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小熊秀雄全集(おぐまひでおぜんしゅう)-16

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-8-29 7:05:35  点击:  切换到繁體中文


春陽会と国展
   ルオーの描写力の事など

    二つの会に就て

 展覧会や絵画団体とそこに出品してゐる作家との従属関係位、デリケートなものはない、斯ういふ作家を、こんな団体に所属させてをくことは惜しいと思ふことが随分ある、この作家をもつと進歩的なグループの中に住はせて、他の勉強家達をセリ合はしたら、隠れた才能がぐんぐんと現れさうな気がする時もある、
 恐ろしいのは環境の力である、春陽会にせよ、国展にせよ、こゝの静的な環境はどうにもならないものがある、突然の変化をもつて、新しい仕事をしようと気構へてゐる作家もあるだらう、然しさうした積極性をもたうとすると、ぐつとそれを後に引きつけるものがある筈だ。
 一体それはなんだらう、春陽会といふ一つの団体が身につけてゐる環境であり、脱れることのできない泥沼である。その意味で出品作家達個々の背負つてゐる社会的環境の性質を、かうして具体的に展覧会で見せてくれて貰へるといへる、独立展は観者の眼を痛くするための展覧会であるとすれば、春陽会国展は観者の眼を瞠らす展覧会である、こゝに出品してゐる作家に、私は芸術上の言葉、『平安』『秩序』『完成』『理性』『静観美』といつた性質の言葉が全部当てはまると思ふ、しかしこれらの合法則的な言葉を認めこれが作品に現れてゐるとすれば、これらのものの正反対の、『不安』『無秩序』『未完成』『感情』『動的美』といつた心理的過程を、これらの人々が真剣に通過してきて、これらのまとまつた温和な絵が出来たのかどうかを質問したい。
 描く対象に対する懐疑も、一応認められるが、なるべく混乱しない程度に懐疑するといふ限界内で止めてゐる、そこに春陽会、国展出品者に共通な、作画上の道徳律を発見する、他人の考へを騒がしてはいけないといふ良心性は、腹の底を割つてみれば、他人にも自分を騒がして貰ひたくないといふ報酬を求めてゐるだけである。
 そして私はこの両展覧会が不思議に、沈着いてみせてくれたといふ事に就いて、独立展其他の所謂前衛的展覧会が沈着いてみせてくれなかつたといふことと思ひ合はして、色々な意味で考へさせられた、人間の心理を掻き立てるだけを芸術的アッピールだと考へちがいをしてゐるらしい新しい傾向の画家と、とにかくじつくりと見せてくれた春陽会国展とどつちに感謝したらいゝかといふと、不思議なことに、新しい傾向の絵で胸を騒がして貰つたよりも、アカデミーと称し、クラシックといはれてゐる春陽会、国展の方に感謝してゐるといふ答がでた。
 宣伝、煽動を芸術行動の目的として認めなければならない、左翼的絵画でさへも、尚且つ必要以上に、絵をもつて宣伝、煽動をすることが誤りであらう、一つの条件としてまづ落着いて見せる――然る上に――といふのが正しいのである。
 その意味で、春陽会、国展の絵画の沈着き方が、必ずしも芸術の腰が抜けてゐるとは一口に言ひきれないものがある、要するに『激情的なものの価値の高さ』は時には円満な高さに於ても果たせるといふことが、問題として残つてゐる。
 それこそ高い意味での『完成性』といへるだらう、春陽会、国展は、その意味であくまで写実性に喰ひ下つてゆくといふ態度に、強味と弱味とを同時に備へてゐる、そして如何に今後仕事を進めて行つていゝか、問題は簡単だ、これらの矛盾は『写実性』を離脱したいといふ域内で解決してゆくことである。
 超写実をやりたかつたら、他の団体へ行くべきである、写実との格闘が『新しい芸術』を生むことが不可能などといふ不心得な作家はこの団体にはゐないと思ふが、新しい仕事が出来るかできないかは、写実性への喰ひ下りが徹底してゐるか、ゐないかに依つて決まるし、仕事の面白さはそこにこそある、超写実的な現実逃避の作家はこれから随分でるだらう、然しこの新しがり屋の仕事はものの二年とは続いたためしがないのである。
 さうした意味で春陽会、国展の作家はその手法の写実性が悪いのではなく、観念が古いのだといへよう、それを指導してゆく諸幹部また、新しいリアリズムに対する理解がおそろしく欠けてゐるといふことが、この団体を全般的に硬直化させてゐると思ふ。

