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赤外線男(せきがいせんおとこ)

作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006-8-25 5:51:43 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语


     8


 帆村は一名の警官と連れ立って、黒河内子爵くろこうちししゃくを訊ねた。子爵の代りに、例の白丘ダリアが出て、子爵は重態じゅうたいで、看護婦が二人もついている騒ぎだからと云った。
「実は、失踪された子爵夫人のことに関し、是非ご覧願いたい映画の試写があるのですが、それは困りましたネ」と帆村は長くもないあごを指先でつまんだ。
「映画ですか。あたし、代りに行きましょうか」
「そうですか。じゃ子爵の御了解ごりょうかいを得て来て下さい。よかったら御一緒に参りましょう」
「ええ、いくわ」
 ダリアは、まだ繃帯のとれぬ大きな頭を振り振り奥に引きかえしたが、ぐコートと帽子とを持ってあらわれた。
「さあ、お伴しますわ」
 三人が警視庁についたのは、すこし早すぎた。
「ねえ、ダリアさん。まだ四十分もありますよ」
「退屈ですわネ」
「ちょっと永いですネ」と帆村は云った。「そうそう、この中に面白いものがありますよ。警官に射撃を訓練させるために、室内射的場しゃてきばがつくってあります。僕たちが行っても構わないのです。行ってみませんか」
「射的ですって? あたし、これでも射撃は上手なのよ」
「じゃいい。行ってみましょう」
 呑気千万のんきせんばんにも帆村は、ダリアを引張って、警官の射的室へ連れて来た。そこは矢場のように細長い室だが、手前の方に、拳銃ピストルを並べてある高い台があって、はるか向うの壁には、大きな掛図かけずのようなまとがかかっていた。その的というのは、白い紙の上に、水珠みずたまを寄せたように、茶椀ちゃわんほどの大きさの、青だの、赤だの、黄だのまるが、べた一面に描いてあって、その上に5とか3とかいう点数が記してあった。
「僕やってみましょうか」帆村は気軽に拳銃ピストルをとって、ねらいをさだめると、ドーンと一発やった。3点と書いた大きな赤円あかまるに、小さい穴がプスリと明いた。
「どうです。相当なものでしょう」
 そういいながら、彼は次から次へと、あまり点数の多くない色とりどりの円を、撃ちぬいていった。
「今度は、ダリアさん、やってごらんなさい」帆村は拳銃を彼女の方にすすめた。
「エエ――」とダリアは答えたが、「あたし、よすわ」とハッキリ云った。
「そんなことを云わないで、やってごらんなさいな」
「だってあたし……あたし、眼が悪くて駄目なんですわ」
 そういってダリアは、カラカラと男のような声で笑った。
 まだ時間はあったから、二人は食堂へ行った。そこでオレンジ・エードを注文して、麦藁むぎわらくだでチュウチュウ吸った。
「警視庁なんてところ、随分ずいぶん開けてんのネ」ダリアは、帆村をすっかり友達扱いにしていた。
「それはそうですよ。貴女あなたみたいな方をお招きすることもありますのでネ」
「だけど、このオレンジ・エード、なんだか石鹸くさいのネ。あたし、よすッ」
 半分ばかり吸ったところで、ダリアは吸管すいくだを置いた。
 そんなことをしているうちに時間が経って、警官がわざわざ二人を探しに来た程だった。
 階段を地下へ降りて、長い廊下をグルグル廻ってゆくと、大変天井の低い暗いところへ出た。例の赤外線男が出て来そうな気配けはいだったが、しかし仄暗ほのぐらいながら電灯がついているから停電でもしない限りず大丈夫だろう。
 映画検閲用の試写室は、思いのほか、広かった。壁は一様にチョコレート色に塗ってあり、まるで講堂のような座席が並んでいた。正面には二メートル平方位のスクリーンがあった。
 もう七八人の人が入っていた。雁金検事、中河判事、大江山捜査課長の顔も見えた。
 そこへ別の入口から、警官に護られて、潮十吉うしおじゅうきち手錠てじょうをガチャガチャ云わせながら入って来て、最前列さいぜんれつに席をとった。そこは、帆村探偵と白丘ダリアとが並んである丁度ちょうどその横だった。
