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梅雨紀行(ばいうきこう)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-11-26 8:24:46  点击:  切换到繁體中文


 村に一本の路を急いで居るとツイ路ばたにすつかり戸障子をあけ放した一軒の家があつた。そして部屋の中にも軒端にもいつぱいに眼白籠が懸けてあり、とり/″\に囀(さへづ)り交してゐた。部屋の中には酌婦あがりとも見らるる色の黒い三十年増が一人坐つて針をとつてゐた。友人と私とは相顧みて、微笑した。
 狹い村を通り終れば路はまた登りとなつた。吉川峠といふ。
 山は陣座峠より淺かつた。そして雜木の茂つた灌木林の中に澤山の黄楊(つげ)が見かけられた。犬黄楊らしかつたが、殆んどその木ばかりの茂つた所もあつた。さつき通つた村の名もこれから出たのだと思はれた。陣座峠でも見かけたが、私には珍しい山百合があちこちと咲いてゐた。莖は極めて細く、花もしなやかで、色がうすもゝ色であつた。普通の、白い百合も稀に咲いてゐた。
 勞れて來たせゐか、今度の下(くだ)りは長かつた。自づと話がはずんだが、元氣のいゝ話ではなかつた。自分の爲事の不平、朝夕の暮しの愚痴、健康の不安、中にもこの友が自分の子供に對する心配などは身にしみて聞かれた。
 やがて、麥刈り、田鋤き、桑摘みの忙しさうな村に出た。埃の立つ道を急ぐともなく急いで、漸く豐川の岸に出た。偶然にも道はこの前同じく新城(しんしろ)の友を訪ねて來た時散歩に出て渡つた辨天橋の上に出た。高い橋、深い淵、淵の尻の眞白な瀬、私たちは暫く橋の上に坐つて帽子をぬいだ。
 ともするとその枕許に坐つて話をする事になりはせぬかと氣遣つて來た新城町の友K――君は幸にも起きてゐた。而かも私の訪問がだしぬけであつたので、呆氣(あつけ)にとられながら小躍りして喜んだ。然し、いつもながら聲はろくに出なかつた。結核性の咽喉の病氣にかゝつて六七年も私の沼津に來て養生してゐたのだが、この數ケ月前、其處を引上げて郷里に歸つてゐたのである。その姉も、その父も、友に劣らずこの突然の訪問を喜んだ。姉も、父も、この病人のために全てを犧牲にしてゐると謂つた樣な境遇に在る人たちなのである。
 突然ではあり、時間ではあり、ことに初めての氣賀町の客人のために町の料理屋に出て夕飯をとらうといふ事になつた。それを聞くとY――君は驚いて、イヽエ私は歸りますといふ。これからどうして歸れます、それに折角の事だから、と家の人たちも總がかりで留めたが、一日はまだしも二日とはどうも學校が休めない、と言つて立ち上つた。なアに四五里の道だし自轉車ならわけはありません、と私の顏を見て笑ひながら言つた。私にはいま漸く彼があの乘れもしない山坂路を一生懸命になつて自轉車を押して來たわけが解つた。歸りは無論その山坂路でなく、他にいゝ道路があるのださうである。そしてその車のベルを鳴らしながら、たけ高いうしろ姿を見せて彼は歸つて行つた。夏のことだで、まだざつと二時間は明るいが、樂ではないぞなど此處の老父はそれを見送りながら言つた。
 然し、夕飯には町へ出る事になつた。たつて止めたが早や立ち上つたこの友の、兩手を振りながら出もしない聲を絞つて、先生、後生ですから私のためにだし[#「だし」に傍点]になつて下さい、私だつてたまには明るい所へ出て行きたいですよ、といふのを聞くと、矢張りいなめなかつた。その父と姉と友と私と、わざと町裏の田圃路を通つてこの前來た時も行つた事のある遠い料理屋へ出かけて行つた。新城町は桑畑の中に在り、兵兒帶の樣な長いながい一筋町である。
 杯をなめながら、席に出た藝者たちから私は意外な事を聞いた。鳳來寺山の佛法僧聽きが近來急に流行り出し、なほその宣傳のため土地の有志に招かれてわたしたち一組は昨夜出かけ、殘る一組は今夜鳳來寺に佛法僧聞きに行つてゐる、といふのだ。呆れながら、お前たちがあの鳥を聞いて何にするのだ、と言へば、いゝえ、お客樣ごとにその事を吹聽(ふいちやう)して勸めるのですよ、といふ。その代り佛法僧は近來頻りに啼くのださうだ。この前、私の聽きに來た時は山の上の寺に九晩(ここのばん)泊つて辛うじて二晩だけ聽き得たのであつた。今は行きさへすれば毎晩聞けるといふ。聲を絞つて友人は言つた、佛法僧もえらく商賣氣を出したもんですネ、と。
