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伊勢之巻(いせのまき)

作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006-8-22 12:03:27 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语



       五

「はッ。」
 古市ふるいち名代なだいの旅店、三由屋みよしやの老番頭、次のの敷居際にぴたりと手をつき、
「はッ申上げまするでございまする。」
 上段の十畳、一点のよごれもない、月夜のような青畳、紫縮緬むらさきちりめんふッくりとある蒲団ふとんに、あたかもその雲に乗ったるがごとく、すみれの中から抜けたような、よそおいこらした貴夫人一人。さも旅疲たびづかれさま見えて、鼠地ねずみじの縮緬に、麻の葉鹿の子の下着の端、なまめかしきまでひざななめに、三枚襲さんまいがさね着痩きやせのした、撫肩なでがたの右を落して、前なる桐火桶きりひおけの縁に、ひきつけた火箸ひばしに手をかけ、片手をほっそりと懐にした姿。衣紋えもんの正しく、顔の気高きに似ず、見好みよげに過ぎて婀娜あだめくばかり。眉の鮮かさ、色の白さに、美しき血あり、清き肌ある女性にょしょうとこそ見ゆれ、もしその黒髪の柳濃く、生際はえぎわさっかすんだばかりであったら、えがける幻と誤るであろう。袖口そでくち八口やつくちもすそこぼれて、ちらちらと燃ゆる友染ゆうぜんの花のくれないにも、絶えず、一叢ひとむらの薄雲がかかって、つつましげに、その美を擁護するかのごとくである。
 岐阜ぎふ県××町、――里見稲子さとみいなこ、二十七、と宿帳に控えたが、あえてしるすまでもない、岐阜の病院の里見といえば、家族雇人やからうから一同神のごとくに崇拝する、かつて当家の主人あるじが、難病を治した名医、且つ近頃三由屋が、株式で伊勢のに設立した、銀行の株主であるから。
 晩景、留守を預るこの老番頭にあてて、津に出張中の主人あるじから、里見氏の令夫人参宮あり、丁寧に宿を参らすべき由、電信があったので、いかに多数の客があっても、必ず、一室ひとまを明けておく、内証の珍客のために控えの席へ迎え入れて、とどこおりなく既に夕餉ゆうげを進めた。
 されば夫人が座のかたわら、肩掛、頭巾ずきんなどを引掛ひっかけた、衣桁いこうきわには、萌黄もえぎ緞子どんす夏衾なつぶすま、高く、柔かに敷設けて、総附ふさつき塗枕ぬりまくら枕頭まくらもとには蒔絵まきえものの煙草盆たばこぼん、鼻紙台も差置いた、上に香炉を飾って、呼鈴よびりんまで行届ゆきとどき、次の間の片隅には棚を飾って、略式ながら、薄茶の道具一通。火鉢にはかまの声、はるかに神路山の松に通い、五十鈴川のながれに応じて、初夜も早や過ぎたる折から、ここの行燈あんどうとかしこのランプと、ただもう取交とりかえるばかりの処。
「ええ、奥方様、あなた様にお客にござりまして。」
 優しい声で、
「私に、」と品よく応じた。
「はッ、あなた様にお客来きゃくらいにござりまする。」
 夫人はしとやかに、
誰方どなただね、お名札なふだは。」
「その儀にござりまする。お名札をと申しますと、生憎あいにく所持せぬ、とかようにおっしゃいまする、もっともな、あなた様おつきおそうござりましたで、かれこれ十二時。もう遅うござりますに因って、御一人旅の事ではありまするし、さようなお方は手前どもにおいでがないと申して断りましょうかとも存じましたなれども、たいせつなお客様、またどのような手落になりましても相成らぬ儀と、お伺いに罷出まかりでましてござりまする。」
 番頭は一大事のごとく、固くなって、御意を得ると、夫人は何事もない風情、
「まあ、何とおっしゃる方。」
「はッ立花様。」
「立花。」
「ええ、おわかいお人柄な綺麗きれいな方でおあんなさいまする。」
「そう。」とかろくいって、莞爾にっこりして、ちょっと膝を動かして、少し火桶を前へ押して、
「ずんずんいらっしゃればいのに、あの、お前さん、どうぞお通し下さい。」
「へい、よろしゅうござりますか。」
 おとがいの長い顔をぼんやりと上げた、余り夫人の無雑作なのに、ちと気抜けのていで、立揚たちあがる膝が、がッくり、ひょろりと手をつき、苦笑にがわらいをして、再び、
「はッ。」

