蠅男の声
井上一夫という偽名を使っている怪人蠅男が、ホテルへ電話をかけてきたというボーイの注進である。 帳場氏はもちろん真蒼に顔色をかえると、勇猛をもって鳴る大川司法主任も、空のトランクから手を放して、木製人形のように身体を硬直させた。ひとり帆村探偵は、咄嗟の間にも、この際どうすればいいかを知っていた。 「さあ君、帳場に来ている蠅男の電話を、早くその電話器につなぎかえたまえ」 と、この三三六号室の卓上電話器を指した。 帳場氏はオズオズと受話器に手をかけた。間もなく蠅男の声が、そのなかに流れこんできた。 「えッ、帆村さんだすか。へえ、居やはりま。いま代りますさかい。――」 帳場氏は帆村の方をむいて、蛇でも渡すかのように、受話器をさしだした。そして自分はうまく助かったとホッと大きな息をついた。 帆村は無造作に受話器をとった。しかし彼はそれを耳にもっていく前に、左手で鉛筆を出し、ポケットから出した紙片になにかスラスラと器用な左書きで文字をかきつけて、大川主任に手渡した。 大川はそれを受取って大急ぎで読み下した。そして無言のままおおきく肯くと、そのまま部屋を出ていった。 「ハイハイ、お待ちどうさま。僕は帆村ですが、貴方はどなたさんですか」 すると向うで、作り声らしい太い声が聞えてきた。 「探偵の帆村荘六君だネ。こっちは蠅男だ」 「えッ、電話がすこし遠いのでよく聞えませんが、ハヤイトコどうするんですか」 「ハヤイトコではない、蠅男だッ」 「えッ、早床さんですか。すると散髪屋ですね」 向うで呶鳴る声がした。 帆村は今日にかぎって、たいへんカンがわるいらしい。 「ああそうですか、蠅男だとおっしゃるんですな、あの今大阪市中に大人気の怪人物の蠅男でいらっしゃるわけですか。ちょっと伺いますが、本当の蠅男さんですか。まさか蠅男の人気を羨んで、蠅男を装っているてえわけじゃありますまいネ」 電話器の向うでは、せせら嗤う声が聞えた。帆村はソッと腕時計を見た。話をはじめてから、まだ四十秒! 「オイ帆村君。君は美しい令嬢糸子さんと、俺の手紙とをたしかに受取ったろうネ」 「ええどっちとも、確かに」 「ではあのとおりだぞ。貴様はすぐにこの事件から手を引くんだ。俺を探偵したり、俺と張り合おうと思っても駄目だからよせ。糸子さんは美しい。そして貴様が約束を守れば、俺はけっして糸子さんに手をかけない。いいか分ったろうな」 「仰有ることはよく分りましたよ、蠅男さん。しかし貴下は人殺しの罪を犯したんですよ。早く自首をなさい。自首をなされば、僕は安心をしますがネ」 「自首? ハッハッハッ。誰が自首なんかするものか。――とにかく下手に手を出すと、きっと後悔しなければならないぞ」 「貴方も注意なさい。警察では、どうしても貴方をつかまえて絞首台へ送るんだといっていますよ」 「俺をつかまえる? ヘン、莫迦にするな。蠅男は絶対につかまらん。俺は警察の奴輩に一泡ふかせてやるつもりだ。そして俺をつかまえることを断念させてやるんだ」 「ほう、一泡ふかせるんですって。すると貴方はまだ人を殺すつもりなんですね」 「そうだ、見ていろ、今夜また素晴らしい殺人事件が起って、警察の者どもは腰をぬかすんだ。誰が殺されるか。それが貴様に分れば、いよいよ本当に手を引く気になるだろう」 「一体これから殺されるのは誰なんです」 「莫迦! そんなことは殺される人間だけが知ってりゃいいんだ」 「ええッ。――」 「そうだ、帆村君に一言いいたいという女がいるんだ。電話を代るからちょっと待っとれ」 「な、なんですって。女の方から用があるというんですか――」 帆村はあまりの意外に、強く聞きかえした。