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神神の微笑(かみがみのびしょう)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-8-15 15:28:17  点击:  切换到繁體中文

底本: 芥川龍之介全集4
出版社: ちくま文庫、筑摩書房
初版発行日: 1987(昭和62)年1月27日
入力に使用: 1993(平成5)年12月25日第6刷
校正に使用: 1996(平成8)年7月15日第8刷


底本の親本: 筑摩全集類聚版芥川龍之介全集
出版社: 筑摩書房
初版発行日: 1971(昭和46)年3月~1971(昭和46)年11月

 

ある春の夕(ゆうべ)、Padre Organtino はたった一人、長いアビト(法衣(ほうえ))の裾(すそ)を引きながら、南蛮寺(なんばんじ)の庭を歩いていた。
 庭には松や檜(ひのき)の間(あいだ)に、薔薇(ばら)だの、橄欖(かんらん)だの、月桂(げっけい)だの、西洋の植物が植えてあった。殊に咲き始めた薔薇の花は、木々を幽(かす)かにする夕明(ゆうあか)りの中に、薄甘い匂(におい)を漂わせていた。それはこの庭の静寂に、何か日本(にほん)とは思われない、不可思議な魅力(みりょく)を添えるようだった。
 オルガンティノは寂しそうに、砂の赤い小径(こみち)を歩きながら、ぼんやり追憶に耽っていた。羅馬(ロオマ)の大本山(だいほんざん)、リスポアの港、羅面琴(ラベイカ)の音(ね)、巴旦杏(はたんきょう)の味、「御主(おんあるじ)、わがアニマ(霊魂)の鏡」の歌――そう云う思い出はいつのまにか、この紅毛(こうもう)の沙門(しゃもん)の心へ、懐郷(かいきょう)の悲しみを運んで来た。彼はその悲しみを払うために、そっと泥烏須(デウス)(神)の御名(みな)を唱えた。が、悲しみは消えないばかりか、前よりは一層彼の胸へ、重苦しい空気を拡げ出した。
「この国の風景は美しい――。」
 オルガンティノは反省した。
「この国の風景は美しい。気候もまず温和である。土人は、――あの黄面(こうめん)の小人(こびと)よりも、まだしも黒ん坊がましかも知れない。しかしこれも大体の気質は、親しみ易いところがある。のみならず信徒も近頃では、何万かを数えるほどになった。現にこの首府のまん中にも、こう云う寺院が聳(そび)えている。して見ればここに住んでいるのは、たとい愉快ではないにしても、不快にはならない筈ではないか? が、自分はどうかすると、憂鬱の底に沈む事がある。リスポアの市(まち)へ帰りたい、この国を去りたいと思う事がある。これは懐郷の悲しみだけであろうか? いや、自分はリスポアでなくとも、この国を去る事が出来さえすれば、どんな土地へでも行きたいと思う。支那(しな)でも、沙室(シャム)でも、印度(インド)でも、――つまり懐郷の悲しみは、自分の憂鬱の全部ではない。自分はただこの国から、一日も早く逃れたい気がする。しかし――しかしこの国の風景は美しい。気候もまず温和である。……」
 オルガンティノは吐息(といき)をした。この時偶然彼の眼は、点々と木かげの苔(こけ)に落ちた、仄白(ほのじろ)い桜の花を捉(とら)えた。桜! オルガンティノは驚いたように、薄暗い木立(こだ)ちの間(あいだ)を見つめた。そこには四五本の棕櫚(しゅろ)の中に、枝を垂らした糸桜(いとざくら)が一本、夢のように花を煙らせていた。
「御主(おんあるじ)守らせ給え!」
 オルガンティノは一瞬間、降魔(ごうま)の十字を切ろうとした。実際その瞬間彼の眼には、この夕闇に咲いた枝垂桜(しだれざくら)が、それほど無気味(ぶきみ)に見えたのだった。無気味に、――と云うよりもむしろこの桜が、何故(なぜ)か彼を不安にする、日本そのもののように見えたのだった。が、彼は刹那(せつな)の後(のち)、それが不思議でも何でもない、ただの桜だった事を発見すると、恥しそうに苦笑しながら、静かにまたもと来た小径へ、力のない歩みを返して行った。

