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自叙伝(じじょでん)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-8-26 7:01:42  点击:  切换到繁體中文


   二

 二、三カ月その家にいたあとで、二軒町という隣り町の、高等小学校のすぐ前に引越した。そして、そこで初めて、十の年の暮に、僕は性の遊びを覚えた。
 同じ焼け出されの軍人の家に川村というのがあった。そのお母さんと娘とがすぐ近所に間借りをしていた。母とそのお母さんとは兄弟のように親しくしていた。僕もそのお母さんは大好きだった。が、それよりも僕は、その娘のお花さんというのがもっと大好きだった。
 お花さんは僕とおない年か、あるいは一つくらい年下だった。ほとんど毎日僕の家に遊びに来た。そして大抵は、妹等と遊ばずに、僕とばかり遊んでいた。
 みんなで一緒に遊ぶ時には、よくみんなが炬燵にあたって、花がるたかトランプをして遊んだ。そんな時にはお花さんはきっと僕のそばに座を占めた。お花さんの手と僕の手とは、折さえあれば、炬燵の中でしっかりと握られていた。あるいはそっとお互いの指先きでふざけ合っていた。そして二人で、お互いにいい気持になって、知らん間にそれをほんとうの(三字削除)びに使っていた。
 が、お花さんも僕も、それだけのことでは満足ができなかった。二人は、二階の僕の室で、よく二時間も三時間も暮した。そしてそこでは、誰に憚ることもなく、大人のようなことをして遊んでいた。

 その頃僕にはもう一人の女の友達があった。それは、やはり近所に住んでいた、千田という軍人の娘だった。
 ある日僕は、どんないたずらをしたのか忘れたが、母に「あやまれ」と言って迫られた。が、迫られれば迫られるほど、ますますあやまることができなくなった。
 夕飯が済んでから、母は「もうこんな強情な子の世話はできないから、東京の山田の伯母さんのところへ行ってしまう」と言って、女中や子供等にみんなに着物を着かえさして、小さな行李を一つ持って、みんなでどこかへ出かけて行った。僕は東京へ行くというのは嘘だろうと思ったが、そのやりかたが大げさなので、実際どこかへ行ってしまうのじゃあるまいかと心細くなった。しかし、何だってあやまるものかと思いながら、仕方なしに床を敷いて寝ていた。
 二、三時間して、玄関へどやどやと大勢はいって来る声がした。母を始め出て行ったみんなと、千田のお母さんと娘の礼ちゃんとが来たのだ。
「伯母さんがあやまってあげるから、もう決してしないっておっしゃいね。」
 千田のお母さんは僕の枕もとに来てしきりに僕を説いた。が、それが母と相談の上だと思うと、なお僕はあやまりたくなくなった。
「ざまあ見ろ。とうとうみんな帰って来たじゃないか。」
 僕はひそかにそう思いながら、黙って布団を頭からかぶっていた。
「あの通り強情なんですからね……」
 母はそう言いながら、また何か嚇かす方法を相談しているようだった。
「あなたもまたいい加減に馬鹿はお止しなさいよ。」
 千田のお母さんは母をたしなめて、このまま黙って寝かして置くようにと勧めていた。
 その間に礼ちゃんが僕のそばへやって来た。そしてそっとその手を布団の中に入れて僕の手を握った。
「ね、栄さん、わたしがあやまってあげるわね。いいでしょう、もう決してしないから勘弁して下さいってね。わたしが代りにあやまってあげるわ。ね、いいでしょう。もうあやまるわね。」
 礼ちゃんは布団をまくって、じっと僕の顔を見ながら、「ね、ね」と幾度も繰返して言った。僕の堅くなっていた胸が、それでだんだん和らいで行った。そしてとうとう僕は黙ってうなずいてしまった。

