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家なき子(いえなきこ)01

作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006/9/1 11:43:28 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语



     船の上

 わたしが重たい心で、赤い目をふきふき宿屋(やどや)に帰ると、ちょうど亭主(ていしゅ)が庭に出ていた。
 わたしは犬のいる所へ行こうとしてその前を通ると、かれはわたしを引き止めた。
「どうだ、親方は」とかれは言った。
「有罪(ゆうざい)の宣告(せんこく)を受けました」
「どのくらい」
「二か月の禁固(きんこ)です」
「罰金(ばっきん)はどのくらい」
「百フラン」
「二か月……百フラン」かれは二、三度くり返した。
 わたしはずんずん行こうとした。するとかれはまた引き止めた。
「その二か月のあいだおまえはどうするつもりだ」
「ぼくはわかりません」
「おや、おまえわからないと。おまえ、とにかく自分も食べて、犬やさるに食べ物を買ってやるお金がなければなるまい」
「いいえ、ないのです」
「じゃあ、おまえはわたしが養(やしな)ってくれると思っているのか」
「いいえ、わたしはだれのやっかいになろうとも思いません」
 それはまったくであった。わたしはだれのやっかいにもなるつもりはなかった。
「おまえの親方はこれまでも、もうずいぶんわたしに借(か)りがある」とかれは言った。「わたしは二か月のあいだ金をはらってもらえるかどうかわからずに、おまえをとめておくことはできない。出て行ってもらわなければならないのだ」
「出て行く。どこへ行ったらいいでしょう」
「それはわたしの知ったことではない。わたしはおまえのおやじでも親方でもなんでもないからな。どうしておまえの世話をしてやれよう」
 しばらくのあいだわたしは目がくらくらとした。亭主(ていしゅ)の言うことはもっともであった。どうしてかれがわたしの世話をしてくれよう。
「さあ、犬とさるを連(つ)れて出て行ってくれ。親方の荷物は預(あず)かっておく。親方が刑務所(けいむしょ)から出て来れば、いずれここへ寄(よ)るだろうし、そのときこちらの始末(しまつ)もつけてもらおう」
 このことばから、ある考えがわたしの心にうかんだ。
「いずれそのときはお勘定(かんじょう)をはらうことになるでしょうから、それまでわたしを置(お)いてはくださいませんか。その勘定にわたしのぶんも加(くわ)えてはらえばいいでしょう」
「おやおや、おまえの親方は二日分の食料(しょくりょう)ぐらいははらえるかもしれんが、二か月などはとてもとてもだ。そりやあまるで別(べつ)な話だよ」
「わたしはいくらでも少なく食べますから」
「だが、犬もいればさるもいる。いけないいけない。出て行ってくれ。どこかいなかで仕事を見つけて、金をもらって歩けばいいのだ」
「でも親方が刑務所(けいむしょ)から出て来たときに、どうしてわたしを探(さが)すでしょう。きっとこちらへ訪(たず)ねて来るにちがいありません」
「だからおまえもその日にここへ帰って来ればいいのだ」
「それでもし手紙が届(とど)いたら」
「手紙は取っておいてやるよ」
「でもわたしが返事を出さなかったら……」
「まあいつまでもうるさいな。急いで出て行ってくれ。五分間の猶予(ゆうよ)をやる。五分たってわたしが帰って来ても、まだここにいれば承知(しょうち)しないから」
 わたしはこの男と言い合うのはむだだということを知っていた。わたしは出て行かなければならなかった。
 わたしは犬とジョリクールを連(つ)れにうまやへ行った。それから肩(かた)にハープをしょって、宿(やど)を出た。
 わたしは大急ぎで町を出なければならなかった。なぜというに、犬に口輪(くちわ)がはめてないのだから、巡査(じゅんさ)にとがめられてもなんと答えようもなかった。わたしには金がないといおうか、それはまったくであった。わたしはかくしにたった十一スーしか持たなかった。それだけでは口輪を買うにも足りなかった。巡査がわたしを拘引(こういん)するかもしれない。親方もわたしも二人とも刑務所(けいむしょ)に入れられたら、犬やさるはどうなるだろう。わたしは自分の位置(いち)に責任(せきにん)を感じていた。
 わたしが足早に歩いて行くと、犬たちが顔を上げてながめた。その様子をどう見ちがえようもなかった。かれらは腹(はら)が減(へ)っていた。
 わたしの背嚢(はいのう)に乗っていたジョリクールは、しじゅうわたしの耳を引(ひ)っ張(ぱ)って無理(むり)に自分の顔を見させようとした。わたしが顔を向けると、かれはせっせと腹(はら)をかいて見せた。
 わたしもやはり腹がすいていた。わたしたちは朝飯(あさめし)を食べなかった。わたしの持っている十一スーでは昼食と晩食(ばんしょく)を食べるには足りなかった。そこでわたしたちは一食で両方兼帯(けんたい)の昼食を食べて、満足(まんぞく)しなければならなかった。
 わたしたちは巡査(じゅんさ)に出っくわさないように、少しでも急いで市中をはなれなければならなかったから、どの道をどう行くなんていうことはかまわなかった。どの道を歩いても同じことであった。どこへ行っても食べるには金が要(い)るし、宿屋(やどや)へとまれば宿銭(やどせん)を取られる。それにねむる場所を見つけるくらいはたいしたことではなかった。このごろの暖(あたた)かい季節(きせつ)ではわたしたちは野天にねむることができた。
 さしせまっているのは食物だ。
 一休みもせずに、わたしたちは二時間ばかり歩き続(つづ)けたあとで、やっと立ち止まることができた。そのあいだ犬たちはたのむような目つきでしじゅうわたしの顔を見た。ジョリクールは耳を引(ひ)っ張(ぱ)って、絶(た)えずおなかをさすっていた。
 とうとう、わたしはここまで来ればもうなにもこわがることはないと思うところまで来てしまった。わたしはすぐそこにあったパン屋にとびこんだ。
