫尾の身分と、今日までに探り得ましたJ・I・Cの真相を打ち明けましょう。序(ついで)に貴方の御子息の行方もお話しまして、妾が何故に斯様に一生懸命になって貴女(あなた)の御一身の事を心配致しますかという、その理由を説明しましょう――と申しまして、妾に病気欠勤をさせて自身に運転して来ました自動車に乗せ、多摩川附近までドライヴを致しました。
 この時に樫尾から承わりましたJ・I・Cの真相が、どのような恐ろしい、残忍非道なものでございましたかは貴方様のお察しに任せます。いずれに致しましても、前に申上げました表面的な主義主張とは全くうらはら[#「うらはら」に傍点]の実情でございまして、詳しくお話し申上げたいのは山々でございますが、あまり長く相成りますから併せて略させて頂きます。
 妾はその話の一々に就きまして思い当る事ばかりでございましたのみならず、永年尋ね求めておりました伜(せがれ)の嬢次が、紐育(ニューヨーク)の郵便局に奉職致しておりますことが最近J・I・Cに判明致しまして、人知れず人質同様の監視を受けております状態で、妾の素振によりましては、その生命を代償として、妾を威嚇致します準備が整っております旨を承わりました妾は、余りの恐ろしさに魂も身に添わず、病気のように相成りましてこの教会に引返(ひっかえ)し、樫尾に扶(たす)けられて逃亡の準備を致しました後(のち)、暫くは寝台の上に打ちたおれておりました程でございました。
 とは申せ、そう致しますうちに尚よく考えまわしてみますと、妾はまだJ・I・Cの内情を耳に致しましたばかりで、その恐ろしい仕事の実際を眼に見た訳ではございませぬ。嬢次の事とても同様でございまして、妾が親しく会ってみました上でなければ、真偽の程が確かとは申されないのでございます。ことに樫尾という人間がどうしてこのように妾の世話ばかり焼きましてJ・I・Cから裏切らせようと致しますのか、その理由が、まだハッキリと解った訳でもございませぬのに、みすみす眼の前の夫を見殺しに致して、妾一人何しに海外へ立ち去る事が出来ましょう。ですからその夜(よ)に入(い)りまして、介抱しておりました樫尾が立ち去るのを待ちかねまして、くるめく心を取り直しつつ、カフェー・ユートピアに夫を呼び出し、樫尾の物語を打ち明けまして、J・I・Cの真相を妾に洩らさなかった夫の無情を怨みました。
 ところが夫は別に驚く様子もなくこう答えました。
「お前にJ・I・Cの秘密を知らせなかったのは別に深い理由があったからでない。お前を裏切らせると嬢次の生命が危なくなるから、裏切るなら俺一人で裏切りたいと思っていたからなのだ。いずれにしてもお前の事は狭山という人によく頼んでおくから、安心して日本に居れ。J・I・Cが総がかりで来ても、又は樫尾の智恵を百倍にしても、あの人の一睨みには敵(かな)わない。お前は狭山さんを知っているだろう」
 と申しましたから、お顔だけは新聞紙上でよく存じている旨を答えましたところ、
「それならばいよいよ好都合だ。俺の事は決して心配しなくともよい。現に一昨日(おととい)の晩も、朝鮮人らしい奴が一人尾行(つけ)て来たから、有楽町から高架線の横へ引っぱり込んで、汽車が大きな音を立てて来るのを待って振り返りざま、咽喉元を狙って一発放したら、ガードの下の空地に走り込んでぶち倒れた。しかし其奴(そいつ)は死ななかったらしく、今でも図々しく俺を追いまわしているが、そんな奴を恐れる俺じゃない。唯気にかかるのは非国民の名だ。だから、お前は伜の事は思い切っても、俺と一緒に非国民の汚名を受けないようにせよ。今夜でも宜しいから狭山さんの処へ行って事情を打明けて保護方をお願いせよ。狭山さんは剣橋(ケンブリッジ)大学の応用化学を出た人で、J・I・Cの団長W・ゴンクールの先輩に当る人だ。卒業生の名簿を御覧になればわかる。……この事が狭山さんに洩れた事がわかったらJ・I・Cで大警戒をするからそのつもりで極(ごく)秘密にして行け」
