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省線電車の射撃手(しょうせんでんしゃのしゃげきしゅ)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-8-24 17:03:23  点击:  切换到繁體中文


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 もう九月も暮れて十月が来ようというのに、其の年はどうしたものか、厳しい炎暑えんしょがいつまでもゆるまなかった。「十一年目の気象の大変調ぶり」と中央気象台は、新聞紙へ弁解の記事を寄せたほどだった。復興新市街をもった帝都の昼間は、アスファルト路面が熱気を一ぱいに吸いこんでは、所々にブクブクと真黒な粘液ねんえききだし、コンクリートの厚い壁体へきたいは燃えあがるかのように白熱し、隣りのとおりにも向いの横丁よこちょうにも、暑さに脳髄を変にさせた犠牲者が発生したという騒ぎだった。夜に入ると流石さすがに猛威をふるった炎暑えんしょも次第にうすらぎ、帝都の人々は、ただもうグッタリとしてりょうを求め、睡眠をむさぼった。帝都の外郭がいかくにそっと環状かんじょうを描いて走る省線電車は、窓という窓をすっかり開き時速五十キロメートルの涼風りょうふう縦貫じゅうかんさせた人工冷却フォースド・クーリングで、乗客の居眠りを誘った。どの電車もどの電車も、前後不覚に寝そべった乗客がゴロゴロしていて、まるで病院電車がはしっているような有様だった。そんな折柄、この射撃事件が発生した。その第一の事件というのが。
 時間をいうと、九月二十一日の午後十時半近くのこと、品川方面ゆきの省線電車が新宿しんじゅく代々木よよぎ原宿はらじゅく渋谷しぶやて、エビス駅を発車し次の目黒駅へ向けて、およそその中間と思われる地点を、全速力フル・スピードで疾走していた。この辺を通ったことのある読者諸君はよく御存知であろうが、渋谷とエビスとのにぎやかな街の灯も、一歩エビス駅を出ると急に淋しくなり、線路の両側にはガランとして人気ひとけのないエビスビール会社の工場だの、灯火ともしびれないような静かな少数の小住宅だの、欝蒼うっそうたる林に囲まれた二つ三つの広い邸宅だのがあるきりで、その間間あいだあいだには起伏のある草茫々くさぼうぼうの堤防や、赤土がむき出しになっている大小のがけや、池とも水溜みずたまりともつかぬほりなどがあって、電車の窓から首をさしのべてみるまでもなく、真暗で陰気くさい場所だった。この辺を電車がはしっているときは、車内の電燈までが、電圧が急に下りでもしたかのように、スーッと薄暗くなる。そのうえに、線路が悪いせいか又は分岐点ぶんきてんだの陸橋りっきょうなどが多いせいか、窓外から噛みつくようなガタンゴーゴーとやかましい騒音が入って来て気味がよろしくない。という地点へ、その省線電車が、さしかかったのだった。
 その電車は六輌連結だったが、前から数えて第四輌目の車内に、みなさんお馴染なじみの探偵小説家戸浪三四郎が乗り合わせていた。もし読者諸君がその車輌に同車していたならきっとおかしく思われたに相違そういない。というのは、戸浪三四郎は『新青年』へ随筆を寄稿してこんなことを云った。
「僕は電車に乗ると、なるべく若い婦人の身近くを選んで座を占める。彼女のなまぐさい体臭や、胸をくような官能的色彩に富んだ衣裳や、その下にムックリ盛りあがった肢態したいなどは、日常吾人ごじんあじわうべき最も至廉しれんにして合理的なる若返わかがえり法である」と。そして、成程なるほど戸浪三四郎の向いには、桃色のワンピースに、はちきれるようにふくらんだ真白な二の腕もあらわな十七八歳の美少女が居て、窓枠に白いベレ帽の頭をもたせかけ、弾力のある紅い口唇くちびるを軽くひらいて眠っていた。それから戸浪三四郎の隣りには、これはなんと水々しくいあげた桃割ももわれに、紫紺しこんと水色のすがすがしい大柄の絽縮緬ろちりめんの着物に淡黄色たんこうしょくの夏帯をしめた二十歳はたちを二つ三つ踏みこえたかと思われる純日本趣味の美女がいた。車内にチラホラ目をさましている組の連中は、この二人の美しい対照に、さり気ない視線をこっそり送っては欠伸あくびを噛みころしていたのだった。
 車輪が分岐点ぶんきてんと噛み合っているらしくガタンガタンと騒々そうぞうしい音をたてたのと、車輌近くに陸橋のマッシヴな橋桁はしげたがグオーッとれちがったのとが同時だった。乗客は前後にブルブルッとられたのを感じた。その躁音そうおんと激動に乗せられたかのように、例のワンピースの美少女の身体が前方へ、ツツツーとすべった。両膝をもろに床の上にドサリとつくと、ブラリと下った二本の裸腕で支えようともせず、上体をクルリと右へよじると、そのままパッタリ、電車の床にうつせになって倒れた。
 車内の人々は、少女が居眠りから本眠りとなり、うっかり打転うちころがったのだったと思った。乗客たちは、洋装のまくれあがったあたりから覗いている真白のズロースや、恐いほど真白な太股の一部にけつくような視線を送りながら、今この少女が起きあがって、どのような魅力のある羞恥しゅうちをあらわすことだろうかと、期待をいだいた。だが、一同の期待を裏切って、少女はなかなか起き上ろうとしなかった。ピクリとも動かなかった。
「様子がヘンじゃありませんか、皆さん!」
 そう云って立ち上ったのは、商人体しょうにんていの四十近くの男だった。一座はにわかにザワめいて、ドヤドヤと少女の周囲に馳けよった。
「早く起してやり給え」
 こう云ったのは、探偵小説家戸浪三四郎のうわずった声音こわねだった。
「モシモシ、娘さん」と甲斐甲斐かいがいしく進みでた商人体の男は、少女の肩を、つっついた。無論、少女はなんの応答いらえもしなかった。さらばと云うので、彼氏は右手を少女の肩に、それから左手をしたから少女の胸に差入れて、グッとかかえ起した。少女の頭はガクリと胸に垂れ下った。ヌルリと滑った少女の胸部きょうぶだった。
ッ」抱きおこした少女を前からのぞいた男が、顔色をかえて、背後の人の胸倉むなぐらすがりついた。
「血だ。血――血、血、血ッ」その隣りの男が、気が変になったように声をふるわせて叫んだ。
「ヒエッ!」商人体の男は吃驚仰天びっくりぎょうてんして、前後の考えもなく、少女の身体をその場にドサリとほうり出した。
 戸浪三四郎がこれに代って進み出ると、少女の身体をソッと上向きに寝かせた。人々の前に、少女の美しい死顔しにがおが始めてハッキリと現れたのだった。左胸部を中心に、衣服はベットリ鮮血せんけつに染っていた。その上、床の上に二尺四方ほどを、真紅まっかいろどっているところをみると、出血は極めて瞬間的に多量だったものと見える。
「車掌君はいないか。駄目らしいが、一応早く医者に見せなくちゃいけない」
 そこへ車掌が来た。
「皆さん、ずっとあとへ寄って下さい。電車は只今、全速力で次の駅へ急がせていますから……」
 言葉の終るか、終らないうちに、電車は悲鳴に似たような非常警笛をならして、目黒駅の構内に突入して行った。電車が停車しない前に、専務車掌の倉内銀次郎はヒラリとプラットホームに飛び降り、駅長室に馳けこむなり、医者と警視庁とに電話をかけた。その間に電車は停り、美少女の倒れた第四輌目の乗客は全部、外に追いだされた。

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