「もうこれで皆さん全部お揃いですか」
 警官の映写技師が、一番後方から声をかけた。
「うん、揃ったぞ。もう始めて貰おうか」
 帆村のうしろにいた捜査課長が声をかけた。
「じゃ始めます。あれをる前に、一つ調子をつけるために、実写じっしゃものを一巻写してみます。ウィーンの牢獄です」
 スクリーンの上へ、サッと白い光が躍ると、室内の電灯がパッと消された。一座はハッと緊張した。まずスクリーンの明るさで、室の中は暗闇だというほどではないが、しかし椅子の下、後方の両脇などには、小暗こぐらい蔭があった。それにこうして平然と、画面に見入みいっていていいものかしら、赤外線男の出てくるには屈強くっきょうな地下室ではないか。
 しかし一巻の映画は、極めて短いものであった。そしてまだ映画がうつっているのに、早くも電灯がパッと明るく室内を照らした。
「さあ、いよいよこの次だ」
「一体どんな映画なのだろう」
 人々は胸のうちに、あれやこれやと想像をめぐらせた。
「私を外へ出して下さい」潮十吉は隣りに遊んでいる警官に訴えた。
「いや、ならん」
 警官の声はあっけなかった。
 さあ、いよいよ問題の映画が写し出されようとしている。潮十吉が、深山理学士のところから奪って来たフィルムはこれだ。そして身許みもと不明の轢死れきし婦人のハンドバッグの底に発見せられたのも、矢張やはり同じフィルムだった。この映画が写し出されたが最後、意外なことが起るのではないか。既に靴の跡によって嫌疑けんぎの深い潮十吉であるが、この一巻の映画によって、彼の正体が暴露ばくろするのではあるまいか。赤外線男は潮十吉か。或いは赤外線男の合棒あいぼうでもあるか。
 カタリと音がして、スクリーンの上に、青白い光芒こうぼうが走った。こんどは十六ミリであるから、画面はスクリーンの真中まんなかに小さくうつった。
「ああ、これは……」
「ウム……」
 画面の展開につれ、人々は苦しそうにうなった。誰かが、いやらしい咳払せきばらいをした。
 いまスクリーンに写っている画面には二人の人物が出ている。
「ああ、こっちは、潮十吉だな」帆村は、あえぐように叫んだ。
「ああ、あれは伯母おば様ですわ。伯母様に違いないわ。だけど、ホホ……まッ……」
 といったきり、白丘ダリアは口をつぐんだ。
 さて画面に、それから如何なる情景じょうけいが展開していったか、その内容についてはここにしるすことが許されぬ。しかしそれは密閉されたる室のうちで演じられている怪しげなるたわむれだった。かる情景は人目のつかぬ真夜中に行うべきものだと思うのに、それがまことに明るい光の下に於て行われている。そのいぶかしさは、なおも仔細に画面を点検すれば、次第に明瞭めいりょうだった。それは赤外線で撮影した活動写真であったのだ。
 恐らく場面は、真夜中であったろう。真暗な室の中に、この場のことは演ぜられたのに違いない。それにもかかわらず、この室にどこからか赤外線を当て、それを赤外線の活動写真に撮影したのだった。そして人物は子爵ししゃく夫人黒河内京子と青年潮十吉!
 さてこの呪うべき撮影者は、一体誰であるか。
 潮はこの映画の写っている間は、頭を下げ顔をおおうたまま、一度も首をあげようとはしなかった。映画が終って、一座の深い溜息ためいきと共に、パッと電灯がついた。
「潮」大江山課長は声をかけた。「この撮影者は誰か」
「あいつです」青年はグッと首をもちあげた。「あいつです。深山楢彦みやまならひこ――彼奴あいつがやったんです。子爵夫人と僕とは間違ったことをしていました。深山はしかも夫人に恋をしていたのです。彼奴あいつは私達の深夜の室をひそかにうかがって暗黒の中にあの赤外線映画をとってしまったんです。深山はそれをもって可憐かれんなる子爵夫人を幾度となく脅迫きょうはくしました。一度は夫人があのフィルムの一端いったんを奪ったのですが、それは焼いてしまいました。バッグの底にのこっているフィルムの焼け屑は、あれだったんです。鬼のような深山は、赤外線利用の技術を悪用して、それまでにも、人の寝室をひそかに写真にとっては、打ち興じていたという痴漢ちかんです。しかしくまで夫人に未練みれんをもつ彼は、夫人が意に従わないときはあの映画を公開するといっておびやかしたのです。