船の上
わたしが重たい心で、赤い目をふきふき
わたしは犬のいる所へ行こうとしてその前を通ると、かれはわたしを引き止めた。
「どうだ、親方は」とかれは言った。
「
「どのくらい」
「二か月の
「
「百フラン」
「二か月……百フラン」かれは二、三度くり返した。
わたしはずんずん行こうとした。するとかれはまた引き止めた。
「その二か月のあいだおまえはどうするつもりだ」
「ぼくはわかりません」
「おや、おまえわからないと。おまえ、とにかく自分も食べて、犬やさるに食べ物を買ってやるお金がなければなるまい」
「いいえ、ないのです」
「じゃあ、おまえはわたしが
「いいえ、わたしはだれのやっかいになろうとも思いません」
それはまったくであった。わたしはだれのやっかいにもなるつもりはなかった。
「おまえの親方はこれまでも、もうずいぶんわたしに
「出て行く。どこへ行ったらいいでしょう」
「それはわたしの知ったことではない。わたしはおまえのおやじでも親方でもなんでもないからな。どうしておまえの世話をしてやれよう」
しばらくのあいだわたしは目がくらくらとした。
「さあ、犬とさるを
このことばから、ある考えがわたしの心にうかんだ。
「いずれそのときはお
「おやおや、おまえの親方は二日分の
「わたしはいくらでも少なく食べますから」
「だが、犬もいればさるもいる。いけないいけない。出て行ってくれ。どこかいなかで仕事を見つけて、金をもらって歩けばいいのだ」
「でも親方が
「だからおまえもその日にここへ帰って来ればいいのだ」
「それでもし手紙が
「手紙は取っておいてやるよ」
「でもわたしが返事を出さなかったら……」
「まあいつまでもうるさいな。急いで出て行ってくれ。五分間の
わたしはこの男と言い合うのはむだだということを知っていた。わたしは出て行かなければならなかった。
わたしは犬とジョリクールを
わたしは大急ぎで町を出なければならなかった。なぜというに、犬に
わたしが足早に歩いて行くと、犬たちが顔を上げてながめた。その様子をどう見ちがえようもなかった。かれらは
わたしの
わたしもやはり腹がすいていた。わたしたちは
わたしたちは
さしせまっているのは食物だ。
一休みもせずに、わたしたちは二時間ばかり歩き
とうとう、わたしはここまで来ればもうなにもこわがることはないと思うところまで来てしまった。わたしはすぐそこにあったパン屋にとびこんだ。
わたしは一
「おまえさん、二斤におしなさいな。二斤のパンはどうしても
おお、どうして、むろんわたしの同勢にはたっぷりではなかった。けれどもわたしの
パンは一
わたしは両うでにしっかりパンをかかえて店を出た。犬たちがうれしがって回りをとび回った。ジョリクールが
わたしたちはそこから遠くへは行かなかった。
まっ先に目に当たった道ばたの木の下でわたしはハープを
パンを同じ大きさに分けるのはむずかしい仕事であった。わたしはできるだけ同じ大きさにして、五きれにパンを切った。そのうえいくつかの小さなきれに割って一きれずつめいめいに分けた。
わたしたちよりずっと少食だったジョリクールはわりがよかった。それでかれがすっかり
このごちそうがけっして食後の
カピはおそらくわたしの意中を
「さて、カピ、それからドルスも、ゼルビノも、ジョリクールも、みんなよくお聞き。わたしはおまえたちに悲しい知らせを
「ワウ」とカピがほえた。
「これは親方のためにも
この金ということばを言いだすと、カピはよく知っていて、後足で立ち上がって、ひょこひょこ回り始めた。それはいつも『ご
「ああ、おまえは
こういったわたしのことばが、
いやお待ちなさい。なるほどそれも、犬の
けれどそうはいうものの、少しはふざけたいのもかれとして
しばらく休んだあとで、わたしは出発の合図をした。わたしたちはどうせ、どこかただでとまる
小一時間ばかり歩くと、やがて一つの村が見えてきた。
びんぼう村らしくって、あまりみいりの多いことは
わたしはさっそく
行列の先に立って歩きながら、わたしは右左をきょろきょろ見回して、わたしたちがどういう
ちょっとした広場のまん中に