 わたしは一斤半(きんはん)パンを切ってくれと言った。
「おまえさん、二斤におしなさいな。二斤のパンはどうしても要(い)りますよ」とおかみさんは言った。「それでもそれだけの同勢(どうぜい)にはたっぷりとは言えない。かわいそうに、畜生(ちくしょう)にはじゅうぶん食べさしておやんなさい」
 おお、どうして、むろんわたしの同勢にはたっぷりではなかった。けれどもわたしの財布(さいふ)にはたっぷりすぎた。
 パンは一斤(きん)五スーであった。二斤買えば十スーになる。わたしはあしたどうなるかわからないのに、手もとを使いきるのはりこうなことではなかった。わたしはおかみさんに打ち明けて一斤半でたくさんだというわけを話して、それ以上(いじょう)を切(き)らないようにていねいにたのんだ。
 わたしは両うでにしっかりパンをかかえて店を出た。犬たちがうれしがって回りをとび回った。ジョリクールが髪(かみ)の毛(け)を引(ひ)っ張(ぱ)ってうれしそうにくっくっと笑(わら)った。
 わたしたちはそこから遠くへは行かなかった。
 まっ先に目に当たった道ばたの木の下でわたしはハープを幹(みき)によせかけて、草の上にすわった。犬たちはわたしの向こうにすわった。カピはまん中に、ドルスとゼルビノはその両わきにすわった。くたびれていないジョリクールは、きょろきょろとうの目たかの目で、なんでもまっ先に一きれせしめようとねらっていた。
 パンを同じ大きさに分けるのはむずかしい仕事であった。わたしはできるだけ同じ大きさにして、五きれにパンを切った。そのうえいくつかの小さなきれに割って一きれずつめいめいに分けた。
 わたしたちよりずっと少食だったジョリクールはわりがよかった。それでかれがすっかり満腹(まんぷく)してしまったとき、わたしたちはやはり腹(はら)がすいていた。わたしはかれのぶんから三きれ取って背嚢(はいのう)の中にかくして、あとで犬たちにやることにした。それからまだ少し残(のこ)っていたので、わたしはそれを四つにちぎって、てんでに一きれずつ分けた。それが食後のお菓子(かし)であった。
 このごちそうがけっして食後の卓上演説(たくじょうえんぜつ)を必要(ひつよう)とするほどりっぱなものではなかったのはもちろんであるが、わたしは食事がすんだところで、いまがちょうど仲間(なかま)の者に二言三言いいわたす機会だと感じた。わたしはしぜんかれらの首領(しゅりょう)ではあったが、この重大な場合に当たって、かれらに死生をともにすることを望(のぞ)むだけの威望(いぼう)の足(た)りないことを感じていた。
 カピはおそらくわたしの意中を察(さっ)したのであろう。それでかれはその大きなりこうそうな目を、じつとわたしの日の上にすえてすわっていた。
「さて、カピ、それからドルスも、ゼルビノも、ジョリクールも、みんなよくお聞き。わたしはおまえたちに悲しい知らせを伝(つた)えなければならないのだよ。わたしたちはこれから二か月も親方に会うことができないのだよ」
「ワウ」とカピがほえた。
「これは親方のためにも困(こま)ったことだし、わたしたちのためにも困ったことなのだ。なぜといって、わたしたちはなにもかも親方にたよっていたのだから、それがいま親方がいなくなれば、わたしたちにはだいいちお金がないのだ」
 この金ということばを言いだすと、カピはよく知っていて、後足で立ち上がって、ひょこひょこ回り始めた。それはいつも『ご臨席(りんせき)の貴賓諸君(きひんしょくん)』から金を集めて回るときにすることであった。
「ああ、おまえは芝居(しばい)をやれというのだね。カピ」とわたしは言った。「それはいい考えだが、どこまでわたしたちにできるだろうか。そこが考えものだよ。うまくゆかない場合には、わたしたちはもうたった三スーしか持っていない。だからどうしても食べずにいるほかはない。そういうわけだから、ここはたいせつなときだと思って、おまえたちはみんなおとなしくぼくの言うことを聞いてくれなければだめだ。そうすればおたがいの力でなにかできるかもしれない。おまえたちはみんなしていっしょうけんめい、ぼくを助けてくれなければならない。わたしたちはおたがいにたより合ってゆきたいと思うのだ」
 こういったわたしのことばが、残(のこ)らずかれらにわかったろうとはわたしも言わないが、だいたいの趣意(しゅい)は飲みこめたらしかった。かれらは同じ考えになってはいた。かれらは親方のいなくなったについて、そこになにか大事件(だいじけん)が起こったことを知っていた。それでその説明(せつめい)をわたしから聞こうとしていた。かれらがわたしの言って聞かせた残(のこ)らずを理解(りかい)しなかったとしても、すくなくともわたしがかれらの身の上を心配してやっていることには満足(まんぞく)していた。それでおとなしくわたしの言うことに身を入れて聞いて、満足(まんぞく)の意味を表していた。
 いやお待ちなさい。なるほどそれも、犬の仲間(なかま)だけのことで、ジョリクールには、いつまでもじっとしていることが望(のぞ)めなかった。かれは一分間と一つ事に心を向けていることができなかった。わたしの演説(えんぜつ)の初(はじ)めの部分だけはかれも殊勝(しゅしょう)らしくたいへん興味(きょうみ)を持って傾聴(けいちょう)していたが、二十とことばを言わないうちに、かれは一本の木の上にとび上がって、わたしたちの頭の上のえだにぶら下がり、それからつぎのえだへととび回っていた。カピが同じやり方でわたしを侮辱(ぶじょく)したならば、わたしの自尊心(じそんしん)はずいぶん傷(きず)つけられたにちがいなかった。けれどもジョリクールがどんなことをしようと、わたしはけっしておどろかなかった。かれはずいぶん頭の空っぽな、軽はずみなやつだった。
 けれどそうはいうものの、少しはふざけたいのもかれとして無理(むり)はなかった。わたしだってやはり同じことをしたかったと思う。わたしもやはりおもしろ半分木登りをしてみたかった。けれどもわたしの現在(げんざい)の位置(いち)の重大なことが、わたしにそんな遊びをさせなかった。
