第一話 川波大尉の話
「大蘆原さんが云ったとおり、本当にこれは此場かぎりの話なんだが、一昨年の秋の事、南太平洋で海軍の特別大演習があった時の事だったが、演習もいよいよ峠が見えて来た四日目。場所は、退却を余儀なくされている青軍の最前線にあたる土佐湾の南方五十浬の洋上だった。
儂は、この青軍の航空母艦『黄鷲』に乗っていて、戦闘機を一台受持ってた。こいつは最新型というやつではないが、儂達には永年馴染の、非常に使いよい飛行機だった。当時儂の配属は、第十三戦隊の司令で、僚機として、同型の戦闘機二台を引率していたのだった。わが青軍の根拠地の土佐湾は、いよいよ持ちきれなくなって、横須賀軍港へ引移ることに決定した。多分、その日の夜に入ると、北上してきた赤軍は、勢いに乗じて、大挙土佐湾の夜襲戦を展開することだろうと、想像された。その時刻までに、わが青軍の主力は、前夜魚雷に見舞われて速力が半分に墜ちた元の旗艦『釧路』を掩護して、うまく逃げ落ちねばならなかった。それには日没前まで、航空母艦『黄鷲』を中心とする航空戦隊が、赤軍の出てくる鼻先を、なんとかして喰い留めねばならなかったのだった。
儂達の戦闘第十三戦隊の三機は、幾度となく母艦の滑走甲板から、空中へ急角度に舞いあがって、敵機とわたり合い、軽巡の戦隊を脅かした。儂達の戦隊の活躍は、自分でいうのは少しおかしいが、実に目覚ましいものだったよ。殊に僚機の第二号機に竹花中尉、第三号機には熊内中尉が単身乗りこんでいたが、その水際だった操縦ぶりは、演習という気分をとおりすぎて、むしろ実戦かと思われるほど壮快無比なもので、イヤ壮快すぎて、物凄いと云った方が当っているくらいだった。いつも三機雁行の、その先登に立っていた司令機内のこの儂は、反射凸面鏡の中に写る僚機の、殺気だった戦闘ぶりを、ちょいちょい眺めては、すくなからず心配になってきたものだ。夕刻に近づくと、かねて気象警報が出ていたとおり、灰色の雲は低く低くたれ下って来、白く浪立ってきた洋上に、霧がすこしずつ濃くなってくるのだった。
(今夜は、どうしても一と嵐くるな)
味方にとっては、いよいよ事態は不幸に向っていった。西に傾いた太陽は、密雲の蔭にスッカリ隠れてしまったり、そうかと思うと急にその切れ目から顔を現わして、真赤な光線を、機翼に叩きつけるのだった。丁度、そのときだった。あの一大椿事が突発したのは……。
ここまで云えば、君達も感付いたろうが、この椿事は、翌朝の新聞紙に『大演習の犠牲。青軍の戦闘機二機、空中衝突して太平洋上に墜つ。乗組の竹花、熊内両中尉の死体も機影も共に発見せられず。原因は密雲のためか……』などと書きたてられたあの事件なのだ。海軍当局の調査も、新聞の報ずるところとは大した相違がなかった。無論、現場付近にいた唯一の人間である儂は、調査委員会の席上で証言をさせられてこんなことを云った。『青軍の危急を救うべく、敵前に於て危険きわまる低空の急旋転を行いたるところ、折柄洋上には密雲のために陽光暗く、加うるに霧やや濃く、僚機との連絡至難となり、遂に空中衝突を惹起せるものなり』てなことを云ったので、不可抗力の椿事として、両中尉は戦死と同格の栄誉を担ったわけだった。だが此処に話がある!
