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鼠小僧次郎吉(ねずみこぞうじろきち)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-8-16 14:49:52  点击:  切换到繁體中文


「おい、御亭主、飛んだ蚤(のみ)にたかられての、人騒がせをして済まなかつた。外(ほか)の客人にやお前から、よく詑びを云つておくんなせえ。」
 それつきりよ。もう後は訳を話すも話さ無えも無え。奉公人がすぐにあの野郎を、ぐるぐる巻にふん縛つて、まるで生捕りました河童(かつぱ)のやうに、寄つてたかつて二階から、引きずり下してしまやがつた。
 さてその後で山甚の亭主が、おれの前へ手をついての、
「いや、どうも以ての外の御災難で、さぞまあ、御驚きでございましたらう。が、御路用その外別に御紛失物(ごふんじつもの)もなかつたのは、せめてもの御仕合せでございます。追つてはあの野郎も夜の明け次第、早速役所へ引渡す事に致しますから、どうか手前どもの届きません所は、幾重にも御勘弁下さいますやうに。」
 と何度も頭を下げるから、
「何、胡麻の蠅とも知ら無えで、道づれになつたのが私の落度だ。それを何も御前(おめえ)さんが、あやまんなさる事は無えのさ。こりやほんの僅ばかりだが、世話になつた若(わけ)え衆(しゆ)たちに、暖え蕎麦(そば)の一杯も振舞つてやつておくんなせえ。」
 と祝儀をやつて返したが、つくづく一人になつて考へりや、宿場女郎にでも振られやしめえし、何時までも床に倚(よ)つかかつて、腕組みをしてゐるのも智慧(ちゑ)が無え。と云つてこれから寝られやせず、何かと云ふ中にや六つだらうから、こりや一そ今の内に、ちつとは路が暗くつても、早立ちをするのが上分別だと、かう思案がきまつたから、早速身仕度にとりかかりの、勘定は帳場で払つて行かうと、外の客の邪魔になら無えやうに、そつと梯子口(はしごぐち)まで来て見ると、下ぢやまだ奉公人たちが、皆起きてゐると見えて、何やら話し声も聞えてゐる。するとその中(うち)にどう云ふ訳か、度々さつき手前(てめえ)の話した、鼠小僧と云ふ名が出るぢや無えか。おれは妙だと思つての、両掛の行李を下げた儘、梯子口から下を覗いて見ると、広い土間のまん中にや、あの越後屋重吉と云ふ木念人(ぼくねんじん)が、繩尻は柱に括(くく)られながら、大あぐらをかいてゐやがる。そのまはりにや又若え者が、番頭も一しよに三人ばかり、八間(はちけん)の明りに照らされながら、腕まくりをしてゐるぢや無えか。中でもその番頭が、片手に算盤(そろばん)をひつ掴みの、薬罐頭(やくわんあたま)から湯気を立てて、忌々しさうに何か云ふのを聞きや、
「ほんによ、こんな胡麻の蠅も、今に劫羅(こふら)を経て見さつし、鼠小僧なんぞはそこのけの大泥坊になるかも知れ無え。ほんによ、さうなつた日にやこいつの御蔭で、街道筋の旅籠屋(はたごや)が、みんな暖簾(のれん)に瑕(きず)がつくわな。その事を思や今の内に、ぶつ殺した方が人助けよ。」
 と云ふ側から、ぢぢむさく髭(ひげ)の伸びた馬子半天(まごばんてん)が、じろじろ胡麻の蠅の面(つら)を覗きこんで、
「番頭どんともあらうものが、いやはや又当(あ)て事(ごと)も無え事を云つたものだ。何でこんな間抜野郎に、鼠小僧の役が勤るべい。大方胡麻の蠅も気が強えと云つたら、面(つら)を見たばかりでも知れべいわさ。」
「違え無え。高々鼬小僧(いたちこぞう)位な所だらう。」
 こりや火吹竹を得物(えもの)にした、宿の若え者が云つた事だ。
