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大塩平八郎(おおしおへいはちろう)

作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006-11-6 18:00:24 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语


   九、八軒屋、新築地、下寺町

 梅田のかせて行く大筒おほづゝを、坂本が見付けた時、平八郎はまだ淡路町二丁目の往来の四辻に近い処に立ち止まつてゐた。同勢は見る/\つて、大筒おほづゝの車を人足にんそくにも事をくやうになつて来る。坂本等の銃声が聞えはじめてからは、同勢がほとんど無節制の状態におちいり掛かる。もう射撃をするにも、号令には依らずに、人々ひと/″\勝手に射撃する。平八郎はしばらくそれを見てゐたが、重立おもだつた人々を呼び集めて、「もう働きもこれまでぢや、好く今まで踏みこたへてゐてくれた、銘々めい/\此場を退いて、しかるべく処決せられい」と云ひ渡した。
 集まつてゐた十二人は、格之助、白井、橋本、渡辺、瀬田、庄司、茨田いばらた、高橋、父柏岡かしはをか、西村、杉山と瀬田の若党植松うゑまつとであつたが、平八郎のことばを聞いて、皆顔を見合せて黙つてゐた。瀬田が進み出て、「我々はどこまでもお供をしますが、御趣意ごしゆいはなるべく一同に伝へることにしませう」と云つた。そして所々しよ/\に固まつてゐる身方みかたの残兵に首領しゆりやうの詞を伝達した。
 それを聞いて悄然せうぜんと手持無沙汰に立ち去るものもある。待ち構へたやうに持つてゐたやりつてゐた荷を棄てて、足早あしはやに逃げるものもある。大抵は此場をけ出ることが出来たが、安田が一にん逃げおくれて、町家まちやに潜伏したために捕へられた。此時同勢のうち長持ながもち宰領さいりやうをして来た大工作兵衛がゐたが、首領の詞を伝達せられた時、自分だけはどこまでも大塩父子ふしの供がしたいと云つて居残ゐのこつた。質樸しつぼくな職人気質かたぎから平八郎がくはだての私欲を離れた処に感心したので、ひて与党に入れられたうらみを忘れて、生死を共にする気になつたのである。
 平八郎は格之助以下十二人と作兵衛とに取り巻かれて、淡路町あはぢまち二丁目の西端から半丁程東へ引き返して、隣まで火の移つてゐる北側の町家に踏み込んだ。そして北裏の東平野町ひがしひらのまちへ抜けた。坂本等が梅田を打ち倒してから、四辻に出るまで、だいぶ時が立つたので、この上下十四人は首尾好くあとくらますことが出来た。
 此時北船場きたせんばの方角は、もう騒動が済んでからしばらく立つたので、焼けた家のあとから青い煙が立ち昇つてゐるだけである。何物にか執着しふぢやくして、黒くげた柱、地にゆだねたかはらのかけらのそばを離れ兼ねてゐるやうな人、けものかばねくさる所に、からす野犬のいぬの寄るやうに、何物をかさががほにうろついてゐる人などが、たがひに顔を見合せぬやうにして行き違ふだけで、平八郎等の退く邪魔をするものはない。八つ頃から空は次第に薄鼠色うすねずみいろになつて来て、陰鬱いんうつな、人の頭を押さへ附けるやうな気分が市中を支配してゐる。まだ鉄砲ややりを持つてゐる十四人は、ことばもなく、稲妻形いなづまがた焼跡やけあとの町をつて、影のやうにあゆみを運びつつ東横堀川ひがしよこぼりがは西河岸にしかしへ出た。途中で道に沿うて建て並べた土蔵の一つが焼け崩れて、壁のすそだけ残つた中に、青い火がちよろ/\とえてゐるのを、平八郎が足をめて見て、ふところから巻物を出してほのほの中に投げた。これは陰謀の檄文げきぶんと軍令状とを書いた裏へ、今年の正月八日から二月十五日までの間に、同盟者に記名調印させた連判状れんぱんじやうであつた。