 と申しまして強いて妾を去らせました。
 しかし妾は尚も夫の身の上の程を心許なく存じましたので、昨夜(ゆうべ)遅く、共々に狭山様の処にお伺い致します決心で、人知れずステーション・ホテルに訊ねて参りまして、ボーイに二十円を与えて案内させ、夫の室(へや)に参り、内側から鍵をかけまして、気永く自殺を諫めにかかりましたけれども、夫はやはり相手になりませず、泥靴のまま寝台の上に横たわりまして、只管(ひたすら)に眠るばかりでございました。
 それで妾は、今朝(けさ)早く、今一度参ります心組で、手袋をはめながら窓を閉(とざ)し、電燈を消して廊下に出ましたところ、最前案内を頼みましたボーイが立ち聴き致しておりましたらしく、逃げて行くうしろ姿を認めましたから急に呼び止めまして、又も二十円を与えて口止めを致しましたが、そのまま今一度扉(ドア)の前に引返(ひっかえ)し、室内の様子に耳を澄ましますと、夫はよく睡っておりますらしく、鼾(いびき)の声ばかり聞えましたから、すこし安心致しましてホテルを出ようと致しました時、お礼心でございましょう最前のボーイが送って出て参りましたから、忘れて手に持っておりました合鍵を渡しまして、今一度念を入れて口止めを致しました。そうして表に出ましてから十四号室の窓を仰ぎましたところ、夫は実は眠りを装うておりましたものらしく、妾が閉しておきました窓を押し上げ、ズボンにワイシャツ一つの姿で妾を見送っておりましたが、妾が振り返ると殆んど同時に身を退(ひ)いて闇の中に隠れてしまいました。
 今から思いますとこの時こそ夫の姿の今生(こんじょう)の見納めでございました。夫はJ・I・Cの団員と致しましても、又は日本民族の一人と致しましても、いずれにしても死なねばならぬ運命を思い知りまして、妾が立ち去るのを待ちかねて自殺致したものと存じます。
 妾はこの時、何となく後髪を引かれまして、胸が一ぱいになりました。けれどもいずれ明朝の事と存じまして、思い切って帰宅致しました。そうして今朝(こんちょう)七時半頃、右手のリウマチスが再発致しました旨の、偽りの欠勤届を認(したた)めておりました折柄、タキシー運転手姿の樫尾が、転がるように駈け込んで参りまして、夫志村の変死を告げ知らせました。そうして息せきあえぬ早口で次のような忠告を致しました。
「この事件には必ず狭山様の御出勤を見るであろう。そうとなれば貴方(あなた)がた御夫婦の今日までの売国的行動も水晶のように見透かされてしまうであろう。外務省の欠勤届なぞいう呑気(のんき)なものを書いている隙(すき)はないのだ。一刻も早く樫尾が指図する通りにして外国に逃れて時節を待つ考えを定(き)められよ。元来、J・I・Cの首領W・ゴンクール氏はずっと前から貴女(あなた)に懸想(けそう)していて、無理にも志村氏を殺そうとしているのだ。そうして人質に取った嬢次殿を枷(かせ)にして是非とも貴女を靡(なび)かせようと謀っている者である。だから貴女の生命(いのち)がなくなった暁(あかつき)には、必要もない人質の嬢次殿の運命が、どのような事になって行くかは、考える迄もないであろう。これまで打ち明けた上は何もかもお解りであろう。樫尾の言葉が真実である事を明かに覚られたであろう。とにも角にも一刻も早くこの教会から姿を消す事が肝要である。その方法というのは取り敢えず姿を改めて満洲王張作霖(ちょうさくりん)の第七夫人と偽り、今夜一夜だけ帝国ホテルの客となって新聞記者を驚かす。それから明朝堂々と東京駅を出発し、下関から大連航路のメイルボートに乗り込み、大連から上海(シャンハイ)に逃れる方法がある。狭山氏の眼を逃るるにはこの方法より以外にない。早く早く」
