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綺堂むかし語り(きどうむかしがたり)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-8-27 9:05:51  点击:  切换到繁體中文



旧東京の歳晩


 昔と云っても、遠い江戸時代のことはわたしも知らない。ここでいう昔は、わたし自身が目撃した明治十年ごろから三十年頃にわたる昔のことである。そのつもりで読んで貰いたい。
 その頃のむかしに比べると、最近の東京がいちじるしく膨脹ぼうちょうし、いちじるしく繁昌して来たことは云うまでもない。その繁昌につれて、東京というものの色彩もまたいちじるしく華やかになった。家の作り方、ことに商店の看牌かんばんや店飾りのたぐいが、今と昔とはほとんど比較にならないほどに華やかになった。勿論、一歩あやまって俗悪に陥ったような点もみえるが、いずれにしても賑やかになったのは素晴らしいものである。今から思うと、その昔の商店などは何商売にかかわらず、いずれも甚だ質素な陰気なもので、大きな店ほど何だか薄暗いような、陰気な店構えをしているのが多かった。大通りの町々と云っても、平日へいじつは寂しいもので――その当時は相当に賑やかいと思っていたのであるが――人通りもまた少なかった。
 それが年末から春初にかけては、俄かに景気づいて繁昌する。平日がさびしいだけに、その繁昌がひどく眼に立って、いかにも歳の暮れらしい、忙がしい気分や、または正月らしい浮いた気分を誘い出すのであった。今日こんにちのように平日から絶えず賑わっていると、歳の暮れも正月も余りいちじるしい相違はみえないが、くどくも云う通り、ふだんが寝入っているだけに、暮れの十五、六日頃から正月の十五、六日まで約一ヵ月のあいだは、まったく世界が眼ざめて来たように感じられたものである。
 今日のように各町内連合の年末大売出しなどというものはない。楽隊ではやしし立てるようなこともない。大福引きで箪笥や座蒲団をくれたり、商品券をくれたりするようなこともない。しかし二十日はつか過ぎになると、各商店では思い思いに商品を店いっぱいに列べたり、往来までみ出すように積みかさねたりする。景気づけにほおずき提灯をかけるのもある。福引きのような大当りはないが、大抵の店では買物相当のお景物をくれることになっているので、その景品をこれ見よとばかりに積み飾って置く。それがまた馬鹿に景気のいいもので、それにかされると云うわけでもあるまいが、買手がぞろぞろと繋がってはいる。その混雑は実におびただしいものであった。
 それらの商店のうちでも、絵草紙屋――これが最も東京の歳晩をいろどるもので、東京に育った私たちに取っては生涯忘れ得ない思い出の一つである。絵草紙屋は歳の暮れにかぎられた商売ではないが、どうしても歳の暮れに無くてはならない商売である事を知らなければならない。錦絵の板元はんもとでは正月を当て込みにいろいろの新版を刷り出して、小売りの絵草紙屋の店先を美しく飾るのが習いで、一枚絵もある、二枚つづきもある、三枚つづきもある。各劇場の春狂言が早くきまっている時には、先廻りをして三枚つづきの似顔絵を出すこともある。そのほかにいろいろの双六すごろくも絵草紙屋の店先にかけられる。そのなかには年々歳々おなじ版をかさねているような、例のいろは短歌や道中双六すごろくのたぐいもあるが、何か工夫して新しいものを作り出すことになっているので、武者絵むしゃえ双六、名所双六、お化け双六、歌舞伎双六のたぐい、主題はおなじでも画面の違ったものを撰んで作る。ことに歌舞伎双六は羽子板とおなじように、大抵はその年の当り狂言を撰むことになっていて、人物はすべて俳優やくしゃの似顔であること勿論である。その双六だけでも十種、二十種の多きに達して、それらが上に下に右に左に掛け連ねられて、師走の風に軽くそよいでいる。しかもみな彩色さいしきの新版であるから、いわゆる千紫万紅せんしばんこう絢爛けんらんをきわめたもので、眼もあやというのはまったく此の事であった。
 女子供は勿論、大抵の男でもよくよくの忙がしい人でないかぎりは、おのずとそれに吸い寄せられて、店先に足を停めるのも無理はなかった。絵草紙屋では歌がるたも売る、十六むさしも売る、福笑いも売る、正月の室内の遊び道具はほとんどみなここに備わっていると云うわけであるから、子供のある人にかぎらず、歳晩年始の贈り物を求めるために絵草紙屋の前に立つ人は、朝から晩まで絶え間がなかった。わたしは子供の時に、麹町から神田、日本橋、京橋、それからそれへと絵草紙屋を見てあるいて、とうとうしばまで行ったことがあった。
 としいちを観ないでも、餅搗もちつきや煤掃すすはきの音を聞かないでも、ふところ手をして絵草紙屋の前に立ちさえすれば、春の来るらしい気分は十分に味わうことが出来たのである。江戸以来の名物たる錦絵がほろびたと云うのは惜しむべきことに相違ないが、わたしは歳晩のちまたを行くたびに特にその感を深うするもので、いかに連合大売出しが旗や提灯で飾り立てても、楽隊や蓄音器で囃し立てても、わたしをして一種寂寥の感を覚えしめるのは、東京市中にかの絵草紙屋の店を見いだし得ないためであるらしい。