 しばらく休んだあとで、わたしは出発の合図をした。わたしたちはどうせ、どこかただでとまる青天井(あおてんじょう)の下を見つけさえすればいいのだから、なにより、あしたの食べ物を買う銭(ぜに)をいくらかでももうけることが、さし当たっての問題であった。
 小一時間ばかり歩くと、やがて一つの村が見えてきた。
 びんぼう村らしくって、あまりみいりの多いことは望(のぞ)めないが、村が小さければ巡査(じゅんさ)に出会うことも少なかろうと考えた。
 わたしはさっそく一座(いちざ)の服装(ふくそう)を整(ととの)えて、できるだけりっぱな行列を作りながら、村へはいって行った。運悪くわたしたちはあのふえがなかったし、そのうえヴィタリス親方のりっぱなどうどうとした風采(ふうさい)がなかった。軍楽隊(ぐんがくたい)の隊長(たいちょう)のようなりっぱな様子でかれはいつも人目をひいていた。わたしには背(せい)の高いという利益(りえき)もないし、あのりっぱなしらが頭も持たなかった。それどころかわたしはちっぽけで、やせっぽちで、そのうえひどくやつれた心配そうな顔をしていたにちがいなかった。
 行列の先に立って歩きながら、わたしは右左をきょろきょろ見回して、わたしたちがどういう効果(こうか)を村の人たちにあたえているか、見ようとした。ごくわずか――と情(なさ)けないけれど言わなければならなかった。だれ一人あとからついて来る者もなかった。
 ちょっとした広場のまん中に泉(いずみ)があって、木かげがこんもりしている所を見つけると、わたしはハープを下ろしてワルツを一曲ひき始めた。曲はゆかいな調子であったし、わたしの指も軽く動いた。けれどもわたしの心は重かった。
 わたしはゼルビノとドルスに向かって、いっしょにワルツをおどるように言いつけた。かれらはすぐ言うことを聞いて、拍子(ひょうし)に合わせてくるくる回り始めた。
 けれどもだれ一人出て来て見ようとする者もなかった。そのくせ家の戸口では五、六人の女が編(あ)み物(もの)をしたり、おしゃべりをしているのを見た。
 わたしはひき続(つづ)けた。ゼルビノとドルスはおどり続(つづ)けた。
 一人ぐらい出て来る者があるだろう。一人来ればまた一人、だんだんあとから出て来るにちがいなかった。
 わたしはあくまでひき続(つづ)けた。ゼルビノとドルスもくるくるじょうずに回っていた。けれども村の人たちはてんでこちらをふり向いて見ようともしなかった。
 けれどもわたしはがっかりしまいと決心した。わたしはいっしょうけんめいハープの糸が切れるほどはげしくひいた。
 ふと一人、ごく小さい子が初(はじ)めて、うちの中からちょこちょことかけ出して、わたしたちのほうへやって来た。
 きっと母親があとからついて来るであろう。その母親のあとから、仲間(なかま)が出て来るだろう。そうして見物ができれば、少しのお金が取れるであろう。
 わたしは子どもをおびえさせまいと思って、まえよりは静(しず)かにひいた。そうして少しでもそばへ引(ひ)き寄(よ)せようとした。両手を延(の)ばして、片足(かたあし)ずつよちよち上げて、かれは歩いて来た。もう二足か三足で、子どもはわたしたちの所へ来る。ふと、そのしゅんかん母親はふり向いた。きっと子どもの姿(すがた)の見えないのを見て、びっくりするにちがいない。
 でもかの女はやっと子どもの行くえを見つけると、わたしの思ったようにすぐあとからかけては来ないで自分のほうへ呼(よ)び返した。すると子どもはおとなしくふり返って母親のほうへ帰って行った。
 きっとこのへんの人は、ダンスも音楽も好(す)かないのだ。きっとそんなことであった。
 わたしはゼルビノとドルスを休ませて、今度は、わたしの好(す)きな小唄(こうた)を歌い始めた。わたしはこんなにいっしょうけんめいになったことはなかった。
 二節(せつ)目の終わりになったとき、背広(せびろ)を着て、ラシャのぼうしをかぶった男が目にはいった。その男はわたしのほうへ歩いて来るらしかった。
 とうとうやって来たな。
 わたしはそう思って、いよいよむちゅうになって歌った。
「これこれこぞう、ここでなにをしている」と、その男はどなった。
 わたしはびっくりして歌をやめた。ぽかんと口を開いたまま、そはへ寄(よ)って来るその男をぼんやりながめた。
「なにをしているというのだ」
「はい、歌を歌っています」
「おまえはここで歌を歌う許可(きょか)を得(え)たか」
「いいえ」
「ふん、じやあ行け。行かないと拘引(こういん)するぞ」
「でも、あなた……」
「あなたとはなんだ、農林監察官(のうりんかんさつかん)を知らないか。出て行け、こじきこぞうめ」
 ははあ、これが農林監察官か。わたしは親方の見せたお手本で、警官(けいかん)や監察官(かんさつかん)に反抗(はんこう)すると、どんな目に会うかわかっていた。わたしはかれに二度と命令(めいれい)をくり返させなかった。わたしは急いでわき道へにげだした。
 こじきこぞうか、ひどい言いぐさだ。わたしはこじきはしなかった。わたしは歌を歌ったまでだ。
 五分とたたないうちに、わたしはこの人情(にんじょう)のない、そのくせいやに監視(かんし)の行き届(とど)いている村をはなれた。
 犬たちは頭(かしら)を垂(た)れて、すごすごあとからついて来た。きっとつまらない目に会ったことを知っていた。
 カピはしじゅうわたしたちの先頭に立って歩いていた。ときどきふり向いては例(れい)のりこうそうな目で、いったいどうしたのですと言いたそうに見えた。ほかのものがかれの位置(いち)に置(お)かれたのだったら、きっとわたしにそれをたずねたであろうけれども、カピはそんな無作法(ぶさほう)をするには、あんまりよくしつけられていた。
 かれはふに落ちないのを、いっしょうけんめいがまんしているふうを見せるだけで満足(まんぞく)していた。
 ずっと遠くこの村からはなれたとき、わたしは初(はじ)めてかれらに(止まれ)という合図をした。それで三びきの犬はわたしの回りに輪(わ)を作った。そのまん中にはカピがじっとわたしに目をすえていた。
 わたしはかれらがわからずにいることを、ここで説明(せつめい)してやらなければならなかった。「わたしたちは興行(こうぎょう)の許可(きょか)を得(え)ていないから、追い出されたのだよ」とわたしは言った。
