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死体の匂い(したいのにおい)

作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006-9-25 9:15:38 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语


 私は手鎗の柄を切って短くしたのを持っていた。それはさやのところへ新聞を巻いてあった。私はその手鎗を持って藤坂の口に立ったり、切支丹坂の下に立ったりした。そうして夜も昼も警備に立って、六日の朝になったところで、東海道の汽車が海中に墜落して三百の死傷者があったということがその朝の新聞に出ていた。場所を見ると根府川としてあった。私はすこし気になることがあるので、東京駅へ往ってそれを確かめ、心配していることが杞憂に終るようなら、本所の方へ往って被服廠跡を見ようと思って、深川から避難して来ている友人に警備の代理を頼んでおいて出かけた。
 本郷の方にちょっと用事があったので、それへ廻り道をして大学の正門前へ出、それから電車通りを往って、二日の日に一度見ている本郷の焼け跡の灰を見ながら、若竹の前を通って順天堂の手前へ出た。かつては皇城を下瞰するというので一部の愛国者を憤激さしたニコライの高い塔も焼けて、頂上がなくなっていた。それからお茶の水橋を渡ろうとしたが、橋桁はしげたからまだ煙が出ていて危険なうえに、兵士が橋のたもとに針金を張って通行を遮断しているので昌平橋の方へと往った。
 路の左側の女子高等師範の建物も、聖堂も、教育博物館の建物も焼けていた。教育博物館の前になった河縁の鳥屋の焼け跡には、まだ石油のカンらしい物が燃えていた。
 昌平橋を渡って須田町へと往った。そこには万世橋駅と高架線の線路と、街頭に建った銅像とが残っているのみであった。他は焼け残りの土蔵、四壁ばかり残った石造の建物、火の入った金庫、鉄骨、流れ藻のように手足に絡まる電線、石、瓦、煉瓦、灰、消え残りの火、煙。私は荒漠たる焼け跡を通って本石町の方へ往き、そこから新常盤橋を渡って東京駅へと往った。火災を免がれた東京駅付近の大建築物が、地震の損害を受けていても魏然ぎぜんとして立っているのが非常に頼もしそうに思われた。
 東京駅の構内にも避難者が入っていた。私は駅長室へ往って汽車のことをしらべた。汽車の墜落は事実であったが、私の心配は杞憂に終った。私ははじめの予定通り本所に往くことにして、呉服橋を渡り、それから日本橋の街路を横切って、白木屋の焼け跡に沿うて往きかけたが、本石町と馬喰町とに焼け跡を弔うてやりたい書肆のあることを思いだしたので、引き返し、欄干の粧飾の焼けて鎔けかけた日本橋を渡って、外形ばかり残った三越の建物を見ながら、また本石町の四辻へと往って、そこから右に折れた。
 風が火のほとぼりと灰とを吹いた。それに空には暑い陽が燃えていた。私は東京駅前で詰めかえて来たサイダーのビンの水を飲みながら歩いた。
 左側の本石町の書肆の焼け跡はすぐ見つかった。そこにも避難している場所を書いた札が建ててあった。今度は右側になった馬喰町三丁目の書肆の跡を見出そうと思い思い歩いた。焼け跡で鍬を持って掘っていたり、トタンの半焼けになったのを持って来て、仮小屋をこしらえていたりする者が多くなった。
 小さな川があって橋がかかり、剣銃の兵士が数人立っていた。私は見るともなしに橋の左側から水の上を見た。蒲団や藁莚などの一めんに浮んだ中に人の死体が見えた。それはシャツ一枚の俯向きになった男で、両肱を左右に張って拳をこしらえ、それで両足の膝のあたりに力を入れているように足先をあげていたが、獺か猫かの死んでいるようであった。死体は五六間下手の方にもまだ一つ見えた。それは土人形のような感じのする死体で仰向けになって浮いていた。私は二人とも人間のような気がしなかった。
 橋の左右の欄干に添うてたくさんの鉄棒や、一方を鎗のように削った竹などが置いてあった。一人の若い男が何か言ってその中から竹杖を拾って手にした。取ってかまわなければ自分も一本もらおうと思って、鉄棒を取りあげたところで、剣銃の兵士が来て、鉄棒を取ってはいけないと言って叱った。私はすぐその鉄棒が通行人の手から没収せられたものだということを知った。私は独りで苦笑しながら黒竹の切れっぱしに換えて橋を越した。
 それは浅草橋であったが、周囲の目標がなくなっているので判らなかった。私はまだ馬喰町三丁目は来ないか来ないかと思って往っていた。大きな真黒い煙突のある建物が眼についた。私ははじめてそれが蔵前の専売局だということを知った。そこで私は馬喰町の方は日を変えることに定めたが、それでも厩橋うまやばしが渡れないことを聞いているので、仕方なしにまた浅草橋の方へ帰って往って、そこから両国橋へと往った。
 二三人の兵士がそこにもいて通行人を監視していた。私は中央の車道を通りながら、神田川の口の手前になった岸の方に眼をやった。退潮の赤濁のやや減った水際に二三の死体らしい物が漂うていた。私は足を止めて注意した。そのあたりの頭を出した捨石のごろごろした所には、戸板や衣類のようなものがごたごたとかかってそれが干あがっていた。その流れ物の中にも仰向きになって両足を水の中にした死骸があって、それは力士のようにぶくぶくと膨れあがっていた。二日三日のころにはその両国橋をはじめ、厩橋、吾妻橋の橋杙はしぐいに、死体が一ぱいになっていたということを聞いていたので、私はさほどに驚かなかった。