 十四人はたつた今七八十人の同勢をひきゐて渡つた高麗橋かうらいばしを、ほとんど世を隔てたやうなおもひをして、同じ方向に渡つた。河岸かしに沿うて曲つて、天神橋詰てんじんばしづめを過ぎ、八軒屋に出たのは七つ時であつた。ふと見れば、桟橋さんばしに一さうの舟がつないであつた。船頭が一人ともの方にうづくまつてゐる。土地のものが火事なんぞの時、荷物を積んで逃げる、屋形やかたのやうな、余り大きくない舟である。平八郎は一行に目食めくはせをして、此舟に飛び乗つた。あとから十三人がどや/\と乗込のりこんだ。
「こら。舟を出せ。」かう叫んだのは瀬田である。
 不意を打たれた船頭は器械的につてともづなを解いた。
 舟が中流に出てから、庄司は持つてゐた十文目筒もんめづゝ、其外の人々は手鑓てやりを水中に投げた。それから川風の寒いのに、皆着込きごみいで、これも水中に投げた。
「どつちへでも好いからいでをれ。」瀬田はかう云つて、船頭にあやつらせた。火災につたものの荷物を運び出す舟が、大川おほかはにはばらいたやうに浮かんでゐる。平八郎等の舟がそれにまじつてのぼつたりだつたりしてゐても、誰も見咎みとがめるものはない。
 しかし器械的に働いてゐる船頭は、次第に醒覚せいかくして来て、どうにかして早くこの気味の悪い客を上陸させてしまはうと思つた。「旦那方だんながたどこへおあがりなさいます。」
「黙つてをれ」と瀬田が叱つた。
 平八郎はそばにゐた高橋に何やらささやいだ。高橋は懐中から金を二両出して船頭の手に握らせた。「いかい世話になるのう。お前の名はなんと云ふかい。」
「へえ。これは済みません。直吉と申します。」
 これからは船頭が素直に指図を聞いた。平八郎は項垂うなだれてゐたかしらを挙げて、「これから拙者せつしや所存しよぞんをお話いたすから、一同聞いてくれられい」と云つた。所存と云ふのは大略かうである。此度このたびくはだて残賊ざんぞくちゆうして禍害くわがいつと云ふ事と、私蓄しちくあばいて陥溺かんできを救ふと云ふ事との二つをこゝろざした者である。しかるにかれまつたく敗れ、これは成るになん/\としてくじけた。主謀たる自分は天をもうらまず、人をもとがめない。たゞ気の毒に堪へぬのは、親戚故旧友人徒弟たるお前方まへがたである。自分はお前方に罪を謝する。どうぞ此同舟の会合を最後の団欒だんらんとして、たもとを分つてりくのぼり、おの/\いさぎよく処決してもらひたい。自分等父子ふし最早もはや思ひ置くこともないが、あとには女小供がある。橋本氏には大工作兵衛を連れて、いかにもして彼等の隠家かくれがへ往き、自裁じさいするやうに勧めて貰ふことを頼むと云ふのである。平八郎のめかけ以下は、初め般若寺村はんにやじむらの橋本方へ退いて、それから伊丹いたみの紙屋某かたへ往つたのである。後に彼等がばくいたのは京都であつたが、それは二人の妾が弓太郎ゆみたろうを残しては死なれぬと云ふので、橋本が連れてさまよひ歩いた末である。
