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口笛を吹く武士(くちぶえをふくぶし)
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作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006/10/23 9:37:58 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语 |
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無双連子 一 「ちょっと密談――こっちへ寄ってくれ。」 上野介護衛のために、この吉良の邸へ派遣されて来ている縁辺上杉家の付家老、小林平八郎だ。 呼びにやった同じく上杉家付人、目付役、清水一角が、ぬっとはいってくるのを見上げて、書きものをしていた経机を、膝から抜くようにして、わきへ置いた。 「相当冷えるのう、きょうは。」 「は。何といっても、 小林が、手をかざしていた火桶を押しやると、一角は、それを奪うように、抱きこんですわった。 「用というのは、どういう――。」 上杉家から多勢来ている付け人のなかで、この二人は、よく気が合っていた。身分の高下を無視して、こんな、ともだちみたいな口をきいた。 朱引きそとの、本所松阪町にある吉良邸の一室だった。 小林は、しばらく黙っていたが、 「念には、念を――。」 と、いうと、起ち上って、縁の障子や、隣室のさかいの襖を、左右ともからりと開けはなして、うふふと苦笑しながら座にかえった。 庭から、さらっとしたうす陽が、さし込んだ。 一角が、 「だいぶ物ものしいですな。」 重要なことをいう時の、この人の癖で、小林は、にこにこして、 「この、裏門のまえに、雑貨商があるな。御存じかな?」と、覗くように一角の顔を見て、はじめていた。「米屋五兵衛とかいう――あれは、前原といって、赤穂の浪士だと密告して来たものがあるが。」 一角は、笑った。 「またですか。私はまた、この本所の万屋で 小林は、手文庫から、元赤穂藩の名鑑を取り出して、畳のうえにひろげて見ていたが、つと一個処を指さして、 「ほら、ここにある。前原 二 一角は、貧乏ゆすりのように、細かく肩を揺すって、口のなかで呟いていた。 「清水一角、とはこれ、世を忍ぶ仮りの名。何を隠そう、じつを申せば浅野内匠頭長矩家来――などということに、そのうちおいおいなりそうですな、この分ですと。はっはっは。」 が、かれは、小林の真剣な表情に気がつくと、名鑑のうえに眼を落として、 「ふうむ。で、この前原というのが、あのうら門まえの米屋だという確証は、挙がっているのですな。それなら、今夜にでも、ぶった斬ってしまいますが。」 「まあ、待て。こっちのほうは、いま星野に命じて探りを入れさせている。」 「では、その報告を待ってからのことに――だが、どうも私は、皆すこし、神経過敏になっているように思う。」 「しかし、清水、暮れに近づいたせいか、何かこう、世上騒然としてまいったな。」 「そういわれると、」と、一角は、微笑して、刀をかまえる手真似をした。「近いうちにあるかもしれませんな、これは。」 「うむ。それについてだ。」 小林は、膝をすすめて、 「君の兄貴の狂太郎君、ぜひあの狂太郎君の出馬を仰ぎたいと思ってな――。」 一角も、火桶ごしに乗り出して、小林の口へ耳を持って行った。 密談が、つづいた。 元禄十五年、十二月四日だ。 三 「兄者、兄者っ――!」 清水一角の武骨な手が、きょうも朝から 「兄者! またか。夜も昼も食べ酔って、困った 一角は、黒羽二重の着流しの下に、紐で結んだ刺子の稽古着の襟を覗かせて、兄の顔のうえに、かがみこんだ。 奥ざしきとはいっても、玄関から二た間目の、そこの三尺の縁に、かたちばかりの庭がつづいて、すぐ眼のまえに屋敷をとりまくなまこ塀の内側が、 床の間のふちに後頭部を載せて、赤く変色した黒紋つきの襟をはだけ、灰いろによごれた白 線の その瞬間、 「兄貴、起きてくれ。話しがあるのだが――弱ったなあ。」 舌打ちをすると、眠っているとばかり思っていた狂太郎の口が、動いて、 「おれの耳は、縦になっていようと、横になっていようと、同じに聞えらあ。」 一角は、どんと激しく畳に音を立てて、すわり直した。 「こん日も、小林殿より内談があった。」 当惑しきったという顔で、一角は、語をつないで、 「例によって、今までたびたび取り沙汰された、無論、一片の風説に過ぎますまい。」 「何が――?」 「が、赤穂の浪人めらが、近く御当家を襲撃するらしいといううわさは、依然としてひそかに、 「そうだったな。