儂は僚友のために、実は偽りの報告をしたのだった。事実はこうだった、いいかね。あのとき、洋上を飛翔していた儂は、いつの間にやら僚機から遠く離れてしまっているのに気がついたのだった。吃驚して後を見ると、遙か下の空で、二機はしきりに横転をやっているじゃないか。これは無論、儂の指令じゃない。なにか故障を起したのかなとも考えたので、儂は方向舵を静かに廻しながら、尚も注意していると、どうも故障とは様子がちがう。一機が他の一機を執拗に追いかけているようなのだ。一機が、思いきった逆宙返りをうって遁れると、他の一機も更に鮮かな宙返りをうって迫り、機翼と機翼とがスレスレになるのだった。儂は、この追駆けごっこが、冗談ではないことに直ぐ気がついた。このまま抛って置けば、二人とも死ぬ。何とかして二人を引離す頓智はないものかと考えたが、咄嗟のこととて巧い術策が浮かんでこない。
望遠鏡を目にあてて、よくよく眺めてみると、歯を剥いて追っかけている方は、熊内中尉だった。追いかけられているのは竹花中尉、中尉の顔が、丁度雲間から現われた斜陽を真正面に浴びて、儂のレンズの底にハッキリと映じたが、彼は飛行帽も眼鏡もかなぐり捨てて、片手を空しく顔前にうち振り、彼の顔はキリストの前に立った罪人のように、百の憐愍を請うているのだった。『おれが悪かった! 何でも後から相談に応じるから、おれを死なせないで呉れ給え』と、そんな風に見える真青の顔だった。そして尚も、助かろうとして逃げた。竹花中尉には、熊内中尉の恐ろしい決心のほどが、ハッキリと判るのだった。
実は二人の間には、こんな訳があるのだった。二人は元々K県出の、たいへん仲の善い僚友だったが、あの事件の時から一年程前に、儂も識っているがAという若い女が、二人の間近かに現われてからというものは、急に二人は背いて行った。そのAという女は、非常に眼と唇とのうつくしい、そして色がぬけるように白くて、真紅な帯や、真紅な模様の羽織なんかがよく似合う少女だった。笑うと、ちょいと開いた唇の間から、真白な糸切り歯がニッと出てくるのが、また何とも云えない程可愛らしく見えた。そのAさんという少女に、二人が同時に惚れこんだのも、全く無理のないことだった。しかしお互に、相手の気持を知ると、二人は二十幾年の友情も、プッツリ忘れてしまった。彼等は、表面は何喰わぬ顔で勤務をしていながら、内心では蛇と狼とのように睨み合っていたのだ。彼等は悪竦な手段で、お互を陥れ合った。自分の血で、相手の骨を洗った。
その結果、Aという女は、遂に竹花中尉の方へ傾いてゆき結納までとりかわされ、この演習が済むと、直ちに水交社で婚礼が挙げられることにまで、事がきまっていたのだった。あわれ、恋に敗れた熊内中尉は、悪魔におのが良心を啄むに委せた。そこで中尉の恐ろしい復讐が計画されたのだった。
『竹花にあの女を与えてなるものか。また、自分を此処まで引張りまわした女に、素直に幸福を与えてなるものか』そういって熊内中尉は歯を喰いしばったのだった。『ようし、見て居れ、竹花のやつを、地獄へひきずりこんでやるんだ。やつが、おれの計画に感付いたとき、どんな泣きッ面をするか。そいつを見ることが、ああ、せめてもの娯しみだ。吠えろ、喚け、竹花中尉!』
熊内中尉の計画は見事に効を奏したのだった。儂があの時覗いた竹花中尉の『死』への反発『生』への執着に腫れあがった相貌は、あさましいというよりは、悪鬼のように物凄いものだった。さすがの儂も眼を蔽った。やがて気がついてみると、二機は互に相手の胴中を噛合ったような形になり、引裂かれた黄色い機翼を搦ませあい、白煙をあげ海面目懸けて墜落してゆくのが見えた。それが遂に最後だった。戯れに恋はすまじ、戯れでなくとも恋はすまじ、そんなことを痛感したのだった。儂は、あの日のことを思い出すと、今でも心臓が怪しい鼓動をたてはじめるのじゃよ」
そう云って川波大尉は、額の上に水珠のように浮き出でた油汗を、ソッと拭ったのだった。丁度その時、時計は午後十時のところに針が重ったので、三人はその儘、黙々と立って、測定装置の前に、並んだのだった。
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