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お富の貞操(おとみのていそう)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-8-15 15:01:20  点击:  切换到繁體中文

底本: 現代日本文學大系 43 芥川龍之介集
出版社: 筑摩書房
初版発行日: 1968(昭和43)年8月25日
入力に使用: 1968(昭和43)年8月25日初版第1刷

 

   一

 明治元年五月十四日の午(ひる)過ぎだつた。「官軍は明日夜の明け次第、東叡山彰義隊を攻撃する。上野界隈(かいわい)の町家のものは※(「勹<夕」、第3水準1-14-76)々(そうそう)何処(どこ)へでも立ち退(の)いてしまへ。」――さう云ふ達しのあつた午過ぎだつた。下谷町(したやまち)二丁目の小間物店、古河屋政兵衛(こがやせいべゑ)の立ち退いた跡には、台所の隅の蚫貝(あはびがひ)の前に大きい牡の三毛猫が一匹静かに香箱(かうばこ)をつくつてゐた。
 戸をしめ切つた家の中は勿論午過ぎでもまつ暗だつた。人音(ひとおと)も全然聞えなかつた。唯耳にはひるものは連日の雨の音ばかりだつた。雨は見えない屋根の上へ時々急に降り注いでは、何時(いつ)か又中空へ遠のいて行つた。猫はその音の高まる度に、琥珀(こはく)色の眼をまん円(まる)にした。竈(かまど)さへわからない台所にも、この時だけは無気味な燐光が見えた。が、ざあつと云ふ雨音以外に何も変化のない事を知ると、猫はやはり身動きもせずもう一度眼を糸のやうにした。
 そんな事が何度か繰り返される内に、猫はとうとう眠つたのか、眼を明ける事もしなくなつた。しかし雨は不相変(あひかはらず)急になつたり静まつたりした。八つ、八つ半、――時はこの雨音の中にだんだん日の暮へ移つて行つた。
 すると七つに迫つた時、猫は何かに驚いたやうに突然眼を大きくした。同時に耳も立てたらしかつた。が、雨は今までよりも遙かに小降りになつてゐた。往来を馳(は)せ過ぎる駕籠舁(かごか)きの声、――その外には何も聞えなかつた。しかし数秒の沈黙の後、まつ暗だつた台所は何時の間にかぼんやり明るみ始めた。狭い板の間を塞(ふさ)いだ竈、蓋(ふた)のない水瓶(みづがめ)の水光り、荒神(くわうじん)の松、引き窓の綱、――そんな物も順々に見えるやうになつた。猫は愈(いよいよ)不安さうに、戸の明いた水口(みづぐち)を睨(にら)みながら、のそりと大きい体を起した。
 この時この水口の戸を開いたのは、いや戸を開いたばかりではない、腰障子もしまひに明けたのは、濡れ鼠になつた乞食だつた。彼は古い手拭をかぶつた首だけ前へ伸ばしたなり、少時(しばらく)は静かな家のけはひにぢつと耳を澄ませてゐた。が、人音のないのを見定めると、これだけは真新しい酒筵(さかむしろ)に鮮かな濡れ色を見せた儘、そつと台所へ上つて来た。猫は耳を平(ひら)めながら、二足三足跡ずさりをした。しかし乞食は驚きもせず後手(うしろで)に障子をしめてから、徐(おもむ)ろに顔の手拭をとつた。顔は髭(ひげ)に埋まつた上、膏薬も二三個所貼つてあつた。しかし垢(あか)にはまみれてゐても、眼鼻立ちは寧(むし)ろ尋常だつた。
「三毛。三毛。」
 乞食は髪の水を切つたり、顔の滴(しづく)を拭つたりしながら、小声に猫の名前を呼んだ。猫はその声に聞き覚えがあるのか、平めてゐた耳をもとに戻した。が、まだ其処(そこ)に佇(たたず)んだなり、時々はじろじろ彼の顔へ疑深い眼を注いでゐた。その間に酒筵を脱いだ乞食は脛(すね)の色も見えない泥足の儘、猫の前へどつかりあぐらをかいた。
「三毛公。どうした?――誰もゐない所を見ると、貴様だけ置き去りを食はされたな。」
