舞台という四角い、限られた枠の中に
嵌め込まれるべき所作的表現である以上、その所作、扮装共に現実と同じものでは調和しないのが当然である。皿の絵はあくまで皿の絵式の非現実なものでなければならぬ。丸天井の絵はどこまでも丸天井式の夢幻的な構図着想でなければならぬ。その他、壁布の絵、衣裳の模様、人体の
黥、その他何でも、芸術
作品というものは、その盛り込まれる相手の形状、用途、環境、対象等の各条件によって、それらしいノンセンス味を加味して行かれねばならぬ。そこに現実としての虚偽があると同時に芸術としての真実が存在する。この意味で現実の断片を、そのまま舞台にはめ込むのは芸術上の大錯誤である。
舞台という特別な世界に嵌め込まれて、鑑賞さるべき所作芸術は、舞台という四角い箱に百パーセントまで調和する扮装と所作でなければならぬ。このために芝居に於て、俳優は、顔の化粧を強調し、動作を極度に突込み、表情を思い切り誇張する。舞台を区切る強い直線の力、フットライトの威力、音楽の波動、又は筋や言葉の緊張度等に圧倒されまい。これを支配して、これに調和して行こうとする。そうすると、その所作は次第に非現実なものになり、その扮装は自から舞台向きの特殊なものとなって来る。
作者も同じ苦心をする。舞台の上で進行する事件を現実通りにゴチャゴチャさせたり、間延びにしたりする事は出来ない。その場面場面の印象は、出来るだけ重立った、上手な役者の所作、
科白等によって強調させるようにしなければならぬ。その脚色と名付くる非現実な統制によって、初めて舞台上の出来事が、観客の頭に百パーセントの印象をあたえる事になる。
けれども一方に、それが芝居である以上、全然現実から脱却する事は出来ない。ストーリーの面白味、背景、扮装の迫真、史実との一致なぞいう非芸術な要素を喜ぶ低級な観客や、低級な通人、批評家の勢力はいつの世にも絶えない。従て芝居は常住不断に舞台表現と、現実的な表現との中間に
狭迷って行かねばならぬ。写実と非写実のチャンポンをやって行かねばならぬ。芝居芸術の悲哀はそこにある。
この煩悶を一掃するものは、舞台仮面劇、もしくは舞台仮面舞踏である。そうして日本の能楽はこの両者を打って一丸として渾然徹底したものでなければならぬ。舞台と仮面、仮面と打音楽器は、切っても切れぬ芸術的因縁を以て、一如に結び付いているものである。
吾人は
希臘の仮面舞踊劇を今一度、モットモット深くかえりみる必要がある……。