夫人はすべてを観念し、とうとう新宿のプラットホームからとびこまれたのです。これも皆、深山の仕業です。夫人は身許みもとのわかることを恐れて、いつもあのような服装を持って居られました。あれは最も平凡な、世間にザラにある持ちものを集められたのです。いわば月並つきなみの衣類なり所持品です。それがうまくこうを奏して隅田すみだ氏の妹と間違えられたのです。顔面のもろくだけたのは、神も夫人の心根こころねあわれみ給いてのことでしょう。僕は復讐を誓いました。そして深山の室に闖入ちんにゅうして、あのフィルムを奪回だっかいしたのです。彼奴かやつを探しましたが、どうしたものかベッドはあっても姿はありません。早くも風を喰らって逃げてしまった後だったのです。それから僕は……」
 このとき白丘ダリアは、先刻さっきから耐えていた尿意にょういが、どうにももう持ちきれなくなった。その激しさは、いまだ経験したことが無い位だった。彼女はあわてて試写室を出ると、薄暗い廊下に飛び出した。見ると、直ぐ間近まぢかに、赤い灯火ともしびともっていて、それに「便所」という文字が読めた。
 彼女は、飛び立つ想いで、そこのドアを押した。扉があくと、そこには清潔な便器が並んでいる洋風厠ようふうかわやだった。ダリアはその一つに飛びこんで、パタリと戸を寄せると、気持のよい程、充分に用を足した。
 大きい鏡があったので、ダリアはそこで繃帯ほうたいを気にしながら、硫酸りゅうさんの焼け跡のある顔へ粉白粉こなおしろいを叩いた。そして入口の扉を押して、廊下に出た。その途端とたんにダリアはハッとおどろいて、
ッ」
 と声をあげた。
 そこには思いがけなくも、帆村を始め、捜査課長、検事、判事など十四五人が、ダリアの方に身構みがまえをしていた。
「まア、どうしたんです。帆村さん」
 ダリアの救いを求めた帆村は、最早もはや、先刻、射的しゃてきで遊んだ帆村とは別人べつじんのようであった。
「白丘ダリアさん。それは今大江山捜査課長から説明して下さるでしょう」
 言下げんかに大江山課長はヌッと前へ出た。
「白丘ダリア。いまなんじを逮捕する」
「あたしを逮捕するって、冗談はよして下さい」
「まだ白っぱくれているな。吾々の眼はもう胡魔化ごまかされんぞ。白丘ダリアが嫌いだったら、『赤外線男』として汝を捕縛ほばくする。それッ」
 ワッとわめいて、りぬきの腕に覚えのある刑事が、ダリアの上に折り重なった。もうげる道もなければ、方法もなかった。
「赤外線男」は、それっきり自由を奪われてしまった。
     *   *   *
 事件が一段落だんらくついた後の或る日、筆者わたくし南伊豆みなみいずの温泉場で、はからずも帆村探偵にめぐりあった。彼は丁度ちょうど事件で疲れた頭脳を鳥渡ちょっとやすめに来ていたところだった。ほのかに硫黄いおうかおりの残っている浴後よくごはだなつかしみながら、二人きりで冷いビールをわした。そのとき彼の口から、この事件の一切の顛末てんまつを聞くことが出来たのだった。彼は中学校で同級だったときのあの飾り気のない口調くちょうで、こんな風に最後の解決を語った。

「『赤外線男』が白丘ダリアといったんでは、警官の中にも本気にしない人があった位だよ。しかし要点を云うとネ、元々『赤外線男』という名称は、殺された深山理学士がつけたものなのだ。彼は『赤外線男』を見たといって、いろいろな話をしたが、本当は一度も見たわけじゃなかったのだ。それは彼が便宜上べんぎじょうこしらえた創作的観念であって、実在ではなかった。
 何故そんなことをやったかというと、始めはあの新説で世間をッと云わせて虚名きょめいを博しよう位のところだったらしいが、いよいよというときには事務室の金庫から彼が消費つかいこんだ大金おおがね穴埋あなうめに、『赤外線男』を利用したわけだった。研究室が潮に襲われると、逸早いちはやく彼は避難したのだったが、そのチャンスを巧くとらえて、潮のかえった後の自室や事務室を散々自分で破壊してあるき、自ら変圧器の上にあがると、自分の身体を縛ったのだ。智恵のある人間には訳のないことだ。
 しかしこの犯行の裏には三人の女が隠れているんだ。そういうと不思議に思うだろうが、一人は情婦じょうふという評判の女・桃枝だ。この女には秘密に大分みついだものらしい。金庫の金に手をかけたのも、この女のためだ。