 お花さんは町の方の小学校に通っていた。礼ちゃんは僕よりも一年下の級だった。そして光子さんは僕と同じ級だった。
 礼ちゃんの級では、礼ちゃんが一番評判の美人だった。学科の方でもやはり一番だった。光子さんの級では、光子さんが一番出来がよかった。しかし綺麗という点の評判では、有力な一人の競争者を持っていた。それは絹川玉子さんといった。
 玉子さんは休職軍人の娘だった。まる顔の、頬の豊かな、目の小さくまるい、可愛らしい子だった。しかし僕は、そのどこかしら高慢ちきなのが、気に食わなかった。着物もいつも綺麗なのを着ていた。そして妙にそり返って、ゆったりと足を運んで歩いていた。今考えても、ちょっとこう、小さな公爵夫人というような気がする。
 光子さんは衛戍病院のごく下級な薬剤師か何かの娘だった。彼女の着物はいつも垢じみていた。細面で、頬はこけていた。そして、玉子さんのように色つやのいい赤味ではなく、何だかこう下品な赤味を帯びていた。目は細く切れていた。
 ある日僕は玉子さんを道に要して通せんぼをした。彼女は何にも言わずに、ただ頬を脹らして、じっと僕をにらめていた。僕はそうした彼女の態度が大嫌いだったのだ。それがもし光子さんであれば、彼女はきっと「いやよ」とか何とか叫んで、僕の手を押しのけて行こうとするのだ。そしてそれを望みで僕はよく彼女を通せんぼした。
 美少年の石川や大久保は玉子さんびいきだった。それで僕はなおさら玉子さんを嫌って光子さんびいきになった。

 二軒町のその家の隣りに、吉田という、近村のちょっとした金持が住んでいた。
 僕はそこのちょうど僕と同じ年頃の男の子と友達になった。が、すぐに僕は、その男の子と遊ぶのをよして、そのお母さんと遊ぶようになった。
 この伯母さんは、火事で火の子をかぶったのだと言って、髪を短かく切っていた。どちらかの眉の上に大きな疣のようなほくろのある、あまり綺麗な人ではなかった。
 伯母さんはその子と僕とにちょいちょい英語や数学を教えてくれた。そしていつも僕が覚えがいいと言っては、その御ほうびに、僕をしっかりと抱きかかえて頬ずりをしてくれた。僕はその御ほうびが嬉しくて堪らなかった。
「私はね、こんな家へお嫁に来るんじゃなかったけど、だまされて来たの、でも、今にまたこんな家は出て行くわ。」
 伯母さんはその子供のいない時に、いつもの御ほうびで僕を喜ばせながら、そんな話までして聞かした。そして実際、その後しばらくして出て行ったらしかった。

 この家の裏は広い田圃だった。そして雨のしょぼしょぼと降る晩には、遠くの向うの方に、狐の嫁入りというのが見えた。
 提灯のようなあかりが、一つ二つ、三つ四つずつ、あちこちに見えかくれする。始まったな、と思っていると、それが一列に幾町もの間にパッと一時に燃えたり、また消えたりする。そうかと思うと、こんどはそれが散り散りばらばらになって、遠くの田圃一面にちらちらきらきらする。
 吉田の伯母さんは、「これはきっと硫黄のせいよ」と言って、ある晩僕等がまだ見たことのない蝋マッチを持ち出して、雨にぬれた板塀に人の顔を描いて見せた。青白い、ぼやけた輪郭の、ぼっぼと燃えているようなお化がそこに現れた。僕は面白半分、恐さ半分で、伯母さんの言いなり次第に、指先きでお化の顔をいじって見た。するとこんどは僕の指先きから青白い光が出た。それを僕はお化の顔のまわりのあちこちに塗りつけた。そしてその塗りつけたあとがみんな青白い光になってしまった。
「よく恐がらずにやったわね。またいろんな面白いことを教えてあげましょうね。」
 伯母さんは僕を抱きあげて、頬の熱くなるほど頬ずりをしてくれた。
 この狐の嫁入りについては、あとで、次のような伝説をきいた。
 昔何とかいう大名と何とかいう大名とがそこで戦争をした。何とかの方は攻め手でかんとかの方は防ぎ手だった。防ぎ手はとても真ともではかなわないことを知って、ある謀りごとをめぐらした。それはこの辺が一面の沼地で、ちょっと見れば何でもない水溜りのように見えるのだが、過まってそこへ落ちこめばすぐからだが見えなくなってしまうほどの深い泥の海のようなものだった。この沼の中へ案内知らない敵を陥しこもうというのだ。味方はみな雪の上を歩く「かんじき」というのをはいた。そしてわざと逃げてこの沼地の上を走った。敵はそれを追っかけて来た。そしてみんな泥の中にはまって姿が見えなくなってしまった。その亡霊がああした人玉になってまだ迷っているのだと。
 実際その辺の田からは、その頃でもまだ、よく人の骨や槍や刀や甲などが出てきた。