 歳晩の寄席――これにも思い出がある。いつの頃から絶えたか知らないが、昔は所々の寄席に大景物だいけいぶつということがあった。十二月の下席しもせきは大抵休業で、かみ十五日もあまりよい芸人は出席しなかったらしい。そこで、第二流どころの芸人の出席する寄席では、客を寄せる手段として景物を出すのである。
 中入りになった時に、いろいろの景品を高座に持ち出し、前座の芸人が客席をまわって、めいめいにくじを引かせてあるく。そうして、その籤の番号によって景品をくれるのであるが、そのなかには空くじもたくさんある。あたったものには、安物の羽子板や、紙鳶や、羽根や、菓子の袋などをくれる。箒やりこ木や、鉄瓶や、提灯や、小桶や、薪や、炭俵や、火鉢などもある。安物があたった時は仔細ないが、すこしいい物をひき当てた場合には、空くじの連中がねたみ半分に声をそろえて、「やってしまえ、やってしまえ。」と呶鳴どなる。自分がそれを持ち帰らずに、高座の芸人にやってしまえと云うのである。そう云われて躊躇ちゅうちょしていると、芸人たちの方では如才なくお辞儀をして、「どうもありがとうございます。」と、早々にその景品を片付けてしまうので、折角いい籤をひき当てても結局有名無実に終ることが多い。それを見越して、たくさんの景品のうちにはいかさま物もならべてある。羊羹ようかんとみせかけて、実は拍子木を紙につつんだたぐいの物が幾らもあるなどと云うが、まさかそうでもなかったらしい。
 わたしも十一の歳のくれに、麹町の万よしという寄席で紙鳶をひき当てたことを覚えている。それは二枚半で、龍という字凧であった。わたしは喜んで高座の前へ受取りにゆくと、客席のなかで例の「やってしまえ。」を呶鳴るものが五、六人ある。わたしも負けない気になって、「子供が紙鳶を取って、やってしまう奴があるものか。」と、大きな声で呶鳴りかえすと、大勢の客が一度に笑い出した。高座の芸人たちも笑った。ともかくも無事に、その紙鳶を受取って元の席に戻ってくると、なぜそんな詰まらないことを云うのだと、一緒に行っていた母や姉に叱られた。その紙鳶はよくよく私に縁が無かったとみえて、あくる年の正月二日に初めてそれを揚げに出ると、たちまちに糸が切れて飛んでしまった。
 近年は春秋二季の大掃除というものがあるので――これは明治三十二年の秋から始まったように記憶している。――特に煤掃すすはきをする家は稀であるらしいが、その頃はどこの家でも十二月にはいって煤掃きをする。手廻しのいい家は月初めに片付けてしまうが、もうかぞという二十日過ぎになってトントンバタバタとほこりを掃き立てている家がたくさんある。商店などは昼間の商売が忙がしいので、日がくれてから提灯をつけて煤掃きに取りかかるのもある。なにしろ戸々ここで思い思いに掃き立てるのであるから、その都度つどに近所となりの迷惑は思いやられるが、お互いのこととあきらめて別に苦情もなかったらしい。
 江戸時代には十二月十三日と大抵きまっていたのを、維新後にはその慣例がくずれてしまったので、お互いに迷惑しなければならないなどと、老人たちはつぶやいていた。
 もう一つの近所迷惑は、かの餅搗きであった。米屋や菓子屋で餅を搗くのは商売としてむを得ないが、そのころには俗にひきずり餅というのが行なわれた。搗屋がうすかまの諸道具を車につんで来て、家々の門内や店先で餅を搗くのである。これは依頼者の方であらかじめ糯米もちごめを買い込んでおくので、米屋や菓子屋にあつらえるよりも経済であると云うのと、また一面には世間に対する一種の見栄もあったらしい。又なんという理窟もなしに、代々の習慣でかならず自分の家で搗かせることにしているのもあったらしい。勿諭、この搗屋も大勢あったには相違ないが、それでも幾人か一組になって、一日に幾ヵ所も掛いて廻るのであるから、夜のあけないうちから押し掛けて来る。そうして、幾臼かの餅を搗いて、祝儀を貰って、それからそれへと移ってゆくので、遅いところへ来るのは夜更よふけにもなる。なにしろ大勢がわいわい云って餅を搗き立てるのであるから、近所となりに取っては安眠妨害である。殊に釜の火をさかんにくので、風のふく夜などは危険でもある。しかしこれにいても近所から苦情が出たという噂も聞かなかった。
 運が悪いと、ゆうべは夜ふけまで隣りのきねの音にさわがされ、今朝は暗いうちから向うの杵の音に又おどろかされると云うようなこともあるが、これも一年一度の歳の暮れだから仕方がないと覚悟していたらしい。現にわたしなども霜夜の枕にひびく餅の音を聴きながら、やがて来る春のたのしみを夢みたもので――有明ありあけ晦日みそかに近し餅の音――こうした俳句のおもむきは到るところに残っていた。
 冬至とうじ柚湯ゆずゆ――これは今も絶えないが、そのころは物価がやすいので、風呂のなかには柚がたくさんに浮かんでいるばかりか、心安い人々には別に二つ三つぐらいの新しい柚の実をくれたくらいである。それを切って酒にひたして、ひび薬にすると云って、みんなが喜んで貰って帰った。なんと云っても、むかしは万事が鷹揚おうようであったから、今日のように柚湯とは名ばかりで、風呂じゅうをさがし廻ってわずかに三つか四つの柚を見つけ出すのとは雲泥うんでいの相違であった。
 冬至の日から獅子舞が来る。その囃子の音を聴きながら柚湯のなかに浸っているのも、歳の暮れのせわしいあいだに何となく春らしいのびやかな気分を誘い出すものであった。
 わたしはこういう悠長な時代に生まれて、悠長な時代に育って来たのである。今日のはげしい、目まぐるしい世のなかに堪えられないのも無理はない。