 乞食は独り笑ひながら、大きい手に猫の頭を撫でた。猫はちよいと逃げ腰になつた。が、それぎり飛び退(の)きもせず、反(かへ)つて其処へ坐つたなり、だんだん眼さへ細め出した。乞食は猫を撫でやめると、今度は古湯帷子(ゆかた)の懐から、油光りのする短銃を出した。さうして覚束(おぼつか)ない薄明りの中に、引き金の具合を検(しら)べ出した。「いくさ」の空気の漂つた、人気のない家の台所に短銃をいぢつてゐる一人の乞食――それは確に小説じみた、物珍らしい光景に違ひなかつた。しかし薄眼になつた猫はやはり背中を円(まる)くした儘、一切の秘密を知つてゐるやうに、冷然と坐つてゐるばかりだつた。
「明日になるとな、三毛公、この界隈(かいわい)へも雨のやうに鉄砲の玉が降つて来るぞ。そいつに中(あた)ると死んじまふから、明日はどんな騒ぎがあつても、一日縁の下に隠れてゐろよ。……」
 乞食は短銃を検(しら)べながら、時々猫に話しかけた。
「お前とも永い御馴染(おなじみ)だな。が、今日が御別れだぞ。明日はお前にも大厄日だ。おれも明日は死ぬかも知れない。よし又死なずにすんだ所が、この先二度とお前と一しよに掃溜(はきだ)めあさりはしないつもりだ。さうすればお前は大喜びだらう。」
 その内に雨は又一しきり、騒がしい音を立て始めた。雲も棟瓦(むねがはら)を煙らせる程、近々に屋根に押し迫つたのであらう。台所に漂つた薄明りは、前よりも一層かすかになつた。が、乞食は顔も挙げず、やつと検べ終つた短銃へ、丹念に弾薬を装填(さうてん)してゐた。
「それとも名残りだけは惜しんでくれるか? いや、猫と云ふやつは三年の恩も忘れると云ふから、お前も当てにはならなさうだな。――が、まあ、そんな事はどうでも好(い)いや。唯おれもゐないとすると、――」
 乞食は急に口を噤(つぐ)んだ。途端に誰か水口の外へ歩み寄つたらしいけはひがした。短銃をしまふのと振り返るのと、乞食にはそれが同時だつた。いや、その外に水口の障子ががらりと明けられたのも同時だつた。乞食は咄嗟(とつさ)に身構へながら、まともに闖入者(ちんにふしや)と眼を合せた。
 すると障子を明けた誰かは乞食の姿を見るが早いか、反つて不意を打たれたやうに、「あつ」とかすかな叫び声を洩らした。それは素裸足(すはだし)に大黒傘を下げた、まだ年の若い女だつた。彼女は殆ど衝動的に、もと来た雨の中へ飛び出さうとした。が、最初の驚きから、やつと勇気を恢復すると、台所の薄明りに透(す)かしながら、ぢつと乞食の顔を覗(のぞ)きこんだ。
 乞食は呆気(あつけ)にとられたのか、古湯帷子(ゆかた)の片膝を立てた儘、まじまじ相手を見守つてゐた。もうその眼にもさつきのやうに、油断のない気色(けしき)は見えなかつた。二人は黙然(もくねん)と少時(しばらく)の間、互に眼と眼を見合せてゐた。
「何だい、お前は新公ぢやないか?」
 彼女は少し落ち着いたやうに、かう乞食へ声をかけた。乞食はにやにや笑ひながら、二三度彼女へ頭を下げた。
「どうも相済みません。あんまり降りが強いもんだから、つい御留守へはひこみましたがね――何、格別明き巣狙ひに宗旨を変へた訣(わけ)でもないんです。」
「驚かせるよ、ほんたうに――いくら明き巣狙ひぢやないと云つたつて、図々しいにも程があるぢやないか?」
 彼女は傘の滴(しづく)を切り切り、腹立たしさうにつけ加へた。
「さあ、こつちへ出ておくれよ。わたしは家へはひるんだから。」
「へえ、出ます。出ろと仰有(おつしや)らないでも出ますがね。姐(ねえ)さんはまだ立ち退(の)かなかつたんですかい?」
「立ち退いたのさ。立ち退いたんだけれども、――そんな事はどうでも好いぢやないか?」
「すると何か忘れ物でもしたんですね。――まあ、こつちへおはひんなさい。其処では雨がかかりますぜ。」
 彼女はまだ業腹(ごふはら)さうに、乞食の言葉には返事もせず、水口の板の間へ腰を下した。それから流しへ泥足を伸ばすと、ざあざあ水をかけ始めた。平然とあぐらをかいた乞食は髭(ひげ)だらけの顋(あご)をさすりながら、じろじろその姿を眺めてゐた。彼女は色の浅黒い、鼻のあたりに雀斑(そばかす)のある、田舎者らしい小女だつた。なりも召使ひに相応な手織木綿の一重物に、小倉(こくら)の帯しかしてゐなかつた。が、活(い)き活きした眼鼻立ちや、堅肥りの体つきには、何処か新しい桃や梨を聯想させる美しさがあつた。