 と妾を促しまして自動車に同乗し、銀座から神田に参り、衣類その他の装身具等を買い整え、再び銀座の美容院に参るべく、帝国ホテルの前にさしかかりましたところ、あの聖書を手にして調べつつ山下町の方から歩いておいでになりました狭山様のお姿を拝見しまして、聞きしにまさる、お手廻しの早さに驚きました妾は、自動車の中で気を喪(うしな)ってしまいました。
 妾はそれから約二十分ばかりして眼を開きますと、最寄(もよ)りの丸の内綜合病院に運び込まれて看護婦の手当を受けている事に気付きましたが、その中に汗まみれになって這入って参りました樫尾は、看護婦に用を云い付けて追い出しました隙に、妾の耳に口を寄せてこのような事を囁きました。
「あの聖書が狭山様の手に入ったために何もかもメチャメチャになってしまった。樫尾自身も内地に居られぬようになってしまったが、これはあの聖書を貴女の手から取り返しておかなかった私の失策だから仕方がない。しかし今の間に仲間に命じて逃亡の手当を残らずしておいたから安心なさい」
 と申しましてその計画を申聞かせましたから、今は一刻も猶予ならず、気絶後一時間ばかりして当教会に帰りまして、自動車を止めおいて支度を整えました。
 この自動車に妾が乗っております事は、他人ならば容易に判りますまいと存じますけれども、狭山様に限っては特別のお方と存じましたから、万一の用心に止めておいたのでございます。そうしてこの自動車が数寄屋橋に帰って、又ここまで参る最少の時間を八分間と定め、その僅かな時間を生命と致して逃亡させて頂く考えでございます。
 もはや右に申上げました事実で、妾が忌まわしき夫殺しの罪を犯したお疑いはお晴らし下すった事と存じます。
 申開き致したさの余り、あられもない失礼な事のみ長々と申上げまして、お手間を取らせました事は、何卒、幾重にもお許し下さいませ。
 この上は貴方様の御健康の程、幾久しくお祈り申上げるばかりでございます。かしこ

   午後一時五十二分
   志村のぶ子 拝[#地付き、地より5字アキ]

 読み終ってしまった志免と私は、殆んど同時に時計を出してみた。両方とも二時十六分である。
「あの運転手を逃がすな」
 と二人は矢張り同時に叫んだ。声に応じて三人の刑事は一斉に表に飛び出したが間に合わなかった。
 二人が叫んだその一刹那にスターターを踏んだ三五八八の幌自動車は、忽ち猛然たる音を立てて四谷見附の方向に消え去った。……それとばかりに志免と三人の刑事が、素早く熱海検事の乗って来た箱自動車に飛び込んで追跡したが、あとを見送った私は苦笑しいしい頭を左右に振った。
「駄目駄目。もう少し早く気が付いたら……」
「どうしてあの運転手が怪しい事が、おわかりになりましたか」
 と熱海検事も心持ち微笑を含んで尋ねた。
「初めから怪しい事がわかっていたのです。けれども途中で怪しくなくなったのです。ところが手紙を読んでしまうと同時に、又怪しくなって来たのです」
「……と仰言(おっしゃ)ると……」
 と流石(さすが)の熱海検事も私の言葉に興味を感じたらしく眼を光らした。私はポケットから暗号入りの聖書を引き出して、検事の前に差し出して見せながら説明した。
「何。訳もない事です。私はこの聖書をカフェー・ユートピアで手に入れたのです。樫尾初蔵から志村のぶ子に送った暗号入りのもので、暗号の最後がかしを[#「かしを」に傍線]となっておるものです。ところが今の運転手が、この手紙を持って這入って来た時の態度に五分の隙もないのを見まして、直ぐに、此奴(こいつ)は容易ならぬ奴だ……事によると此奴が樫尾かも知れないぞと気付きました。しかももし樫尾とすれば今から一時間半ばかり前に日比谷の横町で私と衝突しそうになった時に、自動車の中から私に『馬鹿野郎』を浴びせて行った運転手と同一人に相違ないのです。私という事を知り抜いていながら知らない振りをして、私の判断を誤らせるために、一瞬間に思い付いてあんな事を云ったものに違いないのです」