そいつを聞いて、おれも、呆れけえってる始末よ。」 「あきれ返るのは、こっちです!」 「何だ、出しぬけに。」 「ですから、このさい、ことに上杉家から来ておるわれわれは、御家老千阪様の 「うるさいっ!」 狂太郎は、ごろっと、寝がえりを打った。 一 「兄貴の 「何をいってやがる。てめえのあ、顔って柄じゃあねえ。そんな 「千阪様の御推挙によって、目付役として来ておる拙者であってみれば、大須賀、笠原、鳥井、糟谷、須藤、宮右をはじめ、松山、榊原、それに、和久半太夫、星野、若松ら――あの連中を懸命に督励して、せっせと赤浪どものうごきを探らねばならぬ。また事実、みな必死に働いてくれておるのに、それに 狂太郎は、頬から頤へ手をやって、撫ででみた。 やすり紙で軽石をこするような、ざら、ざらと、大きな音がした。 一角が、つづけて、 「
はあっと息を吐いて、狂太郎は、それを追うように鼻をつき出して、においを嗅いだ。 「眼ざわりでござる!」 呶鳴った弟の声に、狂太郎は、むっくり起き上った。 「大きな声だな。寝てもおられん。」 きょとんとした円顔で、不思議そうに、一角を見つめた。 「ううい、どうしろというのだ。」 「じつにどうも、度しがたいお人ですな。吉良殿を護るために、赤浪ばらの策動を突きとめていただきたい。これは、付け人として当然の任務ですぞ。」 「大丈夫。攻めてなんぞ来はせんよ。また、来たら来たで、その時のことだ、あわてるな、 「何をいわれる! 隠密の役目は、あらかじめ――。」 「隠密? この、おれが、か?」 「さよう。」 「間者だな。」 「さようっ!」 「密偵だな、早くいえば。」 「くどいっ!」 「犬じゃな、つまり――犬、猫、それから、男妾には、なりとうないと思っておったが――。」 「何をいわれる。誰が兄貴を、男めかけにする 狂太郎は、眼をしょぼしょぼさせて、 「まあ、それをいうな。」 「いや、いいます。あまりだからいうのです。まるで犬、猫のように、雨露をしのぐ場所もなく、 「今だって、尾羽うち枯らしておらんことはないよ。」 「自慢になりません!」 一角は、たまらなく 二 「その、失礼ながら困っておられた兄者を、拙者が引き取って、こちらへおつれ申すとき、兄者は何といわれた。」 「四十余年、老 「これからは、心気一転して、おおいに天下に名を成すよう、まず、振り出しに、この、吉良殿の護衛として、十分に働いてみると、あんなにお約束なすったではないか。」 それは、事実なのだった。 狂太郎も、すこし 「ちょ、ちょっと待った! 腹の空いておったときにいったことは、 「かねがねおすすめしてあるとおりに、これを機会に、千阪様に知られて、小林殿の取り持ちで、上杉家へ仕官なさるお気はないのか。」 「ないことも、ない。」狂太郎は、困ったように、「が、この 一角は、握り拳をつくって、肘を張って、詰め寄るのだ。 「その、ありあまる才幹と、不世出[#「不世出」は底本では「不出世」]の剣腕とをもちながら――。」 「や! こいつ、 「そうして年が年中ぶらぶらしておられるのは――いったい、どこかお 「ううむ。どこも悪うはない。ただ、酒が呑みたい。これが、病いといえば、病いかな。」 「さ、ですから、ここで一つ働きを見せて、千阪様に認められ、上杉家に抱えられて、相当の禄を食み、うまい酒をたんまり――と、拙者は、こう申し上げるので。いかがでござる。」 「それも、そうだな。」狂太郎は、とろんとした眼つきで、「わかっておるよ。人間、食わしてくれるやつのためには、何でもする。いや、何でもせんければならんことに、なっておるのだ。これを称して忠義という。なあ、赤穂の浪人どもが、小うるせえ策謀をしておるのも、忠義なら、それを防がにゃならんこっちも、忠義だ。忠義と忠義の鉢合わせ。ほんに、辛い浮世じゃないかいな、と来やがらあ――どっこいしょっ、と。」 立てた片膝に両手を突っ張って、狂太郎は、起ち上っていた。 「まいるぞ。」 「どこへ、兄者――。」 「兄者、兄者と、兄者を売りに来てやしめえし――停めるな。」 「うふっ、留めやしません。」 「いずくへ? とは、はて知れたこと。隠密に出るのだ。あんまり、柄に 「というと、いずれかの方面に、何かお心当りでもおありなので――。」 「ねえんだよ、そんなものあ。」 いいながら、狂太郎は、馬鹿ばかしく長い刀を、こじり探りに落とし差して、 「だが、犬も歩けば棒に当たる。あばよ。」 もう、土間へ下り立っていた。 そして、うら金のとれた 「通るぞ。雑魚一匹!」 破れるような声で門番の足軽へ呶鳴って、さっさと松阪町のとおりへ出た。
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