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恐怖の口笛(きょうふのくちぶえ)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-8-24 11:29:23  点击:  切换到繁體中文


「お土産ですって。まア義理固(ぎりがた)いのネ。――一体なにを下さるの」
「これですけれど――」
 一郎はポケットから小さい紙箱(かみばこ)をとりだして、ジュリアの前に置いた。
「あら、これは何ですの」
 ジュリアは小箱をとって、蓋を明けた。そこには真白(まっしろ)な綿(わた)の蒲団(ふとん)を敷(し)いて、その上に青いエメラルドの宝石が一つ載(の)っていた。
「これはッ――」
 ジュリアの顔からサッと血の気(け)がなくなった。彼女はバネ仕掛けのように立ち上ると、入口のところへ飛んでいって、扉(ドア)に背を向けると、クルリと一郎を睨(にら)みつけた。
「あなたはあたしを……」
「ジュリアさん、誤解しちゃいけません。まあまあ落着いて、こっちへ来て下さい」
 一郎はジュリアを元の席に坐らせたが、美しい女王は昂奮(こうふん)に慄(ふる)えていた。
「これは貴女(あなた)の耳飾(みみかざ)りから落ちた石でしょう。これは僕が拾って持っていたのです、警官や探偵などに知れると面倒(めんどう)な品物です。お土産として、貴女にお返しします」
 ジュリアは一郎に悪意のないのを認めたらしく、急いで青い宝石を掌(てのひら)の中に握ってしまうと、激しい感情を圧(おさ)え切れなかったものか、ワッといって化粧机の上に泣き崩(くず)れた。それにしても一郎は落ちた耳飾の宝石を何時何処で拾って来たのだろう。
「ジュリアさん。云って聞かせて下さい。貴女は四郎と日比谷公園の五月躑躅(さつき)の陰で会っていたのでしょう」
「……」ジュリアは泣くのを停(や)めた。
「僕はそれを察しています。つまり耳飾りの落ちていた場所から分ったのですが」
「これはどこに落ちていたのでしょう」とジュリアは顔をあげて叫んだ。
「それは四郎の倒れていた草叢(くさむら)の中からです」
「嘘ですわ。あたしは随分(ずいぶん)探したんですけれど、見当りませんでしたわ」
「それが土の中に入っていたのですよ。多勢(おおぜい)の人の靴に踏まれて入ったものでしょう」
「まあ、そうでしたの。……よかったわ」
 それはすべて一郎の嘘だった。本当をいえば、彼は昨夜(ゆうべ)、四郎の屍体からそれを発見したのだった。蝋山教授がベルの音を聞いて法医学教室の廊下へ出ていった隙(すき)に、一郎はかねて信じていたところを行ったのだった。彼は四郎の屍体の口腔(こうくう)を開かせ、その中に手をグッとさし入れると咽喉の方まで探(さ)ぐってみたのが、果然(かぜん)手懸(てがか)りがあって、耳飾の宝石が出てきた。実は蝋山教授を煩(わずら)わして食道や気管を切開し、その宝石の有無(うむ)をしらべるつもりだったけれど、怪(あや)しいベルの音を聞くと、早くも切迫(せっぱく)した事態を悟(さと)り、荒療治(あらりょうじ)ながら決行したところ、幸運にも宝石が指先(ゆびさき)にかかったのであった。素人(しろうと)にしては、まことに水ぎわ立った上出来(じょうでき)の芸当(げいとう)だった。後から闖入(ちんにゅう)して屍体を奪っていった痣蟹をみすみす見逃がしたのも、彼がこの耳飾りの宝石を手に入れた後だったから、その上危険な追跡をひかえたのであろうとも思われる。とにかくジュリアの耳飾の宝石は四郎の口腔から発見されたのだ。なぜそんなところに入っていたかは問題であるが、一郎がジュリアに発見の個所(かしょ)をことさら偽(いつわ)っているのは何故だろう。
「ジュリアさん。四郎は貴女に、誰からか恨(うら)みをうけているようなことを云っていませんでしたか」
 これでみると、一郎はやはり愛弟(あいてい)四郎を殺害(さつがい)した犯人を探しだそうとしているものらしい。