そのとき電話口に、蠅男に代って一人の女が現われた。 「ねえ、帆村さん」 「貴女は誰です。名前をいって下さい」 「名前なんか、どうでもいいわ。けさからあたしたちをつけたりしてさ。早く宝塚から……」 とまで女がいったとき、帆村は向うの電話器のそばで、突然蠅男の叫ぶ声を耳にした。 「――し、失敗ったッ。オイお竜、警官の自動車だッ」 「えッ、――」 ガラガラと、ひどい雑音が聞えてきた。怪しき女は受話器をその場に抛りだしたものらしい。なんだか戸が閉まるらしく、バタンバタンという音が聞えた。それに続いて、ドドドドッという激しい銃声が遠くに聞えた。 「あ、機関銃だ!」 帆村は愕然として叫んだ。
醒めたる麗人
電話が切れて、不気味な機関銃の音も聞えなくなった。しかし帆村の耳底には、微かながらも確かに聞いた機関銃の響きがいつまでもハッキリ残っていた。 機関銃の響きを聞いて、帆村が愕然とするのも無理ではなかった。 忘れもせぬ十二月二日、鴨下ドクトルの留守邸に、焼ける白骨屍体を発見したあの日、何者かの射つ機関銃のために、彼帆村は肩に貫通銃創をうけたではないか。だから機関銃と聞けば、ために全身の血が俄かに逆流するのもことわりだった。 あの機関銃は、一体どっちが撃ったのであろうか。 警官隊であろうはずがない。 すると、機関銃はたしかに蠅男と名乗る電話の人物がぶっ放したものとなる。 機関銃と蠅男! 「うむ、やっぱりそうだったか」 帆村は呻るように云った。 鴨下ドクトル邸に於て、彼を機関銃で撃ったのは、紛れもなく蠅男だったにちがいない。蠅男はあの日、ドクトル邸の二階に隠れていて、そこへ上ってきた彼を撃ったのにちがいない。 「そうか。――すると蠅男と僕とは、すでに事件の最初から血腥い戦端をひらいていたんだ。そういうこととは今の今まで知らなかった。うぬ蠅男め、いまに太い鉄の棒をはめた檻のなかに入れてやるぞ」 帆村は切歯扼腕して口惜しがった。 凶暴な機関銃手があの蠅男だということに決まれば、彼は事件をもう一度始めから考え直さねばならないと思った。 それから今の電話によって、もう一つ新しく知った事実があった。それは蠅男がいつも一人で居るのかと思ったのに、今の電話で、蠅男には連れの人物があることが分った。 それは年若い女性だった。 (し、失敗ったッ。オイお竜!) たしかにお竜――と蠅男は呼んだ。 そのお竜のことであるが、彼女は何か帆村に云いたがって電話に懸ったが、僅か数語しか喋らないうちに、蠅男が警官隊の襲来を知らせたので、話はそのままに切れた。 だがその短い数語によって、彼女は何者かということがハッキリ分ったような気もする。 (けさから、宝塚であたしたちをつけて……) といったが、今朝から宝塚でつけた女といえば、あの池谷医師の連れの女の外ないのである。あれがお竜にちがいない。丸顔の背のすらりとした美人であった。年齢のころは、見たところ二十四か五といったところだったが、たいへん仇っぽいところから、或いはもっと年増なのかも知れない。 その怪しの美人お竜は、池谷医師と連れだって、新温泉の娯楽室のなかで一銭活動写真のフィルム「人造犬」の一巻を購い、それからまた肩をならべて林の向うの池谷邸に入っていったのである。それっきり、二人の姿は邸内にも発見されなかった。一体二人はどこへ行ったのだろう。 ところがひとりお竜だけは、電話の声に過ぎないとはいえ、再び帆村の前に現われたのである。しかも蠅男の連れとして彼の前に関係を明らかにしたのである。一方、池谷医師はどうしたであろうか。いまごろは彼の別邸か医院に姿を現わしているであろうか。 