   三

 父が戦争から帰って来る少し前に、家はまた片田町の、前のとは四、五軒離れたところに引越した。そしてそこから僕は二年間高等小学校に通った。
 学校の出来はいつも善かった。尋常小学校の一年から高等小学校の二年まで、三番から下に落ちたことはなかった。高等小学校では、町の方の尋常小学校から来た大沢というのをどうしても抜くことができずに、二年とも大沢が級長で僕と大久保とが副級長だった。大久保は僕よりも一つ年が多く、大沢は二つくらい多いようだった。
 高等小学校にはいってからは、学校のほかにも、英語や数学や漢文を教わりに私塾に通った。英語は前にいた片田町の家の隣りの速見という先生に就いた。どんな学歴の人か知らないがハイカラで道楽者のように見えた。生徒は朝から晩までほとんど詰めきりで、いつも三、四十人は欠かさなかったようだ。数学と漢文とは、その英語の先生がいなくなってから教わり出したように思うが、最初の先生は名も顔もまったく忘れてしまった。が、ただその家が外ヶ輪[#底本では「外ケ輪」]という兵営の後ろの町にあったことだけを覚えている。
 二度目の漢文の先生は監獄の看守だった。背の低い、青い顔をした、ずいぶんみすぼらしい先生だった。それにその家もずいぶんみすぼらしい家だった。先生は朝早く役所へ出かけるので、僕はいつもまだ暗いうちに先生の家へ行った。生徒[#「生徒」は底本では「先徒」と誤記]は僕ともで二、三人だった。
 僕は冬、三尺も四尺も雪が積って、まだ踏みかためられた道も何にもないところを、凍えるようになって通った。行くと、先生のお母さんが寒そうな風をして、小さな火鉢に粉炭を少し入れて来て、それをふうふう吹いて火をおこしてくれた。僕は先生のこのお母さんが可哀そうな気がして、母にその話をした。母はすぐに馬丁に炭を一俵持たしてやった。先生のお母さんは涙を流してお礼を言った。そしてその翌日からは大きな炭でカッカと火をおこしてくれた。
 僕はこの先生に就いて、いわゆる四書の論語と孟子と中庸と大学との素読を終えた。
 先生はまだ二十四、五か、せいぜい七、八の年頃で、その風采は少しもあがらなかった。しかしそのお母さんは、風は汚なかったが、どこかしらに品のある顔をしていた。が、そうした士族の落ちぶれたようなのは僕にはちっとも珍らしいことではなかった。
 僕はその後幾度も囚人として監獄にはいって、そのたびにいつもこの先生のことを思い出した。生徒の僕等に何かものを言うんでさえ少々はにかんでいたようなおとなしい先生だ。きっと先生は囚人などとは直接に交渉のない、内勤の方の何かの事務を執っていたのに違いない。とても囚人を叱ることのできるような先生ではなかった。