「ほんによ。さう云やこの野猿坊(やゑんばう)は、人の胴巻もまだ盗ま無え内に、うぬが褌(ふんどし)を先へ盗まれさうな面だ。」
「下手な道中稼ぎなんぞするよりや、棒つ切の先へ黏(とりもち)をつけの、子供と一しよに賽銭箱(さいせんばこ)のびた銭でもくすねてゐりや好い。」
「何、それよりや案山子(かかし)代りに、おらが後の粟畑へ、突つ立つてゐるが好かんべい。」
 かう皆がなぶり物にすると、あの越後屋重吉め、ちつとの間は口惜しさうに眼ばかりぱちつかせてゐやがつたが、やがて宿の若え者が、火吹竹を顋(あご)の下へやつて、ぐいと面を擡(もた)げさせると、急に巻き舌になりやがつて、
「やい、やい、やい、こいつらは飛んだ奴ぢやねえかえ。誰だと思つて囈言(たはごと)をつきやがる。かう見えても、この御兄(おあにい)さんはな、日本中を股にかけた、ちつとは面(つら)の売れてゐる胡麻の蠅だ。不面目にも程があらあ。うぬが土百姓の分在で、利いた風な御託(ごたく)を並べやがる。」
 これにや皆驚いたのに違え無え。実は梯子を下りかけたおれも、あんまりあの野郎の権幕が御大(ごたい)さうなものだから、又中段に足を止めて、もう少し下の成行きを眺めてゐる気になつたのよ。まして人の好ささうな番頭なんぞは、算盤まで持ち出したのも忘れたやうに、呆れてあの野郎を見つめやがつた。が、気の強えのは馬子半天での、こいつだけはまだ髭を撫でながら、何処を風が吹くと云ふ面で、
「何が胡麻の蠅がえらかんべい。三年前の大夕立に雷獣(らいじう)様を手捕りにした、横山宿(じゆく)の勘太とはおらが事だ。おらが身もんでえを一つすりや、うぬがやうな胡麻の蠅は、踏み殺されると云ふ事を知ん無えか。」
 と嵩(かさ)にかかつて嚇(おど)したが、胡麻の蠅の奴はせせら笑つて、
「へん、こけが六十六部に立山(たてやま)の話でも聞きやしめえし、頭からおどかしを食つてたまるものかえ。これやい、眠む気ざましにや勿体無えが、おれの素性(すじやう)を洗つてやるから、耳の穴を掻つぽじつて聞きやがれ。」
 と声色(こわいろ)にしちや語呂の悪い、啖呵(たんか)を切り出した所は豪勢だがの、面(つら)を見りや寒いと見えて、水(みづ)つ洟(ぱな)が鼻の下に光つてゐる。おまけにおれのなぐつた所が、小鬢(こびん)の禿から顋へかけて、まるで面が歪(ゆが)んだやうに、脹(は)れ上つてゐようと云ふものだ。が、それでも田舎者(ゐなかもの)にや、あの野郎のぽんぽん云ふ事が、ちつとは効き目があつたのだらう。あいつが乙に反り身になつて、餓鬼の時から悪事を覚えた行き立てを饒舌(しやべ)つてゐる内にや、雷獣を手捕りにしたとか云ふ、髭のぢぢむせえ馬子半天も、追々あの胡麻の蠅を胴突(どつ)かなくなつて来たぢや無えか。それを見るとあの野郎め、愈(いよいよ)しやくんだ顋を振りの、三人の奴らをねめまはして、
「へん、このごつぽう人めら、手前(てめえ)たちを怖はがるやうな、よいよいだとでも思やがつたか。いんにやさ。唯の胡麻の蠅だと思ふと、相手が違ふぞ。手前たちも覚えてゐるだらうが、去年の秋の嵐の晩に、この宿(しゆく)の庄屋へ忍びこみの、有り金を残らず掻(か)つ攫(さら)つたのは、誰でも無えこのおれだ。」
「うぬが、あの庄屋様へ、――」
 かう云つたのは、番頭ばかりぢや無え。火吹竹を持つた若え者も、さすがに肝をつぶしたと見えて、思はず大きな声を出しながら、二足三足後へ下りやがつた。
「さうよ。そんな仕事に驚くやうぢや、手前たちはまだ甘えものだ。かう、よく聞けよ。ついこの中(ぢゆう)も小仏峠で、金飛脚(かねびきやく)が二人殺されたのは、誰の仕業だと思やがる。」