「この騒ぎの中を取りに返るのぢや、何か大事の物を忘れたんですね。何です、その忘れ物は? え、姐(ねえ)さん。――お富さん。」
 新公は又尋ね続けた。
「何だつて好(い)いぢやないか? それよりさつさと出て行つておくれよ。」
 お富の返事は突慳貪(つつけんどん)だつた。が、ふと何か思ひついたやうに、新公の顔を見上げると、真面目にこんな事を尋ね出した。
「新公、お前、家の三毛を知らないかい?」
「三毛? 三毛は今此処(ここ)に、――おや、何処(どこ)へ行きやがつたらう?」
 乞食はあたりを見廻した。すると猫は何時の間にか、棚の擂鉢(すりばち)や鉄鍋の間に、ちやんと香箱をつくつてゐた。その姿は新公と同時に、忽ちお富にも見つかつたのであらう。彼女は柄杓(ひしやく)を捨てるが早いか、乞食の存在も忘れたやうに、板の間の上に立ち上つた。さうして晴れ晴れと微笑しながら、棚の上の猫を呼ぶやうにした。
 新公は薄暗い棚の上の猫から、不思議さうにお富へ眼を移した。
「猫ですかい、姐さん、忘れ物と云ふのは?」
「猫ぢや悪いのかい?――三毛、三毛、さあ、下りて御出で。」
 新公は突然笑ひ出した。その声は雨音の鳴り渡る中に殆(ほとんど)気味の悪い反響を起した。と、お富はもう一度、腹立たしさに頬を火照(ほて)らせながら、いきなり新公に怒鳴りつけた。
「何が可笑(をか)しんだい? 家のお上(かみ)さんは三毛を忘れて来たつて、気違ひの様になつてゐるんぢやないか? 三毛が殺されたらどうしようつて、泣き通しに泣いてゐるんぢやないか? わたしもそれが可哀さうだから、雨の中をわざわざ帰つて来たんぢやないか?――」
「ようござんすよ。もう笑ひはしませんよ。」
 新公はそれでも笑ひ笑ひ、お富の言葉を遮(さへぎ)つた。
「もう笑ひはしませんがね。まあ、考へて御覧なさい。明日にも『いくさ』が始まらうと云ふのに、高が猫の一匹や二匹――これはどう考へたつて、可笑しいのに違ひありませんや。お前さんの前だけれども、一体此処のお上さん位、わからずやのしみつたれはありませんぜ。第一あの三毛公を探しに、……」
「お黙りよ! お上さんの讒訴(ざんそ)なぞは聞きたくないよ!」
 お富は殆どぢだんだを踏んだ。が、乞食は思ひの外彼女の権幕には驚かなかつた。のみならずしげしげ彼女の姿に無遠慮な視線を注いでゐた。実際その時の彼女の姿は野蛮な美しさそのものだつた。雨に濡れた着物や湯巻、――それらは何処(どこ)を眺めても、ぴつたり肌についてゐるだけ、露(あら)はに肉体を語つてゐた。しかも一目に処女を感ずる、若々しい肉体を語つてゐた。新公は彼女に目を据ゑたなり、やはり笑ひ声に話し続けた。
「第一あの三毛公を探しに、お前さんをよこすのでもわかつてゐまさあ。ねえ、さうぢやありませんか? 今ぢやもう上野界隈、立ち退(の)かない家はありませんや。して見れば町家は並んでゐても、人のゐない野原と同じ事だ。まさか狼も出まいけれども、どんな危い目に遇ふかも知れない――と、まづ云つたものぢやありませんか?」
「そんな余計な心配をするより、さつさと猫をとつておくれよ。――これが『いくさ』でも始まりやしまいし、何が危い事があるものかね。」
「冗談云つちやいけません。若い女の一人歩きが、かう云ふ時に危くなけりや、危いと云ふ事はありませんや。早い話が此処にゐるのは、お前さんとわたしと二人つきりだ。万一わたしが妙な気でも出したら、姐(ねえ)さん、お前さんはどうしなさるね?」
 新公はだんだん冗談だか、真面目だか、わからない口調になつた。しかし澄んだお富の目には、恐怖らしい影さへ見えなかつた。
 唯その頬には、さつきよりも、一層血の色がさしたらしかつた。
「何だい、新公、――お前はわたしを嚇(おど)かさうつて云ふのかい?」
 お富は彼女自身嚇かすやうに、一足新公の側へ寄つた。

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