「へえ、それではどうしましょう」と、カピは首を一ふりふってたずねた。
「だからわたしたちは今夜はどこか野天でねむって、晩飯(ばんめし)なしに歩くのだ」
 晩飯(ばんめし)ということばに、みんないちどにほえた。わたしはかれらに三スーの銭(ぜに)を見せた。
「知ってるとおり、わたしの持っているのはこれだけだ。今夜この三スーを使ってしまえば、あしたの朝飯(あさめし)になにも残(のこ)らない。きょうはとにかく少しでも食べたのだから、これはあしたまでとっておくほうがいいようだ」こう言って、わたしは三スーをまたかくしに入れた。
 カピとドルスはあきらめたように首を下げた。けれどもそれほどすなおでなかったし、そのうえ大食らいであったゼルビノは、いつまでもぶうぶううなっていた。わたしはこわい目をしてかれを見たが、効(き)き目(め)がなかった。
「カピ、ゼルビノに言ってお聞かせ。あれはわからないようだから」と、わたしは忠実(ちゅうじつ)なカピに言った。
 カピはさっそく前足でゼルビノをたたいた。それはいかにも二ひきの犬の間に言い合いが始まっているように見えた。言い合いというようなことばを犬に使うのは少し無理(むり)だと言うかもしれないが、動物だってたしかにその仲間(なかま)に通用する特別(とくべつ)なことばがあった。犬だけで言えば、かれらは話すことを知っているだけではない、読むことも知っていた。かれらが鼻を高く空に向けたり、顔を下げて地べたをかいだり、やぶや石の上をかぎ回ったりするところをご覧(らん)なさい。ふとかれらはとある草むらの前で立ち止まる。またはかべの前で立ち止まって、しばらくはじっと目をすえている。わたしたちが見てはその上になにもないが、犬はわたしたちの理解(りかい)しないふしぎな文字で書かれた、いろいろの変わったことをそこに読み分けるのである。
 カピがゼルビノに言ったこともわたしにはわからなかった。なぜと言うに、犬には人間のことばがわかっても、人間はかれらのことばを理解(りかい)しないのだ。わたしがただ見たところでは、ゼルビノは道理に耳をかたむけることをこばんだ。なんでも三スーのお金をすぐに使ってしまえと言い張(は)ったようであった。カピは腹(はら)を立てて歯をむき出すと、少しおくびょう者のゼルビノはすごすごだまってしまった。だまるということばにも少し説明(せつめい)が要(い)るが、ここではころりと横になることを言うのである。
 そこで残(のこ)ったのは今夜の宿(やど)の問題だけだ。
 時候(じこう)はよし、暖(あたた)かい、いい天気であった。だから青天井(あおてんじょう)の下にねむることはさしてむずかしいことではなかった。ただこのへんに悪いおおかみでもいるようなら、それをさけるようにすればよかった。おおかみよりもおそろしい農林監察官(のうりんかんさつかん)からさけることもさらに必要(ひつよう)であった。
 わたしたちは白い道の上をずんずんまっすぐに進んで行った。山のはしに落ちかけた赤い夕日の最後(さいご)の光が空から消えるころまで、宿(やど)を求(もと)めて歩き続(つづ)けたが、まだ見つからなかった。
 もう善悪(ぜんあく)なしに、どうでもとまらなければならなかった。やっと林の間に出た。そこここに大きな花(か)こう岩(がん)が転(ころ)がっていた。この場所はずいぶんあれたさびしい所であったが、それよりいい場所は見つからなかった。それに花こう岩の中にはいってねむれば、しめっぽい夜風を防(ふせ)ぐたしにもなろうと思った。ここでわたしたちというのは、さるのジョリクールとわたし自身のことを言うので、犬たちは外でねむったところでかぜをひく気づかいもなかった。わたしは自分のからだをだいじにしなければならなかった。わたしのしょっている責任(せきにん)は重かった。わたしが病気になったらわたしたちみんなどうなるだろう。またわたしがジョリクールの看病(かんびょう)をしなければならないようだったら、今度はわたしがどうなるだろう。
 わたしたちは石の間にほら穴(あな)のような所を見つけた。そこにはまつの落ち葉がたまっていた。これで、上には風を防(ふせ)ぐ屋根があり、下にはしいてねるふとんができた。これはひじょうに具合がよかった。足りないのは食べ物ばかりであった。わたしはおなかのすいていることを考えまいと努(つと)めた。ことわざにも言うではないか、『ねむるのは食べるのだ』と。
 いよいよ横になるまえに、わたしはカピに張(は)り番(ばん)をたのむと言った。するとこの忠実(ちゅうじつ)な犬はわたしたちといっしょにまつ葉の上でねむろうとはしないで、わたしの野営地(やえいち)の入口に、歩哨(ほしょう)のように横になっていた。わたしはカピが番をしてくれればだれも案内(あんない)なしに近づけないと思ったから、落ち着いてねむることができた。
 でもこれだけは心配はなかったが、すぐにはねむりつけなかった。ジョリクールはわたしの上着の中にくるまって、そばでぐっすりねむっていた。ゼルビノとドルスは、わたしの足もとでからだをのばしていた。けれどもわたしの心配はからだのつかれよりも大きかった。
 この旅行の第一日は悪かった。あくる日はどんなであろう。わたしは腹(はら)が減(へ)ったし、のどがかわいていた。それでいてたった三スーしか持っていなかった。あしたいくらかでももうけなかったら、どうしてみんなに食べ物を買ってやることができよう。それに口輪(くちわ)はどうしよう。これから歌を歌う許可(きょか)は、いったいどうしたらいいだろう。許(ゆる)してくれるだろうか。さもないとわたしたちはみんな、やぶの中でおなかが減(へ)って死んでしまうだろう。
 こういうみじめな、あわれっぽい疑問(ぎもん)を心の中でくり返しくり返しするうちに、わたしは暗い空の上にかがやいている星を見た。そよとの風もなかった。どこもかしこもしんとしていた。木の葉のそよぐ音もしない。鳥の鳴く声もしない。街道(かいどう)を車のとろとろと通る音もしない。目の届(とど)く限(かぎ)りは青白い空が広がっていた。わたしたちは独(ひと)りぼっちであった。世の中から捨(す)てられていた。