       六

 やがて入交いりかわって女中が一人いちにん、今夜の忙しさに親類の娘が臨時手伝という、娘柄こがらい、つまはずれの尋常なのが、
「御免遊ばしまし、あの、御支度はいかがでございます。」
 夫人この時は、後毛おくれげのはらはらとかかった、江戸紫の襟に映る、雪のようなうなじ此方こなたに、背向うしろむき火桶ひおけ凭掛よりかかっていたが、かろく振向き、
「ああ、もう出来てるよ。」
「へい。」と、その意を得ない様子で、三指みつゆびのままつむりを上げた。
 事もなげに、
「床なんだろう。」
「いいえ、お支度でございますが。」
「御飯かい。」
「はい。」
「そりゃおまいとうに済んだよ。」と此方こなたも案外な風情、あまり取込とりこみにもの忘れした、旅籠屋はたごやの混雑が、おかしそうに、莞爾にっこりする。
 女中はまた遊ばれると思ったか、同じく笑い、
「奥様、あの唯今ただいまのお客様のでございます。」
「お客だい、誰も来やしないよ、おまい。」と斜めに肩ごしに見遣みやったまま打棄うっちゃったようにもののすッきり。かえすことばもなく、
「おや、おや。」と口のうち、女中はきまりの悪そうに顔を赤らめながら、変な顔をして座中を※(「目+句」、第4水準2-81-91)みまわすと、誰も居ないでしんとして、かまの湯がチンチン、途切れてはチンという。
 手持不沙汰てもちぶさたに、後退あとじさりにヒョイと立って、ぼんやりとしてふすまがくれ、
「御免なさいまし。」と女中、立消えのていになる。
 見送りもせず、夫人はちょいと根の高い円髷まるまげびんに手をさわって、金蒔絵きんまきえ鼈甲べっこうくしを抜くと、指環ゆびわの宝玉きらりと動いて、後毛を掻撫かいなでた。
 廊下をばたばた、しとしとと畳ざわり。襖に半身を隠して老番頭、呆れ顔の長いのを、もたげるがごとく差出したが、急込せきこんだ調子で、
「はッ。」
 夫人は蒲団ふとんに居直り、薄い膝に両手をちゃんと、なまめかしいが威儀正しく、
「寝ますから、もうお構いでない、お取込の処を御厄介ねえ。」
「はッはッ。」
 遠くから長廊下をけて来た呼吸いきづかい、番頭は口に手を当てて打咳うちしわぶき、
「ええ、混雑ごたごたいたしまして、どうも、その実に行届ゆきとどきません、ひらに御勘弁下さいまして。」
「いいえ。」
「もし、あなた様、希有けうでござります。確かたった今、わたくしが、こちらへお客人をお取次申しましてござりましてござりまするな。」
「そう、立花さんという方が見えたっておいだったよ。どうかしたの。」
「へい、そこで女どもをもちまして、お支度の儀を伺わせました処、誰方どなたもお見えなさりませんそうでござりまして。」
「ああ、そう、誰もいらっしゃりやしませんよ。」
「はてな、もし。」
「何なの、お支度ッて、それじゃ、今着いた人なんですか、内に泊ってでもいて、宿帳で、私のいることを知ったというような訳ではなくッて?」
「何、もう御覧のとおり、こちらは中庭を一ツ、橋懸はしがかりで隔てました、一室ひとま別段のお座敷でござりますから、さのみ騒々しゅうもございませんが、二百余りの客でござりますで、宵の内はまるで戦争いくさ、帳場のはたにも囲炉裡いろりきわにも我勝われがちで、なかなか足腰も伸びません位、野陣のじん見るようでござりまする。とてもどうもこの上お客の出来る次第ではござりませんので、早く大戸を閉めました。帳場はどうせ徹夜よあかしでござりますが、十二時という時、腕車くるまが留まって、かどをお叩きなさいまする。」

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