「ああ、一郎さん」とジュリアは苦しそうに顔をあげ「あたし何もかも申しますわ。そして貴方の弟さんの日記帳から破ってきた頁(ページ)をおかえししますわ」
 ジュリアは衣裳函(いしょうばこ)のなかから、引き裂(さ)いた日記をとりだして、一郎に渡した。それは四郎が殺された日、大辻が始めに屍体の側で発見し、二度目に見たとき裂かれていた四郎の自筆(じひつ)の日記に相違(そうい)なかった。一郎はそれを貪(むさぼ)るように読み下(くだ)した。
「それをよく読んで下されば分るでしょうが、四郎さんとあたしとは、千葉(ちば)の海岸で知合ってから、お友達になったんです。それは只の仲よしというだけで、あたしは恋をしていたんじゃありませんのよ、どうかお間違いのないように、ね。――その日も四郎さんはあたしに会いに来たんですわ。それで夕方になり、四郎さんと日比谷を散歩して、あの五月躑躅(さつき)の陰でお話をしていたんですが、待たせてあった、あたしの自動車の警笛(けいてき)が聞えたので、ちょっと待っててネ、すぐ帰ってくるわといって四郎さんを残したまま、日比谷の東門(ひがしもん)の方へ行ったんですの。そこで自動車を見つけたので、四郎さんも連(つ)れてゆくつもりで自動車で迎えにゆき、再び五月躑躅の陰へいってみると、四郎さんが殺されていたのですのよ。あたしはハッとしたんですが、人気商売の悲しさにはぐずぐずしていると人に見つかって大変なことになると思ったので、引返(ひきかえ)そうとしましたが、その日四郎さんに見せて貰った日記のなかにあたしのことが沢山書いてあったものですから、これを残しておいてはいけないと思って、いま差上げただけの頁を破ってきたんですわ。すると間もなく皆さんに見つかってしまったんです。それがすべてですわ」
「ああ、そうですか」と一郎は大きく肯(うなず)きながら「では耳飾の宝石も、そのときに落したんですね。これも拾われては蒼蠅(うるさ)いことになるから、後で探したというわけですね」
「仰有(おっしゃ)るとおりですわ。宝石のことは、楽屋へ入ってから気がついたんですの。随分探しましたわ。ほんとにあたし感謝しますわ。でもこのことは、誰にも云わないで下さいネ」
「ええ、大丈夫です。その代(かわ)り、何か犯人らしいものを見なかったか、教えて下さい」
「犯人? 犯人らしいものは、誰もみなかったわ――」
 といっているところへ、電話がかかってきた。それは出てきた支配人が、直(す)ぐ西一郎に会おうという電話だったのである。
 それから一郎は、支配人の室に行った。ジュリアの口添(くちぞ)えがあったから、すべて好条件で話が纏(まとま)った。今日は見習かたがた「赤い苺の実」の三場(ば)ばかりへ顔を出して貰いたいということになった。そして大部屋(おおべや)の人たちに紹介してくれた。
 一郎はそれを報告のために、ジュリアの部屋に行ったが、鍵がかかっていた。それも道理(どうり)で、ジュリアはいま舞台に出て喜歌劇(きかげき)を演じているところだった。舞台の横のカーテンの陰には批評家らしい男が二人、肩を重(かさ)ねんばかりにして、ジュリアの熱演に感心していた。
「ジュリアはたしかに百年に一人出るか出ないかという大天才だ。見給え、どうだい、あの熱情(ねつじょう)とうるおいとは……。今日はことに素晴らしい出来栄(できば)えだ」
「僕も全く同感だ。どこからあの熱情が出てくるんだろう。ちょっと真似手(まねて)がない。――」
「ジュリアには非常に調子のよい日というのがあるんだネ。今日なんか正にその日だ。見ていると恐(こわ)い位(くらい)だ」
「そうだ。僕もそれを云いたいと思っていた。僕は毎日ジュリアを見ているが、調子のよい日というのをハッキリ覚えているよ。この一日に三日、それから今日の四日と……」
「よく覚えているねえ」
「いやそれには覚えているわけがあるんだ。それが不思議にも、あの吸血鬼(きゅうけつき)が出たという号外(ごうがい)や新聞が出た日なんだからネ」