(大正1312「女性」)

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新旧東京雑題


     祭礼

 東京でいちじるしくすたれたものは祭礼まつりである。江戸以来の三大祭りといえば、麹町の山王さんのう、神田の明神みょうじん深川ふかがわの八幡として、ほとんど日本国じゅうに知られていたのであるが、その祭礼はむかしの姿をとどめないほどに衰えてしまった。たとい東京に生まれたといっても、二十代はもちろん、三十代の人では、ほんとうの祭礼らしいものを見た者はあるまい。それほどの遠い昔から、東京の祭礼は衰えてしまったのである。
 震災以後は格別、その以前には型ばかりの祭礼を行なわないでもなかったが、それは文字通りの「型ばかり」で、軒提灯に花山車はなだしぐらいにとどまっていた。その花山車も各町内からき出すというわけではなく、氏子うじこの町々も大体においてひっそり閑としていて、いわゆる天下祭りなどという素晴らしい威勢はどこにも見いだされなかった。
 わたしの記憶しているところでは、神田の祭礼は明治十七年の九月が名残なごりで、その時には祭礼番附が出来た。その祭礼ちゅうに九月十五日の大風雨おおあらしがあって、東京府下だけでも丸つぶれ千八十戸、半つぶれ二千二百二十五戸という大被害で、神田の山車小屋などもみな吹き倒された。それでも土地柄だけに、その後も隔年の大祭を怠らなかったが、その繁昌は遂に十七年度の昔をくり返すに至らず、いつとはなしに型ばかりのものになってしまった。
 山王の祭礼は三大祭りの王たるもので、氏子の範囲も麹町、四谷、京橋、日本橋にわたって、山の手と下町の中心地区を併合しているので、江戸の祭礼のうちでも最も華麗をきわめたのである。わたしは子供のときから麹町に育って、氏子の一人であったために、この祭礼を最もよく知っているが、これは明治二十年六月の大祭を名残りとして、その後はいちじるしく衰えた。近年は神田よりも寂しいくらいである。
 深川の八幡はわたしの家から遠いので、詳しいことを知らないが、これも明治二十五年の八月あたりが名残りであったらしく、その後に深川の祭礼が賑やかに出来たという噂を聞かないようである。ここは山車や踊り屋台よりも各町内の神輿みこしが名物で、俗に神輿祭りと呼ばれ、いろいろの由緒つきの神輿が江戸の昔からたくさんに保存されていたのであるが、先年の震災で大かた焼亡しょうもうしたことと察せられる。
 そういうわけで、明治時代の中ごろから東京には祭礼らしい祭礼はないといってよい。明治の末期や大正時代における型ばかりの祭礼を見たのでは、とても昔日せきじつの壮観を想像することは出来ない。京の祇園会ぎおんえ大阪おおさか天満てんま祭りは今日どうなっているか知らないが、東京の祭礼は実際においてほろびてしまった。しょせん再興はおぼつかない。

