您现在的位置: 贯通日本 >> 作家 >> 国木田 独歩 >> 正文

武蔵野(むさしの)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-11-26 9:09:59  点击:  切换到繁體中文

 

     一

「武蔵野のおもかげは今わずかに入間いるま郡に残れり」と自分は文政年間にできた地図で見たことがある。そしてその地図に入間郡「小手指原こてさしはら久米川は古戦場なり太平記元弘三年五月十一日源平小手指原にて戦うこと一日がうちに三十余たび日暮れは平家三里退きて久米川に陣を取る明れば源氏久米川の陣へ押寄せると載せたるはこのあたりなるべし」と書きこんであるのを読んだことがある。自分は武蔵野の跡のわずかに残っている処とは定めてこの古戦場あたりではあるまいかと思って、一度行ってみるつもりでいてまだ行かないが実際は今もやはりそのとおりであろうかと危ぶんでいる。ともかく、画や歌でばかり想像している武蔵野をその俤ばかりでも見たいものとは自分ばかりの願いではあるまい。それほどの武蔵野が今ははたしていかがであるか、自分は詳わしくこの問に答えて自分を満足させたいとの望みを起こしたことはじつに一年前の事であって、今はますますこの望みが大きくなってきた。
 さてこの望みがはたして自分の力で達せらるるであろうか。自分はできないとはいわぬ。容易でないと信じている、それだけ自分は今の武蔵野に趣味を感じている。たぶん同感の人もすくなからぬことと思う。
 それで今、すこしく端緒たんちょをここに開いて、秋から冬へかけての自分の見て感じたところを書いて自分の望みの一少部分を果したい。まず自分がかの問に下すべき答は武蔵野の今も昔に劣らずとの一語である。昔の武蔵野は実地見てどんなに美であったことやら、それは想像にも及ばんほどであったに相違あるまいが、自分が今見る武蔵野の美しさはかかる誇張的の断案を下さしむるほどに自分を動かしているのである。自分は武蔵野の美といった、美といわんよりむしろ詩趣ししゅといいたい、そのほうが適切と思われる。

     二

 そこで自分は材料不足のところから自分の日記を種にしてみたい。自分は二十九年の秋の初めから春の初めまで、渋谷しぶや村の小さな茅屋ぼうおくに住んでいた。自分がかの望みを起こしたのもその時のこと、また秋から冬の事のみを今書くというのもそのわけである。