 あの野郎は水(みづ)つ洟(ぱな)をすすりこんぢや、やれ府中で土蔵を破つたの、やれ日野宿でつけ火をしたの、やれ厚木街道の山の中で巡礼の女をなぐさんだの、だんだん途方も無え悪事を饒舌(しやべ)り立てたが、妙な事にやそれにつれて、番頭始め二人の野郎が、何時の間にかあの木念人へ慇懃(いんぎん)になつて来やがつた。中でも図体の大きな馬子半天が、莫迦力(ばかぢから)のありさうな腕を組んで、まじまじあの野郎の面を眺めながら、
「お前さんと云ふ人は、何たる又悪党だんべい。」
 と唸るやうな声を出した時にや、おれは可笑しさがこみ上げての、あぶなく吹き出す所だつた。ましてあの胡麻の蠅が、もう酔もさめたのだらう、如何にも寒さうな顔色で、歯の根も合は無え程ふるへながら、口先ばかりや勢よく、
「何と、ちつとは性根がついたか。だがおれの官禄は、まだまだそんな事ぢや無え。今度江戸をずらかつたのは、臍繰金(へそくりがね)が欲しいばかりに二人と無え御袋を、おれの手にかけて絞め殺した、その化の皮が剥げたからよ。」
 と大きな見得を切つた時にや、三人ともあつと息を引いての、千両役者でも出て来はしめえし、小鬢から脹れ上つたあいつの面を、難有さうに見つめやがつた。おれはあんまり莫迦(ばか)らしいから、もう見てゐるがものは無えと思つて、二三段梯子を下りかけたが、その途端に番頭の薬罐頭め、何と思やがつたか横手を打つて、
「や、読めたぞ。読めたぞ。あの鼠小僧と云ふのは、さてはおぬしの渾名(あだな)だな。」
 と頓狂な声を出しやがつたから、おれはふと又気が変つて、あいつが何とぬかしやがるか、それが聞きたさにもう一度、うすつ暗え梯子の中段へ足を止めたと思ひねえ。するとあの胡麻の蠅め、じろりと番頭を睨みながら、
「図星を指されちや仕方が無え。如何にも江戸で噂の高え、鼠小僧とはおれの事だ。」
 と横柄にせせら笑やがつた。が、さう云ふか云は無え内に、胴震ひを一つしたと思ふと、二つ三つ続けさまに色気の無え嚏(くしやみ)をしやがつたから、折角の睨みも台無しよ。それでも三人の野郎たちは、勝角力(かちずまふ)の名乗りでも聞きやしめえし、あの重吉の間抜野郎を煽ぎ立て無えばかりにして、
「おらもさうだらうと思つてゐた。三年前の大夕立に雷獣様を手捕りにした、横山宿の勘太と云つちや、泣く児も黙るおらだんべい。それをおらの前へ出て、びくともする容子(ようす)が見え無えだ。」
「違え無え。さう云やどこか眼の中に、すすどい所があるやうだ。」
「ほんによ、だからおれは始めから、何でもこの人は一つぱしの大泥坊になると云つてゐたわな。ほんによ。今夜は弘法(こうぼふ)にも筆の誤り、上手(じやうず)の手からも水が漏るす。漏つたが、これが漏ら無えで見ねえ。二階中の客は裸にされるぜ。」
 と繩こそ解かうとはし無えけれど、口々にちやほやしやがるのよ。すると又あの胡麻の蠅め、大方威張る事ぢや無え。
「かう、番頭さん、鼠小僧の御宿をしたのは、御前(おめえ)の家の旦那が運が好いのだ。さう云ふおれの口を干しちや、旅籠屋(はたごや)冥利(みやうり)が尽きるだらうぜ。桝(ます)で好いから五合ばかり、酒をつけてくんねえな。」
 かう云ふ野郎も図々しいが、それを又正直に聞いてやる番頭も間抜けぢや無えか。おれは八間の明りの下で、薬罐頭の番頭が、あの飲んだくれの胡麻の蠅に、桝の酒を飲ませてゐるのを見たら、何もこの山甚の奉公人ばかりとは限ら無え、世間の奴等の莫迦莫迦(ばかばか)しさが、可笑(をか)しくつて、可笑しくつて、こてえられ無かつた。何故と云ひねえ。同じ悪党とは云ひながら、押込みよりや掻払ひ、火つけよりや巾着切(きんちやくきり)が、まだしも罪は軽いぢや無えか。それなら世間もそのやうに、大盗つ人よりや、小盗つ人に憐みをかけてくれさうなものだ。所が人はさうぢや無え。三下野郎にやむごくつても、金箔つきの悪党にや向うから頭を下げやがる。鼠小僧と云や酒も飲ますが、唯の胡麻の蠅と云や張り倒すのだ。思やおれも盗つ人だつたら、小盗つ人にやなりたく無え。――とまあ、おれは考へたが、さて何時までも便々と、こんな茶番も見ちやゐられ無えから、わざと音をさせて梯子を下りの、上り口へ荷物を抛り出して、