     湯屋

 湯屋を風呂屋という人が多くなっただけでも、東京の湯屋の変遷が知られる。三馬さんばの作に「浮世風呂」の名があっても、それは書物の題号であるからで、それを口にする場合には銭湯せんとうとか湯屋ゆうやとかいうのが普通で、元禄げんろくのむかしは知らず、文化文政ぶんかぶんせいから明治に至るまで、東京の人間は風呂屋などと云う者を田舎者として笑ったのである。それが今日では反対になって来たらしい。
 湯屋の二階はいつ頃まで残っていたか、わたしにも正確の記憶がないが、明治二十年、東京の湯屋に対して種々のむずかしい規則が発布されてから、おそらくそれと同時に禁止されたのであろう。わたしの子供のときには大抵の湯屋に二階があって、そこには若い女が控えていて、二階にあがった客はそこで新聞をよみ、将棋をさし、ラムネをのみ、麦湯を飲んだりしたのである。それを禁じられたのは無論風俗上の取締りから来たのであるが、たといその取締りがなくても、カフェーやミルクホールの繁昌する時代になっては、とうてい存続すべき性質のものではあるまい。しかし、湯あがりに茶を一ぱい飲むのも悪くはない。湯屋のとなりに軽便な喫茶店を設けたらば、相当に繁昌するであろうと思われるが、東京ではまだそんなことを企てたのはないようである。
 五月節句の菖蒲しょうぶ湯、土用のうちのもも湯、冬至のゆず湯――そのなかで桃湯は早くすたれた。暑中に桃の葉を沸かした湯にはいると、虫に食われないとか云うのであったが、客が喜ばないのか、湯屋の方で割に合わないのか、いつとはなしにめられてしまったので、今の若い人は桃湯を知らない。菖蒲湯も柚湯も型ばかりになってしまって、これもやがては止められることであろう。
 むかしは菖蒲湯または柚湯の日には、湯屋の番台に三方さんぼうが据えてあって、客の方では「おひねり」と唱え、湯銭を半紙にひねって三方の上に置いてゆく。もちろん、規定の湯銭よりも幾分か余計につつむのである。ところが、近年はそのふうがやんで、菖蒲湯や柚湯の日でも誰もおひねりを置いてゆく者がない。湯屋の方でも三方を出さなくなった。そうなると、湯屋に取っては菖蒲や柚代だけが全然損失にするわけになるので、どこの湯屋でもたくさんの菖蒲や柚を入れない。甚だしいのになると、風呂から外へ持ち出されないように、菖蒲をたばねて縄でくくりつけるのもある。柚の実を麻袋に入れてつないで置くのもある。こんな殺風景なことをする程ならば、いっそ桃湯同様に廃止した方がよさそうである。
 朝湯は江戸以来の名物で、東京の人間は朝湯のない土地には住めないなどと威張ったものであるが、その自慢の朝湯も大正八年の十月から一斉に廃止となった。早朝から風呂を焚いては湯屋の経済が立たないと云うのである。しかし客からの苦情があるので、近年あさ湯を復活したところもあるが、それは極めて少数で、大体においては午後一時ごろに行ってもまだ本当に沸いていないというのが通例になってしまった。
 江戸っ子はさんざんであるが、どうも仕方がない。朝湯は十銭取ったらよかろうなどと云う説もあるが、これも実行されそうもない。