池谷医師は、あのお竜とどういう関係なのであろう。お竜があの恐ろしい蠅男の一味だということを知っているのであろうか。もし知っていれば、あんな女と肩を並べて歩くはずがない。考えてゆくと全く不思議な謎であった。 とにかく池谷医師の所在を、もう一度丁寧に調べる必要がある。大川司法主任と相談して調べることにしよう。そういえば、大川は下へ下りていったきり、なかなか帰ってこないが、なにをしているのであろう。 帆村が不審を起しているところへ、当の大川主任は佩剣を握ってトントンと飛びこんできた。 「大川さん。どうです、分った?」 「分った。――」 主任は、苦しそうに喘ぎ喘ぎ応えた。 「どう分ったんです?」 「天王寺の新世界のわきだす」 「え、新世界のそば?」 「はア、そや。天王寺公園南口の停留場の前に、一つ公衆電話がおまんね。その中に、蠅男が入りよったんや。あんさんの命令どおり、すぐ電話局へかけてみて、あんさんの話し相手が今どこから電話をかけているか調べてもろうてな、それから直ぐ署の方へ連絡しましたんや。蠅男が今これこれのところから電話を懸けているねン、はよ手配たのみまっせいうたら、署長さんが愕いてしもうて、へえ蠅男いう奴はやっぱり人間の声だして話しているかと問いかえしよるんや。――しかしすぐ手配するいうとりました」 帆村はうちうなずいて、主任に今しがた電話を通じて警官隊が現場に到着したらしい騒ぎを耳にしたことや、蠅男が女を連れていて、機関銃をもって抵抗し、そのうちにどこかに行ってしまったことを話した。大川主任は、なるほど、ほうほう、さよかいなを連発しながら、帆村の機智によるこの蠅男追跡談にいとも熱心に耳を傾けた。 丁度そのとき、部長の連れてきた一人の警官が、部屋に入ってきた。 「部長さん、あの娘がどうやら目が覚めたらしゅうおまっせ」 その警官は、蠅男の手によってこのホテルの帆村の借りている部屋に寝かされていた故玉屋総一郎の一人娘糸子を保護していたのだった。糸子は睡眠薬らしいものを盛られて、トランクのなかからズッと睡りつづけていたのだが、今やっと覚めたものらしい。 帆村はそれを聞くと、すぐに糸子のところへ駈けつけた。 「どうしました、糸子さん」 糸子はベッドに寝たまま、乱れた髪をすんなりとした指さきでかきあげていたが、思いがけない帆村の姿をみてハッとしたらしく、みるみる頬を真赤に染めて、 「まあ帆村さん、うちどないして、こんなところへ来ましたんやろ。ここ、どこですの」 と、床の上に起きあがろうとしたが、呀っと小さい声をたてて、また床の上にたおれた。 「――目がまわって、かなわん」 帆村はつとよって、糸子の腕をとり、そして脈を見た。脈はすこし早かった。 心臓がよわっているようだ。 「糸子さん、静かにしていらっしゃい。こんどはもう大丈夫、十分信頼していい警官の方が保護して下さっていますから、何も考えないで、今夜はここで泊っていらっしゃい。ばあやさんか誰か呼んであげましょうか」 「そんなら、家へ電話かけてお松をよんで頂戴」 「医者も呼んであげましょう」 「いいえ、お医者はんはもう結構だす。すぐなおりますさかい、お医者さんはいりまへん。池谷さんにも、うちのこと知らせたらあきまへんし」 糸子はひどく医者を恐怖していた。もちろん池谷医師に対する不信のせいであろうと思われるが。 帆村と大川主任とは、糸子をいろいろと慰めてから、その部屋を出た。そして廊下に出て、たがいに顔を見合わせた。 「糸子はんのことは、首にかけて引受けまっさ。どうぞ安心しとくなはれ」 と大川主任は強く自信ありげな言葉でいった。 「じゃ、貴官にくれぐれもお頼みしますよ」 そういって帆村は、主任の手をギュッと握った。部長は帆村の心の中の秘めごとも知らず、ただ感激して帆村の手を強く握りかえした。