       ×          ×          ×

 三十分の後(のち)、彼は南蛮寺(なんばんじ)の内陣(ないじん)に、泥烏須(デウス)へ祈祷を捧げていた。そこにはただ円天井(まるてんじょう)から吊るされたランプがあるだけだった。そのランプの光の中に、内陣を囲んだフレスコの壁には、サン・ミグエルが地獄の悪魔と、モオゼの屍骸(しがい)を争っていた。が、勇ましい大天使は勿論、吼(たけ)り立った悪魔さえも、今夜は朧(おぼろ)げな光の加減か、妙にふだんよりは優美に見えた。それはまた事によると、祭壇の前に捧げられた、水々(みずみず)しい薔薇(ばら)や金雀花(えにしだ)が、匂っているせいかも知れなかった。彼はその祭壇の後(うしろ)に、じっと頭を垂れたまま、熱心にこう云う祈祷を凝らした。
「南無(なむ)大慈大悲の泥烏須如来(デウスにょらい)! 私(わたくし)はリスポアを船出した時から、一命はあなたに奉って居ります。ですから、どんな難儀に遇(あ)っても、十字架の御威光を輝かせるためには、一歩も怯(ひる)まずに進んで参りました。これは勿論私一人の、能(よ)くする所ではございません。皆天地の御主(おんあるじ)、あなたの御恵(おんめぐみ)でございます。が、この日本に住んでいる内に、私はおいおい私の使命が、どのくらい難(かた)いかを知り始めました。この国には山にも森にも、あるいは家々の並んだ町にも、何か不思議な力が潜(ひそ)んで居ります。そうしてそれが冥々(めいめい)の中(うち)に、私の使命を妨(さまた)げて居ります。さもなければ私はこの頃のように、何の理由もない憂鬱の底へ、沈んでしまう筈はございますまい。ではその力とは何であるか、それは私にはわかりません。が、とにかくその力は、ちょうど地下の泉のように、この国全体へ行き渡って居ります。まずこの力を破らなければ、おお、南無大慈大悲の泥烏須如来(デウスにょらい)! 邪宗(じゃしゅう)に惑溺(わくでき)した日本人は波羅葦増(はらいそ)(天界(てんがい))の荘厳(しょうごん)を拝する事も、永久にないかも存じません。私はそのためにこの何日か、煩悶(はんもん)に煩悶を重ねて参りました。どうかあなたの下部(しもべ)、オルガンティノに、勇気と忍耐とを御授け下さい。――」
 その時ふとオルガンティノは、鶏の鳴き声を聞いたように思った。が、それには注意もせず、さらにこう祈祷の言葉を続けた。
「私(わたくし)は使命を果すためには、この国の山川(やまかわ)に潜んでいる力と、――多分は人間に見えない霊と、戦わなければなりません。あなたは昔紅海(こうかい)の底に、埃及(エジプト)の軍勢(ぐんぜい)を御沈めになりました。この国の霊の力強い事は、埃及(エジプト)の軍勢に劣りますまい。どうか古(いにしえ)の予言者のように、私もこの霊との戦に、………」
 祈祷の言葉はいつのまにか、彼の唇(くちびる)から消えてしまった。今度は突然祭壇のあたりに、けたたましい鶏鳴(けいめい)が聞えたのだった。オルガンティノは不審そうに、彼の周囲を眺めまわした。すると彼の真後(まうしろ)には、白々(しろじろ)と尾を垂れた鶏が一羽、祭壇の上に胸を張ったまま、もう一度、夜でも明けたように鬨(とき)をつくっているではないか?
 オルガンティノは飛び上るが早いか、アビトの両腕を拡げながら、倉皇(そうこう)とこの鳥を逐い出そうとした。が、二足三足(ふたあしみあし)踏み出したと思うと、「御主(おんあるじ)」と、切れ切れに叫んだなり、茫然とそこへ立ちすくんでしまった。この薄暗い内陣(ないじん)の中には、いつどこからはいって来たか、無数の鶏が充満している、――それがあるいは空を飛んだり、あるいはそこここを駈けまわったり、ほとんど彼の眼に見える限りは、鶏冠(とさか)の海にしているのだった。
「御主、守らせ給え!」
 彼はまた十字を切ろうとした。が、彼の手は不思議にも、万力(まんりき)か何かに挟(はさ)まれたように、一寸(いっすん)とは自由に動かなかった。その内にだんだん内陣(ないじん)の中には、榾火(ほたび)の明(あか)りに似た赤光(しゃっこう)が、どこからとも知れず流れ出した。オルガンティノは喘(あえ)ぎ喘ぎ、この光がさし始めると同時に、朦朧(もうろう)とあたりへ浮んで来た、人影があるのを発見した。
 人影は見る間(ま)に鮮(あざや)かになった。それはいずれも見慣れない、素朴(そぼく)な男女の一群(ひとむれ)だった。彼等は皆頸(くび)のまわりに、緒(お)にぬいた玉を飾りながら、愉快そうに笑い興じていた。内陣に群がった無数の鶏は、彼等の姿がはっきりすると、今までよりは一層高らかに、何羽も鬨(とき)をつくり合った。同時に内陣の壁は、――サン・ミグエルの画(え)を描(か)いた壁は、霧のように夜へ呑まれてしまった。その跡には、――
