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馬妖記(ばようき)

作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006-8-28 9:28:09 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语


     三

 古河市五郎が運び込まれたのは、かの次郎兵衛後家のお福の家であった。お福の家は母のおもよと貰い娘のおらちという今年十六の小娘と、女ばかりの三人暮らしであったが、そのなかで働き盛りのお福は海馬に踏み殺されて、老人と小娘ばかりが残ったのである。幸いにおもよは六十を越してもまだ壮健であるので、やがてはおらちに相当の婿を迎えることにして、ともかくも一家を保っているのであった。そういう訳であるので、おもよは我が身の不幸に引きくらべて、傷ついた若侍にもいっそう同情したらしく、村の人びとの先に立って親切に彼を介抱した。
 そこへ城内の人々がたずねて来た。市五郎の容態はなにぶん軽くないのをみて、一行十一人のうちから四人は彼に附添って帰城することになった。その四人の中に甚七も加えられた。それは伊丹弥次兵衛の意見で、彼がふたたび失態を演じた場合には、今度こそほんとうに腹でも切らなければならない事になるのであるから、いっそ怪我人を守護して帰城した方が無事であろうというのであったが、本人の甚七はどうしてもかなかった。武士の面目、たとい命を捨ててもよいから是非とも後に残りたいと言い張るので、結局他の者をもって彼に代えることになった。
 こうなると、甚七ばかりでなく、怪我人に附添ってむなしく帰城するよりも、あとに残って海馬探検に加わりたいという志願者が多いので、弥次兵衛も少しくその処置に苦しんだが、どうにかその役割も決定して、怪我人を戸板にのせて村の者四人にかつがせ、さらに四人の若侍がその前後を囲んで帰城することになった。あとには弥次兵衛と甚七をあわせて、七人の者が残されたわけである。
「馬妖記」にはその七人の姓名が列挙れっきょしてある。それは伊丹弥次兵衛正恒、穂積権九郎宗重、熊谷小五八照賢、鞍手助左衛門正親、倉橋伝十郎直行、粕屋甚七常定、神原茂左衛門基治で、年齢はいちいちしるされていないが、十九歳の茂左衛門基治、すなわちこの「馬妖記」の筆者が一番の年少者であったらしい。この七人が三組に分れた。第一組は弥次兵衛と助左衛門、第二の組は権九郎と小五八、第三の組は伝十郎と甚七で、茂左衛門一人はこの次郎兵衛後家の家に残っていることになった。要するにここを本陣として、誰か一人は留守居をしていなければならないというので、最年少者の茂左衛門がその留守番を申付けられたのである。組々の侍には村の若者が案内者として二人ずつ附添い、都合四人ずつが一組となってここを出発する頃には、夜もいよいよ更けて来て、暗い大空はこの村の上に重く掩いかかっていた。
 留守番はもちろん不平であったが、茂左衛門は年の若いだけに我慢しなければならなかった。土間にころがしてある切株きりかぶに腰をかけて、彼は黙って表の闇を睨んでいると、おもよは湯を汲んで来てくれた。
「御苦労さまでござります。」
「大勢がいろいろ世話になるな。」と、茂左衛門はその湯をのみながら言った。それが口切りとなって、おもよは海馬の話をはじめた。茂左衛門も心得のためにいろいろのことを訊いた。
「ここの女房は飛んだ災難に逢って、気の毒であったな。」
「まことに飛んだ目に逢いましてござります。」と、おもよは眼をうるませた。「しかし立派なお侍さまさえもあんな事になるのでござりますから、わたくし共の娘などは致し方がござりません。」
 立派な侍さえもあんな事になる――それが一種の侮辱のようにも聞かれて、年の若い茂左衛門は少しく不快を感じたが、いつわり飾りのない朴訥ぼくとつの老婆に対して、彼は深くそれを咎める気にもなれなかった。それにつけても市五郎らの失敗を彼は残念に思った。
「ここの女房は海馬に踏み殺されたのだな。」と、茂左衛門はまた訊いた。
「さようでござります。あばらの骨を幾枚も踏み折られてしまいました。」
「むごい事をしたな。」
「わたくしも実に驚きました。」と、おもよはいよいよ声を陰らせた。「それも淫奔いたずらばちかも知れません。」
「隣り村の若い者が一緒にいたのだそうだな。それは無事に逃げたのか。」
「それは隣り村の鉄作と申す者で、やはり男でござりますから、お福を置き去りにして真っ先に逃げてしまったと見えます。」と、おもよは少しく恨み顔に言った。「お福はわたくしの生みの娘で、ことし三十八になります。次郎兵衛というものを婿にもらいましたが、夫婦の仲に子供がございませんので、おらちという貰いをいたしまして、それはことし十六になります。次郎兵衛はおととしの夏に亡くなりまして、その後は女三人でどうにかこうにか暮らしておりますと、お福はいつの間にか隣り村の鉄作と……。鉄作はことし確か二十歳はたちの筈で、おらちと従弟いとこ同士にあたりますので、ふだんから近しく出入りは致しておりましたが、お福とは親子ほども年が違うのでござりますから、わたくしもよもやと思って油断しておりますと、飛んでもない淫奔から飛んでもない災難に出逢いまして……。腹が立つやら悲しいやら、なんともお話になりませんような訳で、世間に対しても外聞がいぶんが悪うござります。」