『それも先生のおかげサ。』
 早や醉つて顏は眞赤に、豐かな頬鬚のつや/\と白い老父は笑つた。この前來た時、私は『鳳來寺紀行』にこの鳥の事を書いて雜誌『改造』に出した。それが今まで殆んど無關心であつたこの附近の人たちに意外な反響を喚んだのださうだ。現に主要な停車場には佛法僧の繪をかいたポスターが張られ、私の文章の中の文句が大きな字で引かれてあるといふ。
 六月二十三日。
 私の居る事はこの友人の身體によくない樣に思ひながら晝過ぎまでも愚圖々々してゐた。その間、私の膝の側には朝からずつと盃と徳利とが置いてあつたのである。豐川の鮎の蓼酢(たです)など、近來になくうまいものであつた。
 昨夜の藝者の話で鳳來寺行きはかなり興が醒めたが、然し毎晩啼くといふ佛法僧を樂しみに矢張り出かくる事にした。電氣に變つた豐川鐵道で長篠驛下車、驚くべし其處には鳳來寺行乘合自動車が出來てゐた。沿うて走る寒狹川の岸の岩には、昨日名も無い溪で見て來たと同じく岩躑躅が咲きこぼれてゐた。
 直ぐ鳳來寺の山に登り、寺に一二泊を頼まうかと思ふたが、今では其處にも毎晩十人位ゐの泊客があると聞いたので遠慮され、とりあへず麓の宿屋に一泊することにした。この宿屋もこの前の紀行には『これも廣重の繪などに見るべき造りの家である』と書いてある通り、曾木板葺(そぎいたぶ)きの古び果てた宿であつたが今は一枚ガラスの大戸を玄關に立てた立派な宿館に新築されてあつた。通された二階はまだ荒壁のまゝで、唐紙もろくに入れてなかつた。やう/\疊だけは入れました、と宿の者は言つた。
 一ぷく吸つたまゝ私は宿から二三軒先の硯造りの家に出かけて二三の硯を買つた。この山から出る鳳鳴石といふのでその質のいゝ事をばかねて聞いてゐながらこの前は荷になるのを恐れて買はなかつた。今度は自動車電車だから大丈夫である。
 恐れてゐた相合客(あひあひきやく)は夜に入るまで來なかつた。不思議なことです、と宿の主婦は呟いたが、私はほつかりした。取り寄せた晩酌の酒のさまでゝないのも嬉しかつた。此處にも豐川の鮎が入つてゐた。
 窓から見る宿の前の溪端に一つ二つと飛ぶ螢が見えだした。それまでに山の方で啼いてゐたいろいろの鳥の聲も靜まつた。軒を仰ぐと、曇つてゐるが月明りのある空である。その空を限つて嶮しく聳え立つた鳳來寺山の山(やま)の端(は)は次第に墨色深く見えて來た。
 其處へ、心おぼえの啼聲が聞えて來た。まさしくあの鳥である。佛法僧の聲である。月を負うた山の闇から、闇の底から落ちて來る、とらへどころのない深い/\聲である。聽き入れば聽き入るだけ魂の誘はれてゆく聲である。玉をまろがすと言つては明るきに過ぎ、帛(きぬ)を裂くと言つては鋭きに過ぐる。無論、佛(ブツ)、法(ポウ)、僧(ソウ)などの乾いた音色(ねいろ)ではゆめさら無く、郭公、筒鳥の寂びた聲に較べては更に數段の強みがあり、つやがある。眼前に見る大きな山全體のたましひのさまよひ歩く聲だとも言ひたいほど、何とも形容する事の出來ない聲である。
『ア、啼く、啼く、……』
 私はいつか窓際にすり出て、兩手を耳にあて、息を引きながら聽き入つた。相變らず所を移して啼く。一聲二聲啼いては所を變へる。暫くも同じところに留らない。ともすれば、山そのものが動いてゐるかとも聞きなさるることすらある。
 私は膳を窓側の縁に移した。一杯飮んでは耳に手をあて、一杯飮んでは眼を瞑(つむ)つた。二三本も飮んだが、一向に醉はない。
『よう啼きますやろ。』
 宿のお婆さんが笑ひながらお銚子を持つて來た。流石に私もきまりが惡くなり、それを濟ますと床についた。
 この鳥の啼聲を文字に移し得ざる事を憾む。内田清之助博士著『鳥の研究』の中に「高野山中學校教諭榎本氏が幾年かに渉つて聞かれた所によれば次の如くである。」として、