 日本の Bacchanalia は、呆気(あっけ)にとられたオルガンティノの前へ、蜃気楼(しんきろう)のように漂って来た。彼は赤い篝(かがり)の火影(ほかげ)に、古代の服装をした日本人たちが、互いに酒を酌み交(かわ)しながら、車座(くるまざ)をつくっているのを見た。そのまん中には女が一人、――日本ではまだ見た事のない、堂々とした体格の女が一人、大きな桶(おけ)を伏せた上に、踊り狂っているのを見た。桶の後ろには小山のように、これもまた逞(たくま)しい男が一人、根こぎにしたらしい榊(さかき)の枝に、玉だの鏡だのが下(さが)ったのを、悠然と押し立てているのを見た。彼等のまわりには数百の鶏が、尾羽根(おばね)や鶏冠(とさか)をすり合せながら、絶えず嬉しそうに鳴いているのを見た。そのまた向うには、――オルガンティノは、今更のように、彼の眼を疑わずにはいられなかった。――そのまた向うには夜霧の中に、岩屋(いわや)の戸らしい一枚岩が、どっしりと聳えているのだった。
 桶の上にのった女は、いつまでも踊をやめなかった。彼女の髪を巻いた蔓(つる)は、ひらひらと空に翻(ひるがえ)った。彼女の頸に垂れた玉は、何度も霰(あられ)のように響き合った。彼女の手にとった小笹の枝は、縦横に風を打ちまわった。しかもその露(あら)わにした胸! 赤い篝火(かがりび)の光の中に、艶々(つやつや)と浮(うか)び出た二つの乳房(ちぶさ)は、ほとんどオルガンティノの眼には、情欲そのものとしか思われなかった。彼は泥烏須(デウス)を念じながら、一心に顔をそむけようとした。が、やはり彼の体は、どう云う神秘な呪(のろい)の力か、身動きさえ楽には出来なかった。
 その内に突然沈黙が、幻の男女たちの上へ降った。桶の上に乗った女も、もう一度正気(しょうき)に返ったように、やっと狂わしい踊をやめた。いや、鳴き競っていた鶏さえ、この瞬間は頸を伸ばしたまま、一度にひっそりとなってしまった。するとその沈黙の中に、永久に美しい女の声が、どこからか厳かに伝わって来た。
「私(わたし)がここに隠(こも)っていれば、世界は暗闇になった筈ではないか? それを神々は楽しそうに、笑い興じていると見える。」
 その声が夜空に消えた時、桶の上にのった女は、ちらりと一同を見渡しながら、意外なほどしとやかに返事をした。
「それはあなたにも立ち勝(まさ)った、新しい神がおられますから、喜び合っておるのでございます。」
 その新しい神と云うのは、泥烏須(デウス)を指しているのかも知れない。――オルガンティノはちょいとの間(あいだ)、そう云う気もちに励まされながら、この怪しい幻の変化に、やや興味のある目を注いだ。
 沈黙はしばらく破れなかった。が、たちまち鶏の群(むれ)が、一斉(いっせい)に鬨(とき)をつくったと思うと、向うに夜霧を堰(せ)き止めていた、岩屋の戸らしい一枚岩が、徐(おもむ)ろに左右へ開(ひら)き出した。そうしてその裂(さ)け目からは、言句(ごんく)に絶した万道(ばんどう)の霞光(かこう)が、洪水のように漲(みなぎ)り出した。
 オルガンティノは叫ぼうとした。が、舌は動かなかった。オルガンティノは逃げようとした。が、足も動かなかった。彼はただ大光明のために、烈しく眩暈(めまい)が起るのを感じた。そうしてその光の中に、大勢(おおぜい)の男女の歓喜する声が、澎湃(ほうはい)と天に昇(のぼ)るのを聞いた。
「大日※(「靈」の「巫」に代えて「女」、第3水準1-47-53)貴(おおひるめむち)! 大日※(「靈」の「巫」に代えて「女」、第3水準1-47-53)貴! 大日※(「靈」の「巫」に代えて「女」、第3水準1-47-53)貴!」
「新しい神なぞはおりません。新しい神なぞはおりません。」
「あなたに逆(さから)うものは亡びます。」
「御覧なさい。闇が消え失せるのを。」
「見渡す限り、あなたの山、あなたの森、あなたの川、あなたの町、あなたの海です。」
「新しい神なぞはおりません。誰も皆あなたの召使です。」
「大日※(「靈」の「巫」に代えて「女」、第3水準1-47-53)貴! 大日※(「靈」の「巫」に代えて「女」、第3水準1-47-53)貴! 大日※(「靈」の「巫」に代えて「女」、第3水準1-47-53)貴!」
 そう云う声の湧き上る中に、冷汗になったオルガンティノは、何か苦しそうに叫んだきりとうとうそこへ倒れてしまった。………

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