14
仰天するようなことが発見された。ある夜私は戸外から帰って来た。彼女は私の書斎にいた。細巻煙草を喫かしていた。煙草を支えた左手の指に、大きなダイヤが輝いていた。 「その指環は?」と私は云った。 私の知らない指環であった。 彼女は無言で指を延ばした。そうしてじっとダイヤに見入った。その燦然たる鯖色の光輝を、味わっているような眼付きであった。二本の指で支えられ、ピンと上向いた煙草からは、紫の煙りが上っていた。一筋ダイヤへ搦まった。光りと煙り! 微妙な調和! 何と貴族的の趣味ではないか! 彫刻のような彼女の顔! 今にも唇が綻びそうであった。モナリザの笑い? そうではない! 娼婦マリヤ・マグダレナの笑い! 私は瞬間に退治られた。
数日経って松坂屋から、一揃いの衣裳が届けられた。それは高価な衣裳であった。帯! 金具! 高価であった。誂えたはずのない衣裳であった。私の知らない衣裳であった。 そこで私は懇願した。 「話しておくれ、どうしたのだ?」 ただ彼女は微笑した。例のマリヤの微笑をもって。 「おい!」と私は威猛高になった。 「処分したな、贓物を!」 「貴郎」と彼女は水のように云った。 「贓物ですって? 下等な言葉ね」 「売ったのだろう! 白金を!」 「貴郎」と彼女は繰り返した。 「約束でしたわね、訊かないと云う」 彼女は私を下目に見た。彼女は貴婦人そのものであった。
大詰の前の一齣が来た。 円頓寺街路を歩いていた。霧の深い夜であった。背後から自動車が駛って来た。 「馬鹿野郎!」と運転手が一喝した。 危く轢かれようとしたのであった。憤怒をもって振り返った。窓のカーテンが開いていた。紳士と淑女とが乗っていた。私は淑女に見覚えがあった。それは私の妻であった。彼女も私を認めたらしい。唇の間から義歯を見せた。紳士にも私は見覚えがあった。当市一流の紳商であった。新聞雑誌で知っていた。六十を過ごした老人で精力絶倫と好色とで、世間に有名な老紳士であった。 私はクラクラと眼が廻った。が、飛びかかっては行かなかった。肩を曲め背を丸め、顔を低く地に垂れた。そうして撲たれた犬のように、ヨロヨロと横へ蹣跚いた、私は何かへ縋り付こうとした。 冷たい物が手に触れた。それは入口の扉であった。私は内へ吸い込まれた。 真正面に人がいた。狭い額、飛び出した眼、牛のような喉、突き出した頬骨、イスカリオテのユダであった。 珈琲店であった。鏡であった。私は写っていたのであった。
イエス・キリストがそれを呪った。マグダラのマリヤがそれを呪った。イスカリオテのユダがそれを呪った。みんな別々の意味において。そうして今や私が呪う。憎むべき銀三十枚を!
人は信仰を奪われた時、一朝にして無神論者となる。 人は愛情を裏切られた時、一朝にして虚無思想家となる。 ユダの運命がそれであった。 私は私の思想として、ユダの無神論と虚無思想とを、自分の心に所有っていた。 今や私は感情として、それを持たなければならなかった。 今、私はユダであった。 「助けて下さい! 助けて下さい!」 私は救いを求めるようになった。 しかし救いはどこにもなかった。 一つある! 基督だ!
キリストを売ったイスカリオテのユダは、売った後でキリストを求めただろう!
15
これがいよいよ大詰かもしれない。 その夜私は公園にいた。彷徨ってそこ迄行ったのであった。詐欺師と邂逅ったロハ台へ、私は一人で腰をかけていた。生暖かい夜風、咽るような花の香、春蘭の咲く季節であった。噴水はすでに眠っていた。音楽堂には燈がなかった。日曜の晩でないからであった。公園には誰もいなかった。ひっそりとして寂しかった。夜は随分深かった。月が空にひっ懸かっていた。靄が木間に立ち迷っていた。物の陰が淡く見えた。 私の精神も肉体も、磨り減らされるだけ磨り減っていた。長い間物を書かなかった。空想がすっかり消えてしまった。病気はひどく進んでいた。心臓の動悸、指頭の顫え、私は全然中風のようであった。視力が恐ろしく衰えてしまった。そうして強度の乱視となった。五分と物が見詰められなかった。絶えずパチパチと瞬きをした。瞼の裏が荒れてしまった。 誰も介抱してくれなかった。 お母様! お母様! 実家とは音信不通であった。それも彼女との結婚からであった。高原信濃! そこの実家! 誰とも逢わずに死ななければなるまい。 「もう一呼吸だ。指先でいい。ちょっと背後から突いてくれ。死の深淵へ落ちることが出来る」 私は私の両膝を、ロハ台の上へ抱き上げた。膝頭へ額を押っ付けた。小さく固く塊まった。 「もう一呼吸だ。指先でいい」 その時自動車の音がした。 私は反射的に飛び上った。 病院の方角から自動車が、こっちへ向かって駛って来た。私の眼前を横切った。紳士と淑女とが乗っていた。淑女は私の妻であった。紳士は例の紳士ではなかった。もっと評判の悪い紳士であった。デパートメントの主人であった。外妾を持っているということで新聞へ書かれた紳士であった。車内は桃色に明るかった。柔かいクッション、馨しい香水、二人はきっと幸福なんだろう。顔を突き合わせて話していた。一瞬の間に過ぎ去った。月光が車葢に滴っていた。タラタラと露が垂れそうだった。都会の空は赤かった。その方から警笛が聞こえてきた。 「もういい」と私は自分へ云った。 最後の一突きが来たからであった。花壇を越して林があった。目掛けて置いた林であった。私はその中へ分け入った。 「ユダも縊れて死んだはずだ」 木を選ばなければならなかった。木はみんな若かった。一本の木へ手を掛けた。幹へ額を押し付けた。ひやひやとして冷たかった。そうして大変滑らかだった。シーンと心が静まった。平和が心へ返って来た。 「脆そうな木だ。折れるかもしれない」 もう一本の木へ手を触れた。 その時私へ障るものがあった。誰かが肩を抑えたのであった。 私は静かに振り返った。 一人の男が立っていた。 鳥打を頭に載っけていた。足に雪駄をつっかけていた。 私はもっと壮健の頃、新聞記者をしたことがあった。 この男は刑事だな。私は直覚することが出来た。 「どうしたね?」とその男が云った。 「…………」 「黙っていては解らない」 刑事声には相違ないが、威嚇的の調子は見られなかった。 「不心得をしてはいけないよ」 むしろ訓すような声であった。 「無教育の人間とも見えないが」 刑事は私の足許を見た。 「君、どこに住んでるね」 「市内西区児玉町」 「何だね、一体、商売は?」 私は返事をしなかった。 「ナニ、厭なら云わなくてもいい。君もう家へ帰りたまえ」 刑事は背中を向けようとした。 「僕に家なんかあるものか」 「何イ!」と刑事は振り返った。 「児玉町に住んでいるって云ったじゃアないか!」 「家はあるよ。……だがないんだ」 刑事はしばらく睨んでいた。 「ははあ貴様酔ってるな。……妻君が家に待ってるだろう。……馬鹿を云わずに早く帰れ」 「妻君」と私は肩を上げた。 「妻君は自動車に乗ってったよ」
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