| 三
 
 ザワ、ザワ、ザワと音がする。木立へ宵の風が渡るらしい。
 泉水の水が光っている。月が照らしているからだろう。
 泉水の向こう側がもり上がっている。大きな築山でもあるのだろう。その頂きがぬれている。月光がこぼれているからだろう。パタ、パタ、パタ……パタ、パタ、パタ……水鳥の羽音が聞こえて来る。泉水に飼われているのだろう。
 一団の真っ白の叢が見える。築山の裾に屯ろしている。ユラユラユラユラと揺れ動く。と、芳香が馨って来た。
 牡丹が群れ咲いているのらしい。
 と、娘の声がした。
 「今夜も行かなければなりますまいか」悲しんでいるような声である。
 「お行きお行き、行っておくれ」これは武士の声であった。
 「それもお前のためなのだから」
 「ああ」と娘の声がした。「どうでもよいのでございます。私のためなど、私のためなど」
 咽び泣くような声であった。
 「ただ私はお父様のために……」
 「娘よ」と武士の声がした。「同時に私のためにもなるよ」
 「参るどころではございません。お父様のおためになりますのなら」
 ここでまたもや声が絶えた。
 で、ひっそりと静かである。
 ピシッ! と刎ねる音がした。
 泉水で鯉でも刎ねたのだろう。
 やっぱり静かだ。風も止んだ。
 と、また娘の声がした。
 「恋の囮! 恋の囮!」
 「いや」とすぐに武士の声がした。「幸福の囮! 幸福の囮!」
 だが娘は反対らしい。「金の囮でございます!」
 「仕方がないのだ、そういうことも。……この世に生きている以上はな」
 「でもいつまでもお父様と、一緒に暮らすことが出来ましたら……」娘の声は思慕的であった。
 「思うところはございません」
 「それが……」と武士の声がした。たしなめるような声であった。「こういう受難を産んだのだよ」
 「可哀そうな可哀そうなお母様!」
 「だが私達も可哀そうだった」
 「虐げられたのでございますから」
 「で、それから逃がれなければならない。そうしてその上へ出なければならない」
 「逃がれなければなりません。その上へ出なければなりません」
 「で、お前は行かなければならない」
 「弁吉、右門次、左近を連れて……」
 「そうだ、そうして、その上で、所作をしなければならないのだ」
 「同じようなことを、長い間……」
 「目っからないからだよ、適当な人が……」
 「恐らく生涯目っかりますまい」
 「目っけなければならないよ。……それも今夜! 今夜限りに!」武士の声には真剣さがあった。
 「でも、お父様のある限りは……」こういった娘の声の中には、いよいよ思慕的の響きがある。
 と、泣き声が聞こえて来た。
 娘が泣いているのらしい。
 まだ宵である。で静かだ。屋敷は郊外にあるらしい。
 「行っておいで!」と武士の声がした。
 「はい」と娘の声がした。
 後は森閑と静かである。
 間もなく門の開く音がして、それが遠々しく聞こえて来たが、すぐに閉じる音がした。
 武士だけが一人立っている。じっとうなだれて考えている。肩の辺に月光がさしている。
 と女の呼ぶ声がした。
 「今夜はお遁がしいたしません」
 「うむ、お前か、うむ、島子か」
 「はい」
 と女が現われた。中年者らしい女である。
 廻廊を伝って寄って来た。
 「はっきりご返辞してくださいまし」
 
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