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死体の匂い(したいのにおい)

作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006-9-25 9:15:38 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语

 大正十二年九月一日、天柱け地維欠くとも言うべき一大凶変が突如として起り、首都東京を中心に、横浜、横須賀の隣接都市をはじめ、武相豆房総、数箇国の町村に跨がって、十万不冥の死者を出した災変をのあたり見せられて、何人か茫然自失しないものがあるだろうか。
 世俗の怖れる二百十日とおかの前一日、二三日来の驟雨しゅうう模様の空がその朝になって、南風気みなみげの険悪な空に変り、烈風強雨こもごも至ってひとしきり荒れ狂うていたが、今思うとそれが何かの前兆でもあるかのように急にぱったりんで、気味悪いほどに澄んだ紺碧の空が見え、蒔きずての庭の朝顔の花に眼の痛むような陽の光が燃えた。ちょうど箪笥たんすの上に置いた古い枕時計が五分遅れの十一時五十分を指していた。
 私は二階で客と話していた。私も客も煙草をけたばかりのところであった。黒みだって吹き起って来る旋風の音のような、それで地の底に喰い入って往くような音がしたので、煙草を口元からってその物の音をきわめようとする間もなく、家がぐらぐらと揺れだし、畳は性のあるものが飛び出そうとでもするかのように、むくむくと持ちあがりだした。私は驚いてその畳の上をよろよろと歩いたが、その瞬間、妻と子供を二階へあげようと思いだした。で、そのまま下へ駈けおりた。
 妻は玄関口へべったり坐って、左の手で柱に捉まり、右の手で末の女の児を抱き寄せるようにしておろおろしている傍に、八つになる女の児は畳の上に両手をうように突いて泣いていた。上の二人の子供は暑中休暇に土佐へ往ってまだ帰っていなかったので、手足纏いがすくなかった。末の女の児は赤いメリンスの単衣を着ていた。私はいきなり末の児に手をかけて、妻と二人で掻きあげるようにして抱き、姉の児を押しやり押しやり先に立てて二階へあがった。
 家はまだゆらゆらと揺れていた。妻ははずれかけた次の室との境の襖の引手に手をかけてそれに取りつこうとしたが、襖がはずれて取りつけなかった。が、その内に地の震いは小さくなって来た。私はその時客のいないことに気がついたが、地震の小さくなった間に、妻や子供を外へ出さなくてはならないという考えの方へ気を取られて、それ以上客のことを考えることができなかった。その客は私のいない間にのきから飛んで右の足首をくじいていた。私は妻をうながして自分で末の児を抱き、妻に姉の児の手を曳かして、おりて玄関口へと往ったが、妻や子供を先に出して自分が後から出ないと危険があるような気がしたので、妻に末の児を負ぶわし姉の児の手を曳かして先へ出し、自分は後から出て往った。
 私の家の門の出口の左角になった古い木造のシナ人の下宿は、隣の米屋や靴屋の住んでいる一棟が潰れて押されたために門の内へ倒れかかっていた。地の震えは後から後からとやって来た。私は妻と子供をすぐ近くの寄宿舎の庭へと伴れて往った。そこは奈良県の寄宿舎であった。私はそれから足に怪我をしている客を負ぶって伴れて来たが、後の激震が気がかりであるから、地震の静まるまでそこにいることに定めて、家へ入って往ってむしろを持って来た。付近の者も続続と避難して来た。私はまた煙草を買い蝋燭を買って来た。酒屋へサイダーを取りに往った時、潰れた家の簷を破っている者があるので、それに手を貸して瓦を剥いだ。その屋根の下からは若い女とその夫らしい頬髭の延びた黄いろな顔をした男とが出て来た。