「ははア、するとああいう事件が何かジュリアを刺戟(しげき)するのかなア。だが待ちたまえ、今日は何も吸血鬼が犠牲者(ぎせいしゃ)を出したという新聞記事を見なかったぜ。はッはッ、とうとう君に一杯(いっぱい)担(かつ)がれたらしい。はッはッはッ」
「はッはッはッ」
 一郎は批評家に嫌悪(けんお)を催(もよお)したのか、怒ったような顔をして、そこを去った。


   痣蟹(あざがに)の空中葬(くうちゅうそう)


 丁度(ちょうど)その頃、捜査本部では、雁金検事と大江山捜査課長とが六(むつ)ヶ敷(し)い顔をして向いあっていた。机の上には、青竜王が痣蟹の洋服の間から見付けた建築図の破片(はへん)が載(の)っていた。
「雁金さんはそう仰有(おっしゃ)るですが、どうしてもあの覆面探偵は怪しいですよ」と大江山はまたしても、青竜王排撃(はいげき)の火の手をあげているのであった。「第一あの覆面がよろしくない。本庁(ほんちょう)の部下の間には猛烈な不平があります。このままあの覆面を許しておくということになると、統制上(とうせいじょう)由々(ゆゆ)しき一大事が起るかもしれません」
「気にせんがいいよ。そうムキになるほどのことではない。たかが私立探偵だ」
「いまも電話をかけましたが、青竜王(やつ)は所在(しょざい)が不明です。その前は十日間も行方が分らなかった」
「まアいい。あれは悪いことの出来る人間じゃないよ」
「それから所在不明といえば、あの西一郎という男ですネ。彼奴(きゃつ)は犠牲者の兄だというので心を許していましたが、イヤ相当(そうとう)なものですよ。彼奴は無職で家にブラブラしているかと思うと、どこかへ行ってしまって、幾晩もかえって来ない。留守番(るすばん)のばあやは金を貰っていながら、気味(きみ)わるがっています。昨夜(ゆうべ)もそうです。蝋山教授を騙(だま)して、不明の目的のために四郎の屍体(したい)を解剖させているうちに、怪漢(かいかん)を呼んで屍体を奪わせた。そのくせ当人は、痣蟹が屍体を盗んでいったと称しています。あれは偽(に)せの兄ですよ。本当の兄なら、屍体を取返そうと思って死力(しりょく)をつくして追駈(おいか)けてゆきます」
「イヤあれは本当の兄だよ」
「私は随分(ずいぶん)部下や新聞記者の前を繕(つくろ)ってきましたが、今日かぎりそれを止めて、本当の考えを発表します。第一今日はキャバレー・エトワールの事件で、青竜王(きゃつ)のところのチンピラ小僧にうまうませしめられて、面白くないです」
 といっているところへ、給仕が入ってきて、雁金検事に電話が来ていると伝えた。
「はアはア、私は雁金だが、――」
 と電話に出てみると、向(むこ)うは噂(うわ)さの主(ぬし)の覆面の探偵青竜王からだった。
「今日何か新しい吸血鬼事件があったでしょう」
「ほい、もう嗅(か)ぎつけたか。あれは絶対秘密にして置いたつもりだが、実は――」
 と、検事は大江山との今の話を忘れてしまったように、秘密事件について話しだした。それは今日昼(ひる)すこし前、例の事件について調べることがあって迎(むか)えのために警官をキャバレー・エトワールへ振出(ふりだ)してみると、雇人(やといにん)は揃っているが、主人のオトー・ポントスが行方不明であるという。そこでポントスの寝室(しんしつ)を調べてみると、ベッドはたしかに人の寝ていた形跡(けいせき)があるが、ポントスは見えない。尚(なお)もよく調べると、床(ゆか)の上に人血(じんけつ)の滾(こぼ)れたのを拭いた跡が二三ヶ所ある。外(ほか)にもう一つ可笑(おか)しいことは、室内にはポータブルの蓄音器(ちくおんき)が掛け放しになっていたが、そこに掛けてあったレコードというのがなんと赤星ジュリアの吹きこんだ「赤い苺の実」の歌だったという。いまもってポントスの行方(ゆくえ)は分らない。――
 その話をして、雁金検事は青竜王の意見をもとめたところ、彼は電話の向うで、チェッと舌打ちをして云った。
