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山鴫(やましぎ)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-8-18 15:54:14  点击:  切换到繁體中文


 一家の男女はトウルゲネフが、軽妙な諧謔を弄(ろう)する度に、何れも愉快さうな笑ひ声を立てた。殊に彼が子供たちに、ハムブルグの動物園の象の声だの、巴里のガルソンの身ぶりだのを巧みに真似て見せる時は、一層その笑ひ声が高くなつた。が、一座が陽気になればなる程、トウルゲネフ自身の心もちは、愈(いよいよ)妙にぎこちない息苦しさを感ずるばかりだつた。
「君はこの頃有望な新進作家が出たのを知つてゐるか?」
 話題が仏蘭西(フランス)の文芸に移つた時、とうとう不自然な社交家ぶりに、堪へられなくなつたトウルゲネフは、突然トルストイを顧みながら、わざと気軽さうに声をかけた。
「知らない。何と云ふ作家だ?」
「ド・モウパスサン。――ギイ・ド・モオパスサンと云ふ作家だがね。少くとも外に真似手のない、犀利(さいり)な観察眼を具へた作家だ。――丁度今僕の鞄の中には、La Maison Tellier と云ふ小説集がはひつてゐる。暇があつたら読んで見給へ。」
「ド・モオパスサン?」
 トルストイは疑はしさうに、ちよいと相手の顔を眺めた。が、それぎり小説の事は、読むとも読まないとも答へずにしまつた。トウルゲネフは幼い時分、意地の悪い年上の子供にいぢめられた覚えがある、――丁度そんな情無(なさけな)さが、この時も胸へこみ上げて来た。
「新進作家と云へばこちらへも、珍しい方が一人御見えになりましたよ。」
 彼の当惑を察したトルストイ夫人は、早速風変りな訪問客の話をし始めた。――一月ばかり前の或暮れ方、余り身なりの好くない青年が、是非主人に会ひたいと云ふから、兎に角奥へ通して見ると、初対面の主人に向つて、「取りあへずあなたに頂きたいのは、火酒(ウオツカ)と鯡(にしん)の尻尾(しつぽ)です。」と云ふ。そればかりでも既に驚かされたが、この又異様な青年が、既に多少は名声のある、新しい作家の一人だつたのには、愈(いよいよ)驚かずにはゐられなかつた。……
「それがガルシンと云ふ方でした。」
 トウルゲネフはこの名を聞くと、もう一度雑談の圏内へ、トルストイを誘つて見る気になつた。と云ふのは相手の打ち融けないのが、益(ますます)不快になつた外にも、嘗(かつ)て彼はトルストイに、始めてガルシンの作物を紹介した縁故があるからだつた。
「ガルシンでしたか?――あの男の小説も悪くはあるまい。君はその後、何を読んだか知らないが、――」
「悪くはないやうだ。」
 それでもトルストイは冷然と、好い加減な返事をしただけだつた。――
 トウルゲネフはやつと身を起すと、白髪(しらが)の頭を振りながら、静に書斎の中を歩き出した。小さな卓(テエブル)の上の蝋燭の火は、彼が行つたり来たりする度に、壁へ映つた彼の影を大小さまざまに変化させた。が、彼は黙然と、両手を後に組んだ儘、懶(ものう)さうな眼は何時までも、裸の床を離れなかつた。
 トウルゲネフの心の中には、彼がトルストイと親しくしてゐた、二十余年以前の追憶が、一つ一つ鮮(あざやか)に浮んで来た。放蕩に放蕩を重ねては、ペテルブルグの彼の家へ、屡(しばしば)眠りに帰つて来た、将校時代のトルストイ、――ネクラゾフの客間の一つに、傲然と彼を眺めながら、ヂオルヂユ・サンドの攻撃に一切を忘れてゐたトルストイ、――スパスコイエの林間に、彼と散歩の足を止めては、夏の雲の美しさに感歎の声を洩らしてゐた、「三人の軽騎兵」時代のトルストイ、――それから最後にはフエツトの家で、二人とも拳(こぶし)を握つた儘、一生の悪罵を相手の顔へ投げつけた時のトルストイ、――それらの追憶のどれを見ても、我執の強いトルストイは、徹頭徹尾他人の中に、真実を認めない人間だつた。常に他人のする事には、虚偽を感ずる人間だつた。これは他人のする事が、何も彼のする事と矛盾してゐる時のみではない。たとひ彼と同じやうに、放蕩をしてゐたものがあつても、彼は彼自身を恕(ゆる)すやうに他人を恕す事が出来なかつた。彼には他人が彼のやうに、夏の雲の美しさを感じてゐると云ふ事すら、すぐに信用は出来ないのである。彼がサンドを憎んだのも、やはり彼女の真実に疑を抱いたからだつた。一時彼がトウルゲネフと、絶交するやうになつたのも、――いや、現に彼はトウルゲネフが、山鴫を射落したと云ふ事にも、不相変(あひかはらず)嘘を嗅(か)ぎつけてゐる。……
 トウルゲネフは大きな息をしながら、ふと龕(がん)の前に足を止めた。龕の中には大理石の像が、遠い蝋燭の光を受けた、覚束(おぼつか)ない影に浮き出してゐる、――それはリヨフには長兄に当る、ニコライ・トルストイの半身像だつた。思へば彼とも親しかつた、この情愛の厚いニコライが、故人の数にはひつて以来、二十年あまりの日月は、何時の間にか過ぎてしまつた。もしニコライの半分でも、リヨフに他人の感情を思ひやる事が出来たなら、――トウルゲネフは長い間、春の夜の更けるのも知らないやうに、この仄暗(ほのぐら)い龕の中の像へ、寂しさうな眼を注いでゐた。……

