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尚書稽疑(しょうしょけいぎ)
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作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006/10/13 16:24:42 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语 |
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所謂先秦の古書は其の最初編成されてより以後、或は増竄を生じ、或は錯脱を生じ、今日現存せる篇帙が最初のものと異つて來てゐることは、何れの書にも通有の事實であつて、幾んど原形のまゝの者はないと謂ふも過言ではあるまいと思ふ。但だ其中で兩漢六朝以後に竄亂されたものは明かに之を僞書として鑑別することになつてゐるが、其以前に竄亂されたものは大抵之を看遁す傾になつてゐる。今早くより竄亂附加あることの明かなる例を擧ぐれば、例へば管子の中にて末尾の諸篇即ち牧民解以下は牧民以下の諸篇の解釋が多く、其他のものも後から附け加へられたものと思はるゝに拘らず、史記管晏傳の贊には既に此の後に附加せられた諸篇中の輕重篇を讀んだ事を書いてある。してみれば管子が最初出來た時の形から段々變化してゐたことは太史公以前からであることがわかる。又呂氏春秋に於ては序意篇が十二紀の最後に在つて、其下に八覽六論があるから、此八覽六論が後から附け加へられた跡が確に見えるが、その十二紀八覽六論を通じて、呂不韋死後の事實若くは文字と思はれる者を含んで居る。然るに今日の呂氏春秋は大體に於て漢書藝文志の時代の形と大差ない、且其中の八覽は太史公も之を見たのであつて、不韋蜀に遷されて世に呂覽を傳ふ(太史公自敍及報任少卿書)と言へるを觀れば、呂氏春秋の形も亦やはり太史公以前に變化してゐることが考へられる。それでは何故に斯かる變化が早くより一般に行はれたかといふに、章學誠は之を説明して、周末の諸子は皆各其道術を以て後世に傳ふることを主とするものであつて、苟も其術を顯はして其宗を立つるに足りさへすれば、前に援述すると後に附衍すると未だ立言の功を分つことがない(文史通義言公上)と言つてゐる。つまり當時は各學派に在りて後人が段々附け加へてゆくことが自由であつたので、斯の如き變化は僞作とか竄入とかの意味に解釋されずして、各其學派の學説の敷衍として視られたものである。或意味より言へばそれは其學派の發展であつて、これは其學派の發生した時より其發展の停止する時まで絶えず行はれてゐたものである。それでいづれかといへば九流諸子のごとく學派の發展が早く停止したものは、漢初までに其書籍の附加竄亂が止まつたのであるけれども、長く發展の繼續した儒家の六藝の如きは、却つて其移動が其後までも繼續したと見られ得るのである。現に尚書の如きは今日まで古文今文の議論が盛んに繼續してゐて、經學者多數の考は、假令古文を僞作とする者でも、その僞古文と今文との間には明かに限界を設けてあるが、其今文に關しては何等の疑を挾まないことになつて居り、所謂梅氏古文が出來ない前には、尚書には變化が無かつたやうに考へて居る。しかし實は伏生以後、兩漢の間も、尚書の本文に絶えず移動があつて、即ち漢書藝文志や王充論衡などの言ふ所によるも、其間に脱簡の補充もあれば、所謂眞古文の出現もあり、殊に其意義の解釋に至つては今文派と眞古文派との間に相違あり、今文派の中に在りても歐陽大小夏侯などの間に亦相違あることは一般に認めらるゝ所である。又梅氏古文が出來た以後にも唐初五經正義が出來るまでの間には又變化あり、姚方興の舜典二十八字の増加の如き、幾多の議論を經た後に、愈々今日の古文尚書の形になつたのである。古文今文といふものを眞僞の限界とする見地よりいへば甚だ簡單に結論さるゝ譯であるけれども、一面から言へば伏生が尚書を世に出して以來五經正義の出來るまでの時代を通じて、一の尚書發展の徑路と觀ることができないわけでもない。所謂僞古文の中でも其中には幾多の眞實なる材料を含んでゐることは梅![]() ![]() 斯くの如き觀察點より總べての經籍を看るときは、六藝も九流諸子も大體に於て同樣の徑路を取れることが明かであつて、從つて諸子の方は竄亂ありて不確實であるが、六藝は確實で疑ふ餘地なしと考ふることはできぬ筈である。春秋は三傳によつて往々經文の異同さへあり、又禮經を研究した者は、經中固自有記、記中亦自有經(邵懿辰が禮經通論の語、朱子語類に本づく)と論じて一々其實例を指摘してゐる如く、漢書藝文志以前に於て少くとも經書の字句の異同變化の多かつたことは疑ふべからざる事實である。