 もう一人の女は子爵夫人京子だ。これには潮が云ってたように色ばかりではなく、むしろ慾の方が多かったのだ。夫人と潮との秘交ひこうを赤外線映画にうつしたのは、夫人にいどむことよりも莫大ばくだいな金にしたかったのだ。もし夫人が相当の金を出したとしたら、深山は事務室の金庫を破る必要もなく、『赤外線男』をひねり出す苦労もしないでんだことだろう。しかし京子夫人にそんな莫大の金の都合はつかなかった。夫人は死を選んだのだ。
 そこへ、もう一人の女性、白丘ダリアという女がいけなかった。これは先天的に異常性を備えた人間だった。左の眼と、右の眼と、視る物の色が大変違うなんて、ほんの一つのあらわれだ。あの狒々ひひのような大女は、自分と反対に真珠のように小さい深山先生に食慾を感じていろいろとそそのかしたのだ。『赤外線男』も、ダリアから出たアイデアだったかも知れない。
 しかしダリアの使嗾しそうに乗った理学士も、金庫の金を盗んだり、それからダリアの喜びそうもない情婦じょうふ桃枝のことを手紙から知られると、すっかりダリアに秘密を握られてしまった恰好かっこうになった。に来るもの――それを考えると彼は安閑あんかんとしていられなかった。そこで深山は、思い切って、ダリアが同じ室に寝泊りしているのをさいわい、水素瓦斯ガスを使って睡っている彼女を殺そうとしたが、水素乾燥用の硫酸の壜が爆発してダリアに目をまされ、不成功に終ってしまったのだ。
 ダリアはこの事を勿論もちろん感づいた。しかしだネ、彼女は悪魔だけに賢明だった。事を荒立あらだてる代りに、一層いっそう深山の弱点を抑えて、徹底的にこれを牛耳ぎゅうじってしまう考えだった。ところがあの騒ぎによって彼女の身体に大きな異変が起った。それは飛んで来た硫酸に眼を犯され、右眼うがんは大した損傷そんしょうもなかったが、左眼さがんはまるで駄目になった。結局右眼一つというようなことになってしまった。しかし左眼がつぶれたことが異変というのじゃない。左眼が潰れたために、残る一眼が急に機能が鋭くなったんだ。左右の肺の一つが結核菌におかされて駄目になると、のこりの一方の肺が代償だいしょうとして急に強くなり、一つで二つの肺臓の働きをするなどということは、医学上よく聞くことだ。それと似て、ダリアは左眼のめいを失うと同時に、右眼の視力が急に異常な鋭敏さを増加した。元々ダリアの右眼は、左眼よりも物が赤く見えるといっていたが、赤い光線を感ずる神経が発達していたんだ。そんなわけだから、一眼いちがんになって異常な視神経の発達により、普通の人には到底とうてい見えない赤外線までが、アリアリと彼女の網膜もうまくにはえいずるようになったのだ。普通の人が暗闇と思うところでも、ハッキリえる。――この異常な感覚を自覚したときのダリアの狂喜きょうきぶりは、大変なものだったろう。しかしその狂喜は、同時に彼女の破滅を予約したものでもあった。ダリアは悪魔になりきってしまった。殺人淫楽者さつじんいんらくしゃという恐ろしい犯罪者にちたのだ。そして赤外線が視えるということが、彼女を裏切って秘密曝露ひみつばくろの鍵にまでなってしまった。それは後の話だがネ」
 そういって帆村は、何か恐ろしいことでも思い出したらしく、大きい溜息をつくと、ビールを口にもっていって、琥珀色こはくいろの液体をグーッとした。筆者わたくしびんをとりあげると、静かにいでやった。
「それからあの殺人騒ぎだ。暗闇の中に、次から次へ起る恐ろしい殺人事件。疑いは一応もってみても、眼のわるいお嬢さんに、そんな芸当が出来ようとは誰も思っていなかった。一方『赤外線男』という『男』の観念がすっかり普及していてお嬢さんに眼をつけることが阻害そがいされた。誰があの暗黒あんこくのなかで、りにって非常に正確を要する延髄えんずいの真中にはりを刺しこむことが出来るだろうか。『赤外線男』という超人ちょうじんでなければ、到底とうてい想像し得られないことだった。ダリア嬢は、しかりその超人的視力をもつ『赤外線女』だったんだ。これはあとで判ったことだけれど、彼女はあの銀鍼ぎんばりをシャープペンシルのじくの中に隠して持っていたのだった。