この鳥の啼く聲はギヨブツコー、ギヨブツコー、或はグブツクオーと聽えるものを凡そ一秒弱の間を※んで繰返し、時々はギヨブツクオー、コー、或はギヨブツ、ギヨブツ、クオーを加へる。ギヨブツクオー、コー、の場合には第二音クオーと第三音コーとの間に、第一音と第二音との間よりも、少し長い間を置き、且つ第三音コーは第二音よりも調子低く、またギヨブツ、ギヨブツ、クオーの場合には各間隙に長短はなく、殆んど三音を連唱する。下略。
 云々と書いてある。流石によく調べてある。強ひて書けば先づ斯うであらう。が、本物(ほんもの)とこれとの差は雀と佛法僧との差に相等しい。
 枕許の水を飮むために眼を覺す。
 啼いてゐる。
 夜の更けたゝめか、或は麓近く移つて來たか、宵の口より一層澄んで聞える。
 起きて窓に凭ると、月も曇を拭つて照つてゐた。山の森の茂みにも月の光があつた。そして、宵の口は多く右の、ギヨブツコー、ギヨブツコー、の二聲づつを啼いたに夜の更けてからは、ギヨブツ、ギヨブツ、コーの三聲を續ける啼きかたをしてゐた。この啼きかたは非常に迫つて聞える。
 六月二十四日。
 朝、洗面所で顏を洗つてゐると、その横の部屋から一人の泊客、痩せた青年が出て來て私を見てゐるらしかつたが、不意に牧水先生ではないか、と言ふ。君は、と問ひ返すと意外にも前のY――君やK――君たちと同じく我等の創作社々友T――君であつた。この人は入社して何年にもならぬが、歌に異色があり、印象の深い人であつた。同じく昨夜佛法僧聞きに來てゐたのであると。彼は名古屋の八高の生徒である。
 朝食を共にし、一緒に山に登つた。實は昨夜よく聞いたには聞いたが、耳の惡い私には、もう少し近かつたら、の慾が出たのである。そして山の寺に一二泊を頼まうと思ふたのであつた。寺にはこの前の時の知合の僧侶がゐた。
 彼も少なからず驚いて上へ招じて呉れた。そして、朝から酒ばかり飮んで何をする人かあの時はさつぱり解らなんだが、といふ四年前の囘顧談などが出た。あの時は三度々々梅干ばかりさしあげたが、今では寺でも相當の用意がしてある故、どうぞゆつくりして行つて呉れ、と勸められた。實は梅干すらその時は出し惜しまれたのであつた。そして明けても暮れても麩(ふ)ばかりであつた。天氣も惡く、寺は毎日雲霧に包まれてゐた。で、私は麩化登仙の熟語を作つて自ら慰めたものである。人に眼だたぬ廊下の隅がその時の私の居場所であり飮場所であつた。その隅を眺めつつ四年の昔を戀しく思つた。
 寺の中もすつかり綺麗になつてゐた。それとなく聞いてみると今夜豐橋の實業家たちが登つて來て佛法僧を聞き乍ら寺で謠曲會を開くのだといふ。T――君と相顧み、麥酒など勸めらるるのをも辭して別れた。東照宮の方に行く途で、見覺えのある老爺に出會ふた。寺の寺男である。毎日私のために飮料を麓から運んで呉れた恩人であつた。銀貨を紙に捻(ひね)り、不審がる彼に渡して別れた。
 宿屋に歸り、折柄の自動車に飛び乘り、長篠に出で、折角の奇遇をこのまゝ別るゝも辛く、其處より二三驛上手(かみて)の湯谷温泉まで行つて共にゆつくり話さうといふことになり、電車に乘つた。車内は相當にこんでゐたが、湯谷驛に近づくやみな降り仕度をし始めた。名古屋邊から來た所謂散財の客らしい。また相苦笑して其處を乘越し、終點驛川合まで出てしまうた。そして其處に唯だ一軒の宿屋二木屋といふに荷物を置き、行く所もないまゝに百間瀧などといふ邊を散歩した。このあたり豐川ももうほんの溪谷となり、下駄ばきのまゝ徒渉出來るのであつた。岸の岩には相變らず躑躅が咲き、河鹿が頻りに鳴いた。
 夜、柄にもなく旅愁を覺え、この病身の初對面の友を相手に私は酒を過した。そして終に藝者と名乘る女をも呼んで伊奈節を聞いたり唄うたりした。宿屋の前の往還が信州伊奈に通ずるものであることを聞いて思ひついた事であつたらう。
『先生、いつそ伊奈まで行きませうか。』
 四五杯の酒に醉うた年若い友はその痩せた手を擧げて言うた。
 六月二十五日。
 頭をよくするどころか、へと/\になつて、夜遲く沼津に歸つた。靜かにならう、靜かにならうと努めつゝいつか知ら結果はその反對になる、いつもの癖を身にしみじみと感じながら。
 硯はよき土産であつた、机の上に靜かである。鳳來寺の山よ。希(ねがは)くは永久に靜かな山であつて呉れ。



底本:「若山牧水全集 第八巻」雄鶏社
   1958(昭和33)年9月30日初版1刷
入力:柴武志
校正:小林繁雄
ファイル作成:野口英司
2001年2月8日公開
青空文庫作成ファイル:
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●表記について

本文中の/\は、二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)。
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」。

本文中の※は、底本では次のような漢字(JIS外字)が使われている。

見※すと近くの木蔭に
見※してもその主人公はゐなかつた。

第4水準2-12-11
凡そ一秒弱の間を※んで繰返し、

第4水準2-13-28

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