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東海道五十三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-8-26 8:00:54  点击:  切换到繁體中文

底本: 岡本かの子全集5
出版社: ちくま文庫、筑摩書房
初版発行日: 1993(平成5)年8月24日
入力に使用: 1993(平成5)年8月24日第1刷
校正に使用: 1993(平成5)年8月24日第1刷


底本の親本: 第六創作集 老妓抄
出版社: 中央公論社
初版発行日: 1939(昭和14)年3月18日

 

風俗史専攻の主人が、ことに昔の旅行の風俗や習慣に興味を向けて、東海道に探査の足を踏み出したのはまだ大正も初めの一高の生徒時代だったという。私はその時分のことは知らないが大学時代の主人が屡々しばしばそこへ行くことはたしかに見ていたし、一度などは私も一緒に連れて行ってもらった。念の為め主人と私の関係を話して置くと、私の父は幼時に維新の匆騒そうそうを越えて来たアマチュアの有職故実ゆうそくこじつ家であったが、斯道しどうに熱心で、研究の手傅てだすけのため一人娘の私に絵画を習わせた。私は十六七の頃にはもう濃く礬水どうさをひいた薄美濃紙をてがって絵巻物の断片をき写しすることも出来たし、残存のかぶとしころを、比較を間違えず写生することも出来た。だが、自分の独創で何か一枚画を描いてみようとなるとそれは出来なかった。
 主人は父のやしきへ出入りする唯一の青年といってよかった。他に父が交際している人も無いことはなかったが、みな中年以上か老人であった。その頃は「成功」なぞという言葉が特に取出されて流行し、娘たちはハイカラまげという洋髪をっている時代で虫食いの図書遺品をあさるというのはよくよく向きの変った青年に違いなかった。けれども父は
「近頃、珍らしい感心な青年だ」とめた。
 主人は地方の零落れいらくした旧家の三男で、学途にはいたものの、学費のなかば以上は自分で都合しなければならなかった。主人は、好きな道を役立てて歌舞伎の小道具方の相談相手になり、デパートの飾人形の衣裳を考証してやったり、それ等から得る多少の報酬で学費を補っていた。かなり生活は苦しそうだったが、服装はきちんとしていた。
折角せっかくの学問の才を切れ端にして使い散らさないように――」
 と始終忠告していた父が、その実意からしても死ぬ少し前、主人を養子に引取って永年苦心の蒐集しゅうしゅう品と、助手の私を主人に譲ったのは道理である。
 私が主人に連れられて東海道を始めてみたのは結婚の相談がまとまって間もない頃である。
 今まで友だち附合いの青年を、急に夫として眺めることは少し窮屈でこそばゆい気もしたが、私には前から幾分そういう予感が無いわけでもなかった。狭い職分や交際範囲の中に同じような空気を呼吸して来た若い男女が、どのみち一組になりそうなことは池の中の魚のように本能的に感じられるものである。私は照れるようなこともなく言葉もそう改めず、この旅でも、ただ身のまわりの世話ぐらいは少し遠慮を除けてしてあげるぐらいなものであった。
 私たちは静岡駅で夜行汽車を降りた。すぐ駅のくるまを雇って町中をかれて行くと、ほのぼの明けのもやの中から大きな山葵わさび漬の看板やたいのでんぶの看板がのそっと額の上に現われて来る。旅慣れない私はこころのはずむ思いがあった。
 まだ、戸の閉っている二軒のあべ川餅屋もちやの前を通ると直ぐ川瀬の音に狭霧さぎりを立てて安倍川が流れている。わだちに踏まれて躍る橋板の上を曳かれて行くと、夜行で寝不足のまぶたが涼しく拭われる気持がする。