「……成る程……大胆な奴があるものですな……」
 と熱海検事はいよいよ驚いたらしく眼をしばたたいた。
「……あれ程の奴は滅多に居りません。明石閣下のお仕込みだけありますよ。……しかし最前志免警部に呼び止められた時は、流石にはっとしたらしかった態度でしたが、その一刹那のうちに……ナニ。大丈夫だとタカを括(くく)って向き直った態度の立派さには又、敬服しましたよ。樫尾に相違ないと思い込んでいた私でさえ……ハテナ。違うのか知らん……と疑った位でしたからね。志免以下の連中が気付く筈はありません。そのうちに手紙を読んでいる間じゅう気を付けてみますと、表に自動車の動き出す音がちっともしません」
「いかにも……」
「これには全く一ぱい喰いましたね。やはり樫尾じゃなかったのか。只の運転手だったのかと思い思い手紙を読んでしまった訳です」
「成る程……ご尤(もっと)もです」
「ところがです……手紙を読んでしまうと同時に気付いた事は、これだけの長文の手紙をタイプライターで叩き出すには、いくら慣れた手でも二十分はかかる筈です。ところで志免警部が、あの自動車を見付けて、追跡して帰って、自働電話に出ていた私と打合わせを終る迄の時間を十分と見ます。そうして私が日比谷から警視庁に帰って自動車に乗る迄の最少限の十分間を加えると丁度二十分となりますが、一方に女の乗った三五八八の自動車が三宅坂を登ってこの教会に到着する迄の時間は、私共が同じ自動車で同じ距離を走った時間と差引いて差引零(ゼロ)になるとしても、女の云う逃走用の時間の八分間を前の二十分の余裕から差し引けば、最大限女の保有し得る時間は十二分間となります。実はそれだけの時間は残らないものと見るのが常識的ですが、たとい、それだけの余裕があったと仮定しても、たった十二分間で、この手紙を打ち終ることは不可能と見なければなりません」
「そうですなあ……一々御尤もです」
「そんならどこでこれだけの長文をたたいたかと申しますと、多分女が気絶して介抱を受けた医者の処か何かで、樫尾が女の逃走を助ける一手段としてこの手紙を作製したものではないかと考えられるのです。つまり吾々が彼等の逃走を発見した瞬間の判断を誤らせるためにこんな小細工をしたので、彼(か)の樫尾の奴が、間際まで自分の名前を看破されない事を確信して巧(たく)らんだものと考えられるのです。……すなわちこの手紙の通りに、十二分間を利用して逃げたとなると、女はまだ東京市内に居るとしか思われませんが、実はもうとっくの昔に東京を出ているに違いありません。樫尾運転手は二十分間以上の時間を使って女を東京市外のどこかへ送り付けて、平気で数寄屋橋に帰って、張り込んでいた刑事に『大勢の人が居た』と嘘をついて、支度に手間取らせてここへ連れて来たのです。そうして、なおも時間の余裕を女に与えるために、捜索が一通り済んだ頃を見計らって、この手紙を渡して、吾々が読み終るのを見済まして逃走したのです。否……吾々に落着いて手紙を読み終らせるために逃走を差し控えていたものとしか考えられないのです。追跡の出来ないように一台をひょろひょろの箱自動車にしたのも彼奴(あいつ)の仕事に違いありません。全く吾々を馬鹿にしているのです。大胆極まる奴です。素晴らしい手腕です」
 熱海検事はうつむいたまま、熱心に私の説明を傾聴していたが、又もにこにこしながら顔を上げた。
「貴方は何故直ぐに電話で手配をなさらないのですか」
 私は帽子を脱いで熱海氏の手を握った。
「私は貴方の説に降参しました。岩形圭吾、否、志村浩太郎は自殺したのです。あの金は志村のぶ子が、その夫から正当に貰ったものです。この手紙の内容は樫尾が日本政府の機密機関に属する人間である以上全部真実を告白して私共の許しを請うているものと見るべきで、彼女は毒薬とも全然無関係な筈です。私はステーション・ホテルの廊下にあった女の足跡を、前後反対の順序に見ていたのです。室(へや)を出てからもう一度引返(ひっかえ)して様子を窺った足跡を、室(へや)に這入る前に窺ったものと見たために、女の殺意を認めたのです。面目次第もありません」