     そば屋

 そば屋は昔よりもいちじるしく綺麗になった。どういうわけか知らないが、湯屋と蕎麦そば屋とその歩調をおなじくするもので、湯銭があがれば蕎麦の代もあがり、蕎麦の代が下がれば湯屋も下がるということになっていたが、近年は湯銭の五銭に対して蕎麦のもりかけは十銭という倍額になった。もっとも、湯屋の方は公衆の衛生問題という見地から、警視庁でその値あげを許可しないのである。
 私たちの書生時代には、東京じゅうで有名の幾軒を除いては、どこの蕎麦屋もみなきたないものであった。綺麗な蕎麦屋に蕎麦の旨いのは少ない、旨い蕎麦を食いたければ汚い家へゆけと昔から云い伝えたものであるが、その蕎麦屋がみな綺麗になった。そうして、大体においてまずくなった。まことに古人われをあざむかずである。山路愛山やまじあいざん氏が何かの雑誌に蕎麦のことを書いて、われわれの子供などは蕎麦は庖丁ほうちょうで切るものであると云うことを知らず、機械で切るものと心得て食っているとか云ったが、確かに機械切りの蕎麦は旨くないようである。そば切り庖丁などということばはいつか消滅するであろう。
 人間が贅沢になって来たせいか、近年はそば屋で種物たねものを食う人が非常に多くなった。それに応じて種物の種類もすこぶるえた。カレー南蛮などという不思議なものさえ現われた。ほんとうの蕎麦を味わうものは盛か掛を食うのが普通で、種物などを喜んで食うのは女子供であると云うことになっていたが、近年はそれが一変して、ぜにのない人間が盛・掛を食うと云うことになったらしい。種物では本当のそばの味はわからない。そば屋が蕎麦を吟味しなくなったのも当然である。
 地方の人が多くなった証拠として、饂飩うどんを食う客が多くなった。蕎麦屋は蕎麦を売るのが商売で、そば屋へ行って饂飩をくれなどと云うと、田舎者として笑われたものであるが、この頃は普通のそば屋ではみな饂飩を売る。阿亀おかめとか天ぷらとかいって注文すると、おそばでございますか、饂飩台でございますかと聞き返される場合が多い。黙っていれば蕎麦にきまっていると思うが、それでも念のために饂飩であるかないかを確かめる必要がある程に、饂飩を食う客が多くなったのである。
 かの鍋焼うどんなども江戸以来の売り物ではない。上方かみがたでは昔から夜なきうどんの名があったが、江戸は夜そば売りで、俗に風鈴ふうりんそばとか夜鷹よたかそばとか呼んでいたのである。鍋焼うどんが東京に入り込んで来たのは明治以後のことで、黙阿弥もくあみの「嶋鵆月白浪しまちどりつきのしらなみ」は明治十四年の作であるが、その招魂社しょうこんしゃ鳥居前の場で、堀の内まいりの男が夜そばを食いながら、以前とちがって夜鷹そばは売り手が少なくなって、その代りに鍋焼うどんが一年増しに多くなった、と話しているのを見ても知られる。その夜そば売りも今ではみな鍋焼うどんに変ってしまった。中にはシュウマイ屋に化けたのもある。
 そば屋では大正五、六年頃から天どんや親子どんぶりまでも売りはじめた。そば屋がうどんを売り、さらに飯までも売ることになったのである。こうなると、蕎麦のうまいまずいなどはいよいよ論じていられなくなる。

(昭和2・4「サンデー毎日」)