九月七日――「昨日も今日も南風強く吹き雲を送りつ雲を払いつ、雨降りみ降らずみ、日光雲間をもるるとき林影一時にきらめく、――」
 これが今の武蔵野の秋の初めである。林はまだ夏の緑のそのままでありながら空模様が夏とまったく変わってきて雨雲あまぐもの南風につれて武蔵野の空低くしきりに雨を送るその晴間には日の光水気すいきを帯びてかなたの林に落ちこなたのもりにかがやく。自分はしばしば思った、こんな日に武蔵野を大観することができたらいかに美しいことだろうかと。二日置いて九日の日記にも「風強く秋声にみつ、浮雲変幻ふうんへんげんたり」とある。ちょうどこのころはこんな天気が続いて大空と野との景色が間断なく変化して日の光は夏らしく雲の色風の音は秋らしくきわめて趣味深く自分は感じた。
 まずこれを今の武蔵野の秋の発端ほったんとして、自分は冬の終わるころまでの日記を左に並べて、変化の大略と光景の要素とを示しておかんと思う。
九月十九日――「朝、空曇り風死す、冷霧寒露、虫声しげし、天地の心なお目さめぬがごとし」
同二十一日――「秋天ぬぐうがごとし、木葉火のごとくかがやく
十月十九日――「明らかに林影黒し」
同二十五日――「朝は深く、午後は晴る、夜に入りて雲の絶間の月さゆ。朝まだき霧の晴れぬ間に家をを歩みを訪う」
同二十六日――「午後林をおとなう。林の奥に座して四顧し、傾聴し、睇視し、黙想す」
十一月四日――「天高く気澄む、夕暮に独り風吹く野に立てば、天外の富士近く、国境をめぐる連山地平線上に黒し。星光一点、暮色ようやく到り、林影ようやく遠し」
同十八日――「月をんで散歩す、青煙地をい月光林に砕く」
同十九日――「天晴れ、風清く、露冷やかなり。満目黄葉の中緑樹をまじゆ。小鳥こずえてんず。一路人影なし。独り歩み黙思口吟こうぎんし、足にまかせて近郊をめぐる」
同二十二日――「夜けぬ、戸外は林をわたる風声ものすごし。滴声しきりなれども雨はすでに止みたりとおぼし」
同二十三日――「昨夜の風雨にて木葉ほとんど揺落せり。稲田もほとんど刈り取らる。冬枯の淋しき様となりぬ」
同二十四日――「木葉いまだまったく落ちず。遠山を望めば、心も消え入らんばかりなつかし」
同二十六日――夜十時記す「屋外は風雨の声ものすごし。滴声相応ず。今日は終日たちこめて野や林や永久とこしえの夢に入りたらんごとく。午後犬を伴うて散歩す。林に入り黙坐す。犬眠る。水流林より出でて林に入る、落葉を浮かべて流る。おりおり時雨しめやかに林を過ぎて落葉の上をわたりゆく音静かなり」
同二十七日――「昨夜の風雨は今朝なごりなく晴れ、日うららかに昇りぬ。屋後の丘に立ちて望めば富士山真白ろに連山の上にそびゆ。風清く気澄めり。
 げに初冬の朝なるかな。
 田面たおもに水あふれ、林影さかしまに映れり」
十二月二日――「今朝霜、雪のごとく朝日にきらめきてみごとなり。しばらくして薄雲かかり日光寒し」
同二十二日――「初めて降る」
三十年一月十三日――「夜更けぬ。風死し林黙す。雪しきりに降る。燈をかかげて戸外をうかがう、降雪火影にきらめきて舞う。ああ武蔵野沈黙す。しかも耳を澄ませば遠きかなたの林をわたる風の音す、はたして風声か」
同十四日――「今朝大雪、葡萄棚ぶどうだなちぬ。
 夜更けぬ。梢をわたる風の音遠く聞こゆ、ああこれ武蔵野の林より林をわたる冬の夜寒よさむこがらしなるかな。雪どけの滴声軒をめぐる」
同二十日――「美しき朝。空は片雲なく、地は霜柱白銀のごとくきらめく。小鳥梢に囀ず。梢頭しょうとう針のごとし」
二月八日――「梅咲きぬ。月ようやく美なり」
三月十三日――「夜十二時、月傾き風きゅうに、雲わき、林鳴る」
同二十一日――「夜十一時。屋外の風声をきく、たちまち遠くたちまち近し。春や襲いし、冬やのがれし」