 くれ六つ頃から、天満橋北詰てんまばしきたづめの人の目に立たぬ所に舟を寄せて、先づ橋本と作兵衛とが上陸した。次いで父柏岡かしはをか、西村、茨田いばらた、高橋と瀬田にいとまを貰つた植松うゑまつとの五人が上陸した。後に茨田は瀬田の妻子をおとしてつた上で自首し、父柏岡と高橋とも自首し、西村は江戸で願人坊主ぐわんにんばうずになつて、時疫じえきで死に、植松は京都で捕はれた。
 あとに残つた人々は土佐堀川とさぼりがはから西横堀川にしよこぼりがは這入はひつて、新築地しんつきぢに上陸した。平八郎、格之助、瀬田、渡辺、庄司、白井、杉山の七人である。人々は平八郎にせまつて所存しよぞんを問うたが、たゞ「いづれまぬかれぬ身ながら、少しかんがへがある」とばかり云つて、打ち明けない。そして白井と杉山とに、「お前方は心残こゝろのこりのないやうにして、身の始末を附けるが好い」と云つて、杉山には金五両を渡した。
 一行はしばらく四つ橋のそばに立ち止まつてゐた。其時平八郎が「どこへ死所しにどころを求めに往くにしても、大小だいせうしてゐては人目に掛かるから、一同刀を棄てるが好い」と云つて、先づ自分の刀を橋の上から水中に投げた。格之助はじめ、人々もこれに従つて刀を投げて、皆脇差わきざしばかりになつた。それから平八郎の黙つて歩くあとに附いて、一同下寺町したでらまちまで出た。ここで白井と杉山とが、いつまで往つても名残なごりは尽きぬと云つて、暇乞いとまごひをした。後に白井は杉山を連れて、河内国かはちのくに渋川郡しぶかはごほり大蓮寺村たいれんじむらの伯父の家に往き、はさみを借りて杉山とともに髪をり、伏見へ出ようとする途中で捕はれた。
 跡には平八郎父子と瀬田、渡辺、庄司との五人が残つた。そのうち下寺町したでらまちで火事を見に出てゐた人の群を避けようとするはずみに、庄司が平八郎等四人にはぐれた。後に庄司は天王寺村てんわうじむらかして、平野郷ひらのがうから河内かはち大和やまとを経て、自分と前後して大和路やまとぢはしつた平八郎父子には出逢はず、大阪へ様子を見に帰る気になつて、奈良まで引き返して捕はれた。
 庄司がはぐれて、平八郎父子と瀬田、渡辺との四人になつた時、下寺町の両側共寺ばかりの所を歩きながら、瀬田が重ねて平八郎に所存を問うた。平八郎は暫く黙つてゐて答へた。「いや先刻せんこくかんがへがあるとは云つたが、別にかうとまつた事ではない。お前方二人は格別の間柄だから話して聞かせる。おれは今暫く世の成行なりゆきを見てゐようと思ふ。もつと間断かんだんなく死ぬる覚悟をしてゐて、恥辱を受けるやうな事はせぬ」と云つたのである。これを聞いた瀬田と渡辺とは、「そんなら我々も是非共御先途ごせんとを見届けます」と云つて、河内かはちから大和路やまとぢはしることを父子ふしに勧めた。四人の影は平野郷方角へ出る畑中道はたなかみちやみうちに消えた。

   十、城

 けふの騒動がはじめて大阪の城代じやうだい土井の耳につたのは、東町奉行跡部あとべ玉造口定番たまつくりぐちぢやうばん遠藤に加勢をうた時の事である。土井は遠藤を以て東西両町奉行に出馬を言ひ付けた。丁度西町奉行堀が遠藤の所に来てゐたので、堀自分はすぐに沙汰さたを受け、それから東町奉行所に往つて、跡部に出馬の命を伝へることになつた。
 土井は両町奉行に出馬を命じ、同時に目附中川半左衛門、犬塚太郎左衛門を陰謀の偵察、与党の逮捕に任じて置いて、昼四つどき定番ぢやうばん大番おほばん加番かばんの面々を呼び集めた。