 私はその一方で藤坂をあがって、その近くに住んでいる友人の家へと往った。大塚行きの電車の線路に沿うた両側の家では、皆線路の上に避難していた。潰れた家は見えなかったが、どの家も屋根瓦がひどく落ちていた。友人の細君も避難者の中に交って筵の上に坐り、洋傘を日覆いにして、生れたばかりの嬰児を抱いていた。
 大砲を撃つような音が時折聞えだした。火事だ火事だという声が人びとの口から漏れるようになった。牛込の下宿から私の家の安否を気使うて来てくれた若い友達は、砲兵工廠が焼けていると言った。私はその友達と一緒に電車通りを伝通院前へと往った。渦を捲いている人波の中には、蒲団などを蓋の上にまで乱雑に積みあげた箱車を数人の男女で押している者、台八車に箪笥や風呂敷包の類を積んでいる者、湯巻と襦袢の肌に嬰児を負ぶって小さな子供の手を曳いている者、衣類の入った箪笥の抽出しを肩にした者、シャツ一枚で金庫を提げた者、畳を担いだ者、猫のような老婆を負ぶった者、頭を血みどろにした若い男を横抱きにした者、そうした人たちが眼先が暗んでいるように紛紛として歩いていた。その人たちは頭髪を見なければ両性の区別がつかなかった。
 砲兵工廠は火になっていた。春日町の方へと曲って往く電車線路の曲り角から、その一部の建物の屋根の青い焔を立てて燃えているのが見られた。私たちは安藤坂をおりて往った。砲兵工廠の火は、江戸川べりにかけて立ち並んだ人家を包んで燃えていた。私たちはその江戸川縁を左に折れて往った。街路に沿うた方の家だけは地震に屋根瓦を震い落され、または簷を破られて傾きかけたままの姿を見せていた。小さい橋のたもとに一台のポンプがいて、川の泥水にゴム管を浸してそれを注いでいたが、すこしの効力があるとも思われなかった。
 砲兵工廠の市兵衛河岸がしに寄った方の三層の建物に、新しく火がかかっていた。その火の中から爆弾の音のような音が続けさまに起った。私たちは甲武線の汽車の線路に這いあがった。神田方面から飯田町にかけて一めんの火の海となり、強い風がその焔を煽って吹きつけていた。まだ火のかからない飯田町三丁目の電車停留場のあたりで、焔を浴びてあちらこちらする人びとの容が人形のように小さく見えた。空も遠くの方も濛濛たる煙に覆われて、四辺は気味悪く黄濁して見えた。いくらか遠退いて来たが、地の震えは歇まなかった。私はまだ何かしら大きな禍が来るような気がして不安であった。
 東京全市三分の二を焦土と化した猛火の煙は、二つの大きな入道雲となって天の一方にもくもくと立ち昇っていた。それは白い牛乳色をした気味の悪い雲で、その下の方に鼠色の煙が渦を巻いていた。私はその雲を切支丹坂の樹木の上に見ていた。その雲は延びたり縮んだりした。江戸川の方から入って来る避難者の中には、おりおり振り返ってその雲を悲しそうな眼で見る者があった。陽が落ちると雲は真赤な火になった。
 地の震いは二時間おきぐらいにやって来た。私たちは家内が持ち出して来た飯櫃めしびつの飯を暗い中で手探りに喫って、その後で蒲団を取って来て一家四人が枕を並べて寝た。火は警視庁を焼き、帝劇を焼き、日本橋、京橋、浅草を焼き、本所深川を一舐めにして、圧死者の上へ無数の焼死者を出したという恐ろしい噂がきれぎれに耳へ入った。その火には朝鮮人がいて爆弾を投じていると言う者もあった。
 翌日私は本郷の西片町へ往って、そこの友人と一緒に本郷三丁目の方へと往った。その三丁目の本郷座に寄った方の角に、一二軒の家を残して湯島天神のあたりから神田明神にかけて焼けているのが煙雲を透して見えた。そこここに立っている焼け残りの土蔵の屋根などには、まだ火のあるのがあってそれからは煙を吐いていた。私たちはそれから壱岐坂いきざかへおりる路と平行した右側の焼け残った路を往って、順天堂のあたりから水道橋の手前まで一撫でにした火の跡を見て引き返した。