 なみだは目の中にあふれた。バルブレンのおっかあはどうしたろう。気のどくなヴィタリスは。
 わたしはうつぶしになって、顔を両手でかくして、しくしく泣(な)いていた。するとふと、かすかな息が髪(かみ)の毛(け)にふれるように思った。わたしはあわててふり向いた。そのひょうしに大きなやわらかな舌(した)がなみだにあふれたわたしのほおをなめた。それはカピが、わたしの泣き声を聞きつけて、あのわたしの流浪(るろう)の初(はじ)めての日にしてくれたように、今度もわたしをなぐさめに来てくれたのである。
 両手でわたしはかれの首をおさえて、そのしめった鼻にキッスした。かれは二、三度おし殺(ころ)したような悲しそうな鼻声を出した。それがわたしといっしょに泣(な)いてくれるもののように思われた。
 わたしはねむって目が覚(さ)めてみると、もうすっかり明るくなっていた。カピはわたしの前にすわったままじっとわたしを見ていた。小鳥が林の中で歌を歌っていた。遠方のお寺で朝の祈祷(きとう)のかねが鳴っていた。太陽はもう空の上に高く上って、つかれた心とからだをなぐさめる光を心持ちよく投げかけていた。
 わたしたちはかねの音(ね)を目当てに歩き出した。そこには村があって、パン屋もきっとあるにそういなかった。昼食も夕食もなしにねどこにはいれば、だれにだって空腹(くうふく)が『おはよう』を言いに来る。わたしは思い切って、三スーを使ってしまう決心をした。そのあとではどうなるか、それはそのときのことにしよう。
 村に着くと、パン屋がどこだと聞く必要(ひつよう)もなかった。わたしたちの鼻がすぐにその店に連(つ)れて行ってくれた。においをかぎつけるわたしの感覚(かんかく)は、もう犬に負けずにするどかった。遠方からわたしは温かいパンの、うまそうなにおいをかぎつけた。
 一斤五スーするパンを三スーではたんとは買えなかった。わたしたちはてんでんに、ほんの小さなきれを分け合った。それで朝飯(あさめし)もあっけなくすんでしまった。
 わたしたちはきょうこそいくらかでももうけなければならなかった。わたしは村の中を歩いて、どこか芝居(しばい)につごうのいい場所を見つけようとした。それに村の人びとの顔色を見て、敵(てき)か味方か探(さぐ)ろうとした。
 わたしの考えはすぐに芝居を始めようというのではなかった。それには時間があまり早すぎた。けれどいい場所が見つかれば、昼ごろ帰って来て、わたしたちの運命を決する機会(きかい)をとらえるつもりであった。
 わたしがこの考えに心をうばわれていると、ふとだれか後ろからとんきょうな声を上げる者があった。あわててわたしがふり向くと、ゼルビノがわたしのほうへ向かってかけて来る。そのあとから一人のおばあさんが追っかけて来るのを見た。もうすぐ何事が起こったかということはわかった。わたしがほかへ気を取られているすきをねらって、ゼルビノは一けんの家にかけこんで、肉を一きれぬすみだしたのであった。かれはえものを歯の間にくわえたまま、にげ出して来たのであった。
「どろぼう、どろぼう」とおばあさんはさけんだ。「そいつをつかまえておくれ。そいつらみんなつかまえておくれ」
 おばあさんのこう言うのを聞いて、わたしはとにかく自分にも罪(つみ)がある。いやすくなくともゼルビノの犯罪(はんざい)に責任(せきにん)があると感じた。そこでわたしはかけ出した。もしおばあさんがぬすまれた肉の代価(だいか)を請求(せいきゅう)じたら、なんと言うことができよう。どうして金をはらうことができよう。それでわたしたちがつかまえられれば、きっと刑務所(けいむしょ)に入れられるだろう。
 わたしがにげ出して行くのを見て、ドルスとカピもさっそくわたしの例(れい)にならった。かれらはわたしのかかとについて走った。ジョリクールはわたしの肩(かた)に乗ったまま、落ちまいとしてしっかり首にかじりついた。
 だれかほかの者もさけんでいた。待て、どろぼう……そしてほかの人たちも仲間(なかま)になって追っかけていた。けれどもわたしたちはどんどんかけた。恐怖(きょうふ)がわたしたちの速力(そくりょく)を進めた。わたしはドルスがこんなに早く走るのを見たことがなかった。かの女の足はほとんど地べたについていなかった。横町を曲がって、野原をつっ切って、まもなくわたしたちは追っ手をはるかぬいてしまった。けれどもやはりどんどんかけ続(つづ)けて、いよいよ息がつけなくなるまで止まらなかった。わたしたちは少なくとも三マイル(約五キロ)も走った。ふり返って見るともうだれも追っかけて来なかった。カピとドルスはやはりわたしのすぐ後について来た。ゼルビノは遠くにはなれていた。たぶんぬすんだ肉を食べるので手間を取ったのであろう。
 わたしはかれを呼(よ)んだ。けれどもかれはひどい刑罰(けいばつ)に会うことを知りすぎるほど知っていた。そこでわたしのほうへは寄(よ)って来ないで、できるだけ早くかけ出したのである。かれは飢(う)えていた。それだから肉をぬすんだのだ。けれどもわたしはそれを口実(こうじつ)として許(ゆる)すことはできなかった。かれはぬすみをした。わたしが仲間(なかま)の間に規律(きりつ)を保(たも)とうとすれば、罪(つみ)を犯(おか)したものは罰(ばっ)せられなければならない。それをしなかったら、つぎの村へ行って、今度はドルスが同じ事をするであろう。そうなるとカピまでが誘惑(ゆうわく)に負けないとは言えぬ。
 わたしはゼルビノに対し、公然刑罰(こうぜんけいばつ)を加(くわ)えなければならなかった。けれどもそれをするためにはかれをつかまえなければならなかった。それはたやすいことではなかった。
 わたしはカピのほうへ向いた。
「行ってゼルビノを探(さが)しておいで」とわたしは重おもしく言った。
 かれはさっそく言いつけられたとおりするために出て行った。けれどもいつものような元気のないことをわたしは見た。かれの顔つきを見ていると、憲兵(けんぺい)としてかれはわたしの言いつけを果(は)たすよりも、弁護人(べんごにん)としてゼルビノをかばってやりたいように見えた。