此意味より推論すれば、尚書に就いても伏生が尚書を世に出す以前と以後とを分明に限界を立てゝ、伏生以後の尚書には種々異同變化が有つたけれども、伏生以前の尚書には少しも異同變化が無かつたと考ふる如きは甚だ不合理と謂はねばならぬ。現に漢書藝文志に見える尚書の脱簡は、博士の本と中祕の本との對校から考へられたことであるが、博士の本は伏生以來相傳の本であつて、それが中祕の本と相違してゐることは、即ち伏生以前の本と相違してゐる者と看るべきである。且又儒家の書中で孔子の正統を傳へたと言はるゝ孟子の中に含まれてゐる尚書は、明白に今日の尚書と違つてゐる點がある。例へば孟子に放勳曰として擧げてある文句が今日の尚書には無く、其の舜に關する事實や湯に關する事實が今日の尚書に缺げてゐたり、又其の禹の治水に關する事實が今日の禹貢と合はなかつたりする事はその特に著しいものである(一)[#(一)は自注]。且論語でさへも其の堯曰篇に有ることが今日の尚書には無く、却つて其の湯武に關する事實が墨子に引ける所と一致する所がある。又墨子に引ける尚書は今日の尚書に無きものが數多ある(二)[#(二)は自注]。此等は必しも總べて伏生以前のものと言ふことは出來ないが、兎も角伏生の傳へたとは違つた者が他に傳へられてゐたといふことは明かに言へる。假令詩書が孔子の刪定に成つたとしても、孔子以後漢初までは隨分長い年數を經てゐるから、其間に何等の變化も無かつたとはいかぬ筈である。尤書籍に變化が無いとか、或は古くから存在したといふことに就いては世人の屡 ![]() されば古書に對して觀察の方法を誤らぬやうにするといふことは餘程きはどい業である。從來の考證家は多くは古書の中に含まれてゐる史實を根據としたのであるが、然し乍ら史實は却つて屡 ![]() ![]() 此方法は勿論予も未だ精確に行つてみたことはないので、總べて六藝諸子に對し、此方法に由つて得たる結論を茲に述ぶることは出來ないが、然し其中の或種の者は幾らか斯かる方法を用ゐて判斷した者を問題として提供することが出來ると思ふ。それに就いて予が茲に特に述べてみたいのは尚書の編成に關する事である。大體支那の經學は唐の中頃より自由討究の風起り、宋代に至つては經書の本文にも疑問を挾むことが許さるゝやうになつた。例へば尚書の洪範に對し蘇東坡、余 ![]() ![]() ![]() 劉逢祿の書序述聞には 謹案、孔子序周書四十篇、東周之書、惟文侯之命秦誓二篇而已、合而讀之、一爲孱弱之音、一爲發憤之氣、興亡之象昭昭也、春秋書晉人及姜戎敗秦於 と言ひ、又宋翔鳳の尚書譜には![]() ![]() ![]() 謹案、孔子序周書、自大誓訖※[#「(「臣」を180°回転させたもの+臣)/一/介」、15-1]命、皆書之正經、以世次、以年紀、其末序蔡仲之命費誓呂刑文侯之命秦誓五篇者、幼嘗受其義於葆 と言つてゐる。此二人は近世公羊學の大家であるが、恐らく二人とも其受くる所が同じかつたに相違ない。此議論に於て最疑問とすべきは儒家が覇道をも併せて述べたと言ふ解釋の仕方である。孟子に據れば、仲尼の徒桓文の事を道ふものなし(公孫丑上)と言ひ、荀子にも仲尼の門五尺の豎子も五伯を稱するを羞づ(仲尼篇)と言つてゐる。果して然らば尚書に蔡仲之命以後の各篇を收めてゐることは明かに儒家の主張としては矛盾を來すわけである。そこで魏源の如きは書古微を作る時周書に關する微義は甫刑を以て終りとし、今文家の篇目から云へば其以後の文侯之命、秦誓をも除き、其以前の費誓をも除いて、而して其除いた諸篇の代りに逸周書の中から蔡公解、![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 案
![]() ![]() ![]() ![]() と言つてゐる。兎も角公羊學派の人々は尚書の末尾に費誓以下、甫刑、文侯之命、秦誓の諸篇のあることを重大なる疑問と考へたことは疑ない。尤公羊學派は僞古文を斥けず、それ故宋翔鳳は此外に蔡仲之命をも數へてゐるのである。さて斯かる疑問の生ずるのは何人が考へても自然である。是は公羊學派の説く如く詩書は皆正より變に入つてゆくものであつて、詩に於て最後に魯頌、商頌のあることは一の疑問であると同樣に、尚書に於ても以上の諸篇のあることは異例とすべきものである。是に就いては五帝三王の外に五覇をも認める意味でしたものだとする公羊家の解釋も一應は首肯されるが、然しそれでは落ち付きの惡い理由は、前に述べたる如き孟荀等正統の儒家の思想と一致しないといふことである。
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