蠅男包囲陣
帆村は天王寺公園のところで、夜の非常警戒線にひっかかった。彼は後事を大川主任に頼み、宝塚のホテルから自動車をとばして住吉署に向う途中だったのだ。住吉署に行ってから、先刻の彼が一役買った蠅男捕物の話も聞いたり、それから久方ぶりで帰邸したという奇人館の主人鴨下ドクトルにも会ってみるつもりだった。ところが公園の近くまで来ると、非常警戒線だという騒ぎである。 帆村探偵は車を下りて、頤紐をかけた警官に、住吉署の正木署長が来ていないかと尋ねた。 「ああ正木さんなら、公園南口の公衆電話のそばに、うちの署長と一緒に居やはるはずだっせ。そこに警戒本部が出張してきとりますのや」 うちの署長というのは、戎署のことをいうのであろう。天王寺公園や新世界は、この戎署の管轄だった。 帆村探偵は警戒線のなかに入れて貰って、市電のレール添いに公園南口の方へ歩いていった。行くほどになるほど公衆電話の函が見えてきた。さっきホテルから蠅男と話をしたとき、怪人物蠅男はあの電話函のなかに入っていたんだ。美人お竜も、あの函の前であたりに気を配っていたのかも知れない。近づくに従って、一隊の警察官が停留場の前に佇立しているのを認めた。丁度誰何した警官があったのを幸い、彼を案内に頼んで、その一行に近づいた。 なるほど正木署長もいた。帆村と親しい村松検事もいた。戎署長の真赤な童顔も交っていた。 正木署長は手をあげて帆村をよんだ。 「やあ皆さん。蠅男が電話をかけているのを知らせてくれた殊勲者、帆村探偵が来られましたぜ。その方だす」 旧知も新知も帆村の方をむいてその殊勲をねぎらった。 「署長さん。蠅男はどうしました」 「さてその蠅男やが、折角知らせてくれはったあんたにはどうも云いにくい話やが――実は蠅男をとり逃がしてしもうたんや」 「はア、逃げましたか」 「逃げたというても、逃げこんだところが分ってるよって、いま見てのとおり新世界と公園とをグルッと取巻いて警戒線をつくっとるのやが――」 「ああなるほど、そのための非常警戒ですか。女の方はどうしました、あのお竜とかいう……」 「ああ、あれも一緒に、そこの軍艦町に逃げこんでしもて、あと行方知れずや」 「え、軍艦町?」 「はア、軍艦町には、狭い関東煮やが沢山並んでて、どの店にも女の子が三味線をひいとる、えろう賑やかな横丁や。そこへ逃げこんだが最後、どこへ行ったかわかれへん」 「じゃあ、どっちも捕える見込み薄ですね」 「しかし儂の考えでは、二人ともまだこの一画のなかにひそんどる。それは確かや。この一画ぐらい隠れやすいところはないんや。そしていずれ隙を見て、チョロチョロと逃げ出すつもりやと睨んどる。もっと待たんと、ハッキリしたところが分れしまへんな」 そこへ一人の警官が、伝令と見えて、向うからかけて来た。 「いま向いの動物園の中で妙な洋服男がウロウロしとるのを見つけました。こっちへ出てくる風でおます。それとなく警戒しとります」 動物園というのは、公園南口停留場のすぐ向いにあった。この寒い夜中に、動物園のなかをうろついているというのはいかさま変な話だった。 そのとき村松検事が、例の病人のような骨ばった顔をこっちへ近づけてきた。 「オイ帆村君。なにか面白い話でも聞かさんか。儂は至極退屈しているんだ」 検事は浮かぬ顔をしていた。折角の捕物がうまくいかないので、腐っているらしい。 「面白い話は、こっちから伺いたいくらいですよ。