 若い熱海検事は子供のように顔を赤くした。
「そう云われると僕も面目ないです。ただ志村氏が窓を開いたままにして、横向きに寝て、窓の外を大きな眼で睨んでいる状態が何となく尋常でなかったので、もう一度考慮し直してみたいと思っただけです。……しかしこの話を外務省が聞いたら吃驚(びっくり)しましょうね」
 私は苦笑しながら熱海氏の前に手紙を差し出した。
「志村のぶ子と、樫尾初蔵の処分方法は、貴官(あなた)から外務省へ御交渉の上、御決定下さい。二三時間の中なら、捕縛の手配が出来ると思います」
「承知しました……しかし……」
 と熱海検事は又も顔を染めて微笑した。私が差出した手紙と聖書をちらりと見たが、別に受取ろうともしないまま、心持ち口籠(くちご)もって云った。
「……放ったらかしといても……よくはないでしょうか」
 この大胆な放言には流石(さすが)の私もどきんとさせられた。そうして思わず熱海検事の手を握らせられたのであった。
「……実に……御同感です。志村のぶ子と樫尾初蔵の二人はやまと民族の意識を十二分に持っている者です。彼等二人は今後吾々のために、今まで以上の働きをするに違いありません。私は彼等二人を捕(とら)えたくないのです。……その代り……今後、J・I・Cの団員は二重橋橋下に一歩も立ち入らせますまい」
 熱海氏は返事をしなかった。恭(うやうや)しく帽子を脱いで別れを告げると、依然として微笑しいしい古木書記を従えて入口の方へ歩いて行った。そうして何か考え考え扉(ドア)の前まで来ると思い出したように振り返った。
「狭山さん。唯一つ遺憾な事がありますね」
「はあ……何ですか」
「お互にその美人の顔を一度も見なかったじゃないですか。ハハハ……」
 私は唖然(あぜん)となってその後姿を見送った。

 新聞に出ているのは、これだけの事実を切り縮めたものでかなり杜撰(ずさん)なところが多いばかりでなく、事件の核心にはちっとも触れていなかった。すなわち引き続いた翌日の朝刊に岩形圭吾氏の屍体解剖の結果としては、毒殺に使用した薬物の正体が依然として不明なので目下研究中であること……注射は筋肉注射であったこと……左腕の刺青(いれずみ)はNK(のぶ子、浩太郎)の二字の組み合わせであったことが辛うじて判明したこと……などが報道してあるだけである。又警視庁の活躍としては、銀行の一件だのカフェー・ユートピアの出来事などは無論書いてある筈がない。ただ私がステーション・ホテルを出てから数時間の間、行方を晦(くら)ましていた事、刑事が八方に飛んで、借着屋を調べた事なぞを書いておしまいに……、
「午後二時に至り刑事課は有力なる証跡を挙げ得たるものの如く俄(にわ)かに色めき立ち、熱海検事、狭山課長等合計七名の一行は二台の自動車に分乗し、麹町方面に向いたるが、該自動車が犯人の潜伏せる麹町区土手三番町旧浸礼(しんれい)教会に到着したる時は、犯人は既に一台の高速力の自動車にて逃走せし跡にて、一同は手を空しくして帰来せり。その後の経過はこの稿締切迄は不明なり。然(しか)れども此(かく)の如き巧妙なる犯罪事件を犯行後僅々十数時間を出でざる間に解決し、犯人の住居までも突止めたるは偏(ひとえ)に吾が狭山鬼課長の霊腕に依(よ)るものと云うべく、従って犯人の就縛(しゅうばく)も遠きに非ざるべしと信ぜらる。因(ちな)みにステーション・ホテルのボーイ山本は、余りの事に驚きて一時失神し、覚醒後、発熱甚だしきを以て面会を謝絶しおるも、その他のボーイ仲間との話と、タクシー会社の運転手仲間の噂と、別に本社の探知し得たるところを綜合するに、犯人は志村のぶ子と称する絶世の美人なる事確実にして、該美人を乗せ行きたる自動車T三五八八より足が付きたるものらしく、該自動車とその運転手、樫尾初蔵、及び、狭山課長のみは今以て帰来せず。土手三番町の犯人の潜伏所にも居らず。そして午後三時前後に帰来せる今一台の箱自動車一九三六の運転手芳木は何事も包みて語らざるより察すれば多分鬼課長は再び何等かの有力なる端緒を得て、その方面に向い活動を開始せるに相違なし。吾人(ごじん)はその活動の結果を、明日の本紙上に報道し得べき事を信じて疑わざるなり」