 町ともつかず村ともつかないひなびた家並がある。ここは重衡しげひらの東下りのとき、鎌倉で重衡に愛された遊女千手せんじゅの前の生れた手越たごしの里だという。重衡、斬られて後、千手は尼となって善光寺に入り、歿したときは二十四歳。こういう由緒を簡単に、主人は前の俥から話し送って呉れる。そういえば山門を向き合って双方、名灸所きゅうしょと札をかけている寺など何となく古雅なものに見られるような気がして来た私は、気をかして距離を縮めてゆるゆる走って呉れる俥の上からく。
「むかしの遊女はよく貞操的な恋愛をしたんですわね」
「みんなが、みんなそうでもあるまいが、――その時分に貴賓きひんの前に出るような遊女になると相当生活の独立性が保てたし、一つは年齢の若い遊女にそういうロマンスが多いですね」
「じゃ、千手もまだ重衡の薄倖はっこうな運命に同情できるみずみずしい情緒のある年頃だったというわけね」
「それにね、当時の鎌倉というものは新興都市には違いないが、何といっても田舎で文化については何かと京都をあこがれている。三代の実朝さねとも時代になってもまだそんなふうだったから、この時代の鎌倉の千手の前が都会風の洗練された若い公達きんだちに会って参ったのだろうし、多少はそういう公達を恋の目標にすることに自分自身誇りを感じたのじゃないでしょうか」
 私はもう一度、何となく手越の里を振返った。
 私と主人はこういう情愛に関係する話はお互いの間は勿論もちろん、現代の出来事を話題としても決して話したことはない。そういうことに触れるのは私たちのような好古家の古典的な家庭の空気を吸って来たものに取っては、生々しくて、或る程度の嫌味にさえ感じた。ただ歴史の事柄を通しては、こういう風にたまには語り合うことはあった。それが二人の間に幾らか温かい親しみを感じさせた。
 如何いかにも街道という感じのする古木の松並木が続く。それが尽きるとぱっと明るくなって、丸い丘が幾つも在る間の開けた田畑の中の道を俥は速力を出した。小さい流れに板橋の架かっている橋のたもとの右側に茶店風の藁屋わらやの前で俥は梶棒をおろした。
「はい。丸子へ参りました」
 なるほど障子しょうじに名物とろろ汁、と書いてある。
「腹が減ったでしょう。ちょっと待ってらっしゃい」
 そういって主人は障子を開けて中へ入った。
 それは多分、四月も末か、五月に入ったとしたら、まだいくらも経たない時分と記憶する。
 静岡辺は暖かいからというので私は薄着の綿入れで写生帳とコートは手に持っていた。そこら辺りにやしおの花があざやかに咲き、丸味のある丘には一面茶の木が鶯餅うぐいすもちを並べたように萌黄もえぎの新芽で装われ、大気の中にまでほのぼのとした匂いを漂わしていた。
 私たちは奥座敷といっても奈良漬色の畳にがたがた障子のはまっている部屋で永い間とろろ汁が出来るのを待たされた。少し細目に開けた障子の隙間から畑を越して平凡な裏山が覗かれる。老鶯ろうおうが鳴く。丸子の宿の名物とろろ汁の店といってももうそれを食べる人は少ないので、店はただの腰掛け飯屋になっているらしく耕地測量の一行らしい器械をたずさえた三四名と、表に馬を繋いだ馬子まごとが、消し残しの朝の電燈の下で高笑いを混えながら食事をしている。
 主人は私に退屈させまいとしてふところから東海道分間ぶんま図絵を出して頁をへぐって説明して呉れたりした。地図と鳥瞰図ちょうかんずの合の子のようなもので、平面的に書き込んである里程や距離を胸に入れながら、自分の立つ位置から右に左に見ゆる見当のまま、山や神社仏閣や城が、およそその見ゆる形に側面の略図を描いてある。勿論、改良美濃紙の復刻本であったが、原図の菱川師宣ひしかわもろのぶのあの暢艶ちょうえんで素雅なおもむきはちらりちらり味えた。しかし、自然の実感というものは全くなかった。
「昔の人間は必要から直接に発明したから、こんな便利で面白いものが出来たんですね。つまり観念的な理窟に義理立てしなかったから――今でもこういうものを作ったら便利だと思うんだが」