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ゆず湯


     一

 本日ゆず湯というビラを見ながら、わたしは急に春に近づいたような気分になって、いつもの湯屋の格子をくぐると、出あいがしらに建具屋のおじいさんが濡手拭ぬれてぬぐいひたいをふきながら出て来た。
「旦那、とくがとうとう死にましたよ。」
「徳さん……。左官屋の徳さんが……。」
「ええ、けさ死んだそうで、今あの書生さんから聞きましたから、これからすぐに行ってやろうと思っているんです。なにしろ、別に親類というようなものも無いんですから、みんなが寄りあつまって何とか始末してやらなけりゃあなりますまいよ。運のわるい男でしてね。」
 こんなことを云いながら、気の短いおじいさんは下駄を突っかけて、そそくさと出て行ってしまった。午後二時頃の銭湯は広々と明るかった。狭い庭には縁日で買って来たらしい大きい鉢の梅が、硝子戸ガラスど越しに白く見えた。
 着物をぬいで風呂場へゆくと、流しの板は白く乾いていて、あかるい風呂の隅には一人の若い男の頭がうしろ向きに浮いているだけであった。すき透るような新しい湯は風呂いっぱいにみなぎって、輪切りのゆずがあたたかい波にゆらゆらと流れていた。窓硝子を洩れる真昼の冬の日に照らされて、陽炎かげろうのように立ち迷う湯気のなかに、黄いろい木実このみの強い匂いがこもっているのもこころよかった。わたしはいい心持になって先ずからだを湿しめしていると、隅の方に浮いていた黒い頭がやがてくるりと振り向いた。
今日こんにちは。」
「押し詰まってお天気で結構です。」と、私も挨拶した。
 彼は近所の山口やまぐちという医師の薬局生であった。わたしと別に懇意でもないが、湯屋なじみで普通の挨拶だけはするのであった。建具屋のおじいさんが書生さんと云ったのはこの男で、左官屋の徳さんはおそらく山口医師の診察を受けていたのであろうと私は推量した。
「左官屋の徳さんが死んだそうですね。」と、わたしもやがて風呂にはいって、少し熱い湯に顔をしかめながらいた。
「ええ、けさ七時頃に……。」
「あなたのところの先生に療治して貰っていたんですか。」
「そうです。慢性の腎臓炎でした。わたしのところへ診察を受けに来たのは先月からでしたが、何でもよっぽど前から悪かったらしいんですね。先生も最初からむずかしいと云っていたんですが、おととい頃から急に悪くなりました。」
「そうですか。気の毒でしたね。」
「なにしろ、気の毒でしたよ。」
 鸚鵡おうむ返しにこんな挨拶をしながら、薬局生はうずたかい柚を掻きわけて流し場へ出た。それから水船みずぶねのそばへたくさんの小桶をならべて、真赤まっかゆでられた胸や手足を石鹸の白い泡に埋めていた。それを見るともなしに眺めながら、わたしはまだ風呂のなかにひたっていた。
 表には師走しわすの町らしい人の足音が忙がしそうにきこえた。冬至とうじの獅子舞の囃子の音も遠くひびいた。ふと眼をあげて硝子窓の外をうかがうと、細い路地を隔てた隣りの土蔵の白壁のうえに冬の空は青々と高く晴れて、下界のいそがしい世の中を知らないように鳶が一羽ゆるく舞っているのが見えた。こういう場合、わたしはいつものんびりした心持になって、何だかぼんやりと薄ら眠くなるのが習いであったが、きょうはなぜか落ちついた気分になれなかった。徳さんの死ということが、私の頭をいろいろに動かしているのであった。
「それにしても、お玉さんはどうしているだろう。」
 わたしは徳さんの死からいて、その妹のお玉さんの悲しい身の上をも考えさせられた。
 お玉さんは親代々の江戸っ児で、阿父おとっさんは立派な左官の棟梁とうりょう株であったと聞いている。昔はどこに住んでいたか知らないが、わたしが麹町の元園町に引っ越して来た時には、お玉さんは町内のあまり広くもない路地の角に住んでいた。わたしの父はその路地の奥のあき地に平家ひらやを新築して移った。お玉さんの家は二階家で、東の往来にむかった格子作りであった。あらい格子の中は広い土間になっていて、そこには漆喰しっくいの俵や土舟つちぶねなどが横たわっていた。住居の窓は路地のなかの南にむかっていて、住居につづく台所のまえは南から西へ折りまわした板塀に囲まれていた。塀のうちには小さい物置と四、五坪の狭い庭があって、庭には柿や桃や八つ手のたぐいが押しかぶさるように繁り合っていた。いずれも庭不相当の大木であった。二階はどうなっているか知らないが、わたしの記憶しているところでは、一度も東向きの窓を明けたことはなかった。北隣りには雇い人の口入屋くちいれやがあった。どういうわけか、お玉さんのうちとその口入屋とはひどく仲が悪くって、いつも喧嘩が絶えなかった。
