5 それについてはいずれ語ろう。 そう、いずれ語るとしよう。が、今はそんなことより、その後僕が遭遇した、世にも奇怪な出来事について、消息する方がいいようだ。 友よ、それから一カ月経った。 その時僕の家の玄関に、厠で使う紙の面に、 「明後日迎いに参る可く候」 こういう意味の文字が書かれてあり、心臓に征矢を突き刺した絵が、赤い色で描かれたものが、針によって止められていた。 これには説明がいるようだから、一つ説明することにする。 上海には上流の女ばかりによって、形成されている秘密倶楽部がある。 「加華荘舎」と云われている。 その目的とするところは、性の享楽ということなのだ。 で、これと目星をつけた、美男の住んでいる家の玄関へ、今云ったような張り紙をし、それから轎で迎いに来るのだ。 男は絶対に拒絶することが出来ない。もし拒絶しようものなら、その男一人ばかりでなく、その男の一家一族までが、ひどい惨害に遭うのだからね。 この国における女の勢力! それは到底日本の比でなく、全く恐ろしい程なのだ。今日ばかりではなく事実この国の――支那の、ずっと昔からの、習慣であるということが出来る。則天武后だの呂后だの、褒似だの妲妃だのというような、女傑や妖姫の歴史を見れば、すぐ頷かれることだからね。 しかしそれにしても僕のようなものへ、白羽の矢を立てて召そうとは、尠くも僕にとっては以外だったよ。 と云って何も僕という人間が、醜男だったからと云うのではない。自画自賛で恐縮だが、僕という人間は君も知っている通り、かなりの好男子であるはずだからね。 僕の云うのはそう云う意味からではなく「僕のような生活を生活している者に、そんな招待をするなんて、何て冒険的な女達だろう」――つまりこういう意味なのだ。 僕のような生活を生活している者? のような生活とはどんな生活なのか? おそらく君は知りたいだろうね。よろしい云おう、その中に云おう。 とにかくこうして当日となり、その日が暮れて夜となり、その夜が更けて深夜となった。桂華徳街の百○参号、そこが僕の家なのだが、果たしてその処へ一挺の轎が、数人の者によって担い込まれた。 僕は新しい衫を着け、そうして新しい袴を穿いて、懐中に短刀――鎧通[#ルビの「よろいどおし」は底本では「ろよいどおし」]さ、兼定鍛えの業物だ、そいつを呑んで轎に乗った。 (淫婦どもめ、思い知るがいい!) こういう心持を持ちながら、轎に乗ったというものさ。 さて轎は道を走った。その道筋を細描写しても、君には面白くあるまいと思う。で、一切はぶくことにする。 轎は目的の館へ着いた。 そこが「加華荘舎」の在場所なのさ。僕は一室に通された。 ここで僕はこの館の構造を、ほんの簡単にお知らせしよう。 階段があると思ってくれたまえ。そうだ一筋の階段が。その階段を上り切った所に、一つの小広い部屋があり、その部屋から無数に細い廊下が、四方に通っているのだよ。そうしてその廊下の行き止まりに、一つずつ小さな婦人部屋があり、そこに会員達がいるのだそうだ。又、階段を下り切った所に、同じく小広い部屋があり、その部屋から今度は一筋の廊下が、一方の方へ通じて居り、その行き止まりに風呂場がある。そうしてその風呂場の一方の壁に、秘密の扉が出来て居り、そこを出ると廊下となる。この廊下は充分長く、そうして風呂場と平行していて、そうして左右に部屋があるのだ。そうだ、いくつかの寝室が。会員の数だけの寝室が。 で、召されたミメヨキ男は、先ず風呂に入れられて、すっかり体を洗われて、一つの寝室へ寝かされるのだ。と、互いに籤引きをして、真先に当選した会員の女が、これも最初風呂へ入り、体を洗いお化粧をし、それから男の寝ている部屋へ、導かれて侵入する。 もうその後は書く必要はあるまい。 さて、すっかり陶酔してしまうと、又女は風呂へ入り、綺麗に汗と膏とを落とす。そうして自分の部屋へ引き上げて行く。と今度は男の方が、風呂へ入れられて洗われる。それから別の寝室へ送られ、二番目の女を迎えることになる。こういうことが繰り返され、二日でも三日でも五日でも十日でも、男の精力のつづく中は、女達の欲望の消えない中は、無限に繰り返されて行くのだよ。 友よ、そういう加華荘舎へ、僕は招待にあずかったのだ。そうして今云った手順を経て、一つの寝室へ通された。その寝室には寝台があり、寝台には鴉片の装置があり、酒を飲むようにもなっていた。ほのかな燈火もともされていた。僕は寝台に横になり、 (来やがれ、淫婦ども?)