わたしはゼルビノとドルスに向かって、いっしょにワルツをおどるように言いつけた。かれらはすぐ言うことを聞いて、
けれどもだれ一人出て来て見ようとする者もなかった。そのくせ家の戸口では五、六人の女が
わたしはひき
一人ぐらい出て来る者があるだろう。一人来ればまた一人、だんだんあとから出て来るにちがいなかった。
わたしはあくまでひき
けれどもわたしはがっかりしまいと決心した。わたしはいっしょうけんめいハープの糸が切れるほどはげしくひいた。
ふと一人、ごく小さい子が
きっと母親があとからついて来るであろう。その母親のあとから、
わたしは子どもをおびえさせまいと思って、まえよりは
でもかの女はやっと子どもの行くえを見つけると、わたしの思ったようにすぐあとからかけては来ないで自分のほうへ
きっとこのへんの人は、ダンスも音楽も
わたしはゼルビノとドルスを休ませて、今度は、わたしの
二
とうとうやって来たな。
わたしはそう思って、いよいよむちゅうになって歌った。
「これこれこぞう、ここでなにをしている」と、その男はどなった。
わたしはびっくりして歌をやめた。ぽかんと口を開いたまま、そはへ
「なにをしているというのだ」
「はい、歌を歌っています」
「おまえはここで歌を歌う
「いいえ」
「ふん、じやあ行け。行かないと
「でも、あなた……」
「あなたとはなんだ、
ははあ、これが農林監察官か。わたしは親方の見せたお手本で、
こじきこぞうか、ひどい言いぐさだ。わたしはこじきはしなかった。わたしは歌を歌ったまでだ。
五分とたたないうちに、わたしはこの
犬たちは
カピはしじゅうわたしたちの先頭に立って歩いていた。ときどきふり向いては
かれはふに落ちないのを、いっしょうけんめいがまんしているふうを見せるだけで
ずっと遠くこの村からはなれたとき、わたしは
わたしはかれらがわからずにいることを、ここで
「へえ、それではどうしましょう」と、カピは首を一ふりふってたずねた。
「だからわたしたちは今夜はどこか野天でねむって、
「知ってるとおり、わたしの持っているのはこれだけだ。今夜この三スーを使ってしまえば、あしたの
カピとドルスはあきらめたように首を下げた。けれどもそれほどすなおでなかったし、そのうえ大食らいであったゼルビノは、いつまでもぶうぶううなっていた。わたしはこわい目をしてかれを見たが、
「カピ、ゼルビノに言ってお聞かせ。あれはわからないようだから」と、わたしは
カピはさっそく前足でゼルビノをたたいた。それはいかにも二ひきの犬の間に言い合いが始まっているように見えた。言い合いというようなことばを犬に使うのは少し
カピがゼルビノに言ったこともわたしにはわからなかった。なぜと言うに、犬には人間のことばがわかっても、人間はかれらのことばを
そこで
わたしたちは白い道の上をずんずんまっすぐに進んで行った。山のはしに落ちかけた赤い夕日の
もう
わたしたちは石の間にほら
いよいよ横になるまえに、わたしはカピに
でもこれだけは心配はなかったが、すぐにはねむりつけなかった。ジョリクールはわたしの上着の中にくるまって、そばでぐっすりねむっていた。ゼルビノとドルスは、わたしの足もとでからだをのばしていた。けれどもわたしの心配はからだのつかれよりも大きかった。
この旅行の第一日は悪かった。あくる日はどんなであろう。わたしは
こういうみじめな、あわれっぽい
なみだは目の中にあふれた。バルブレンのおっかあはどうしたろう。気のどくなヴィタリスは。
わたしはうつぶしになって、顔を両手でかくして、しくしく
両手でわたしはかれの首をおさえて、そのしめった鼻にキッスした。かれは二、三度おし
わたしはねむって目が
わたしたちはかねの
村に着くと、パン屋がどこだと聞く
一斤五スーするパンを三スーではたんとは買えなかった。わたしたちはてんでんに、ほんの小さなきれを分け合った。それで
わたしたちはきょうこそいくらかでももうけなければならなかった。わたしは村の中を歩いて、どこか
わたしの考えはすぐに芝居を始めようというのではなかった。それには時間があまり早すぎた。けれどいい場所が見つかれば、昼ごろ帰って来て、わたしたちの運命を決する