 と結んで、おまけにどこで撮(と)ったかわからない私の横顔の写真に、鬼課長狭山氏と標題(みだし)を付けて割込ましてある。
 それを見ると私は思わず顔を撫でまわさない訳に行かなかった。既に白状した通り、実を云うと私はこの時に有力な端緒を掴んだ訳でも何でもない。あべこべに最も有力な端緒を取逃がしたり放棄したりしていたので、青山一丁目附近でT三五八八の自動車に撒かれて、失望して帰って来た志免刑事の一行と、四谷見附から電車に乗りかけていた熱海検事の一行を同じ箱自動車で帰して、近くのおでん屋でぺこぺこの腹を満たして後(のち)、警視庁に反抗した麹町署長に面会して、朝からの癇癪玉を一ぺんに破裂さしていたもので、記者連中が浸礼教会に押しかけて来たのは、その留守であったろう。
 新聞記事の裏面の説明はそれだけである。

 私はその当時の事を思い出して、聊(いささ)かセンチメンタルな、軽い溜息をしつつ、紙面から眼を離した。……と同時に少年も私が読み終るのを待ちかねていたらしく、うつむいていた顔を上げたが、その眼は最前(さっき)の通り黒水晶のように静かに澄み切っていた。けれども、その心の底に燃え上る云い知れぬ激情を、謹み深く押え付けていることが、その真白く血の気を失った頬の色にあらわれていた。私はその頬を見ながら念のために訊ねた。
「それじゃこの志村浩太郎氏御夫婦が、君の御両親なんですね」
「はい」
 少年はちょっと唇を震わしたが、それでも静かに眼を伏せた。
「しかし……」
 と私はまだ不審が晴れやらぬまま、二三度新聞紙を引っくり返しながら問うた。
「……この新聞記事は随分いい加減なものなのです。この事件に関係した事で……まだ君が知らない国家の機密に属する重大な裏面の出来事なぞが全部ぬきになっているのです。……のみならず二年も前の出来事でバード・ストーン曲馬団の事なぞはちっとも書いてないのに、君はどうして君の両親がこの曲馬団に責め殺された事が判るのですか」
「はい」
 と静かに答えた少年は、又も黒水晶のような眼を据えて私の顔を見詰めていた。そうして激しよう激しようとする心を落着けるべく努力しているように見えたが、やがてその長い睫(まつげ)を伏せて、ほっと一つ溜息をすると、如何にも淋しそうに声を落した。
「……僕は……父の遺言書を……見付け出したのです」
 私はポケットから取り出しかけた敷島の一本をぽとりと床の上に取り落した。
「えっ……な……何を……」
「父の遺言書(かきおき)です……その新聞記事を便りにして探し出したのです」
「……この新聞記事から……」
「そうです。それを見て初めて、岩形圭吾と名乗って自殺した志村浩太郎という人が、僕の父親に違いない事がわかったのです。それまでは、自分が最初捨子だったという事より外には何も存じませんでしたし、どこの人種だかも解りませんでしたので、両親に会いたい事は会いたかったのですが、探す当てが全くなかったのです。……ですけども解らない事を考えるのは、小ちゃい時から好きでしたので、暇さえあれば亜米利加(アメリカ)の新聞を読んで、色んな犯罪事件を研究するのを楽しみにしていたのですが、そのうちに最前(さっき)お話ししましたような事から、思いがけなく日本の新聞が手に入りまして、その記事が眼に付きますと、父親の事とは夢にも知りませぬまま、色々と研究しておりますうちに、非常に面白い事件に見えまして、そのために日本に来て見たくて来て見たくてたまらなくなりました。