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三面一体の生活へ(さんめんいったいのせいかつへ)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-11-22 10:15:22  点击:  切换到繁體中文

 私たちは個人として、国民として、世界人としてという三つの面を持ちながら、それが一体であるという生活を意識的に実現したい。誰も無意識的には、また偶然的にはこの三面一体の生活の中に出つ入りつしているのですが、それを明らかに意識すると共に、出来るだけ完全にその三面が一体である生活を築いて行きたいと思うのです。
 どうしてこういうことを思うかというと、私たちにはあくまでも幸福な生活を建てようとする要求があります。この要求は強力な一つの本能である上に、今一つの強力な本能である理性がこれを支持し助長しようとします。全く私たちの人生の内部から発した所のこの要求ほど確かな真実はありません。私はこれが絶対に合理的であることを信じます。
 あくまでも幸福な生活を建てたいとするのは、従来の生活が十分に幸福なものでないということが不満を感じさせるからで、そうしてその理由は個人、国民、世界人という三つの面が矛盾し、衝突し、破裂しているからだということを今は私たち婦人も知る時機が来ました。即ち個人生活に利のあることは国民生活に害があり、国民生活に利のあることは世界生活に害があるという矛盾した状態に置かれているからだと思います。例えば戦争という人生の事実がほしいままに個人を殺傷して個人生活の安全を害すると共に世界の平和をも乱すことは何人なんぴとにも明白なることであるのですが、世界の文化の進歩したといわれる今日にかえって現在のような狂暴な大戦争が数年にわたって継続されているということは、今日もなお国民生活を特に偏重して、国民の自治的代表機関である国家が国民生活としての利害の前に他の二つの生活を犠牲にして顧みないという旧式な思想に原因していると思います。
 私たちの本能はどの生活をも享楽することを要求します。三つの生活のどの一つをも欠こうとは思いません。私たちは現に一日の中にも個人本位の生活をして他の二つの生活を藐視びょうししている幾刹那もしくは幾時間があります。食事も、睡眠も、読書も、労働も立派に個人本位の生活内容であって、私たちはそれらの場合に必ずしも国民としての生活や世界人としての生活を意識してはおりません。また私たちが租税を納めたり、女子に政治上の投票権を与えられることを望んだりする場合には国民本位の生活をしている時であって、その時にあるいは個人生活の意識を背景としている場合はあるにしても、必ずしも世界人としての生活を意識してはおりません。また私たちが学問芸術を研究し鑑賞する場合には人種と国境と国民的歴史とを超越した世界人類本位の生活の中に生きているのであって、その当面の幾刹那もしくは幾時間には、個人生活の利害や国民生活の利害などを眼中に置いてはおりません。これは誰にも明瞭な共通の実感です。こういう場合には三つの生活が自然に融和流動していて、必要に応じてあるいは個人本位の面を生活の中心とし、あるいは国民本位の面を、あるいは世界本位の面を生活の中心として濃くいろどっているだけのことで、一つが他の二つを藐視したり、意識していなかったり、超越していたりするように見えるのは、決して三つの生活が分裂しているのでなくて、かえってそう見えるまでに三つの生活の差が自然に塗り消され融かされて一体となっているのであると思います。
 右のような場合には、個人生活という中に他の二つの生活が自然に包容され、国民生活という中に個人生活も世界生活も摂取され、世界生活という中に同じく他の二つの生活が内含されていて、何の扞格かんかく凝滞ぎょうたいも発見されず、極めて平和であるのです。私は誰にも明瞭なこの共通の実感と同じ状態の中に、如何なる場合でも三つの生活を融合させた一体のものとして経験したく思います。そうして、この要求が意識的なものであるだけ、その融合をも意識的に企画し努力せねばなりません。
 例えば戦争というような場合は、国民と国民とが――その代表である国家と国家とが――戦争するので、それが個人及び世界人類の幸福となる結果は既往にも甚だまれにしかなかったのです。殊に今日は腕力の延長である戦争、野蛮時代の遺習である戦争に由って国民生活の利益を計る事の不法に何人なんぴとも目の覚めない時代ではありません。そして戦争が最早国民生活の利益になるのでないこともこの度の大戦争で明白になりました。個人生活をしいたげ、世界生活の平和を攪乱かくらんして置いて、ひとり国民生活が幸福に成長し得るものでないことも明白になりました。この三つの生活が協同し、連関し、融和して、初めて人間の生活はその全体の完成を期待することが出来るということを知る時代が来たのです。