 はじめ、かなり私への心遣こころづかいで話しかけているつもりでも、いつの間にか自分独りだけで古典思慕に入り込んだひとごとになっている。好古家の学者に有り勝ちなこの癖を始終私は父に見ているのであまり怪しまなかったけれども、二人で始めての旅で、殊にこういう場所で待たされつつあるときの相手の態度としては、寂しいものがあった。私は気をまぎらす為めに障子を少し開けひろげた。
 午前の陽は流石さすがまぶしく美しかった。老婢が「とろろ汁が出来ました」と運んで来た。別に変った作り方でもなかったが、き立ての麦飯の香ばしい湯気に神仙の土のような匂いのする自然薯じねんじょは落ち付いたおいしさがあった。私は香りを消さぬように薬味の青海苔のりらずにわんを重ねた。
 主人は給仕をする老婢に「皆川老人は」「ふじのや連は」「歯磨き屋は」「彦七は」と妙なことをき出した。老婢はそれに対して、消息を知っているのもあるし知らないのもあった。話の様子では、この街道を通りつけの諸職業の旅人であるらしかった。主人が「作楽井さくらいさんは」と訊くと
「あら、いま、さきがた、この前を通って行かれました。あなた等もとうげへかかられるなら、どこかでお逢いになりましょう」
 と答えた。主人は
「峠へかかるにはかかるが、廻り道をするから――なに、それに別に会いいというわけでもないし」
 と話を打ち切った。
 私たちが店を出るときに、主人は私に「この東海道には東海道人種とでも名付くべき面白い人間が沢山たくさんいるんですよ」と説明を補足した。
 細道の左右に叢々たる竹藪が多くなってやがて、二つの小峯が目近くそびえ出した。天柱山に吐月峰とげっぽうというのだと主人が説明した。私の父は潔癖家で、毎朝、自分の使う莨盆たばこぼんの灰吹を私に掃除させるのに、灰吹の筒の口に素地きじの目が新しく肌を現すまで砥石といしの裏に何度も水を流してはらせた。朝の早い父親は、私が眠い目を我慢して砥石で擦って持って行く灰吹を、座敷に坐り煙管きせるを膝に構えたまま、黙って待っている。私は気が気でなく急いで持って行くと、父は眉をしわめて、私に戻す。私はまた擦り直す。その時逆にした灰吹の口に近く指に当るところに磨滅した烙印らくいんで吐月峰としてあるのがいつも眼についた。春の陽ざしがうららかに拡がった空のような色をした竹の皮膚にのんきすわっているこの意味の判らない書体を不機嫌な私は憎らしく思った。
 灰吹の口が奇麗に擦れて父の気に入ったときは、父は有難うと言ってそれを莨盆にさし込み、煙管をくゆらしながら言った。
「おかげでおいしい朝の煙草が一服吸える」
 父はそこで私に珍らしく微笑ほほえみかけるのであった。
 母の歿したのちは男の手一つで女中や婆あやや書生を使い、私を育てて来た父には生甲斐いきがいとして考証詮索の楽しみ以外には無いように見えたが、やはり寂しいらしかった。だが、情愛の発露の道を知らない昔人はどうにも仕方なかったらしい。掃き浄めた朝の座敷で幽寂閑雅な気分に浸る。それが唯一の自分の心を開く道で、この機会に於てのみ娘に対しても素直な愛情を示す微笑もらせた。私は物ごころついてから父を憐れなものに思い出して来て、出来るだけ灰吹を奇麗に掃除してあげることに努めた。そして灰吹に烙印してある吐月峰という文字にも、何かそういった憐れな人間の息抜きをする意味のものが含まれているのではないかと思うようになった。
 父は私と主人との結婚話が決まると、その日から灰吹掃除を書生に代ってやらせた。私は物足らなく感じて「してあげますわ」と言っても「まあいい」と言ってどうしてもやらせなかった。参考の写生や縮写もやらせなくなった。恐らく、娘はもう養子のものと譲った気持ちからであろう。私は昔風な父のあまりに律儀な意地強さにちょっと暗涙あんるいを催したのであった。