「おい、番頭さん、私は早立ちと出かけるから、ちよいと勘定をしておくんなせえ。」
 と声をかけると、いや、番頭の薬罐頭め、てれまい事か、慌てて桝を馬子半天に渡しながら、何度も小鬢(こびん)へ手をやつて、
「これは又御早い御立ちで――ええ、何とぞ御腹立ちになりやせんやうに――又先程は、ええ、手前どもにもわざわざ御心づけを頂きまして――尤も好い塩梅(あんばい)に雪も晴れたやうでげすが――」
 などと訳のわからねえ事を並べやがるから、おれは可笑しさも可笑しくなつて、
「今下りしなに小耳に挾んだが、この胡麻の蠅は、評判の鼠小僧とか云ふ野郎ださうだの。」
「へい、さやうださうで、――おい、早く御草鞋(おわらぢ)を持つて来さつし。御笠に御合羽は此処にありと――どうも大した盗つ人ださうでげすな。――へい、唯今御勘定を致しやす。」
 番頭のやつはてれ隠しに、若え者を叱りながら、そこそこ帳場の格子(かうし)の中へ這入ると、仔細(しさい)らしく啣(くは)へ筆(ふで)で算盤をぱちぱちやり出しやがつた。おれはその間に草鞋をはいて、さて一服吸ひつけたが、見りやあの胡麻の蠅は、もう御神酒(おみき)がまはつたと見えて、小鬢(こびん)の禿まで赤くしながら、さすがにちつとは恥しいのか、なるべくおれの方を見無えやうに、側眼(わきめ)ばかり使つてゐやがる。その見すぼらしい容子(ようす)を見ると、おれは今更のやうにあの野郎が可哀さうにもなつて来たから、
「おい、越後屋さん。いやさ、重吉さん。つまら無え冗談(じようだん)は云は無えものだ。御前(おめえ)が鼠小僧だなどと云ふと、人の好い田舎者は本当にするぜ。それぢや割が悪からうが。」
 と親切づくに云つてやりや、あの阿呆の合天井(がふてんじやう)め、まだ芝居がし足り無えのか、
「何だと。おれが鼠小僧ぢや無え? 飛んだ御前は物知りだの。かう、旦那旦那と立ててゐりや――」
「これさ。そんな啖呵(たんか)が切りたけりや、此処にゐる馬子や若え衆が、丁度御前(おめえ)にや好い相手だ。だがそれもさつきからぢや、もう大抵切り飽きたらう。第一御前が紛れも無え日本一の大泥坊なら、何もすき好んでべらべらと、為にもなら無え旧悪を並べ立てる筈が無えわな。これさ、まあ黙つて聞きねえと云ふ事に。そりや御前が何でも彼(か)でも、鼠小僧だと剛情を張りや、役人始め真実御前が鼠小僧だと思ふかも知れ無え。が、その時にや軽くて獄門、重くて磔(はりつけ)は逃れ無えぜ。それでも御前は鼠小僧か、――と云はれたら、どうする気だ。」
 とかう一本突つこむと、あの意気地なしめ、見る見る内に唇の色まで変へやがつて、
「へい、何とも申し訳はござりやせん。実は鼠小僧でも何でも無え、唯の胡麻の蠅でござりやす。」
「さうだらう。さうなくつちや、なら無え筈だ。だが火つけや押込みまでさんざんしたと云ふからにや、御前(おめえ)も好い悪党だ。どうせ笠の台は飛ぶだらうぜ。」
 と框(かまち)で煙管をはたきながら、大真面目におれがひやかすと、あいつは酔もさめたと見えて、又水(みづ)つ洟(ぱな)をすすりこみの、泣かねえばかりの声を出して、