 わたしはかれが囚人(しゅうじん)を連(つ)れて帰って来るのを、べんべんとこしかけて待つほかはなかった。気ちがいじみたかけっこをしたあとで、休息するのがうれしかった。わたしたちが休んだ所はちょうどこんもりした木かげと、両側(りょうがわ)に広びろと野原の開けた、堀割(ほりわり)の岸であった。ツールーズを出て初(はじ)めて、青あおした、すずしいいなか道に出たのだ。
 一時間たったが、犬たちは帰って来なかった。わたしはそろそろ心配になりだしたとき、やっとカピが独(ひと)りぼっち首をうなだれたまま帰って来た。
「ゼルビノはどうした」
 カピはおどおどした様子で、平伏(へいふく)した。わたしはかれのかたっぽの耳から血の出ているのを見た。わたしはそれで様子をさとった。ゼルビノはこの憲兵(けんぺい)に戦(たたか)いをしかけてきたのである。わたしはカピがそうして、いやいやわたしの命令(めいれい)に従(したが)いながらも、ゼルビノとの格闘(かくとう)にわざと負けてやったことがわかった。そしてそのため自分もやはりしかられるものと覚悟(かくご)しているらしく思われた。
 わたしはかれをしかることができなかった。わたしはしかたがないから、ゼルビノが自分から帰って来るときを待つことにした。わたしはかれがおそかれ早かれ後悔(こうかい)して帰って来て、刑罰(けいばつ)を受けるだろうと思っていた。
 わたしは一本の木の下に、手足をふみのばして横(よこ)になった。ジョリクールはしっかりとうでにだいていた。それはこのさるまでがゼルビノと仲間(なかま)になる気を起こすといけないと思ったからであった。ドルスとカピはわたしの足の下でねむっていた。時間がたった。ゼルビノは出て来なかった。とうとうわたしもうとうととねむりこけた。
 四、五時間たってわたしは目を覚ました。日かげでもう時刻のよほどたったことがわかったが、それは日かげを見て知るまでもなかった。わたしの胃ぶくろは一きれのパンを食べてからもう久(ひさ)しい時間のたつことをわめきたてていた。それに二ひきの犬とジョリクールの顔つきだけでも、かれらの飢(う)えきっていることはわかった。カピとドルスは情(なさ)けない目つきをして、じっとわたしを見つめた。ジョリクールはしかめっ面(つら)をしていた。
 でもやはりゼルビノは帰ってはいなかった。
 わたしはかれを呼(よ)びたてたり、口ぶえをふいたりしたけれどもむだであった。たぶんごちそうをせしめたので、すっかり腹(はら)がふくれて、どこかのやぶの中に転(ころ)がって、ゆっくり消化させているのであろう。
 やっかいなことになってきた。わたしがここを立ち去れば、ゼルビノはわたしたちを見つけることができないから、そのまま行くえ知れずになってしまう。かといってここにこのままいては、少しでも食べ物を買うお金をもうける機会(きかい)がまるでなかった。
 わたしたちの空腹(くうふく)はいよいよやりきれなくなってきた。犬たちは哀願(あいがん)するような目つきをたえずわたしに向けた。そしてジョリクールはおなかをさすって、おこって、きゃっきゃっとさけんでいた。
 それでもゼルビノはまだ帰って来なかった。もう一度わたしはカピをやって、なまくらものの行くえを探(さが)させた。けれども三十分たってから、やはりカピだけ独(ひと)りぼんやり帰って来た。
 どうしたらいいであろう。
 ゼルビノは罪(つみ)を犯(おか)したが、またかれの過失(かしつ)のためにわたしたちはこんなひどい目に会わされることになったのであるが、かれをふり捨(す)てることはできなかった。三びきの犬を満足(まんぞく)に連(つ)れて帰らなかったら、親方はなんと言うであろう。それになんといっても、わたしはあのいたずら者のゼルビノをかわいがっていた。
 わたしは晩(ばん)がたまで待つ決心をした。けれどなにもせずにいることはできるものではなかった。わたしたちはなにかしていればきっとこれほどひどい空腹(くうふく)がこたえないであろうと思った。
 わたしはなにか気をまぎらすことを考え出したなら、さし当たりこれほどひもじい思いを忘(わす)れるかもしれない。
 なにをしたらよかろう。
 わたしはこの問題をいろいろ考え回した。そのときわたしが思い出したのは、ヴィタリス親方がいつか言ったことに、軍隊(ぐんたい)が長い行軍(こうぐん)で疲労(ひろう)しきると、楽隊(がくたい)がそれはゆかいな曲を演奏(えんそう)する、それで兵隊(へいたい)の疲労を忘(わす)れさせるようにするというのであった。
 そうだ。わたしがなにかゆかいな曲をハープでひいたら、きっと空腹(くうふく)を忘れることができるかもしれない。わたしたちはみんなひどく弱りきっている。でもなにかゆかいな曲をひいたら、かわいそうな二ひきの犬たちも、ジョリクールといっしょにおどりだして、時間が早く過(す)ぎるかもしれない。
 わたしは二本の木によせかけておいた楽器(がっき)を取り上げて、堀割(ほりわり)のほうに背中(せなか)を向けながら、動物たちの列を作ってならばせ、ダンス曲をひき始めた。
 初(はじ)めのうちは、犬もさるもダンスをする気にもなれないらしかった。かれらの欲望(よくぼう)は食べ物のほかになかった。そのいじらしい様子を見ると、わたしの胸(むね)は痛(いた)んだ。けれどもかわいそうに、かれらも空腹(くうふく)を忘(わす)れなければならなかった。わたしはいよいよ調子を高く早くとひいた。すると少しずつだんだんに、音楽がその偉力(いりょく)を現(あらわ)してきた。かれらはおどりだした。わたしはひき続(つづ)けた。
「うまい」――ふとわたしはすみきった子どもの声でこうさけぶのを聞いた。その声はすぐ後ろから聞こえた。わたしはあわててふり向いた。
 一せきの遊船(ゆうせん)が堀割(ほりわり)の中に止まっていた。その小舟(こぶね)を引(ひ)っ張(ぱ)っている二ひきの馬は、向こう岸に休んでいた。それはきみょうな小舟であった。わたしはまだこんなふうな船を見たことはなかった。
 それは堀割にうかんでいるふつうの船に比(くら)べて、ずっとたけが短かった。そして水面からわずか高い甲板(かんぱん)の上には、ガラスしょうじをたてきった船室があり、その前にはきれいなろうかがあって、つたの葉でおおわれていた。