 まわりの円味がかった平凡な地形に対して天柱山と吐月峰は突兀とっこつとして秀でている。けれどもちくとかしゅんとかいうそばだちようではなく、どこまでもがたの柔かい線である。この不自然さが二峰を人工の庭の山のように見せ、その下のところに在る藁葺わらぶきの草堂諸共もろとも、一幅の絵になって段々近づいて来る。
 柴の門を入ると瀟洒しょうしゃとした庭があって、寺と茶室と折衷せっちゅうしたような家の入口にさびたれんがかかっている。聯の句は

幾若葉はやし初の園の竹
山桜思ふ色添ふかすみかな

 主人は案内を知っていると見え、柴折戸しおりどを開けて中庭へ私を導き、そこから声をかけながらいおりの中に入った。一室には灰吹を造りつつある道具や竹材が散らばっているだけで人はいなかった。
 主人は関わずに中へ通り、棚に並べてある宝物に向って、私にこれを写生しとき給えと命じた。それは一休の持ったという鉄鉢てっぱつと、頓阿弥とんあみの作ったという人丸の木像であった。
 私が、矢立やたての筆を動かしていると、主人はそこらに転がっていた出来損じの新らしい灰吹を持って来て巻煙草を燻らしながら、ぽつぽつ話をする。
 この庵の創始者の宗長そうちょうは、連歌は宗祇そうぎの弟子で禅は一休に学んだというが、連歌師としての方が有名である。もと、これから三つ上の宿の島田の生れなので、晩年、斎藤加賀守の庇護ひごを受け、京から東に移った。そしてここに住みついた。庭は銀閣寺のものを小規模ながら写してあるといった。
「室町も末になって、乱世の間に連歌なんという閑文字がもてあそばれたということも面白いことですが、これが東国の武士の間に流行はやったのは妙ですよ。都から連歌師が下って来ると、最寄もより々々の城から招いて連歌一座所望したいとか、発句ほっく一首ぜひとか、しかもそれがあす合戦に出かける前日に城内から所望されたなどという連歌師の書いた旅行記がありますよ。日本人は風雅に対して何か特別の魂を持ってるんじゃないかな」
 連歌師の中にはまた職掌しょくしょうを利用して京都方面から関東へのスパイや連絡係を勤めたものもあったというから幾分その方の用事もあったには違いないが、太田道灌どうかんはじめ東国の城主たちは熱心な風雅擁護者で、従って東海道の風物はかなり連歌師の文章で当時の状況がのこされていると主人は語った。
 私はそれよりも宗長という連歌師が東国の広漠たる自然の中に下ってもなお廃残の京都の文化を忘れ兼ね、やっとこの上方かみがたの自然に似た二つの小峰を見つけ出してその蔭に小さな蝸牛かたつむりのような生活を営んだことを考えてみた。少女の未練のようなものを感じていじらしかった。で、立去り際にもう一度、銀閣寺うつしという庭から天柱、吐月の二峰をよく眺め上げようと思った。
 主人は新らしい灰吹の中へなにがしかの志の金を入れて、工作部屋の入口の敷居に置き
「万事灰吹で間に合せて行く。これが禅とか風雅というものかな」
 と言って笑った。
「さあ、これからが宇津うつ峠。業平なりひらの、駿河するがなるうつの山辺のうつゝにも夢にも人にあはぬなりけり、あの昔の宇都の山ですね。登りは少し骨が折れましょう。持ちものはこっちへお出しなさい。持っててあげますから」
 鉄道の隧道すいどうが通っていて、折柄、通りかかった汽車に一度現代の煙を吐きかけられた以後は、全く時代とは絶縁された峠の旧道である。左右から木立の茂った山の崖裾の間をくねって通って行く道は、ときどき梢の葉の密閉を受け、行手が小暗くなる。そういうところへ来ると空気はひやりとして、右側にはしっている瀬川の音が急に音を高めて来る。何とも知れない鳥の声が、瀬戸物の破片を擦り合すような鋭い叫声を立てている。
 私は芝居で見る黙阿弥もくあみ作の「蔦紅葉宇都谷峠つたもみじうつのやとうげ」のあの文弥殺しの場面を憶い起して、婚約中の男女の初旅にしては主人はあまりに甘くない舞台を選んだものだと私は少しおびえながら主人のあとについて行った。
 主人はときどき立停まって「これどきなさい」と洋傘で弾ねている。大きながまが横腹の辺に朽葉を貼りつけて眼の先にうずくまっている。私は脅えの中にも主人がこの旧峠道にかかってから別人のように快活になって顔も生々して来たのに気付かないわけには行かなかった。洋傘を振り腕を拡げて手に触れる熊笹をむしって行く。それは少年のような身軽さでもあり、自分の持地に入った園主のような気儘きままさでもある。そしてときどき私に
「いいでしょう、東海道は」
 と同感を強いた。私は
「まあね」と答えるより仕方がなかった。
 ふと、私は古典に浸る人間には、どこかその中からロマンチックなものを求める本能があるのではあるまいかなど考えた。あんまり突如として入った別天地に私は草臥くたびれるのも忘れて、ただ、せっせと主人について歩いて行くうちどのくらいたったか、ここが峠だという展望のある平地へ出て、家が二三軒ある。
十団子とおだごも小粒になりぬ秋の風という許六きょろくの句にあるその十団子とおだんごを、もとこの辺で売ってたのだが」
 主人はそう言いながら、一軒の駄菓子ものを並べて草鞋わらじなど吊ってある店先へ私を休ませた。
 私たちがおかみさんの運んで来た渋茶を飲んでいると、古障子を開けて呉絽ごろの羽織を着た中老の男が出て来て声をかけた。
「いよう、珍らしいところで逢った」
「や、作楽井さくらいさんか、まだこの辺にいたのかね。もっとも、さっき丸子では峠にかかっているとは聞いたが」
 と主人はこたえる。

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