 私はその友人と真砂町の電車停留場で別れて、そのまま電車通りを歩いて春日町の停留場を通り、それから砲兵工廠に沿うて坂路をのぼった。火に包まれていた砲兵工廠もこちらの方は焼けなかったと見えて無傷の建物が聳えていたが、煉瓦塀は爆破したように砕けて崩れていた。坂をあがり詰めて右に折れ曲ったところが砲工学校の塀であった。瓦と土とで築いた水戸邸の遺物としての古い古い塀も、ばらばらに崩れていた。私はそれを見て、水戸屋敷の記念物もとうとうなくなったなと思って、ちょと惜しいような気がした。数日して藤坂上の友人に聞くと、水戸邸の遺物として残っているのは、その塀と涵徳殿と後楽園の入口にある二棟の土蔵とであったが、その涵徳殿も土蔵も潰れたとのことであった。
 私は土塀の崩潰を惜しむとともに、藤田東湖のことをすぐ思い浮べた。色の黒い※(「鹿/(鹿+鹿)」、第3水準1-94-76)そやな顔をした田舎武士は、安政乙卯の年十月二日の午後十時、かの有名な安政の大地震に逢って、母を救い出そうとして家の中へ入ったところで、家が潰れて圧死した。私は東湖のことから新井白石を連想した。「折たく柴の記」によると、白石は元禄癸未の年十一月二十二日の夜大地震に逢ったので藩邸へ伺候した。白石はそのころ湯島に住んでいたが、家のうしろは高い崖になっていた。その白石の家は二十九日の夜になって火に逢った。白石は庭に坑をって書籍を入れ、畳を六七帖置いて、その上に土を厚くかけてあった。
「安政見聞誌」三冊を書いた仮名垣魯文ろぶんのことも浮んで来た。魯文は湯島の妻恋下に住んでいた。魯文の住んでいた家は、二人の書肆が醵金して買ってくれたもので、間口九尺二間、奥行二間半、表の室の三畳敷は畳があったけれども、裏の方は根太板のままでそれに薄縁うすべりが処まばらに敷いてあった。ただその陋屋ろうおくに立派な物は、表の格子戸と二階の物置へあがる大階子はしごとであった。その格子戸は葭町よしちょうの芸妓屋の払うたものを二で買ったもので、階子はある料理屋の古であった。その魯文は、前年旗下の酒井某という者の妾の妹を妻にしていた。魯文のその時分の収入は、引札が作料一枚一朱、切付本五十丁の潤筆料が二分ということになっていた。そして、切付本の作者は魯文ということになっていて収入もかなりあったが、あればあるに従って、散じていたので、家はいつも苦しかった。
 安政二年十月二日の夜は、通り二丁目の糸屋という書肆に頼まれた切付本の草稿がやっとできあがったので、妻はそれを持って往って、例によって二分の潤筆料をもらって来て、一分を地代の滞りに払い、一分で米を買って来て井戸端でいでいた。魯文は汚れ蒲団にくるまって本を読んでいたが、突然大地震が起って、彼の家不相応な大階子が壁土と共にその上に落ちて来た。妻はよたよたと走って来て階子を取り除けたが、蒲団と壁土のために体にすこしも怪我をしていなかった。ここで夫婦は戸外へ出て一夜を明かしたところで、際物師の書肆が来て、地震の趣向で何か一枚ずりをこしらえてくれと言った。魯文は露店へ立ったままで筆を執って「鯰の老松」という戯文と下画を書き、ちょうど来合わした狂斎という画工に下画のままの画を描かして渡したところが、これが非常に売れて、他の書肆からも続続注文が来たので、五六日の間に四五十枚の草稿を書いたのであった。

 私はその日から街路の警備に立たされた。地震に乗じて朝鮮人が陰謀を企て、今晩は竹早町の小学校を中心にして放火を企てているから警戒せよというような貼紙をする者があったので、各戸から一人ずつ、小銃、刀、手鎗てやりなど思い思いの得物を持ちだして付近を警戒することになった。三日には戒厳令。

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