その新聞記事と実際とを照し合わせて、僕の想像が当っているかどうか試してみたくて仕様がなくなったのです。……ところがその中に東部亜米利加から欧羅巴(ヨーロッパ)の方を興行しておりましたバード・ストーン曲馬団が、戦争のために欧羅巴へ行けなくなって、東洋方面へ廻る事になった。そのために高給(たか)い給料で新しい演技者を雇い入れているが、一緒に行かないかと云って、同じ下宿に居たコック上りの露西亜(ロシア)人が誘いましたので、すぐに加入の約束をしてしまったのです。そうして日本へ来るとすぐに、僕の想像を実験してみたらすっかり当っている事がわかったばかりでなく、永い間気になっていた自分の両親の名前を思いがけなく探し出す事が出来たのです」
 少年は感慨深く言葉を切った。しかし私は机に両肘を張ったまま、云うべき言葉を発見し得なかった。二三度唾液(つば)を呑み込んでから辛うじて、
「……それは……どうして……」
 と呟いたきりであった。
 しかし少年はやはり眼を伏せたまま、淋しそうに言葉を続けた。
「……僕は日本に着いて散歩を許されるとすぐに、あのステーション・ホテルへ行って、十四号室を泊らないなりに一週間の約束で借りきってしまったのです。そうしてホテルのボーイや支配人に二年前の出来事の模様を出来るだけ詳しく話してもらいまして、あの室(へや)の寝台から室(へや)の飾り付までちっとも変っていない事を確かめてから、あの寝台の上に父が死んだ時の通りに寝てみたのです」
「どうして……」
 と私は又おなじ言葉をくり返した。
「……どうって訳はないんですけど……あの時の死状(しにかた)が、新聞に書いてある通りだと、何だか変テコでしようがなかったもんですから、何かしら父の死状(しにかた)には秘密があるのじゃないかしらんと思ってそうしてみたんです。窓を開け放しにしておいて、寝台の上に南を枕に西向きに寝て、眼を一ぱいに開いて窓の外を見たのです。……そうしたら……」
「そうしたら……」
「そうしたら、どうやら訳がわかって来たような気がしたんです」
「……どんな訳……」
「あの窓から普通(あたりまえ)の姿勢で眺めますと、宮城と海上ビルデングと、今、バード・ストーン一座が興行をしている草ッ原が見えます」
「……見える……」
「……けれども父が死んだ時の通りにして見ますと、そんなものが窓の下に隠れて、一つも見えなくなります。ただ青い空と、それから駅の前の広ッ場(ぱ)の真中にたった一本突立っている高い高い木の梢がほんのちょっぴり見えるだけなんです。何の樹かわかりませんけども……」
「……………」
「その時に僕は思い出したんです。この新聞記事によりますと、父は自分で襯衣(シャツ)を切り破って、毒薬を注射して、あとから外套を着て靴を穿(は)いて寝たに違いないのですが、その両方の掌(てのひら)と、外套の袖口と、靴と膝の処が泥だらけになっていたと書いてあるでしょう」
「……それは……酔っ払って……転んだものと……」
「……ですけども……僕はそうじゃないかも知れないと思ったんです。……ですからその晩になって夜が更けてから、こっそりと帝国ホテルを脱け出して、あの木の下に来てみたら、大きな四角い石ころが一個(ひとつ)、拡がった根っ子の間に転がっておりました。僕がやっと抱え除(の)けた位の大きさですが、まだあそこに転がっております。その石の下を覗いてみたらすぐに見つかりました。土の中から、こんなものが一寸(すん)ほど頭を出しておりました。大方雨に洗い出されたのだろうと思いますが……」
 私はもう口を利く事が出来なかった。黙って椅子から立ち上って、少年が差し出した長さ三寸程の鉛の管(くだ)を受取った。それは両端を打ち潰して封じてある一方をこじ明けたもので、中からは白い紙の端が覗いている。引き出して見ると、それは二枚の名刺で、その中の一枚は、