 これに対して僕の探偵力は、全く貧弱ひんじゃくなものだった。どう考えていっても、『赤外線男』という超人を肯定するよりほかに仕方がなくなるのだ。僕はそんな莫迦気ばかげたことがと排斥はいせきしていたのが、そもそも大間違いではなかったかと考え直し、それからもう一度一切の整理をやり返すと、始めてすこし事情が判って来た。
『赤外線男』が殺人をやるようになったのはく最近のことだ。以前においては『赤外線男』の呼び声は高かったにしろ、殺人事件はなかった。そこに何物かがひそんでいると気が付いた僕は、殺人事件の発生が、ダリアの一眼失明を機会にして其の以後に連続して行われたということを発見した。同時に探索たんさくの結果、ダリアの両眼の視力異常についても聞きこむことが出来た。よし、それなれば、何としてもけの皮をいでみせるぞ。そういう意気ごみで、僕はダリアに近づくと、大変心安くなった。折しも幸運なことに深山の写した子爵夫人と潮との秘交ひこうの赤外線映画が手に入ったので、そこにチャンスをつかむ計画をてた。僕は手筈をきめて、ダリア嬢を警視庁に呼び出したわけだった。
 最初の計画は、残念ながら失敗に近かった。それは庁内の警官射的場で、青赤黄いろとりどりの水珠みずたまのようにまる標的ひょうてきを二人で射つことだった。僕はドンドン気軽に撃って、彼女にも撃たせようとしたが、ダリアは早くも危険をさとって拳銃ピストルをとりあげようとはしなかった。しあの場合、彼女も射撃を始めたとしたら、必ずのっぴきならぬ証拠が出来る筈だった。それはあの色とりどりの円い標的の間に残る白い余白には、あの裏面から赤外線で照明している深山みやまの別個の標的があったのだ。彼女は赤外線も赤い色も判別する力はない。それは赤外線も、吾々が赤を識別できると同様、アリアリと眼にうつるからだ。しかし彼女は危険を感じて、吾々の眼には見えない赤外線標的を撃つことからがれた。しかし射撃をこばんだということが、僕の予想を大いに力づけて呉れる効能ききめはあった。
 さて、最後のトリック――それには鬼才きさいダリア嬢も見事に引っ懸ってしまった。それはすこし下卑げびた話だ。けれども、あの便所の一件だ。例のフィルムの映写中に彼女は激しい尿意にょういもよおしたのだった。それは勿論、すこし前に食堂で彼女が飲んだオレンジ・エードに、一服盛ってあったというわけサ。映画が終るやいなやダリア嬢は気が気でなく廊下へ飛び出した。もうこれ以上我慢をすると、女の身にとって顔から火の出るような粗相そそうを演ずることになる。彼女は極度に狼狽ろうばいしていたのだ。暗い廊下の向うを見ると、嬉しやそこには『便所』と書いた赤いあかりがついている。彼女はドアを押して飛びこんだ。果してそこには奥深く便器が並んでいた。彼女は用を足した。しかしここに彼女は、とりかえしのつかない大失敗をしたのだった。
 それは、この『便所』と書いた赤いあかりは、普通の視力をもった人間には、到底とうてい発見することの出来ない光だったのだ。つまり赤外線灯で『便所』という文字を照していたのだ。吾々のようなものならば、その前を無造作むぞうさに通りすぎてしまう筈だった。赤外線の見える女の悲しさに、ダリア嬢はついそのような灯の下をくぐってしまったのだ。その場の光景はかねて張番をさせて置いた監視員によって、すっかり見とどけられてしまった。とうとう異常な視力の持ち主は化の皮を剥がれてしまったのだ。流石さすがのダリア嬢もこうなっては策のほどこしようもなく、とうとう一切を白状してしまった。『赤外線男』――いや『赤外線女』の事件は、ざっとこんな風だった」





底本:「海野十三全集 第2巻 俘囚」三一書房
   1991(平成3)年2月28日第1版第1刷発行
初出:「新青年」
   1933(昭和8)年5月号
※本作品中には、身体的・精神的資質、職業、地域、階層、民族などに関する不適切な表現が見られます。しかし、作品の時代背景と価値、加えて、作者の抱えた限界を読者自身が認識することの意義を考慮し、底本のままとしました。(青空文庫)
入力:tatsuki
校正:土屋隆
2002年10月21日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




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