 そこには二人、人がいた。一人はまだ若(わか)い貴婦人(きふじん)で、美しい、そのくせ悲しそうな顔をしていた。もう一人はわたしぐらいの年ごろの男の子で、これはあお向けにねているらしかった。
「うまい」と声をかけたのは、あきらかにこの子どもであった。
 わたしはかれらを見つけて、一度はたいへんびっくりしたが、落ち着くと、わたしはぼうしを取って、かれらの賞賛(しょうさん)に感謝(かんしゃ)の意を表(ひょう)した。
「あなたはお楽しみにやっておいでなのですか」と、貴婦人(きふじん)は外国なまりのあるフランス語で言った。
「わたしは犬をしこんでいるのです。それに……自分の気晴らしにも」
 子どもはなにか言った。婦人はそのほうにのぞきこんだ。
「あなた、まだやってもらえますか」と、そのとき貴婦人(きふじん)はこちらを向いて言った。
 なにかやってくれるか。やらなくってどうするものか。こういうところへ来てくれたお客のために、どうしてやらずにいられよう。わたしはそれを二度と言われるまでも待たなかった。
「ダンスにしましょうか。喜劇(きげき)にしましょうか」とわたしは聞いた。
「ああ、喜劇だ、喜劇だ」と子どもがさけんだ。
 けれども貴婦人(きふじん)は口をはさんで、「まあ先にダンスを」と言った。
「ダンスはだって短すぎるもの」と子どもは言った。
「お客さまのお望(のぞ)みとございましたら、ダンスのあとでちがった番組をいろいろとりかえてごらんにいれましょう」
 これはうちの親方の使う口上(こうじょう)の一つであった。わたしはなるべくかれと同じようなしかつめらしい言い方でやろうと努(つと)めた。だがなおよく考えると、喜劇(きげき)を所望(しょもう)してくれなかったことは結局(けっきょく)ありがたかった。なぜといって、どうそれをやるかくふうがつかなかった。ゼルビノという役者が一枚(まい)足りないばかりではない、芝居(しばい)をするには衣装(いしょう)も道具もなかった。
 とにかくわたしはハープを取り上げて、まずワルツの第一節(せつ)をひいた。カピは前足でドルスのこしをだいて、じょうずに拍子(ひょうし)を取りながらおどり回った。つぎにジョリクールが一人でおどって、それからそれとわたしたちは順々(じゅんじゅん)に番組を進めていった。もう少しもくたびれたとは思わなかった。かわいそうな動物どもは、やがて昼飯(ひるめし)の報酬(ほうしゅう)の出ることを知って、いっしょうけんめいにやった。わたしもそのとおりであった。
 するととつぜん、みんながいっしょになってダンスをしている最中(さいちゅう)に、ゼルビノがやぶのかげから出て来た。そして仲間(なかま)がそのそばを通ると、かれはずうずうしくもその仲間に割りこんで来た。
 ハープをひきひき役者たちの監督(かんとく)をしながら、わたしはときどき子どものほうを見た。かれはわたしたちの演技(えんぎ)にひじょうなゆかいを感じているらしく見えたが、からだを少しも動かさなかった。寝台(ねだい)の上にあお向いたまま、ただ両手を動かして拍手(はくしゅ)かっさいした。半身不随(はんしんふずい)なのかしら、板の上に張(は)りつけられたように見えた。
 いつのまにか風で船が岸にふきつけられていたので、いまは子どもをはっきり見ることができた。かれは金茶色の髪(かみ)の毛(け)をしていた。顔色は青白くて、すきとおった皮膚(ひふ)のもとに額(ひたい)の青筋(あおすじ)すら見えるほどであった。その顔つきには病人の子どもらしい、おとなしやかな、悲しそうな表情(ひょうじょう)があった。
「あなたがたのお芝居(しばい)のさじき料(りょう)がいかほどですね」と、貴婦人(きふじん)はたずねた。
「おなぐさみに相応(そうおう)した代(だい)だけいただきます」
「じゃあ、お母さま、たんとおやりなさい」と子どもが言った。かれはそのうえなにかわたしにわからないことばでつけ加(くわ)えていた。すると貴婦人(きふじん)は、
「アーサがお仲間(なかま)の役者たちをそばで見たいと言うのですよ」と言った。
 わたしはカピに目くはせをした。大喜(おおよろこ)びでかれは船の中へとびこんで行った。
「それから、ほかのは」とアーサと呼(よ)ばれたこの子どもはさけんだ。
 ゼルビノとドルスがカピの例(れい)にならった。
「それからおさるは」
 ジョリクールもわけなくとびこむことができたろう。でもわたしは安心がならなかった。一度船に乗ったら、きっとなにか貴婦人(きふじん)の気にいらないような悪さをするかもしれなかった。
「おさるは気があらいの」と貴婦人はたずねた。
「いいえ、そうではありませんが、なかなか言うことを聞きませんから、失礼(しつれい)でもあるといけないと思います」
「おや、それではあなた、連(つ)れておいでなさい」
 こう言って貴婦人(きふじん)はかじのほうに立っていた男に合図をした。この人は出て来て、へさきから岸に板をわたした。
 肩(かた)にハープをかけて、ジョリクールをうでにだいたまま、わたしは板をわたった。
「おさるだ。おさるだ」とアーサはさけんだ。その子どもを貴婦人(きふじん)はアーサと呼(よ)んでいた。
 わたしはかれのそばへ寄って、かれがジョリクールをなでたりさすったりしているとき、わたしは注意してその様子を見た。実際(じっさい)にかれは一枚(まい)の板に皮でからだを結(むす)びつけられていた。
「あなた、お父さんはあるの」と貴婦人(きふじん)はたずねた。
「いえ、いまは独(ひと)りぼっちです」
「いつまで」
「二か月のあいだ」
「二か月ですって、まあかわいそうに、あなたぐらいの年ごろに、どうして独りぼっち置(お)き去りにされるようなことになったの」
「そんな回り合わせになったのです」
「あなたの親方さんはふた月のあいだにたんとお金を持って帰れと言いつけたのではないのですか。そうでしょう」
「いいえ、おくさん、親方はわたしになにも言いつけはしません。ただい一座(いちざ)ののものといっしょに、そのあいだ食べてゆかれさえすればそれでいいんです」
「それで、どれだけお金が取れましたか」