「何、あれもみんな嘘でござりやす。私(わつし)は旦那に申し上げた通り、越後屋重吉と云ふ小間物渡世で、年にきつと一二度はこの街道を上下(のぼりくだり)しやすから、善かれ悪しかれいろいろな噂を知つて居りやすので、つい口から出まかせに、何でも彼でもぼんぽんと――」
「おい、おい、御前は今胡麻の蠅だと云つたぢや無えか。胡麻の蠅が小間物を売るとは、御入国以来聞か無え事だの。」
「いえ、人様の物に手をかけたのは、今夜がまだ始めてでござりやす。この秋女房に逃げられやして、それから引き続き不手まはりな事ばかり多うござりやしたから、貧すりや鈍すると申す通り、ふとした一時の出来心から、飛んだ失礼な真似を致しやした。」
 おれはいくらとんちきでも、兎に角胡麻の蠅だとは思つてゐたから、かう云ふ話を聞かされた時にや、煙管へ煙草をつめかけた儘、呆(あき)れて物も云へなかつた。が、おれは呆れただけだつたが、馬子半天と若え者とは、腹を立てたの立て無えのぢやねえ。おれが止めようと思ふ内に、いきなりあの野郎を引きずり倒しの、
「うぬ、よくも人を莫迦にしやがつたな。」
「その頬桁(ほほげた)を張りのめしてくれべい。」
 と喚(わめ)き立てる声の下から、火吹竹が飛ぶ、桝が降るよ。可哀さうに越後屋重吉は、あんなに横つ面を脹らした上へ、頭まで瘤(こぶ)だらけになりやがつた。……

       三

「話と云ふのはこれつきりよ。」
 色の浅黒い、小肥りに肥つた男は、かう一部始終を語り終ると、今まで閑却されてゐた、膳の上の猪口(ちよく)を取り上げた。
 向うに見える唐津様の海鼠壁(なまこかべ)には、何時か入日の光がささなくなつて、掘割に臨んだ一株の葉柳にも、そろそろ暮色が濃くなつて来た。と思ふと三縁山増上寺の鐘の音が、静に潮の匂のする欄外の空気を揺(ゆす)りながら、今更のやうに暦の秋を二人の客の胸にしみ渡らせた。風に動いてゐる伊予簾(いよすだれ)、御浜御殿の森の鴉(からす)の声、それから二人の間にある盃洗(はいせん)の水の冷たい光――女中の運ぶ燭台の火が、赤く火先(ほさき)を靡(なび)かせながら、梯子段の下から現はれるのも、もう程がないのに相違あるまい。
 小弁慶の単衣(ひとへ)を着た男は、相手が猪口をとり上げたのを見ると、早速徳利の尻をおさへながら、
「いや、はや、飛んでも無えたはけがあるものだ。日本の盗人(ぬすつと)の守り本尊、私(わつち)の贔屓(ひいき)の鼠小僧を何だと思つてゐやがる。親分なら知ら無え事、私(わつち)だつたらその野郎をきつと張り倒してゐやしたぜ。」
「何もそれ程に業(ごふ)を煮やす事は無え。あんな間抜な野郎でも、鼠小僧と名乗つたばかりに、大きな面が出来たことを思や、鼠小僧もさぞ本望だらう。」
「だつとつて御前(おめえ)さん、そんな駈け出しの胡麻の蠅に鼠小僧の名をかたられちや――」
 剳青(ほりもの)のある、小柄な男は、まだ云ひ争ひたい気色(けしき)を見せたが、色の浅黒い、唐桟の半天を羽織つた男は、悠々と微笑を含みながら、
「はて、このおれが云ふのだから、本望に違え無えぢや無えか。手前(てめえ)にやまだ明さなかつたが、三年前に鼠小僧と江戸で噂が高かつたのは――」
 と云ふと、猪口を控へた儘、鋭くあたりへ眼をくばつて、
「この和泉屋の次郎吉の事だ。」

(大正八年十二月)




 



底本:「現代日本文学大系 43 芥川龍之介集」筑摩書房
   1968(昭和43)年8月25日初版第1刷発行
入力:j.utiyama
校正:かとうかおり
1999年1月17日公開
2004年3月14日修正
青空文庫作成ファイル:
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