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両国の秋(りょうごくのあき)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-8-29 0:21:03  点击:  切换到繁體中文


     五

 お絹のおそろしい眼から逃れた林之助は、大川端(おおかわばた)まで来て初めてほっとした。十四日の大きい月はなかぞらに真ん丸く浮き上がって、その影をひたしている大川の波は銀(しろがね)を溶かしたように白くかがやきながら流れていた。長い橋の上には、雪駄(せった)の音もしないほどに夜露がしっとり[#「しっとり」に傍点]と冷たく降りていた。林之助はそのしめった夜露を踏んで急ぎ足に橋を渡って行った。
「門番のじじいにまた忌(いや)な顔をされるのか」
 そんなことを考えながら林之助は広小路へ出ると、列び茶屋でももう提灯をおろし始めたとみえて、どこの店でも床几を片づけていた。玉蜀黍(とうもろこし)や西瓜や枝豆の殻(から)が散らかっているなかを野良犬がうろうろさまよっていた。
「今晩は。今お帰りでございますか」
 自分の前をゆく若い女がふと振りむいて丁寧に挨拶したので、林之助も足を停めてよく見ると、女は不二屋のお里であった。
「やあ、今晩は。里(さあ)ちゃんの家(うち)はこっちへ行くの」
「ええ、外神田で……」
 向柳原へ帰る男と外神田へ帰る女とは、途中まで肩をならべて歩いた。お絹から思いもよらない疑いを受けている林之助は、こうして夜ふけにお里と繋がって歩いていることが何だか疚(やま)しいように思われてならなかった。しかし先方から馴れなれしく近寄って来るものを、まさかに置き去りにして逃げて行くほどの野暮(やぼ)にもなれなかった。二人は軽い冗談などを言いながら連れ立って歩いた。
「いいお月さまですことね」と、お里は明るい月をさも神々(こうごう)しいもののように仰いで見た。
「ほんとうにいい月だ。あしたのお月見はどこも賑やかいだろう。里ちゃんも船か高台か、いずれお約束があるだろうね」
「いいえ、家(うち)がやかましゅうござんすから」
 家がやかましいのか、本人の生まれ付きか、とにかくにお里が物堅い初心(うぶ)な娘であることは林之助も認めていた。彼はお絹の妖艶な顔と、お里の人形のような顔とを比較して考えた。執念ぶかそうな蛇の眼と、無邪気らしい鈴のような眼とを比較して考えた。そうして、なんにも知らずに人から呪われているお里が気の毒にも思われた。
 お絹は今夜自分を不二屋へ引き摺って行って、彼女の見る前でお里と手を切らせると言った。勿論、それは一時の言い懸りではあろうが、もし果たしてその通りに二人が不二屋へ押し掛けて行ったら、お里は一体どうするであろう。それを考えると、林之助はおかしくもあり、また気の毒でもあった。そのお里はなんにも知らずに自分と一緒にあるいている。人目には妬(ねた)ましく見えそうなこの姿を、お絹が見たらなんと思うであろう。林之助は自分のうしろから蛇の眼がじっと覗いているようにおののかれて、俄かにあたりを見まわすと、明るい月は頭の上から二人をみおろして、露の沁み込んだ大道の上に二つの影絵を描いていた。夜ももう更けているらしかった。
「いつも一人で帰るの」
「いいえ」
 列び茶屋の或る家に奉公しているお久(ひさ)という女がやはりお里の近所に住んでいるので、毎晩誘いあわせて一緒に帰ることにしていたが、きょうはその女が店を休んだので、お里は連れを失って寂しく帰る途中であった。彼女が顔馴染みの林之助に声をかけたのも、ひっきょうは帰り途のさびしいためであった。この頃、柳原の堤(どて)に辻斬りが出るという物騒な噂があるので、お里はそんなことを言い出して足がすくむほど顫(ふる)えていた。しかしそれは闇夜のことで、昼のように明るい月夜に辻斬りなどがめったに出るものではないと、林之助は力をつけるように言い聞かせた。向柳原へ帰る彼は、堤の中途から横に切れて、神田川を渡らなければならなかった。