 翌朝トウルゲネフはやや早めに、特にこの家では食堂に定められた、二階の客間(ザラ)へ出かけて行つた。客間(ザラ)の壁には先祖の肖像画が、何枚も壁に並んでゐる、――その肖像画の一つの下に、トルストイは卓(テエブル)へ向ひながら、郵便物に眼を通してゐた。が、彼の外にはまだ子供たちも、誰一人姿は見せなかつた。
 二人の翁(おきな)は挨拶をした。
 その間もトウルゲネフは、相手の顔色を窺(うかが)ひながら、少しでも其処に好意が見えれば、すぐに和睦(わぼく)する心算(つもり)だつた。がトルストイはまだ気むづかしさうに、二言三言話した後は、又前のやうに黙々と、郵便物の調べにとりかかつた。トウルゲネフはやむを得ず、手近の椅子を一つ引き寄せると、これもやはり無言の儘、卓(テエブル)の上の新聞を読み始めた。
 陰気な客間(ザラ)は少時(しばらく)の間、湯沸(サモワル)のたぎる音の外には、何の物音も聞えなかつた。
「昨夜(ゆうべ)はよく眠られたかね?」
 郵便物に眼を通してしまふと、トルストイは何と思つたか、かうトウルゲネフへ声をかけた。
「よく眠られた。」
 トウルゲネフは新聞を下した。さうしてもう一度トルストイが、話しかける時を待つてゐた。が、主人は銀の手のついたコツプへ、湯沸(サモワル)の茶を落しながら、それぎり何とも口を利かなかつた。
 かう云ふ事が一二度続いた後、トウルゲネフは丁度昨夜(ゆうべ)のやうに、不機嫌なトルストイの顔を見てゐるのが、だんだん苦しくなり始めた。殊に今朝(けさ)は余人がゐないだけ、一層彼には心のやり場が、何処にもないやうな気がするのだつた。せめてトルストイ夫人でもゐてくれたら、――彼は苛立たしい肚(はら)の中に、何度となくかう思つた。が、この客間(ザラ)へはどうしたものか、未(いまだ)に人のはひつて来るけはひさへも見えなかつた。
 五分、十分、――トウルゲネフはとうとうたまり兼ねたやうに、新聞を其処へ抛(はふ)り出すと、蹌踉(さうらう)と椅子から立ち上つた。
 その時客間(ザラ)の戸の外には、突然大勢の話し声や靴の音が聞え出した。それが皆先を争ふやうに、どやどや階段を駈け上つて来る――と思ふと次の瞬間には、乱暴に戸が開かれるが早いか、五六人の男女の子供たちが、口々に何かしやべりながら、一度に部屋の中へ飛びこんで来た。
「お父様、ありましたよ。」
 先に立つたイリヤは得意さうに、手に下げた物を振つて見せた。
「私が始(はじめ)見つけたのよ。」
 母によく似たタテイアナも、弟に負けない声を挙げた。
「落ちる時にひつかかつたのでせう。白楊(はくやう)の枝にぶら下つてゐました。」
 最後にかう説明したのは、一番年嵩(としかさ)のセルゲイだつた。
 トルストイは呆気(あつけ)にとられたやうに、子供たちの顔を見廻してゐた。が、昨日の山鴫が無事に見つかつた事を知ると、忽ち彼の髯深(ひげぶか)い顔には、晴れ晴れした微笑が浮んで来た。
「さうか? 木の枝にひつかかつてゐたのか? それでは犬にも見つからなかつた筈だ。」
 彼は椅子を離れながら、子供たちにまじつたトウルゲネフの前へ、逞(たくま)しい右手をさし出した。
「イヴアン・セルゲエヰツチ。これで僕も安心が出来る。僕は嘘をつくやうな人間ではない。この鳥も下に落ちてゐれば、きつとドオラが拾つて来たのだ。」
 トウルゲネフは殆(ほとんど)恥しさうに、しつかりトルストイの手を握つた。見つかつたのは山鴫か、それとも「アンナ・カレニナ」の作家か、――「父と子と」の作家の胸には、その判断にも迷ふ位、泣きたいやうな喜ばしさが、何時か一ぱいになつてゐたのだつた。
「僕だつて嘘をつくやうな人間ではない。見給へ。あの通りちやんと仕止めてあるではないか? 何しろ銃が鳴ると同時に、石のやうに落ちて来たのだから、――」
 二人の翁は顔を見合せると、云ひ合せたやうに哄笑した。

(大正九年十二月)




 



底本:「現代日本文学大系 43 芥川龍之介集」筑摩書房
   1968(昭和43)年8月25日初版第1刷発行
※「モウパスサン」と「モオパスサン」の混在は底本通りとしました。
入力:j.utiyama
校正:かとうかおり
1999年1月19日公開
2004年3月16日修正
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