蠅男がアメリカのギャングのように機関銃を小脇にかかえてダダダッとやったときの光景はいかがでした」 「ウン、なかなか勇壮なものだったそうだ。味方はたちまち蜘蛛の子を散らすように四散して、電柱のかげや共同便所のうしろを利用してしまったというわけさ」 「検事さんのお口にかかっては、こっちは皆シャッポや」と署長は苦笑いをした。「それよりも帆村はん、豪い妙な話がおますのや。それは蠅男の機関銃のことだすがナ、その機関銃の銃身がこっちには皆目見えへなんだちゅうのだす」 「え、もう一度いって下さい」 「つまり、蠅男は機関銃を鳴らしとるのに違いないのに、その肝腎の銃身がどこにも見えしまへんねん」 「それはおかしな話ですね。蠅男はどんな風に構えていたんですか」 「ただこういう風に」と署長は左腕を水平に真直に前につきだしてみせ、「左腕を前につきだして立っとるだけやったいう話だす。手にはなんにも持っとらしまへんねん。透明機関銃やないかという者も居りまっせ」 「透明機関銃? まさか、そんなのがあろう筈がない。何か見ちがえではないのですか」 「いや、蠅男に向うた誰もが、云いあわしたようにそういいよったんで……」 「フーム」 帆村はその奇怪な話を聞いて、狐に鼻をつままれたような気がした。 「そうそう、そういえば先刻の蠅男の電話では、蠅男は今夜のうちにまた誰かを殺すといっていましたよ」 「なに今夜のうちに、また殺すって」 検事が愕いて聞きかえした。 「ほんまかいな――」 正木署長は恐怖のあまりしばらくは口も利けなかったほどだった。 「誰か蠅男から脅迫状をうけとった者はないのですか」 検事と署長とは、思わず不安げな顔を見合わせた。
奇行ドクトルの出現
「誰だろう、こんどの犠牲は?」 「さあ、蠅男から死の脅迫状をうけとったいう訴えはどこからも来てえしまへんぜ」 「フーム、変だな」 検事と署長とは、強く首をふった。 「なんだ。誰が殺されるか、まだ分っていないのですか」 帆村も唖然とした。蠅男は電話でもってたしかに殺人を宣言したのだった。そしてその殺人は、満都を震駭させるほど残虐をきわめたものであるらしいことは、蠅男の口ぶりで察せられた。あの見栄坊の蠅男が、それほどの大犯罪をやろうとしながら、相手に警告状を出さない筈はないと思われる。 そもこの戦慄すべき犠牲者は、何処の誰なのであろうか。 「来た来た、あれだッ」 と、そのとき叫ぶ者があった。 帆村はハッとしてその方を向いた。 動物園の入口から、一人の老紳士が警官に護られながらこっちへ歩いてくるのが見えた。それは、さっき伝令の警官から報告のあったように、夜の動物園のなかにうろついていた疑問の人物であろう。 老紳士はすこし猫背の太った身体の持ち主だった。頭の上にチョコンと小さい中折帽子をいただき、ヨチヨチと歩いてくる。そして毛ぶかい頤鬚や口髭をブルブルふるわせながら、低声の皺がれ声で何かブツブツいっていた。どうやら警官の取扱いに憤慨しているらしかった。 「……どうもお前らは分らず屋ばかりじゃのう。早く分る男を出せ。天下に名高い儂を知らないとは情けないやつじゃ」 と、老紳士はプンプンしていた。 「おお、あれは鴨下ドクトルじゃないか」 と正木署長は、意外の面持だった。 「儂を知らんか、知っとる奴が居るはずやぞ。もっと豪い人間を出せ」 「おお鴨下ドクトル!」 「おお儂の名を呼んだな。――呼んだのはお前じゃな。うむ、これは署長じゃ。この間会って知っている。お前は感心じゃが、お前の部下は実に没常識ぞろいじゃぞ。儂のことを蠅男と呼ばわりおったッ」 老紳士は果然鴨下ドクトルだったのだ。