「わたしはあっちへいくんだから、ここでお別れだ。まあ気を付けて……」
「はい。ありがとうございます」と、お里は頼りないような声で挨拶した。
 それが何となしに哀れを誘って、林之助はいっそ彼女の家まで一緒に送って行ってやろうかとも思ったが、自分も屋敷の門限を気遣っているので、このうえ道草を食っているわけにはいかなかった。そのままお里に別れて橋を渡り過ぎながらふと見かえると、堤の柳は夜風に白くなびいて、稲荷のやしろの大きい銀杏(いちょう)のこずえに月夜鴉(がらす)が啼いていた。白地の浴衣を着て俯向き勝ちに歩いてゆくお里のうしろ姿が、その柳の葉がくれに小さく見えた。
 五、六間もゆき過ぎたかと思うと、あずま下駄のあわただしい音が、うしろから林之助を追って来た。振り向いてみると、それはお里であった。彼女は林之助にわかれると急に寂しく心細くなったので、ちっとぐらい廻り路をしてもいいから、自分も柳原堤をまっすぐに行かずに、林之助と一緒に向柳原へまわって、それから外神田へ出ようというのであった。ふたりはまた一緒にあるき出した。
「しかし、向柳原まで来ちゃあ余程の廻り路になる。じゃあ、いっそわたしがお前の家まで送ってあげよう」と、林之助も見かねて言い出した。
 お里も初めは辞退していたが、しまいには男の言うことをきいて、外神田の家まで送って貰うことになった。月はいよいよ冴え渡って、人通りの少ない夜の町をさまよっているたった二人の若い男と若い女をあざやかに照らした。ふたりの肌と肌は夜露にぬれて、冷たいままに寄り添ってあるいた。あるく道々で、お里は自分の身の上などを少しばかり話し出した。
 お里は不二屋の娘ではなかった。不二屋の株を持っている婆さんはもう隠居して、日本橋の或る女が揚げ銭で店を借りている。お里はその女の遠縁に当るので、おととしの夏場から手伝いに頼まれて、外神田の自宅(うち)から毎晩かよっているが、内気の彼女は余りそんな稼業を好まない。自宅にはお徳という母があって、これも娘に浮いた稼業をさせることを好まないのであるが、幾らか稼いで貰わなければならない暮らしむきの都合もあるので、仕方がなしに娘を両国へ通わせている。七年前に死んだ惣領(そうりょう)の息子が今まで達者でいたらとは、母が明け暮れに繰り返す愚痴であった。
「よけいなお世話だが、早くしっかりした婿でも貰ったらよさそうなもんだが……」と、林之助は慰めるように言った。
「なんにも株家督(かぶかとく)があるじゃなし、なんでわたくしどものような貧乏人のところへ婿や養子に来る者があるもんですか」と、お里はさびしく笑った。「自分ひとりならば、いっそ堅気の御奉公にでも出ますけれど、母を見送らないうちはそうもまいりません」
 お里の声は湿(うる)んできこえたので、林之助はそっと横顔を覗いてみると、彼女は月の光りから顔をそむけて袖のさきで眼がしらを拭いているらしかった。おとなしい林之助の眼にはそれがいじらしく悲しく見えた。そうして、こういう哀れな娘を呪(のろ)っているお絹の狂人染みた妬みが腹立たしいようにも思われて来た。
 不二屋へ毎晩はいり込む客の八分通りは皆んなこのお里を的(まと)にしているのであるが、彼女がこうした悲しい寂しい思いに沈んでいることは恐らく夢にも知るまい。現に自分を誘ってゆく諸屋敷の若侍たちも「どうだ、いい旦那を世話してやろうか」などと時どきからかっている。自分も毒にならない程度の冗談をいっている。お里は丸い顔に可愛らしいえくぼをみせて、いい加減に相手になっている。
 それは茶屋女の習いと林之助も今まで何の注意も払わずにいたが、今夜は彼女の身の上話をしみじみと聞かされて、もううっかりと詰まらない冗談も言えないような気になって、林之助もおのずと真面目な話し相手にならなければならなくなった。