 わたしが引っ越して来た頃には、お玉さんの阿父さんという人はもう生きていなかった。阿母おっかさんと兄の徳さんとお玉さんと、水入らずの三人暮らしであった。
 阿母さんの名は知らないが、年の頃は五十ぐらいで、色の白い、痩形で背のたかい、若いときには先ずい女の部であったらしく思われる人であった。徳さんは二十四、五で、顔付きもからだの格好も阿母さんに生き写しであったが、男としては少し小柄の方であった。それに引きかえて妹のお玉さんは、眼鼻立ちこそ兄さんにているが、むしろ兄さんよりも大柄の女で、平べったい顔と厚ぼったい肉とをもっていた。年は二十歳はたちぐらいで、いつも銀杏がえしに髪を結って、うすく白粉おしろいをつけていた。
 となりの口入屋ばかりでなく、近所の人はすべてお玉さん一家に対してあまりいい感情をもっていないらしかった。お玉さん親子の方でも努めて近所との交際つきあいを避け、孤立の生活に甘んじているらしかった。阿母さんは非常に口やかましい人で、私たち子供仲間から左官屋の鬼婆と綽名あだなされていた。
 お玉さんの家の格子のまえには古風の天水桶があった。私たちがもしその天水桶のまわりに集まって、夏はぼうふらを探し、冬は氷をいじったりすると、阿母さんはたちまちに格子をあけて、「誰だい、いたずらするのは……」と、かみ付くように呶鳴りつけた。雨のふる日に路地をぬける人の傘が、お玉さんの家の羽目か塀にがさりとでもさわる音がすると、阿母さんはすぐに例の「誰だい」を浴びせかけた。わたしも学校のゆきかえりに、たびたびこの阿母さんから「誰だい」と叱られた。
 徳さんは若い職人に似合わず、無口で陰気な男であった。見かけは小粋な若い衆であったが、町内の祭りなどにも一切いっさいかかりあったことはなかった。その癖、内で一杯飲むと、阿母さんやお玉さんの三味線で清元や端唄はうたを歌ったりしていた。お玉さんがうちじゅうで一番陽気なたちらしく、近所の人をみればいつもにこにこ笑って挨拶していた。しかし阿母さんや兄さんがこういう風変りであるので、娘盛りのお玉さんにも親しい友達はなかったらしく、麹町通りの夜店をひやかしにゆくにも、平河天神の縁日に参詣するにも、お玉さんはいつも阿母さんと一緒に出あるいていた。時どきに阿母さんと連れ立って芝居や寄席へ行くこともあるらしかった。
 この一家はそろって綺麗好きであった。阿母さんは日に幾たびも格子のまえを掃いていた。お玉さんも毎日かいがいしく洗濯や張り物などをしていた。それで決して髪を乱していたこともなく、毎晩かならず近所の湯に行った。徳さんは朝と晩とに一日二度ずつ湯にはいった。
 徳さん自身は棟梁株ではなかったが、一人前の職人としては相当の腕をもっているので、別に生活に困るような風はみせなかった。お玉さんもいつも小綺麗ななりをしていた。近所の噂によると、お玉さんは一度よそへ縁付いて子供まで生んだが、なぜだか不縁になって帰って来たのだと云うことであった。そのせいか、私がお玉さんを知ってからもう三、四年も経っても、嫁にゆくような様子は見えなかった。お玉さんもだんだんに盛りを通り過ぎて、からだの幅のいよいよ広くなってくるのばかりが眼についた。
 そのうちに誰が云い出したのか知らないが、お玉さんには旦那があるという噂が立った。もちろん旦那らしい人の出入りする姿を見かけた者はなかった。お玉さんの方から泊まりにゆくのだと、ほんとうらしく吹聴ふいちょうする者もあった。その旦那は異人さんだなどと云う者もあった。しかしそれには、どれも確かな証拠はなかった。このしからぬ噂がお玉さん一家の耳にも響いたらしく、その後のお玉さんの様子はがらりと変って、買物にでも出るほかには、滅多にその姿を世間へ見せないようになった。近所の人たちに逢ってもすげなく顔をそむけて、今までのようなにこにこした笑い顔を見せなくなった。三味線の音もちっとも聞かせなくなった。
 なんでもその明くる年のことと記憶している。日枝ひえ神社の本祭りで、この町内では踊り屋台を出した。しかし町内には踊る子が揃わないので、誰かの発議でそのころ牛込うしごめ赤城下あかぎしたにあった赤城座という小芝居の俳優やくしゃを雇うことになった。俳優はみんな十五、六の子供で、嵯峨さが御室おむろの花盛り……の光国と瀧夜叉たきやしゃと御注進の三人が引抜いてどんつくの踊りになるのであった。この年の夏は陽気がおくれて、六月なかばでも若い衆たちの中形ちゅうがたのお揃い着がうすら寒そうにみえた。宵宮よみやの十四日には夕方から霧のような細かい雨が花笠の上にしとしとと降って来た。