ドクトルはなおも口をモガモガさせて、黒革の手袋をはめた手に握った細い洋杖をふりあげて、いまいましそうにうちふった。 正木署長はドクトルに事情を話して諒解を乞うた上で、なおドクトルが夜の動物園で何をしていたのかを鄭重に質問した。 「なにをしようと、儂の勝手じゃ。儂の研究の話をしたって、お前たちに分るものか」 「それでもドクトル、一応お話下さらないとかえってお為になりませんよ」 「ナニ為にならん。お前は脅迫するか。儂は云わん、知りたければ塩田律之進に聞け」 「えッ、塩田律之進というと、アノ鬼検事といわれた元の検事正塩田先生のことですか」 村松検事が愕いて横合いから出てきた。 「そうじゃ、塩田といえば彼奴にきまっとる。あれは儂の昔からの友人じゃ」とドクトルはジロリと一同を見まわし、 「それに儂は塩田と約束して、これから堂島の法曹クラブに訪ねてゆくことになっとる。心配な奴は、儂について来い。しかし邪魔にならぬようについて来ないと、遠慮なく呶鳴りつけるぞ」 あの有名な塩田先生の友人と聞いては、検事も署長も、大タジタジの体であった。なかにも村松検事は、塩田先生の門下の俊才として知られていた。それで彼は、この上、先生の友人である鴨下ドクトルを警官たちが怒らせることを心配して、 「じゃあドクトル、塩田先生にはしばらく御無沙汰していましたので、これから一緒にお伴をしてもいいのですかネ」 「なんじゃ、貴公がついて来るというのか。ついて来たけりゃついてくるがいい。しかし今もいうとおり、邪魔にならぬようにしないと、この洋杖でなぐりつけるぞ」 奇人館の主人は、なるほど奇人じみていた。検事はそれをうまくあしらいながら、署長たちに断りをいって、ドクトルのお伴をすることになった。堤のところに待っていた一台の警察の紋のついた自動車がよばれ、それにドクトルと検事は乗りこんで、出かけていった。 帆村は、はじめて見た鴨下ドクトルの去ったあとを見送りながら、 「フーム、実に興味津々たる人物だ」 と歎息した。 そして正木署長の方を向いて、鴨下ドクトルが帰館して、あの暖炉のなかの屍体のことをどういったか、それからまたドクトルは何処に行っていたのかなどという予て彼の知りたいと思っていたことを訊いてみた。 それに対して署長は苦笑いをしながら、イヤどうも万事あの調子なので、訊問に手古ずったがと前置きして、次のように説明した。 すなわちドクトルは、急に思いたって東京に行っていたのだそうである。そして十二月一日から五日まで、上野の科学博物館へ日参して博物の標本をたんねんに見てきたそうである。宿は下谷区初音町の知人の家に泊っていたという。 それから暖炉のなかの屍体は、一向心あたりがないという。これはお前たちの警戒が下手くそのせいだとプンプン怒っていたとのことである。 ドクトルのいったことが正に本当かどうか、それは上申して目下取調べを警視庁に依頼してあるということだった。 帆村は早くその報告が知りたいものだと思った。しかしまだ二、三日は懸るのであろう。 「それから正木さん。ドクトルの娘のカオルさんたちはどうしました。いまの話では行き違いになったらしいが、今どこにいるのですか」 「ああそのことや。実はドクトルからも尋ねられたことやけれど、娘はんとあの上原山治という許婚は、ドクトルが居らへんもんやさかい、こっちへ来たついでやいうて、いま九州の方かどっかへ旅行に出とるのんや。帰りにきっと本署へ寄るという約束をしたんやさかい、そのうち寄るやろ思うてるねん」 「ほほう、そうですか」
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