 国技館の外形は整然として両国の空を圧して、火災に逢ったとは思われないほどであった。私は橋を渡って電車の線路を往こうとしたが、橋の袂から河岸の方へ往く人もあるので、その方から自転車を押して来た店員のような若い男に、被服廠跡への路を聞いてみた。若い男はどっちから往っても好いと言った。私は河岸の方へ曲って往った。河岸には仮小屋を並べてたくさんの者が避難していた。
 右の方には両国の汽車の線路が、焼け跡の灰の中に浮いて連なっていた。それは鉄骨かなんぞのように焦げて黒くなっていた。河縁に電気の機具でも製造していると思われるような一廓をつくった建物が、不思議に焼け残っていた。それと向きあって路の右側に石の門と土塀の一部が残り、街路に面して二三本の半焼けになった鈴懸の樹のある所があって、その門の敷石の上に、右の手と頭に繃帯をしたシャツに腹掛けの運漕屋の親方らしい男が腰をおろしていた。私も暑くて苦しいので、そこですこし休むつもりで、その門口の石橋のへりになった石の上に腰をおろした。私はビンの水を飲んだ後で、煙草をけてみながら被服廠のことを聞いた。親方らしい男は、そこからすぐですが、見ないが好いのですよと言った。
 もう十二時に近かった。私は親方に別れて歩いた。焼け残りの建物の端になった所に小さな掘割の水があって、橋がかかり、その袂に交番があった。見るとその交番の手前になった建物の前に人がたくさん立っていた。そこには火事の怪我人であろう、破れた衣類を着た子供や女が手と言わず足と言わず体中を繃帯して筵の上にごろごろしていた。後で気がついたが、それは被服廠跡から救いだした人人であった。両足と頭に繃帯した五つぐらいの女の児が足を投げだして坐り、片手に小さな茶碗を差し出しているのに、半纏を着た男が水筒の水を注いでやっていた。私は呼吸いきづまるような感じがした。
 路の右側には天幕を張って警官が出入りしていた。私は橋を渡って往った。蔵前の専売局の煙突がすぐ前岸に見えた。右側には大きな邸宅跡の石垣の崩れがあった。石垣の内は大きな泉水になって、まわりの樹木は焼けたり折れたりしていた。その邸宅跡をすぎると兵士の一人が路ぶちに立っていた。私は被服廠はその奥らしいと思ったので、兵士の方へは往かずに手前から焼け跡を切れて往って、兵士のいる方から来ている小路へ出た。五六人の男が奥の方から出て来た。もう脂肪臭いいやな匂いがしてきた。左側の柱の燃え残りの傍に黒く焦げた一つの死体があった。それは肱から先と膝から先のない猿とも人とも判らなくなったものであった。黒焦げ死体はその二三間先にもあった。私は気味は悪かったが、それに対して別にいたましいというような感情は起らなかった。
 焼け残りの建物がその先にあって、三人ばかり詰襟の服を着た者がいた。その傍にひとところ畳一枚敷ぐらいの所に火を燃やしていた。それは上にトタンを着せ、下に薪木になる柱の折れのような物を置いて何か焼いているらしかった。建物は路の角に入口を向けていた。その入口のひさしの所に相生警察署巡査合宿所とした文字があった。その先は広っ場になって向うの方にたくさんの人が動いていた。こちらの合宿所の隣の広っ場の縁になった所には、一筋の縄を張って一人の兵士が張番していた。私は気がついて縄を張ってあるあたりの地面に眼をやった。黒焦げになった死体があっちこっちに散らかっていた。私はいよいよこれが被服廠跡だと思って広っ場の中の方へと眼をやった。そうして私は眼先がくらくらするように思った。
 広っ場の中は一めんの死体で、ちょうど沖から帰って来た漁師が思い思いに海岸へ魚の盛りをこしらえて、仲買人の来るのを待っている時のように、人の盛りをこしらえてあった。それは二三十人ぐらいに見える所もあれば、百人ぐらいに見えるような所もあった。それは死骸を探しに来る遺族に判りやすくするためにこしらえたものであった。遠くの方で死者を弔う読経の声がしていた。
 五六人の者が兵士の傍へ往って何か交渉していた。私はすぐ死者を探している者でなければ中へ入れないと思ったので、地方の関係のある新聞社の名を名刺に肩書して兵士の所へ往った。兵士はすぐ私の入ることを承知した。私は右の手で手拭を持ってそれで口と鼻とを掩うて、左斜に広っ場を突き切るつもりで歩いた。私は一つ一つ死人を見ていては気持が悪くなって歩かれないと思ったので、一箇所に眼を留めずにして進んだ。溺死人のように脹れあがった者、腐った魚のように半身がどろどろになった者、黒焦げになった者、そうした死体が二町四方もあろうと思われる所を掩うて見えた。子供の死体もたくさん交っていた。女の死体の半焦げになった傍に小さな一かたまりの消炭のような物を置いてある所があった。私はそれは女の負ぶっていた子供の死体であろうと思った。
 風は正面から吹いていた。すこしでも手拭の覆いに隙ができると恐ろしい臭気が鼻を刺した。私はもう斜めに突き切るのが厭になったので、右の方の死体の少ない方に反れ反れして走った。
 鉄骨の建物があってその前にも二三人の人がいて火を焚いていた。私はその火が身寄りの者の死骸を焼いている火だということを知った。その中には女も一人交っていた。その人たちもそれぞれ鼻にハンカチをやっていた。私はその傍を通って左に建物の間を潜って往った。その建物を出はずれると焼け残りの塀があって、外は電車通りになっていた。
 私はその電車通りを歩きかけてから再び驚かされた。その被服廠跡と電車通りとを隔てた溝の中は、幾百幾千とも判らない、目刺鰯の束を焼いたようになった黒焦げの死体で埋まっていた。私は、なるほどこの被服廠跡の焼死者が三万余と言うのも誇大ではないと思った。その溝の上になった被服廠跡にはまだ動かさない死体の丘ができていて、それを人夫たちがおろして外へ運んでいる傍に、身寄りの者を尋ねているらしい人たちが散らばって、死体をあっちこっちと覗いていた。