 それからまた、やはりその頃に、夜五、六人の友人を家に集めて、輪講だの演説だの作文だのの会を開いた。すぐ一軒おいて隣りの西村の虎公だの、町の方の杉浦だの、前にそのお母さんのことを話した谷だのが、その常連だった。虎公と杉浦とは僕よりも一年上の級だったが、近所の柴山という老先生の私塾に通っていたので、虎公が杉浦を連れて来たのだった。谷は僕よりも一年下だった。
 本読みの僕はいつもみんなの牛耳をとっていた。僕は友人のほとんど誰よりも早くから『少年世界』を読んでいた。そしてある妙な本屋と知合いになって、そこからいろんな本を買って来て読んでいた。修身の逸話を集めた翻訳物のようなのも持っていた。また誰も知らない、四、五冊続きの大きな作文の本も持っていた。そうした雑誌や書物からそっと持って来た僕の演説や作文はみんなの喝采を呼ばずにはおかなかった。
 新発田から三、四里西南の水原という町に、中村万松堂という本屋があった。そこの小僧だか番頭だかが、新発田に来て、ある裏長屋のようなところに住んでいた。それをどうして知ったのか、僕がたぶんほとんど最初のお客となって、何かの本を買いに行った。店も何にもなくて、ただ座敷の隅に数十冊の本を並べてあっただけだった。しかし、それまで本屋というもののまるでなかった、ただある一軒の雑貨屋が教科書と文房具との店を兼ねていただけの新発田では、それでも十分豊富な本屋だったのだ。僕はひまがあるとその本屋へ遊びに行って、寝ころんでいろんな本を読んで、何か気に入ったものがあると買って来た。小使銭というものを一文も貰わなかった僕は、文房具でも本でも、要るだけのものは母に黙っててもどこかの店から月末払いで持って来ることができた。その払いが少し嵩むと、母はこれからはあらかじめそう言うようにと注意はしたが、決して叱ることはなかった。その後すぐこの本屋は上町に店を持って、やはり万松堂と言っていた。そして僕は、それから三、四年経って新発田を去るまで、そこの店の一番いいお客の一人だった。
 この夏新発田へ行った時、僕は第一番にもっともこれが宿のすぐ近くであったからでもあるが、この店を訪ねた。主人はやはり昔の主人だった。
「僕誰だか分るかい?」
 僕は黙って僕の顔を見つめている主人に尋ねた。
「ええ、確かに見覚えはあるんですけれど、どなたでしたかな。」
「もうちょうど二十になるんだからね。分らんのも無理はあるまいが……」
「いや、そのお声で思い出しました。これやほんとうにしばらくめですよ。」
 主人はそれで小僧にお茶を入れさした。そして僕は昔の友人の行方をいろいろとこの主人から聞いた。新発田の中学校を出たものなら、主人はほとんどみなよく知っていた。

 友人等との会の話が本屋のことにそれてしまった。もう一度話をもとに戻そう。
 この会での一番大きな問題は、遼東半島の還附だった。僕は『少年世界』の投書欄にあった臥薪嘗胆論というのをそのまま演説した。みんなはほんとうに涙を流して臥薪嘗胆を誓った。
 僕はみんなに遼東半島還附の勅諭を暗誦するようにと提議した。そして僕は毎朝起きるとそれを声高く朗読することにきめていた。
 虎公は高等小学校を終えるとすぐ北海道へ小僧にやられた。そしてその数年後にまったく消息が絶えてしまった。谷は僕よりも一年遅れて幼年学校にはいった。今はたぶん少佐くらいになっているだろう。杉浦は、その家が何をしていたのか当時は知らなかったが、そしてその家の相応な構えなのにもかかわらず馬鹿にけちだったところから後では高利貸かとも想像していたが、こんど行って聞いて見ると新発田第一の大地主だった。今は当主でぶらぶら遊んでいる。
「ほかではどうか知らないが、少なくともこの越後では農民運動は決して起りませんよ。地主と小作人とがまったく主従関係で、というよりもむしろ親子の関係で、地主は十分小作人の面倒を見ていますからね。」
 杉浦君は先日会った時、室のあちこちにある神棚のあかりを手際よく静かに団扇で消して、その農民との関係を詳しく話してくれた。

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