「雁金さん、ポントスは昨夜(ゆうべ)から今日の昼頃までに殺されたんですよ」
「そう思うかネ。誰に殺された。――」
「もちろん吸血鬼に殺されたんですよ。屍体はその近所にある筈(はず)ですよ。発見されないというのは可笑しいなア」
「やっぱり吸血鬼か。そうなると、これで三人目だ。これはいよいよ本格的の殺人鬼の登場だッ。――ところで君はいま何処にいるのだ。勇が探していたが、会ったかネ」
「場所はちょっと云えませんがネ。そうですか、勇君は何を云っていましたか。――」
 と其処(そこ)までいったとき、何に駭(おどろ)いたか、青龍王は電話の向うで、
「ウム、――」
 と呻(うな)った。そして、
「検事さん、また後で――」
 といって、電話はガチャリと切れた。
「午後四時十分。――」
 と、検事は静かに時計を見た。すると待っていたように、大江山課長が声をかけた。
「青竜王のいるところが分りました。いま電話局で調べさせたんです。青竜王(せんせい)、いま竜宮劇場の中から電話を掛けたんです。私は青竜王に一応訊問(じんもん)するため、職権(しょっけん)をもって拘束(こうそく)をいたしますから……」
「午後四時十分。――」
 と検事は大江山の言葉が聞えないかのように、静かに同じ言葉を繰(く)り返(かえ)した。
 丁度そのすこし前、竜宮劇場の赤星ジュリアの室ではまるで何かの劇の一場面のような、世にも恐ろしい光景が演ぜられていた。
 赤星ジュリアは喜歌劇に出演中だったが、彼女の持ち役である南海(なんかい)の女神(めがみ)はその途中で演技が済み、あとは終幕が開くので彼女を除(のぞ)く一座は総出(そうで)の形となって、ひとりジュリアは楽屋に帰ることができるのであった。彼女は自室に入って、女神の衣裳(いしょう)を外(はず)しにかかった。いつもなら、矢走千鳥(やばせちどり)が手伝ってくれるのだが、彼女は臨時に終幕に持ち役ができて舞台に出ているので、ジュリアは自(みずか)ら扮装(ふんそう)を脱(ぬ)ぐほかなかった。
 彼女は五枚折りの大きな化粧鏡の前で、まず女王の冠(かんむり)を外した。それから腰を下ろすと下に跼(しゃが)んで長い靴と靴下とをぬぎ始めた。演技がすんで、靴下を脱ぎ、素足(すあし)になるときほど、快(こころよ)いものはなかった。彼女は透きとおるように白いしなやかな脛(すね)を静かに指先でマッサージをした。そして衣裳を脱ごうとして、再び立ち上ったその瞬間、不図(ふと)室内に人の気配を感じたので、ハッとなって背後(うしろ)を振りかえった。
「静かにしろ。動くと撃つぞ。――」
 気がつかなかったけれど、いつの間に現れたか、一人の怪漢がジュリアを睨(にら)んでヌックと立っていた。左手には古風な大型のピストルを持ち、その形相(ぎょうそう)は阿修羅(あしゅら)のように物凄かった。彼の片頬(かたほほ)には見るも恐ろしい蟹(かに)のような形をした黒痣(くろあざ)がアリアリと浮きでていた。これこそ噂(うわ)さに名の高い兇賊(きょうぞく)痣蟹仙斎(あざがにせんさい)であると知られた。
 ジュリアはすこし蒼(あお)ざめただけだ。さして驚く気色(きしょく)もなく、化粧鏡をうしろにして、キッと痣蟹を見つめたが、朱唇(しゅしん)を開き、
「早く出ていってよ。もう用事はない筈よ」
「うんにゃ、こっちはまだ大有(おおあ)りだ」と憎々(にくにく)しげに頤(あご)をしゃくり「貰いたいものを貰ってゆかねば、日本へ帰ってきた甲斐がねえや。――」
「男らしくもない。――」
「ヘン何とでも云え。まず第一におれの欲しいのはこれだア。――」
 痣蟹はジリジリとジュリアに近づくと、彼女が頸(くび)にかけた大きいメタルのついた頸飾りに手をかけ、ヤッと引きむしった。糸が切れて、珠(たま)がバラバラと床の上に散った。痣蟹はそれには気も止めず、メタルを掌(てのひら)にとって器用にも片手でその裏を開いた。中からは何やら小さい文字を書きこんだ紙片がでてきた。痣蟹はニッコリと笑い、