 踊り屋台は湿れながら町内を練り廻った。囃子の音が浮いてきこえた。屋台の軒にも牡丹ぼたんのような紅い提灯がゆらめいて、「それおぼえてか君様きみさまの、袴も春のおぼろ染……」瀧夜叉がしどけない細紐しごきをしゃんと結んで少しく胸をそらしたときに、往来を真黒まっくろにうずめている見物の雨傘が一度にゆらいだ。
「うまいねえ。」
「上手だねえ。」
「そりゃほんとの役者だもの。」
 こんなことばがそこにもここにもささやかれた。
 お玉さんの家の人たちも格子のまえに立って、同じくこの踊り屋台を見物していたが、お玉さんの阿母さんはさも情けないと云うように顔をしかめて、誰に云うともなしに舌打ちしながら小声で罵った。
「なんだろう、こんな小穢こぎたないものを……。芸は下手でも上手でも、お祭りには町内の娘さん達が踊るもんだ。こんな乞食芝居みたいなものを何処どっからか引っ張って来やあがって、お祭りも無いもんだ。ああ、いやだ、忌だ。長生きはしたくない。」
 こう云って阿母さんは内へついと引っ込んでしまった。お玉さんも徳さんもつづいてはいってしまった。
「鬼婆ァめ、お株を云ってやあがる。長生きがしたくなければ、早くくたばってしまえ。」と、花笠をかぶった一人が罵った。
 それがしんをなしたわけでもあるまいが、阿母さんはその年の秋からどっと寝付いた。その頃には庭の大きい柿の実もだんだんあからんで、近所のいたずら小僧が塀越しに竹竿を突っ込むこともあったが、阿母さんは例の「誰だい」を呶鳴る元気もなかった。そうして、十一月の初めにはもう白木の棺にはいってしまった。さすがに見ぬ顔もできないので、葬式には近所の人が五、六人見送った。おなじ仲間の職人も十人ばかり来た。寺は四谷の小さい寺であったが、葬儀の案外立派であったのには、みんなもおどろかされた。当日の会葬者一同には白強飯しろこわめし煮染にしめの弁当が出た。三十五日には見事な米饅頭よねまんじゅうと麦饅頭との蒸物むしものに茶を添えて近所に配った。
 万事が案外によく行きとどいているので、近所の人たちも少し気の毒になったのと、もう一つは口やかましい阿母さんがいなくなったと云うのが動機になって、以前よりは打ち解けて附き合おうとする人も出来たが、なぜかそれも長くつづかなかった。三月みつき半年と経つうちに、近所の人はだんだんに遠退とおのいてしまって、お玉さんの兄妹きょうだいは再び元のさびしい孤立のすがたに立ち帰った。
 それでも或る世話好きの人がお玉さんに嫁入りさきを媒妁しようと、わざわざ親切に相談にゆくと、お玉さんは切り口上でことわった。
「どうせ異人のめかけだなんて云われた者を、どこでも貰って下さる方はありますまい。」
 その人も取り付く島がないので引き退がった。これにりて誰もその後は縁談などを云い込む人はなかった。
 詳しく調べたならば、その当時まだほかにもいろいろの出来事があったかも知れないが、学校時代のわたしはうした問題に就いてあまり多くの興味をもっていなかったので、別に穿索せんさくもしなかった。むかしのお玉さん一家に関して、わたしの幼い記憶に残っているのは先ずこのくらいのことに過ぎなかった。
 こんなことをそれからそれへと手繰り出して考えながら、わたしはいつの間にか流し場へ出て、半分は浮わの空で顔や手足を洗っていた。石鹸の泡が眼にしみたのに驚いて、わたしは水で顔を洗った。それから風呂へはいって、再び柚湯に浸っていると、薬局生もあとからはいって来た。そうして、又こんなことを話しかけた。
「あの徳さんという人は、まあ行き倒れのように死んだんですね。」
「行き倒れ……。」と、わたしは又おどろいた。
「病気が重くなっても、相変らず自分の方から診察を受けにかよって来ていたんです。そこで今朝も家を出て、薬罐やかんをさげてよろよろと歩いてくると、床屋とこやの角の電信柱の前でもう歩けなくなったんでしょう、電信柱に寄り掛かってしばらく休んでいたかと思ううちに、急にぐたぐたとくずれるように倒れてしまったんです。床屋でもおどろいて、すぐに店へかかえ込んで、それから私のうちへ知らせて来たんですが、先生の行った頃にはもういけなくなっていたんです。」
 こんな話を聴かされて、私はいよいよ情けなくなって来た。折角の柚湯にもいい心持に浸っていることは出来なくなった。私はからだをなま拭きにして早々に揚がってしまった。

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