と思っていた。 とうとう女はやって来た。 外から部屋の錠を外し、内へ入ると錠をかい、平然として近寄って来た。彼女等はすっかり慣れているのだ。男が女を弄ぶことに、すっかり慣れているように、彼女等は男を弄ぶことに、これまたすっかり慣れているのだ。 僕はかづいていた衾の中で、鎧通の柄を握り――殺そうなどとは夢にも思わず、傷付けようなどとも夢にも思わず、せいぜいのところひっこ抜いて、嚇してやろうと考えていた。と、衾が捲くられた。つまり女が捲くったのだ。で、僕は女の顔を見た。 「あ」と僕は思わず云った。 その女が彼女だったからだ。江陰の郊外でグレーと一緒に、散策していた支那美人――宋思芳と似ている支那美人だったからだ。 僕は鎧通を手から放した。 そうして寝台の一方を開けた。彼女が寄り添って寝られるように。 で彼女は僕の側へ寝た。 そうして二人は陶酔してしまった。 満足して彼女が立ち去る時、彼女は僕へ囁いた。 「他の女へ貴郎をお渡しするのは、私大変厭なんですけれど、少なくももう一人の女へだけは、貴郎をお貸ししなければならないのです」と。 僕はそれから風呂へ入れられ、別の寝室へ案内された。 扉をあけて中へ入った途端、しかし意外の光景を見た。まぎれもない宋思芳少年が、一人の外人に咽喉を抑えられ、寝台の上へ捻じ仆され、圧殺されようとしているのだ。 「タ、助けて!」と息も絶え絶えに、その宋思芳が僕へ云った。 で、僕はほとんど夢中で、その外人へ飛びかかり、持っていた鎧通で一えぐりした。外人――それはグレーだったが、もろくもそのまま死んでしまった。 友よ、グレーの血に染まった、醜悪な死骸を寝台の側へ置いて、僕と宋思芳とが寝台の上で、再度の陶酔に耽ったことを――再度というのは宋思芳と、先刻の支那美人とが文字通り、同一人だからそういうのだが――友よ、咎めてくれたもうな。こんなことは青幇に嘱している、僕という人間には普通のことだし、又、紅幇に嘱している、宋思芳にとっても茶飯事なのだからね。 今日も例の鴉片窟「金華酔楼」で恋人同士として、僕は彼女――彼と云ってもいい。彼女は今日も男装であり、男装の方が似合うのだから。――その宋思芳と逢って来た。鴉片を喫って恍惚として、無我の境地で抱擁し合う、この極度の快感は、日本にいる誰も知らないだろうよ。 だが彼は――いやいや彼女は……そうだやっぱり僕としては、彼女と云った方がいいようだ。で、彼女は、何者なのか? 事実彼女はその昔は、良家の娘だったということだ。が、今はこの国における、二つの大きな秘密結社――殺人、人買い、掠奪、密輸入、あらゆる悪行をやりながら、不断の貧民の味方として、かつ貧民の防禦団体として、根本においては祖国愛主義の、青幇、紅幇という秘密結社の、その紅幇に嘱している、女班の利者の一人なのだ。 そうして僕は青幇会員で、この会員であるがために、生活することが出来ているのだよ。 今日彼女は僕に云ったっけ。―― 「妾、グレーとエリオットとの二人へ、女装をしたり男装をしたりして、自由に体を任かせたのも、紅幇の頭から命ぜられたのではなく、自分から進んでやったのよ。そうやって二人をだいなしにして、殺してやろうと思ったからだわ。でもとうとうエリオットの方は、妾から鴉片を進めたのに乗って、鴉片を喫い出したので頭を悪くし、昔のあいつじゃアなくなったし、グレーの方はあんな具合に、貴郎に殺して貰ったし、妾の目的は遂げられたってものよ。……これじゃアなかなか鎮江は、英軍の手には落ちないわね。……二人の大将が駄目になったんですもの」 「それにしてもどうしてグレーって男が、あんな所へやって来たんだい?」 「妾からやっぱり、呼んだからよ。例の厠の紙を使って。好奇にあいつやって来たのさ。毛唐って奴、好色だからねえ……ところが現われた女ってのが、自分だけの情婦だと自惚れていた、妾だったので嫉妬して、私の咽喉を締めたんだわ」 「じゃア僕を招んだのは、グレーの奴を殺させるため、……ただ、それだけのためだったんだね」 「それもあったわ、でももう一つ、妾あんたが好きだったからよ」 ――それなら可いと僕は思ったよ。 友よ、これでお終いだ。 古人燭をとって夜遊ぶさ。今人の僕はこんな遊びをしている。あくどい、刺戟の強い、殺人淫楽的の遊びを! しかもそれが生活でもあるのさ。 さようなら、さよなら。
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