「やっぱり俺のものになったね。――」
「出ておゆき。ぐずぐずしていると人が来るよ」
「どっこい。もう一つ貰いたいものが残っているのだ。うぬッ――」
 痣蟹はピストルを捨てると、猛虎(もうこ)のように身を躍(おど)らせてジュリアに迫った。その太い手首が、ジュリアの咽喉部(いんこうぶ)をギュッと絞めつけようとする。
「アレッ――」
 と叫ぶ声の下に、化粧鏡がうしろに圧(お)されて窓硝子(まどガラス)に当り、ガラガラと物凄い音をたてて壊(こわ)れた。
 その途端(とたん)だった。入口の扉(ドア)をドンと蹴破って、飛びこんで来た一人の、青年――
「ああ、一郎さん、助けてエ――」
「曲者(くせもの)、なにをするかア、――」
 青年は西一郎だった。彼はジュリアに返事をする遑(いとま)もなく、彼に似合わしからぬ勇敢さをもって、いきなり痣蟹の背後(うしろ)から組みついた。
「なにを生意気な小僧(こぞう)め!」
 痣蟹は落ちつき払って一郎を組みつかせていた。
「ジュリア、いまに思い知るぞオ」
 という声の下に、彼はエイッと叫んで身体を振った。その鬼神(きじん)のような力に、元気な一郎だったが、たちまち※(「てへん+堂」、第4水準2-13-41)(どう)と振りとばされてしまった。
「さあ皆で懸(かか)れ、警官隊も来ているから、大丈夫だ」と声を聞きつけて、応援隊が飛びこんで来た。痣蟹は警官隊と聞くと舌打ちをして、入口に殺到(さっとう)した劇場の若者を押したおし、廊下へ飛びだした。アレヨアレヨという間に、階段から下へ降りようとしたが、下からは駈けつけた大江山課長等がワッと上ってきたのを見ると、
「やッ」
 と身を翻(ひるがえ)してそこに開いていた窓を破って屋上へ逃げた。
「それ、逃(の)がすなッ」
 一同はつづいて、屋上に飛び出した。痣蟹は巨大な体躯(たいく)に似合わず身軽に、あちこちと逃げ廻っていたが、とうとう一番高い塔の陰に姿を隠してしまった。
「さあ、三方(さんぽう)から彼奴(きゃつ)を囲(かこ)んでしまうのだ。それ、懸れッ」
 大江山課長は鮮(あざ)やかに号令を下した。が、そのとき塔の向うにフラフラ動いていた竜宮劇場専用の広告気球の綱が妙にブルブルと震(ふる)えたかと思うと、塔の上に痣蟹の姿が見えたと思う間もなく、彼の身体はスルスルと宙に上っていった。
「呀(あ)ッ。痣蟹が気球の綱を切ったぞオ」
 と誰かが叫んだが、もう遅かった。華(はなや)かな気球はみるみる虚空(こくう)にグングン舞いのぼり、それにぶら下る痣蟹の黒い姿はドンドン小さくなっていった。
「うん、生意気(なまいき)なことをやり居(お)った哩(わい)」と大江山捜査課長は天の一角を睨(にら)んでいたが「よオし、誰か羽田航空港(はねだこうくうこう)に電話をして、すぐに飛行機であの気球を追駈けさせろッ」と命令した。
 一同はいつまでも空を見上げていた。
 航空港からは、直ちに速力の速い旅客機と上昇力に富んだ練習機とが飛び上って、気球捜査に向ったという報告があった。それを聞いて一同は、広告気球の消え去った方角の空と羽田の空とを等分(とうぶん)に眺(なが)めながら、いつまでも立ちつくしていた。
 大江山課長は、傍(かたわら)を向いて、誰にいうともなく独(ひと)り言(ごと)をいった。
「覆面探偵がたしかに来て居ると思ったのに一向に見つからず、その代りに痣蟹を見つけたが、また取逃がしてしまった。この上はあすこで見掛けた西一郎を引張ってゆくことにしよう」
 しかし課長が下に下りたときには、その西一郎の姿もなくなっていた。


   パチノ墓穴(ぼけつ)の惨劇(さんげき)


 夜の幕が、帝都をすっかり包んでしまった頃、羽田航空港から本庁あてに報告が到着した。
「竜宮劇場の広告気球を探しましたが、生憎(あいにく)出発が遅かったので、三千メートルの高空まで昇ってみましたが、遂(つい)に見つかりませんでした。そのうちに薄暗(うすやみ)になって、すっかり視界を遮(さえぎ)られてしまったのでやむなく下りてきました。まことに遺憾(いかん)です」