わたしがこの考えに心をうばわれていると、ふとだれか後ろからとんきょうな声を上げる者があった。あわててわたしがふり向くと、ゼルビノがわたしのほうへ向かってかけて来る。そのあとから一人のおばあさんが追っかけて来るのを見た。もうすぐ何事が起こったかということはわかった。わたしがほかへ気を取られているすきをねらって、ゼルビノは一けんの家にかけこんで、肉を一きれぬすみだしたのであった。かれはえものを歯の間にくわえたまま、にげ出して来たのであった。
「どろぼう、どろぼう」とおばあさんはさけんだ。「そいつをつかまえておくれ。そいつらみんなつかまえておくれ」
おばあさんのこう言うのを聞いて、わたしはとにかく自分にも
わたしがにげ出して行くのを見て、ドルスとカピもさっそくわたしの
だれかほかの者もさけんでいた。待て、どろぼう……そしてほかの人たちも
わたしはかれを
わたしはゼルビノに対し、
わたしはカピのほうへ向いた。
「行ってゼルビノを
かれはさっそく言いつけられたとおりするために出て行った。けれどもいつものような元気のないことをわたしは見た。かれの顔つきを見ていると、
わたしはかれが
一時間たったが、犬たちは帰って来なかった。わたしはそろそろ心配になりだしたとき、やっとカピが
「ゼルビノはどうした」
カピはおどおどした様子で、
わたしはかれをしかることができなかった。わたしはしかたがないから、ゼルビノが自分から帰って来るときを待つことにした。わたしはかれがおそかれ早かれ
わたしは一本の木の下に、手足をふみのばして
四、五時間たってわたしは目を覚ました。日かげでもう時刻のよほどたったことがわかったが、それは日かげを見て知るまでもなかった。わたしの胃ぶくろは一きれのパンを食べてからもう
でもやはりゼルビノは帰ってはいなかった。
わたしはかれを
やっかいなことになってきた。わたしがここを立ち去れば、ゼルビノはわたしたちを見つけることができないから、そのまま行くえ知れずになってしまう。かといってここにこのままいては、少しでも食べ物を買うお金をもうける
わたしたちの
それでもゼルビノはまだ帰って来なかった。もう一度わたしはカピをやって、なまくらものの行くえを
どうしたらいいであろう。
ゼルビノは
わたしは
わたしはなにか気をまぎらすことを考え出したなら、さし当たりこれほどひもじい思いを
なにをしたらよかろう。
わたしはこの問題をいろいろ考え回した。そのときわたしが思い出したのは、ヴィタリス親方がいつか言ったことに、
そうだ。わたしがなにかゆかいな曲をハープでひいたら、きっと
わたしは二本の木によせかけておいた
「うまい」――ふとわたしはすみきった子どもの声でこうさけぶのを聞いた。その声はすぐ後ろから聞こえた。わたしはあわててふり向いた。
一せきの
それは堀割にうかんでいるふつうの船に
そこには二人、人がいた。一人はまだ
「うまい」と声をかけたのは、あきらかにこの子どもであった。
わたしはかれらを見つけて、一度はたいへんびっくりしたが、落ち着くと、わたしはぼうしを取って、かれらの
「あなたはお楽しみにやっておいでなのですか」と、
「わたしは犬をしこんでいるのです。それに……自分の気晴らしにも」
子どもはなにか言った。婦人はそのほうにのぞきこんだ。
「あなた、まだやってもらえますか」と、そのとき
なにかやってくれるか。やらなくってどうするものか。こういうところへ来てくれたお客のために、どうしてやらずにいられよう。わたしはそれを二度と言われるまでも待たなかった。
「ダンスにしましょうか。
「ああ、喜劇だ、喜劇だ」と子どもがさけんだ。
けれども
「ダンスはだって短すぎるもの」と子どもは言った。
「お客さまのお
これはうちの親方の使う
とにかくわたしはハープを取り上げて、まずワルツの第一
するととつぜん、みんながいっしょになってダンスをしている
ハープをひきひき役者たちの
いつのまにか風で船が岸にふきつけられていたので、いまは子どもをはっきり見ることができた。かれは金茶色の