 わたしは答えようとしてちゅうちょした。わたしはこの美しい婦人(ふじん)の前では一種(いっしゅ)のおそれを感じたけれども、貴婦人(きふじん)はひじょうに親切に話しかけてくれたし、その声はいかにも優(やさ)しかったから、わたしはほんとうのことを打ち明ける決心をした。またそれをしてならない理由はなにもなかった。
 そこでわたしは貴婦人(きふじん)に向かって、ヴィタリスとわたしが別(わか)れたいちぶしじゅうを話した。ヴィタリス親方がわたしを保護(ほご)するために、刑務所(けいむしょ)に連(つ)れて行かれたこと、それから親方がいなくなってから、金を取ることができなくなった次第を話した。
 わたしが話をしているあいだ、アーサは犬と遊んでいたが、わたしの言ったことばはよく耳に止めていた。
「じゃあきみたち、みんなずいぶんおなかがすいているだろう」とかれは言った。
 このことばを動物たちはよく知っていて、犬は喜(よろこ)んでほえ始めるし、ジョリクールははげしくおなかをこすった。
「ああ、お母さま」とアーサがさけんだ。
 貴婦人(きふじん)は聞き知らないことばで、半分開けたドアのすきから頭を出しかけていた女中に、なにか二言三言いった。まもなく女中は食物をのせたテーブルを運んで来た。
「おかけ」と貴婦人は言った。
 わたしは言われるままにさっそく、ハープをわきへ置(お)いて、テーブルの前のいすにこしをかけた。犬たちはわたしの回りに列を作ってならんだ。ジョリクールはわたしのひざの上でおどっていた。
「きみの犬はパンを食べるの」とアーサはたずねた。
「パンを食べるどころですか」
 わたしが一きれずつ切ってやると、かれらはむさぼるようにして見るまに平(たい)らげてしまった。
「それからおさるは」とアーサは言った。
 けれども、ジョリクールのことで気をもむ必要(ひつよう)もなかった。わたしが犬にやっているあいだ、かれは横合いから肉入りのパンを一きれさらって、テーブルの下にもぐって、息のつまるほどほおばっていた。
 わたし自身もパンを食べた。ジョリクールのようにのどにはつまらせなかったけれど、同じようにがつがつして、もっとたくさんほおばった。
「かわいそうに、かわいそうに」と貴婦人(きふじん)は言った。
 アーサはなにも言わなかったが、大きな目を見張(みは)ってわたしたちをながめていた。わたしたちのよく食べるのにびっくりしたのであろう。わたしたちはてんでんに腹(はら)をすかしきっていた。肉をぬすんで少しは腹(はら)にこたえのあるはずのゼルビノまでが、がつがつしていた。
「きみはぼくたちに会わなかったら、きょうの昼飯(ひるめし)はどうするつもりだったの」とアーサがたずねた。
「なにを食べるか当てがなかったのです」
「じゃああしたは」
「たぶんあしたはまた運よく、きょうのようなお客さまにどこかで会うだろうと思います」
 アーサはわたしとの話を打ち切って、そのとき母親のほうにふり向いた。しばらくのあいだかれらは外国語で話をしていた。かれはなにかを求(もと)めているらしかったが、それを母親は初(はじ)めのうち承知(しょうち)したがらないように見えた。
 するうち、ふと子どもはくるりと向き返った。かれのからだは動かなかった。
「きみはぼくたちといっしょにいるのはいやですか」とかれはたずねた。
 わたしはすぐ返事はしないで、顔だけ見ていた。わたしはこのだしぬけの質問(しつもん)にめんくらわされていた。
「この子があなたがたにいっしょにいてくださればいいと言っているのですよ」と貴婦人(きふじん)がくり返した。
「この船にですか」
「そうですよ。この子は病気で、この板にからだを結(ゆわ)えつけていなければならないのです。それで昼間のうち少しでもゆかいにくらせるように、こうして船こ乗せて外へ出るのです。それであなたがたの親方が監獄(かんごく)にはいっておいでのあいだ、よければここにわたしたちといっしょにいてください。あなたのその犬とおさるが毎日芸(げい)をしてくれば、アーサとわたしが見物になってあげる。あなたはハープをひいてくれるでしょう。それであなたはわたしたちに務(つと)めてくれることになるし、わたしたちはわたしたちで、あなたがたのお役に立つこともありましょう」
 船の上で。わたしはまだ船の上でくらしたことがなかったが、それはわたしの久(ひさ)しい望(のぞ)みであった。なんといううれしいこと。わたしは幸福に心のくらむような感じがした。なんという親切な人たちだろう。わたしはなんと言っていいかわからなかった。
 わたしは貴婦人(きふじん)の手を取ってキッスした。
「かわいそうに」とかの女は優(やさ)しく言った。
 かの女はわたしのハープを聞きたいと言った。そのくらい手軽ななぐさみですむことなら、わたしはどうかして、自分がどんなにありがたく思っているか見せたいと思った。
 わたしは楽器(がっき)を手に取って、船のへさきのほうへ行って、静(しず)かにひき始(はじ)めた。
 貴婦人(きふじん)はふとくちびるに小さな銀(ぎん)の呼子(よぶこ)ぶえを当てて、するどい音(ね)を出した。
 わたしはなぜ貴婦人がふえをふいたのであろうと思って、ちょいと音楽をやめた。それはわたしのひき方が悪いからであったか、それともやめろという合図であったか。
 自分の身の回りに起こるどんな小さなことも見のがさないアーサは、わたしの不安心(ふあんしん)らしい様子を見つけた。
「お母さまは馬を行かせるために、ふえをふいたんだよ」とかれは言った。
 まったくそのとおりであった。馬に引かれた小舟(こぶね)は、そろそろと岸(きし)をはなれて、堀割(ほりわり)の静(しず)かな波を切ってすべって行った。両側(りょうがわ)には木があった。後ろにはしずんで行く夕日のななめな光線が落ちた。
「ひきたまえな」とアーサが言った。
 頭をちょっと動かしてかれは母親にそばに来いという合図をした。かれは母親の手を取って、しっかりにぎった。わたしはかれらのために、親方の教えてくれたありったけの曲をひいた。



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