 私は帰りに吾妻橋の袂から荷足船で兵士に渡してもらって、浅草公園へと廻った。公園では浅草寺と観音堂とが残っていた。その観音堂は銀杏いちょうの緑葉に取り囲まれて涼しい風を宿していた。花屋敷の焼け跡には一疋の猿が金網の中にきょとんとしており、十二階は地震のために上の三階が堕ちて九階になっていた。この十二階の建物は半カ月ばかりの後に爆薬で破壊してしまった。
 私は公園の山のベンチに腰をかけて、上野の山を眼界にして左右にひろびろと広がった白い焼野原を見ながら、花屋敷の前で買って来た梨の実をかじった。鼻のどこかにまだ死体の厭な匂いが残っているような気がした。





底本:「貢太郎見聞録」中公文庫、中央公論社
   1982(昭和57)年6月10日発行
底本の親本:「貢太郎見聞録」大阪毎日新聞社・東京日日新聞社
   1926(大正15年)12月
※「それぞれ鼻にハンカチを」の「それぞれ」は底本では「それそれ」でしたが、親本を参照して直しました。
入力:鈴木厚司
校正:多羅尾伴内
2003年8月27日作成
青空文庫作成ファイル:
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  • 「くの字点」をのぞくJIS X 0213にある文字は、画像化して埋め込みました。

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