 城代土井は下総しもふさ古河こがの城主である。其下に居る定番ぢやうばん二人ににんのうち、まだ着任しない京橋口定番米倉よねくらは武蔵金沢の城主で、現に京橋口をも兼ね預かつてゐる玉造口定番遠藤は近江あふみ三上みかみの城主である。定番の下には一年交代の大番頭おほばんがしらが二人ゐる。東大番頭は三河みかは新城しんじやう菅沼織部正定忠すがぬまおりべのしやうさだたゞ、西大番頭は河内かはち狭山さやまの北条遠江守氏春とほたふみのかみうぢはるである。以上は幕府の旗下で、定番の下には各与力三十騎、同心百人がゐる。大番頭の下には各組頭くみがしら四人、組衆くみしゆう四十六人、与力十騎、同心二十人がゐる。京橋組、玉造組、東西大番を通算すると、上下の人数が定番二百六十四人、大番百六十二人、合計四百二十六人になる。これだけでは守備が不足なので、幕府は外様とざまの大名に役知やくち一万石づゝつて加番かばんに取つてゐる。山里丸やまざとまるの一加番が越前大野の土井能登守利忠どゐのとのかみとしたゞ中小屋なかごやの二加番が越後与板よいたの井伊右京亮直経うきやうのすけなほつね青屋口あをやぐちの三加番が出羽では長瀞ながとろ米津伊勢守政懿よねづいせのかみまさよし雁木坂がんきざかの四加番が播磨はりま安志あんじの小笠原信濃守長武しなのゝかみながたけである。加番は各物頭ものがしら五人、徒目付かちめつけ六人、平士ひらざむらひ九人、かち六人、小頭こがしら七人、足軽あしがる二百二十四人をひきゐて入城する。其内に小筒こづゝ六十ちやう弓二十はりがある。又棒突足軽ぼうつきあしがるが三十五人ゐる。四箇所の加番を積算すると、上下の人数が千三十四人になる。定番以下の此人数に城代の家来を加へると、城内には千五六百人の士卒がゐる。
 定番、大番、加番の集まつた所で、土井はしやう九つどきに城内を巡見するから、それまでにかく持口もちくちを固めるやうにと言ひ付けた。それから士分のものは鎧櫃よろひゞつかつぎ出す。具足奉行ぐそくぶぎやう上田五兵衛は具足を分配する。鉄砲奉行石渡彦太夫いしわたひこだいふ鉄砲玉薬てつぱうたまくすりを分配する。鍋釜なべかま這入はひつてゐた鎧櫃よろひびつもあつた位で、兵器装具には用立たぬものが多く、城内は一方ひとかたならぬ混雑であつた。
 九つ時になると、両大番頭おほばんがしらが先導になつて、土井は定番ぢやうばん加番かばんの諸大名を連れて、城内を巡見した。門の数が三十三箇所、番所の数が四十三箇所あるのだから、随分手間が取れる。どこに往つて見ても、防備はまだ目も鼻も開いてゐない。土井はくれ六つどきに改めて巡見することにした。
 二度目に巡見した時は、城内の士卒の外に、尼崎あまがさき岸和田きしわだ高槻たかつきよどなどから繰り出した兵が到着してゐる。
 ひつじさるひらいてゐる城の大手おほては土井の持口もちくちである。詰所つめしよは門内の北にある。門前にはさくひ、竹束たけたばを立て、土俵を築き上げて、大筒おほづゝ二門をゑ、別に予備筒よびづゝ二門が置いてある。門内には番頭ばんがしらが控へ、門外北側には小筒を持つた足軽百人が北向に陣取つてゐる。南側には尼崎から来た松平遠江守忠栄とほたふみのかみたゞよしの一番手三百三十余人が西向に陣取る。ほゞ同数の二番手は後にここへ参着して、京橋口にうつり、次いで跡部あとべの要求によつて守口もりぐち吹田すゐたへ往つた。後に郡山こほりやまの一二番手も大手に加はつた。