「あなたがたのお
「おなぐさみに
「じゃあ、お母さま、たんとおやりなさい」と子どもが言った。かれはそのうえなにかわたしにわからないことばでつけ
「アーサがお
わたしはカピに目くはせをした。
「それから、ほかのは」とアーサと
ゼルビノとドルスがカピの
「それからおさるは」
ジョリクールもわけなくとびこむことができたろう。でもわたしは安心がならなかった。一度船に乗ったら、きっとなにか
「おさるは気があらいの」と貴婦人はたずねた。
「いいえ、そうではありませんが、なかなか言うことを聞きませんから、
「おや、それではあなた、
こう言って
「おさるだ。おさるだ」とアーサはさけんだ。その子どもを
わたしはかれのそばへ寄って、かれがジョリクールをなでたりさすったりしているとき、わたしは注意してその様子を見た。
「あなた、お父さんはあるの」と
「いえ、いまは
「いつまで」
「二か月のあいだ」
「二か月ですって、まあかわいそうに、あなたぐらいの年ごろに、どうして独りぼっち
「そんな回り合わせになったのです」
「あなたの親方さんはふた月のあいだにたんとお金を持って帰れと言いつけたのではないのですか。そうでしょう」
「いいえ、おくさん、親方はわたしになにも言いつけはしません。ただい
「それで、どれだけお金が取れましたか」
わたしは答えようとしてちゅうちょした。わたしはこの美しい
そこでわたしは
わたしが話をしているあいだ、アーサは犬と遊んでいたが、わたしの言ったことばはよく耳に止めていた。
「じゃあきみたち、みんなずいぶんおなかがすいているだろう」とかれは言った。
このことばを動物たちはよく知っていて、犬は
「ああ、お母さま」とアーサがさけんだ。
「おかけ」と貴婦人は言った。
わたしは言われるままにさっそく、ハープをわきへ
「きみの犬はパンを食べるの」とアーサはたずねた。
「パンを食べるどころですか」
わたしが一きれずつ切ってやると、かれらはむさぼるようにして見るまに
「それからおさるは」とアーサは言った。
けれども、ジョリクールのことで気をもむ
わたし自身もパンを食べた。ジョリクールのようにのどにはつまらせなかったけれど、同じようにがつがつして、もっとたくさんほおばった。
「かわいそうに、かわいそうに」と
アーサはなにも言わなかったが、大きな目を
「きみはぼくたちに会わなかったら、きょうの
「なにを食べるか当てがなかったのです」
「じゃああしたは」
「たぶんあしたはまた運よく、きょうのようなお客さまにどこかで会うだろうと思います」
アーサはわたしとの話を打ち切って、そのとき母親のほうにふり向いた。しばらくのあいだかれらは外国語で話をしていた。かれはなにかを
するうち、ふと子どもはくるりと向き返った。かれのからだは動かなかった。
「きみはぼくたちといっしょにいるのはいやですか」とかれはたずねた。
わたしはすぐ返事はしないで、顔だけ見ていた。わたしはこのだしぬけの
「この子があなたがたにいっしょにいてくださればいいと言っているのですよ」と
「この船にですか」
「そうですよ。この子は病気で、この板にからだを
船の上で。わたしはまだ船の上でくらしたことがなかったが、それはわたしの
わたしは
「かわいそうに」とかの女は
かの女はわたしのハープを聞きたいと言った。そのくらい手軽ななぐさみですむことなら、わたしはどうかして、自分がどんなにありがたく思っているか見せたいと思った。
わたしは
わたしはなぜ貴婦人がふえをふいたのであろうと思って、ちょいと音楽をやめた。それはわたしのひき方が悪いからであったか、それともやめろという合図であったか。
自分の身の回りに起こるどんな小さなことも見のがさないアーサは、わたしの
「お母さまは馬を行かせるために、ふえをふいたんだよ」とかれは言った。
まったくそのとおりであった。馬に引かれた
「ひきたまえな」とアーサが言った。
頭をちょっと動かしてかれは母親にそばに来いという合図をした。かれは母親の手を取って、しっかりにぎった。わたしはかれらのために、親方の教えてくれたありったけの曲をひいた。