 これまで分裂しやすく矛盾しやすかった三つの生活の融合をどう意識的に企画すれば好いでしょうか。私は私自身の必要からこれをこう考えております。その扞格と矛盾とを除き、その分裂と衝突とを避ける方法としては三つの生活を貫いて共通の幸福となる性質を持った生活事実を全生活の価値標準とし、これに背馳する生活事実をすべて排除する外はないということです。具体的にいえば、共通の幸福となるものは愛を第一とし、経済、学問、芸術、科学等は悉く国境を超えて平等に世界人類の幸福となる性質を持っております。これらは個人をも利し、国民をも利するものでありながら、或個人または一の国民の利益のために独占して、他の個人や他の国民との間にこれがために衝突するようなことを許されない性質のものであることはいうまでもありません。
 この方法を実現しようとすれば、第一に愛の世界的協同が必要になります。博愛的世界主義というか、人道的世界主義というか、名はいずれにもせよ、人類が相互に愛し合い扶助し合う実行が起らねばなりません。今度の戦争で、協商国側にも連合国側にも或国民との相互扶助が行われました。それを今一段進めて世界人類の相互扶助を実現せねばなりません。西部の戦線においては敵味方の間にさえ、独仏の兵士同志は攻撃のない日に塹壕ざんごうから出て語り合いながら、世界人類的の親愛を感じて、何がために国民の名においてお互世界の同胞が殺し合わねばならぬかを考え、その不合理と矛盾とを痛切に悲むような例がすくなくないといいます。露西亜ロシヤの過激派の行動は一見して非常識であり、その手段において極端不法であることは勿論ですが、しかしその精神は全人類的の愛から出発していることを否むことは出来ません。ケレンスキイ一派の第一革命にしても、過激派の今回の暴挙にしても、昔の仏蘭西フランス革命が酸鼻の跡の多いのに反して出来るだけ流血の悲劇を示さずに目的を達することに一致しております。人をより幸福に生かすことが彼らの目的である以上、如何なる名の下にも手段として人を殺すことの矛盾を避けるのが至当です。罪人に対してさえ死刑を廃止するのが正義であると認める時代に、政治上の反対者に対し、その他の良民に対して武器の脅威を以て臨むことの野蛮行為であることは何人にも承認されるはずです。私は露西亜のあれほどの騒乱が人命を愛重して、今日まで殆ど何ばかりの血をも犠牲として流していないことに目をみはらずにいられません。
 国民と国民、国家と国家の名に由って軍事上、政治上にのみ同盟し扶助し合っていることは、結局、世界の上に二大強国、もしくは三大強国を作り、それらが互いに対峙たいじいがみ合って世界人類の平和と個人の平和とを破ることになります。物は最も広大にして鞏固きょうこなる容器の中に収めて置くことが最も安全です。一斗の水を一升ますに入れようとすれば必ずあふれます。一斗桝に入れてこそ初めて安全であるように、人類生活の目的を専ら個人生活の中に収め、国家生活の中に入れようとして如何に圧搾しても、圧搾すればするほど溢れ出さずに置きません。その無理なことは解っております。人類生活は最も拡大された容器である博愛的人道的世界主義の中に入れてこそ初めて安全を得ることが出来ます。
 私たちは歴史的、地理的、生産的、政治的の差別の自然的必要から、国民としての協同自治機関である国家を尊重し擁護します。しかし人種的の差別は最早国民の協同生活の上に何の条件にもならない事を認めます。私たちは世界いずれの人種の帰化をも拒まず、現に朝鮮人の全部と支那人の一部とを包容した国民生活を営んでおります。私たちの愛する国家は、他の国家と他の国民を峻拒しもしくは敵視するような排他的の目的を少しも持たず、歴史的、地理的、生産的、政治的の特殊な差別関係によって集団生活を持続している日本国民のために専らその自治改造の確実な機関たる外に何の目的もないものでありたいと思います。国民生活がこの目的の範囲を越えて排他的征服的の目的を国家の上に加え、他の国民と国家との生活を危くして顧みず、この第二の目的のために国民自身の他の二つの生活――個人的及び世界的生活――をも犠牲にする事になれば、それは愚かにも国民生活を偏重して唯一絶対の価値あるものとし、それが或限定された正当な目的を持った容器であることを忘れて、その中に一切の人間生活を収めよう、圧搾しようとする無理な仕方である以上、世界の平和は勿論、結局、国民自身の平和をも破らずには置きません。私はこの意味から、純正個人主義と世界人類主義とを背景としない国家主義、言い換れば個人の愛(個人の道徳)と世界人類の愛(世界人類の道徳)とを裏切った国家主義に反対します。