 大手門内を、城代の詰所を過ぎて北へ行くと、西の丸である。西の丸の北、いぬゐすみに京橋口が開いてゐる。此口の定番の詰所は門内の東側にある。定番米津が着任してをらぬので、山里丸加番土井が守つてゐる。大筒の数は大手と同じである。門外には岸和田から来た岡部内膳正長和ないぜんのしやうながかずの一番手二百余人、高槻の永井飛騨守直与ひだのかみなほともの手、其外そのほか淀の手が備へてゐる。
 京橋口定番の詰所の東隣は焔硝蔵えんせうぐらである。焔硝蔵とうしとらすみの青屋口との中間に、本丸に入る極楽橋ごくらくばしが掛かつてゐる。極楽橋から這入はひつた所が山里で、其南が天主閣、其又南が御殿である。本丸には菅沼、北条の両大番頭が備へてゐる。
 青屋口には門の南側に加番の詰所がある。此門は加番米津が守つて、中小屋加番なかごやかばんの井伊が遊軍としてこれに加はつてゐる。青屋口加番の詰所から南へ順次に、中小屋加番、雁木坂がんきざか加番、玉造口定番の詰所が並んでゐる。雁木坂加番小笠原は、自分の詰所の前の雁木坂に馬印うまじるしを立ててゐる。
 玉造口定番ぢやうばんの詰所はたつみに開いてゐる。玉造口の北側である。此門は定番遠藤が守つてゐる。これに高槻の手が加はり、後には郡山こほりやまの三番手も同じ所に附けられた。玉造口と大手との間は、東が東大番、西が西大番の平常の詰所である。
 土井の二度の巡見の外、中川、犬塚の両目附は城内所々しよ/\を廻つて警戒し、又両町奉行所に出向いて情報を取つた。つてからは、城の内外の持口々々もちくち/″\篝火かゞりびつらねて、炎焔えん/\てんこがすのであつた。跡部の役宅やくたくには伏見奉行加納遠江守久儔かなふとほたふみのかみひさとも、堀の役宅には堺奉行曲淵甲斐守景山まがりぶちかひのかみけいざんが、各与力同心を率ゐて繰り込んだ。又天王寺方面には岸和田から来た二番手千四百余人が陣を張つた。
 目附中川、犬塚の手で陰謀の与党を逮捕しようと云ふ手配てくばりは、日暮頃から始まつたが、はか/″\しい働きも出来なかつた。吹田村すゐたむら氏神うぢがみの神主をしてゐる、平八郎の叔父宮脇志摩しまの所へ捕手とりての向つたのは翌二十日で、宮脇は切腹して溜池ためいけに飛び込んだ。船手ふなて奉行の手で、川口の舟を調べはじめたのは、中一日置いた二十一日の晩からである。城の兵備をてつしたのも二十一日である。
 朝五つ時に天満てんまから始まつた火事は、大塩の同勢が到る処に大筒を打ち掛け火を放つたので、風の余り無い日でありながら、おもひほかにひろがつた。天満は東が川崎、西が知源寺ちげんじ摂津国町つのくにまち又二郎町またじらうまち、越後町、旅籠町はたごまち、南が大川、北が与力町をさかひとし、大手前から船場せんばへ掛けての市街は、谷町たにまち一丁目から三丁目までを東界ひがしさかひ上大かみおほみそ筋から下難波橋しもなんばばし筋までを西界にしさかひ内本町うちほんまち太郎左衛門町たらうざゑもんまち西入町にしいりまち豊後町ぶんごまち安土町あづちまち魚屋町うをやまち南界みなみさかひ、大川、土佐堀川を北界きたさかひとして、一面の焦土となつた。本町橋ほんまちばし東詰で、西町奉行堀に分れて入城した東町奉行跡部は、火が大手近くえて来たので、ゆふ七つ時に又坂本以下の与力同心を率ゐて火事場に出馬した。丁度火消人足ひけしにんそくが谷町で火を食ひ止めようとしてゐる所であつたが、人数が少いのと一同疲れてゐるのとのために、くれ六つはんに谷町代官所に火の移るのを防ぐことが出来なかつた。鎮火したのは翌二十日のよひ五つ半である。町数まちかずで言へば天満組四十二町、北組五十九町、南組十一町、家数いへかず竈数かまどかずで言へば、三千三百八十九軒、一万二千五百七十八戸がわざはひかゝつたのである。