   弁護士 藤波堅策[#中文字]
    東京市麹町区内幸町一丁目二番地[#小文字]
            電話 二二七三[#小文字]

 という一流弁護士のもので、もう一枚はペン字で書き込みをした故志村浩太郎氏の名刺であった。

   藤波堅策兄[#中文字]
      志村浩太郎印[#「印」は○付き文字][#中文字]
    この名刺持参人に御保管の書類を
    お渡し被下度候(くだされたくそうろう)

「この名刺を探し出すまでは何でもなかったんです。……ですけども誰にも気付かれないようにこの名刺を持って藤波さんの処へ行くのがとても大変でした。それは日本に着いてから、私のそぶりが何だか落ち着かないのを怪しまれたのでしょう。団長と、その部下の二三人がそれとなく私を警戒し初めましたので困ってしまいましたが、そのうちにやっと昨日(きのう)の夕方、隙(すき)を見付けて藤波さんの処へ行ってこの名刺をお眼にかけますと、藤波さんは私を一目見るなりびっくりなすって、これは驚いた。ノブ子さんの若い時にそっくりだ。どうして来たと云われましたので、私もびっくりしてしまいました。それから生れて初めて日本のお座敷に坐りまして御親切な奥様や大勢のお嬢様たちと一緒にお寿司を御馳走になりながら、色々と藤波さんのお話を聞きましたが、私の両親は亜米利加(アメリカ)に居るうちに、ローサンゼルスで、雑貨店を開きながら法律を勉強しておられた藤波さんと非常に御懇意に願っていたのだそうです。……ですから父は藤波さんに一万円のお金を預けまして、亜米利加の友人たちに私の行方を探してくれるように頼んでおりましたので、まだほかに二万円のお金を預けたままにしている。それは父の預けた書類の中(うち)に書いてある人に渡してくれと固く約束してあったのですが、それから後(のち)、志村君からはばったり便りがなくなったし、預かった書類を取りに来る人もないので変に思って、鎌倉の材木座の住所を探してみたら、そんな人間は最初から居なかった事が判明(わか)ったので、困っている……との事でした。そのお話を聞きますと、藤波さんは父が死んだ事や母の行方なぞはちっとも御存じない様子でしたので、私から詳しくお話しましたら、奥様やお嬢様たちは皆泣いて同情して下さいました。それから藤波さんは書類を見るのならば家(うち)で見てもいいぞと云われましたが、私はちょっと考えまして、いずれもう一度伺いたいと思いますからと云って、書類だけ頂いて帰って来ました」
 そう云ううちに少年は、傍(かたわら)の椅子の上に置いた雨外套の内ポケットの釦(ボタン)を外して、大きな茶色の封筒を取り出して、私の前に差出した。
 私はいつの間にか棒立ちになっていた。依然として無言のまま、感心も、驚きも、又は面目なさも通り越した厳粛な気持になって、その封筒を受取る器械みたように受取って、検(あらた)める器械みたように検めた。中味の書類はフールスカップの半帳を綴じたもので、ノート風の横書の文字がびっしりと詰まっているが、二年の時日が経過しているので、インキの色がいくらか変っている。それを拡げて見ると中から志村浩太郎氏の写真入りの古ぼけた旅行免状が一通出て来た。
「僕は……それを見てから、昨夜(ゆうべ)じゅう夜通し眠られなかったんです。そうして今朝(けさ)すこしばかり眠って、眼が醒めるとすぐに曲馬団を飛び出して来たんです。……もう……我慢……出来なくなっちゃって……」
 少年の声は急に曇った。ハンカチで顔を蔽うと同時に肩をすぼめて戦(おのの)かしながら、机の上に突伏した。
 私は廻転椅子の中にどっかりと落ち込んだ。そうして忍び泣く少年の姿を見ないように横向きになったまま、わななく指で第一頁を開いた。

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