 愛の世界的協同と共に必要なことは経済の世界的協同であると思います。この事の必要は今度の戦争において現に暗示されております。協商国側も連合国側も軍事上政治上の協同だけでは戦争の出来ないことを知りました。米国が戦争に参加して連合国側に偉大な強味を与えたことも、その兵力よりは、その豊富な財力にたのむ所があるからです。好戦尚武の国として知られた日本が、よく自制して今度の戦争に大兵を動かさないのも、その重要な原因は米国と反対に財力の不足にあります。またこの度の戦争に由る財力の集中偏依が世界の隅々まで影響し、私たちの日常生活の第一の必要品である食物までを法外に暴騰ぼうとうさせているのを見ると、如何なる名義の下にも、財力の集中と濫費が人類生活を危険にする事が想われ、同時にそれらの公平な分配と正当な支出が人類生活を幸福にすることが想われます。全人類の共通な幸福を円滑にし保障するものとして、相互に財力を扶助し合う経済の世界的協同が成立するなら、どんなに私たちの生活が安全になることでしょう。
 愛と経済との世界的協同さえ主として成立すれば、その他の学問、芸術、科学等はもとより人類的なものですから、特に世界的協同を主張しなくても、今日よりも一層人類生活の共通な幸福の動力となることは明白です。国民生活が偏重されている今日ではすべてが国家に隷属する不公平な状態となり、世界人類的なるべき愛が一国民の間、もしくは同盟国民の間にのみ限局せられて、国家の名の下に英国人は独逸人と憎み合い、ついに戦争を開くような野蛮な光景を呈します。経済においても、国家が軍備拡張や戦争行為にそれを濫用して、かえって世界人類の幸福を破壊する動力となり、また学問科学も国家と国家との軍事的施設に悪用せられ、学者までも国家の奴隷として戦争を弁護し助長するような倒錯的陋態を誘致し、芸術も仏蘭西や白耳義ベルギーの名高い大寺の建物のように、国家と国家の狂暴な戦争行為のために凌辱の憂目うきめを見る外はありません。
 以上述べたような、人類生活の内容として最も幸福な共通の標準として世界の連帯協同生活を建設することが出来れば、人は最も健全にして最も雄大な第一義生活――世界的生活の上に安座しているのです。これを基礎とし背景として必要な範囲で国民生活を営み併せて個人生活を営む事は、これまでの矛盾の一切を撤去することが出来て私のいわゆる三面一体の生活が完成されるものであろうと思います。人生は個人生活、国民生活、世界生活のいずれに偏しても幸福でありません。一体の生活の中にこの三つの生活が流動し融合して、少しも矛盾のないものであることが最上の生活の理想です。
 今度の戦争は、この人道的な生活理想の覚悟を、敵味方いずれの国民にも、その抽象的知識的の考案からばかりでなくて、幾百万の同胞の霊と血とを犠牲にし、幾百万の財力を濫費したことの絶大な悲痛の中の実験から促進しつつあります。彼らはなお、古風な名誉と外面的体裁の行掛りのためとで悲壮なる戦争を継続しているだけで、彼らの内心は敵味方とも戦争の愚かさと悲惨と罪悪とについて明白に悔悟しているに違いありません。私は新たに戦争に加入した米国が欧洲の戦場で恐らくその百万の兵士の幾万人をも殺さないで済ますであろうと想像します。最も遅く加入しただけに、戦争の害毒に対して最も冷静な判断がウィルソン大統領以下の米国識者階級に徹底しているはずです。前年の海牙ハーグにおける万国平和会議のように形式的なものでなくて、人道的平和運動の実際的要求が欧洲の戦場とその背後の交戦国民との間に血に染りながら動いていると思います。恐らくこの戦争は過去のどの戦争が経験したよりも最も悲惨なる歴史を遺すだけで、その敵味方の国家と国家との間に何らの新らしい名誉をも附け加えずに早晩その終りを告げるでしょうが、しかしこの戦争によって空前の大勝を博するものが他にあります。それは敵も味方も包容した世界の全人類です。彼らは戦争と極端な国家主義とから解放せられて、愛、経済、学問、芸術等の世界的協同の中に、今よりも幾倍か堅実な個人生活、国民生活、世界生活を建設しようとするでしょう。この戦争が長引いてその戦慄せんりつすべき災禍が加重されるほど、戦後におけるそれらの平和運動は深められ、促進され、その事実化を早くするだろうと思います。

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