   十一、二月十九日の後の一、信貴越

 大阪兵燹へいせん余焔よえんが城内の篝火かがりびと共にやみてらし、番場ばんばの原には避難した病人産婦の呻吟しんぎんを聞く二月十九日の夜、平野郷ひらのがうのとある森蔭もりかげからだを寄せ合つて寒さをしのいでゐる四人があつた。これはけぬ河内かはちへ越さうとして、身も心も疲れ果て、最早もはや一歩も進むことの出来なくなつた平八郎父子ふしと瀬田、渡辺とである。
 四人は翌二十日に河内かはちさかひつて、食を求める外には人家に立ち寄らぬやうに心掛け、平野川に沿うて、間道かんだうを東へ急いだ。さて途中どこで夜を明かさうかと思つてゐるうち、夜なかから大風雨になつた。やう/\産土うぶすなやしろを見付けてけ込んでゐると、暫く物を案じてゐた渡辺が、突然もう此先きは歩けさうにないから、先生の手足纏てあしまとひにならぬやうにすると云つて、手早く脇差わきざしを抜いて腹に突き立てた。左の脇腹に三寸余り切先きつさき這入はひつたので、所詮しよせん助からぬと見極みきはめて、平八郎が介錯かいしやくした。渡辺は色の白い、少し歯の出た、温順篤実な男で、年齢はわづかに四十を越したばかりであつた。
 二十一日のあかつきになつても、大風雨はみさうな気色けしきもない。平八郎父子ふしと瀬田とは、渡辺の死骸しがいあとに残して、産土うぶすなやしろを出た。土地の百姓が死骸を見出してうつたへたのは、二十二日の事であつた。社のあつた所は河内国かはちのくに志紀郡しきごほり田井中村たゐなかむらである。
 三人は風雨ををかして、間道を東北の方向に進んだ。風雨はやう/\午頃ひるごろんだが、肌までとほつて、寒さは身にみる。からうじて大和川やまとがはの支流幾つかを渡つて、に入つて高安郡たかやすごほり恩地村おんちむらに着いた。さて例のとほり人家を避けて、籔陰やぶかげの辻堂を捜し当てた。近辺から枯枝かれえだを集めて来て、おそる/\焚火たきびをしてゐると、瀬田が発熱ほつねつして来た。いつも血色の悪い、蒼白あをじろい顔が、大酒たいしゆをしたやうに暗赤色あんせきしよくになつて、持前の二皮目ふたかはめ血走ちばしつてゐる。平八郎父子が物を言ひ掛ければ、驚いたやうに返事をするが、其間々あひだ/\は焚火の前にうづくまつて、うつゝともゆめとも分からなくなつてゐる。ここまで来る途中で、先生が寒からうと云つて、瀬田は自分の着てゐた羽織をいで平八郎にかさねさせたので、誰よりも強く寒さにをかされたものだらう。平八郎は瀬田に、かく人家に立ち寄つて保養して跡から来るが好いと云つて、無理に田圃道たんぼみちを百姓家のある方へ往かせた。其後影うしろかげを暫く見送つてゐた平八郎は、急に身を起して焚火を踏み消した。そして信貴越しぎごえの方角をこゝろざして、格之助と一しよに、又間道かんだうを歩き出した。
 瀬田は頭がぼんやりして、からだぢゆうの脈がつゞみを打つやうに耳に響く。狭い田の畔道くろみちを踏んで行くに、足がどこを踏んでゐるか感じが無い。やゝもすれば苅株きりかぶの間の湿しめつた泥に足をみ込む。やう/\一軒の百姓家の戸のすきから明かりのさしてゐるのにたどり着いて、瀬田ははつきりとした声で、しばらく休息させてもらひたいと云つた。雨戸を開けて顔を出したのは、四角なあから顔のいさんである。瀬田の様子をぢつと見てゐたが、おもひほかこばまうともせずに、囲炉裏ゐろりそばに寄つて休めと云つた。あさんが草鞋わらぢがせて、足を洗つてくれた。瀬田は火のそばに横になるやいなや、目を閉ぢてすぐにいびきをかき出した。其時爺いさんはそつと瀬田の顔に手を当てた。瀬田は知らずにゐた。爺いさんはその手を瀬田の腰の所に持つて往つて、脇差わきざしを抜き取つた。そしてそれを持つて、家を駈け出した。行灯あんどうの下にすわつた婆あさんは、あきれて夫のあとを見送つた。