 捜査本部に於(おい)ても、それはたいへん遺憾なことであった。せっかく屋上に追いつめた痣蟹を逃がしてしまったことは惜(お)しかった。しかしいくら不死身(ふじみ)の痣蟹でも、そんな高空に吹きとばされてしまったのでは、とても無事に生還することは覚束(おぼつか)なかろうと思われた。結局(けっきょく)それが痣蟹の空中葬であったろうという者も出て来たので、本部はすこし明るくなった。
「吸血鬼事件も、これでお仕舞(しま)いになるでしょうな。どうも訳が分らないうちにお仕舞いになって、すこし惜しい気もするけれど」
 それを聞いていた大江山捜査課長は、奮然(ふんぜん)として卓(テーブル)を叩いた。
「吸血鬼事件が片づいても、まだ片づかぬものが沢山ある。帝都の安寧(あんねい)秩序(ちつじょ)を保(たも)つために、この際やるところまで極(きま)りをつけるのだ。ここで安心してしまう者があったら、承知しないぞ」
 一座はその怒声(どせい)にシーンとなった。
 それから大江山課長は経験で叩きあげたキビキビさでもって、捜査すべき当面の問題を一々数えあげたのだった。
「第一に、生死(せいし)のほども確かでないキャバレー・エトワールの主人オトー・ポントスを探しだすこと。第二に、痣蟹の乗って逃げた竜宮劇場の気球がどこかに墜(お)ちてくる筈だから、全国に手配して注意させること。それと同時に痣蟹の屍体(したい)が、気球と一緒に墜ちているか、それともその近所に墜ちているかもしれぬから注意すること。但(ただ)し従来(じゅうらい)の経験によると四十八時間後には、気球は自然に降下してくるものであること。第三に、覆面探偵を見かけたらすぐ課長に報告すること。以上のことを行うについて、次のような人員配置にする。――」
 といってその担当主任や係を指名した。一同は何(なん)でも彼(か)でも、それを突きとめて、課長の賞讃(しょうさん)にあずかりたいものと考えた。
 そんな物騒(ぶっそう)な話が我が身の上に懸けられているとも知らぬ覆面探偵青竜王は、竜宮劇場屋上の捕物(とりもの)をよそに、部下の勇少年と電話で話をしていた。
「それで勇君が、ポントスの部屋の隠(かく)し戸棚(とだな)から発見した古文書(こもんじょ)というのはどんなものだネ」
「僕には判(わか)らない外国の文字ばかりで、仕方がないから大辻さんに見せると、これがギリシャ語だというのです。大辻さんは昔勉強したことがあるそうで、辞書をひきながらやっと読んでくれましたが、こういうことが書いてあるそうですよ。――明治二年『ギリシャ』人『パチノ』ハ十人ノ部下ト共ニ東京ニ来航シテ居ヲ構エシガ、翌三年或ル疫病ノタメ部下ハ相ツギテ死シ今ハ『パチノ』独リトナリタレドモ、『パチノ』マタ病ミ、命数ナキヲ知リ自ラ特製ノ棺ヲ造リテ土中ニ下リテ死ス――それからもう一つの文書(ぶんしょ)は比較的新らしいものですが、これには――『パチノ』ノ墓穴ハ頻々(ヒンピン)タル火災ト時代ノ推移ノタメニ詳(ツマビラ)カナラザルニ至リ、唯(タダ)『ギンザ』トイウ地名ヲ残スノミトハナレリ。マタ『パチノ』ガ『オスミ』と称スル日本婦人ト契リシガ、彼女ハ災害ニテ死シ、両人ノ間ニ生レタル一子(姓不詳)ハ生死不明トナリタリ。ソレト共ニ『パチノ』ノ墓穴ニ関スル重要書類ハ紛失シ、只本国ヘ送リタル二三ノ通信ト『パチノ』ノ墓穴廓内(カクナイ)ノ建築図トヲ残スノミナリ――というのです。聞いてますか、青竜王(せんせい)」
「イヤ熱心に聴いているよ。それで分った。キャバレーの主人ポントスも、本国からそのパチノの墓穴探しに来ているのだ。その一方(いっぽう)、痣蟹もたまたまこの秘密を嗅(か)ぎだして、本国で墓穴の建築図などを手に入れ、日本へ帰って来たのだ。すべての秘密はそのパチノ墓穴に秘められているのだよ。パチノ墓穴の場所については、いささか存(ぞん)じよりがあるが、しかしパチノの遺族を捜し出すのはちょっと骨が折れるネ。しかし何事(なにごと)も墓穴の中に在ると思うよ。では勇君、――」