 二人の話し声はだんだんに沈んでいった。問われるに従ってお里はいろいろのことを打ち明けた。七年前に死んだ兄のほかには、ほとんど頼もしい身寄りもないと言った。不二屋のおかみさんも遠縁とはいえ、立ち入って面倒を見てくれるほどの親身(しんみ)の仲でもないと言った。母は賃仕事(ちんしごと)などをしていたが、それも病身で近頃はやめていると言った。お里の話は気の弱い林之助の胸に沁みるような悲しい頼りないことばかりであった。
 林之助は自分とならんでゆくお里の姿を今更のように見返った。紅(あか)いきれをかけた大きい島田髷(まげ)が重そうに彼女の頭をおさえて、ふさふさした前髪にはさまれた鼈甲(べっこう)の櫛やかんざしが夜露に白く光っていた。白地の浴衣(ゆかた)に、この頃はやる麻の葉絞りの紅い帯は、十八の娘をいよいよ初々(ういうい)しく見せた。林之助はもう一度お絹とくらべて考えた。お里はとかく俯向き勝ちに歩いているので、その白い横顔を覗くだけでは何となく物足らないように思われた。
「どうもありがとうございました。さぞ御迷惑でございましたろう」
 外神田まで送り付けて、路の角で別れるときにお里は繰り返して礼をいった。自分の家はこの横町の酒屋の裏だから、雨の降る日にでも遊びに来てくれと言った。それがひと通りのお世辞ばかりでもないように林之助の耳に甘くささやかれた。まんざらの野暮でもない林之助は阿母(おっかあ)に好きなものでも買ってやれといって、いくらかの金を渡して別れた。お里は貰った金を帯に挟んで、幾たびか見かえりながら月の下をたどって行った。
 お里に別れて林之助は肌寒くなった。夜もおいおいに更けて来るので、彼は向柳原へ急いで帰った。帰る途中でも、お絹とお里の顔がごっちゃになって彼の眼のさきにひらめいていた。
「お絹に済まない」
 お絹の眼を恐れている林之助は、お絹の心を憎もうとは思わなかった。彼は義理を知っていた。彼はお絹の濃(こま)やかな情を忘れることは出来なかった。お絹はとかく苛(いら)いらして、ややもすると途方もない気違い染みた真似をするのも去年の冬以来のことで、はっきり自分が彼女の家を立ち退いてからの煩らいである。現にきょうも舞台で倒れたという。林之助は近頃彼女のところへちっとも寄り付かなかった自分の不実らしい仕向けかたを悔まずにはいられなかった。無論、屋敷の御用も忙がしかった。友達のつきあいもあった。しかし無理に遣(や)り繰(く)ればどうにか間(ひま)のぬすめないこともなかった。
 ひとにむかって何と上手に言い訳をしようとも、自分の心にむかっては立派に言い訳することができないような、うしろ暗い自分の行ないを林之助は自分で咎めた。
 誰に水をさされたのか知らないが、お絹が飛んでもない疑いや妬みに心を狂わせるというのも、つまりは自分が無沙汰をかさねた結果である。世間には病気の女房をもっている夫もある。大あばたの女と仲よくしている男もある。うす気味の悪い蛇の眼を自分ばかりが恐れて嫌うのは間違っている。これからはまず自分の心を持ち直して、お絹のみだれ心を鎮める工夫をしなければならない。自分と、お絹と、蛇と、この三つは引き離すことの出来ない因果であると悟らなければならない。そうは思いきわめながらも、林之助がまつげの塵(ちり)ともいうべきは、かのお里の初々(ういうい)しいおとなしやかな顔かたちであった。それがなんとなしに彼の目さきを暗くして、お絹一人を一心に見つめていようとする彼のひとみの邪魔をした。
 屋敷の門前へ来て再び空を仰ぐと、月は遠い火の見櫓(やぐら)の上にかかって、その裾をひと刷毛(はけ)なすったような白い雲の影が薄く流れていた。こういう景色はよく絵にあると林之助は思った。

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