 瀬田は夢を見てゐる。松並木のどこまでも続いてゐる街道を、自分は力限ちからかぎりけて行く。あとから大勢おほぜいの人が追ひ掛けて来る。自分の身は非常に軽くて、ほとんど鳥の飛ぶやうに駈けることが出来る。それに追ふものの足音が少しも遠ざからない。瀬田は自分の足の早いのにすこぶる満足して、たゞ追ふものの足音の同じやうに近く聞えるのを不審に思つてゐる。足音は急調きふてうつゞみを打つ様に聞える。ふと気が附いて見ると、足音と思つたのは、自分の脈の響くのであつた。意識が次第に明瞭になると共に、瀬田は腰の物のくなつたのを知つた。そしてそれと同時に自分の境遇を不思議な程的確てきかくに判断することが出来た。
 瀬田はきた。眩暈めまひおこりさうなのを、出来るだけ意志を緊張してこらへた。そして前にいさんの出て行つた口から、同じやうに駈け出した。行灯あんどうもとあさんは、又あきれてそれを見送つた。
 百姓家の裏に出て見ると、小道を隔てて孟宗竹まうそうちく大籔おほやぶがある。その奥をかして見ると、高低種々の枝を出してゐる松の木がある。瀬田はうづたかく積もつた竹の葉をんで、松の下に往つてふところを探つた。懐には偶然捕縄とりなはがあつた。それを出してほぐして、低い枝に足をめて、高い枝に投げ掛けた。そしてわなを作つて自分のくびに掛けて、低い枝から飛び降りた。瀬田は二十五歳で、脇差を盗まれたために、見苦しい最期さいごを遂げた。村役人を連れて帰つたいさんが、其夜そのようちに死骸を見付けて、二十二日に領主稲葉丹後守たんごのかみに届けた。
 平八郎は格之助のおくがちになるのを叱り励まして、二十二日の午後に大和やまとさかひに入つた。それから日暮に南畑みなみはたで格之助に色々な物を買はせて、身なりを整へて、駅のはづれにある寺に這入はひつた。しばらくすると出て来て、「お前も頭をるのだ」と云つた。格之助は別に驚きもせず、連れられて這入つた。親子が僧形そうぎやうになつて、麻の衣を着て寺を出たのは、二十三日のあけ六つ頃であつた。
 寺にゐた間は平八郎がほとんどごんも物を言はなかつた。さて寺を出離れると、平八郎が突然云つた。「さあ、これから大阪に帰るのだ。」
 格之助もこのことばには驚いた。「でも帰りましたら。」
いから黙つて附いて来い。」
 平八郎は足の裏がえるやうに逃げて来た道を、かつしたものが泉を求めて走るやうに引き返して行く。はたから見れば、その大阪へ帰らうとする念は、一種の不可抗力のやうに平八郎の上に加はつてゐるらしい。格之助も寺でよひあかつきとにあたゝかかゆ振舞ふるまはれてからは、霊薬れいやくを服したやうに元気を恢復して、もう遅れるやうな事はない。しかし一歩々々危険な境に向つて進むのだと云ふかんがへが念頭を去らぬので、先に立つて行く養父の背を望んで、驚異の情の次第に加はるのを禁ずることが出来ない。

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