     三

 昔の武蔵野は萱原かやはらのはてなき光景をもって絶類の美を鳴らしていたようにいい伝えてあるが、今の武蔵野は林である。林はじつに今の武蔵野の特色といってもよい。すなわち木はおもにならたぐいで冬はことごとく落葉し、春はしたたるばかりの新緑え出ずるその変化が秩父嶺以東十数里の野いっせいに行なわれて、春夏秋冬を通じかすみに雨に月に風に霧に時雨しぐれに雪に、緑蔭に紅葉に、さまざまの光景をていするその妙はちょっと西国地方また東北の者には解しかねるのである。元来日本人はこれまで楢の類いの落葉林の美をあまり知らなかったようである。林といえばおもに松林のみが日本の文学美術の上に認められていて、歌にも楢林の奥で時雨を聞くというようなことは見あたらない。自分も西国に人となって少年の時学生として初めて東京に上ってから十年になるが、かかる落葉林の美を解するに至ったのは近来のことで、それも左の文章がおおいに自分を教えたのである。
「秋九月中旬というころ、一日自分がかばの林の中に座していたことがあッた。今朝から小雨が降りそそぎ、その晴れ間にはおりおりま暖かな日かげも射してまことに気まぐれな空合そらあい。あわあわしいら雲がら一面に棚引たなびくかと思うと、フトまたあちこちまたたく間雲切れがして、むりに押し分けたような雲間から澄みて怜悧さかにみえる人の眼のごとくに朗らかに晴れた蒼空あおぞらがのぞかれた。自分は座して、四顧して、そして耳を傾けていた。木の葉が頭上でかすかにそよいだが、その音を聞いたばかりでも季節は知られた。それは春先する、おもしろそうな、笑うようなさざめきでもなく、夏のゆるやかなそよぎでもなく、永たらしい話し声でもなく、また末の秋のおどおどした、うそさぶそうなお饒舌しゃべりでもなかったが、ただようやく聞取れるか聞取れぬほどのしめやかな私語ささやきの声であった。そよ吹く風は忍ぶように木末こずえを伝ッた、照ると曇るとで雨にじめつく林の中のようすが間断なく移り変わッた、あるいはそこにありとある物すべて一時に微笑したように、くまなくあかみわたッて、さのみしげくもないかばのほそぼそとしたみきは思いがけずも白絹めく、やさしい光沢こうたくび、地上に散りいた、細かな落ち葉はにわかに日に映じてまばゆきまでに金色を放ち、頭をかきむしッたような『パアポロトニク』(わらびたぐい)のみごとなくき、しかもえすぎた葡萄ぶどうめく色を帯びたのが、際限もなくもつれからみつして目前に透かして見られた。
 あるいはまたあたり一面にわかに薄暗くなりだして、またたく間に物のあいろも見えなくなり、樺の木立ちも、降り積ッたままでまた日の眼に逢わぬ雪のように、白くおぼろに霞む――と小雨が忍びやかに、怪し気に、私語するようにバラバラと降ッて通ッた。樺の木の葉はいちじるしく光沢がめてもさすがになお青かッた、がただそちこちに立つ稚木のみはすべて赤くも黄いろくも色づいて、おりおり日の光りが今ま雨にれたばかりの細枝の繁みをれて滑りながらにけてくるのをあびては、キラキラときらめいた」

 すなわちこれはツルゲーネフの書きたるものを二葉亭が訳して「あいびき」と題した短編の冒頭ぼうとうにある一節であって、自分がかかる落葉林の趣きを解するに至ったのはこの微妙な叙景の筆の力が多い。これはロシアの景でしかも林は樺の木で、武蔵野の林は楢の木、植物帯からいうとはなはだ異なっているが落葉林の趣は同じことである。自分はしばしば思うた、もし武蔵野の林が楢のたぐいでなく、松か何かであったらきわめて平凡な変化に乏しい色彩いちようなものとなってさまで珍重ちんちょうするに足らないだろうと。
 楢の類いだから黄葉する。黄葉するから落葉する。時雨しぐれ私語ささやく。こがらしが叫ぶ。一陣の風小高い丘を襲えば、幾千万の木の葉高く大空に舞うて、小鳥の群かのごとく遠く飛び去る。木の葉落ちつくせば、数十里の方域にわたる林が一時に裸体はだかになって、あおずんだ冬の空が高くこの上に垂れ、武蔵野一面が一種の沈静に入る。空気がいちだん澄みわたる。遠い物音が鮮かに聞こえる。自分は十月二十六日の記に、林の奥に座して四顧し、傾聴し、睇視ていしし、黙想すと書いた。「あいびき」にも、自分は座して、四顧して、そして耳を傾けたとある。この耳を傾けて聞くということがどんなに秋の末から冬へかけての、今の武蔵野の心にかなっているだろう。秋ならば林のうちより起こる音、冬ならば林のかなた遠く響く音。

[1] [2] [3] [4] 下一页  尾页


 

作家录入:贯通日本语    责任编辑:贯通日本语 

  • 上一篇作家:

  • 下一篇作家:
  •  
     
     
    网友评论:(只显示最新10条。评论内容只代表网友观点,与本站立场无关!)
     

    没有任何图片作家

    广告

    广告