「その鉄作はどうしている。」
「この頃はからだもすっかり癒りまして、自分でもお福を見殺しにして逃げたのを、なんだか気が咎めるのでございましょう。時どきにたずねて来ていろいろの世話をしてくれますが、あんな男に相変らず出入りをされましては、なおなお世間に外聞が悪うござりますから、なるべく顔を見せてくれるなといって断っております。」
 言いかけて、おもよは気がついたように暗い表に眼をやった。
「おや、雨が降ってまいりました。」
 茂左衛門も気がついて表を覗くと、闇のなかに雨の音がまばらに聞えた。
「とうとう降って来たか。」
 彼はって軒下へ出ると、おもよも続いて出て来た。
「皆さまもさぞお困りでござりましょう。どうもこの頃は雨が多くて困ります。」
 家の前にも横手にも空地あきちがあって、横手には小さい納屋なやがある。それにふと眼をつけたらしいおもよは急に声をかけた。
「そこにいるのはおらちではないか。さっきから姿が見えねえから、奥で寝ているのかと思っていたに……。この夜更けにそんな所で何をしているのだ。」
 叱られて納屋の蔭からその小さい姿をあらわしたのは、おもよが改めて紹介するまでもなく、ことし十六になるという孫娘のおらちであることを、茂左衛門はすぐに覚った。おらちは物にじるような落ちつかない態度で、二人の前に出て来た。
「お城のお侍さまに御挨拶をしないか。」と、おもよはまた言った。
 おらちは無言で茂左衛門に会釈えしゃくして、あとを見かえりながら内にはいると、おもよは独り言のように、あいつ何をしていたかと呟きながら、入れ代って納屋の方へ覗きに行ったかと思う間もなく、老女は忽ちに声をとがらせた。
「そこにいるのは誰だよ。」
 それに驚かされて、茂左衛門も覗いてみると、納屋の蔭にまだひとつの黒い影が忍んでいるらしかった。おもよは咎めるようにまた呶鳴った。
「誰だよ。鉄作ではないか。今ごろ何しに来た。お福の幽霊に逢いたいのか。」
 相手はそれにも答えないで、暗い雨のなかを抜け出してゆく足音ばかりが聞えた。そうして、それが家の前からまだ四、五間も行き過ぎまいかと思われる時に、きゃっという悲鳴がまた突然にきこえた。つづいて嘶くのか、吠えるのか、唸るのか、得体えたいのわからない一種の叫びが闇をゆするように高くひびいた。
「あ、あれでござります。」と、おもよは俄かにおびえるようにささやいた。
 もう問答のいとまもない。茂左衛門はおどるように表へ飛び出すと、雨はだんだんに強くなっていた。引っかえして火縄をつける間も惜しいので、彼はその叫びのきこえた方角へまっしぐらに駈けて行くと、草鞋わらじは雨にすべって路ばたの菜畑に転げ込んだ。一旦は転んでまた起きかえる時、彼は何物にか突き当ったのである。それが大きい獣であるらしいことを覚ったが、あまりに距離が近過ぎるので、茂左衛門は刀を抜くすべがなかった。
 彼は必死の覚悟でその怪物に組み付くと、相手は強い力で振り飛ばした。振り飛ばされて茂左衛門はまた倒れたが、すぐにね起きて刀をぬいた。そうして、暗いなかを手あたり次第に斬り廻ったが、やいばに触れるものは菜の葉や菜の花ばかりで、一向にそれらしい手ごたえはなかった。耳を澄ましてその足音を聞き定めようとしたが、あいにくに降りしきる雨の音に妨げられて、それも判らなかった。
「残念だな。」
 がっかりして突っ立っているところへ三、四人が駈けつけて来た。それは第三の組の倉橋伝十郎と粕屋甚七と、案内の者どもであった。かれらはあの怪しい叫びを聞き付けて駈け集まったのであるが、もうおそかった。伝十郎も口惜くやしがったが、取り分けて甚七は残念がった。彼は宵の恥辱をすすごうとして、火縄をむやみに振って駈けまわったが、結局くたびれぞんに終った。
 第三の組ばかりでなく、第一第二の組もおいおいに駈け付けた。そうして、たいまつを照らしてそこらを探し廻った。それもやはり不成功に終ったので、よんどころなく本陣にしている次郎兵衛後家の家へいったん引揚げることになった。ここで初めて発見されたのは、茂左衛門の左の手に幾筋の長い毛をつかんでいたことであった。
 いつどうしてこんなものを掴んだのか、自分にも確かな記憶はない。だんだん考えてみると、暗いなかを無暗むやみに斬っているあいだに、何物かを掴んだことがあるようにも思われる。あるいはその時、片手は獣の毛を掴んで、片手でそれを切ったのかも知れない。あるいは確かにそれを切るという気でもなく、ただ無暗に振りまわした切っ先があたかもそれに触れたのかも知れない。茂左衛門自身もいっさい夢中であったので、何がどうしたのか、その説明に苦しむのであるが、ともかくも自分の手に怪しい獣の毛を掴んでいるのは事実である。彼はその毛を夢中でしっかり握りつめて、片手なぐりに斬って廻っていたものらしい。
「いや、なんにしてもお手柄だ。渡辺綱わたなべのつなが鬼の腕を斬ったようなものだ。」
 今夜の大将ともいうべき伊丹弥次兵衛は褒めた。

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