「待って下さい。青竜王(せんせい)はいま何処(どこ)にいるのです。これから何処へ行くのですか」
「僕のことなら、決して心配しないがいいよ。――」
 そういって青竜王は受話器をかけた。心配でたまらない勇少年は、電話局に問いあわせると、なんと不思議なことに、青竜王のかけた電話は、やはり竜宮劇場の中のものだった。彼は一体どこに姿を秘めているのだろう。
 それから空しく二日の日が過ぎた。
 事件は一向思うように解決しなかったが、その代り、新たな吸血鬼事件も起らなかった。とうとう吸血鬼は滅(ほろ)んだのであろうか。
 詳(くわ)しく云うと七日の午後になって、痣蟹の乗って逃げた気球が、箱根(はこね)の山林中に落ちているのが発見された。しかし変なことに、その気球は枯れ葉の下から発見されたのであった。そして問題の痣蟹の死体はどこにも見当らなかったという。――この報告に管下の警察は一斉に痣蟹の屍体発見に活動を開始した。
 同じくその夜のことであった。赤星ジュリアの楽屋に西一郎が来合せているとき、どこからともなく電話がジュリアの許に懸ってきた。電話口へ出てみると、相手は覆面探偵の青竜王だといった。
「青竜王ですって。まあ、あたくしに何の御用ですの」とジュリアは訝(いぶか)った。
 すると電話の声は、痣蟹の気球が発見されたが、屍体の見当らないこと、それから夕暮に箱根の山下である湯元(ゆもと)附近の河原(かわら)で痣蟹らしい男が水を飲んでいるのを見かけた者のあること、そして念のために後から河原へ行ってみると、紙片(かみきれ)が落ちていて、開いてみると血書(けっしょ)でもって「パチノ墓穴を征服」としたためてあったことを知らせた。
「パチノの墓穴を征服ですって」とジュリアはひどく愕(おどろ)いたらしく思わず声を高らげて問いかえした。
 電話の声は、そうです、なんのことか分らないが、確かにパチノと書いてありますよ、と返辞(へんじ)をして、その電話を切った。ジュリアは倒れるように、安楽椅子(あんらくいす)に身を投げかけた。
 西一郎は、電話の終るのを待ちかねていたように、ジュリアに云った。
「青竜王本人が電話をかけて来たんですか」
「ええ、そうよ。――なぜ……」
「はッはッ、なんでもありませんけれど」
 そういった一郎の態度には、明(あきら)かに動揺の色が見えたが、ジュリアは気がつかないようであった。
 青竜王の懸けた電話とは違って、本庁の方へは深更(しんこう)に及んでも「痣蟹ノ屍体ハ依然トシテ見当ラズ、マタ管下(カンカ)ニ痣蟹ラシキ人物ノ徘徊(ハイカイ)セルヲ発見セズ」という報告が入ってくるばかりで、大江山課長の癇癪(かんしゃく)の筋(すじ)を刺戟するに役立つばかりだった。
 その真夜中(まよなか)、時計が丁度(ちょうど)十二時をうつと間もなく、今は営業をやめて住む人もなく化物屋敷(ばけものやしき)のようになってしまったキャバレー・エトワールの地下室の方角にギーイと、堅(かた)い物の軋(きし)るような物音が聞えた。エトワールの表と裏とには、制服の警官が張りこんでいるのだったけれど、この地底の小さい怪音(かいおん)は、彼等の耳に達するには余りに微(かす)かであった。一体(いったい)誰がその怪(あや)しい音をたてたのだろう。
 このとき若(も)し地下室を覗(のぞ)いていた者があったとしたら、隅(すみ)に積(つ)んだ空樽(あきだる)の山がすこし変に捩(ね)じれているのに気がついたであろう。いやもっと気をつけて見るなれば、その空樽を支(ささ)えた壁体(へきたい)の隅が縦(たて)に裂(さ)けて、その割れ目に一つの黒影が滑(すべ)りこんだのを認めることができたであろう。

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