    春陽会の評

△高木勇次氏――「切断」倉庫街での鉄材切断を描いてゐるが、物質を切断するといふことに対する鋭敏感は認められるがそのために描写法を鋭敏にしなければならないといふ考へ方が既に古いのである、新しい写実家は、そこのところを描法を感性的にせずに、四つに組んでゆくといふ点にある、テーマも良し、感覚も鋭いが、それだけでは駄目なのである。
△新沼杏一氏――『冬の夜』少女達が手芸をしてゐるらしい絵、ケンランたる色彩といふより、ケンランたる現象、我々の視覚をまどはすために仕組まれた絵。
△二見利次郎氏――『作業』の鈍重感は成功してゐる。
△小穴隆一氏――絵の仕上げの丁寧さ位よりとるべきものなし。
△木村荘八氏――『浅草元日』『幽霊せり出し』等の所謂氏の芝居絵である、幽霊せり出しはテーマは賛成だが、氏にして良くロートレックやドガのやうに、この種の社会を庶民的テーマとして引き下げる力があれば面白いが、芝居道の肯定者らしい態度が妙に美しいものより描けてゐない。
△中山一政氏――なんの感覚としての動きなく、これは器である左様、これは水である左様、といつた現実感が産ました絵。
△山田峯吉氏――『T画伯の像』は出色である若し氏にして天才主義者で、芸術至上主義者でなくてさうした画風を描いてゐる人であつたら充分新しい仕事が出来る人である。
△豊泉恵三氏――『婦人像』バックの色感は美しかつた。
△水谷清氏――『印度童女』滑稽な程立派な自信で描いてゐる。
△鳥海青児氏――『南薩山川港』右手の崖と見える色調に不思議なリアリティを発見する以外、こんなに絵の具を何のために盛上げるのか、所謂絵具の盛上の必然性が全くない、彼も遂にこの団体で朽ちるのかといふ感が深い惜しい作家である。
△石井鶴三氏――『常田獅子無』の屏風構図のとり方が洋画畑の人であるといふ意味で新しい形態がある、但し日本画家側から見たらまた意見が違ふ筈だ。
△若山為三氏――少女読書は線の稀薄性が却つて面白い効果をあげてゐる、いへばもつと線を稀薄にする勇気があれば尚面白し。
△山田義夫氏――意図や仕事のしつぷりが新しいが、残念なことには色彩が古い。
 春陽会に出品者は多い、他を評さないのは見落したのではない、問題を提出してゐないのだ、従つてこゝに評した人必ずしも佳作者ではない、良い意味と、悪い意味とのその何れかの問題の提出者であるといふ意味で評した。

    国画会の評

△長谷川春子氏――『ヴ※[#小書き片仮名ヰ、169-下-15]ナスの誕生』は色彩の神経だけをみるとき異色のある作家であることが判るが、をよそその形態のでたらめさは救ひ難いものがある。
△中村茂好氏――『友人』人物の顔の描法と、人物の服や椅子の描法の矛盾、最後まで描きぬかずも投げ出してゐる力弱さ、素朴な態度の良さはある。
△ブブノ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)氏――この絵は、版画的処理をこの油にまで持ち込んでゐるといふ意味で失敗作だらう、油を盛りあげた実力を拝見したい、※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)絵や版画にはすぐれた面をみせるが油では感心できない。
△宮田重雄氏――玄人芸に非ざれば、即ち素人芸なり、つまり絵画の両極性は一つの常識に帰する、何の変哲もなし。
△山下品蔵氏――『椿咲く村』(二)は大いに問題にしていゝ、ナイフの剥ぎとりの上に、更に描いて効果をあげてゆく業、ナイフ使ひの悪魔共、大いに氏を参考とすべし、この非凡な作家ママ時代は彼を殺すか噫。
△青山義雄氏――画品の良さは青山氏と山下氏とどつちが良いかといふ点では、山下氏をとる、フランス生活のお土産のやうな絵の人気と、氏の実質とは又別だらう、色感も古く、形態、構図をたくましく裁断してゆく度胸もなし、さりとて山下氏式に写実と運命を共にする素直さもなく、ここにも噫がある。『アマリリス』の色の混濁、壺とその下はいゝが、他人は『鹿児島風景』(一)が良いといふが、斯うした現象的な扱ひ方は何等新しい観方ではない、色など殊に『紫』などは東洋的で西洋的でもない。
△内堀勉氏――褒状をもらつてゐる、この新しがりに、褒状をくれる会の方針が判らぬ。
△椿貞雄氏――『黄富士』『赤富士』の無神経さがよい、もし神経を使つてゐるのだと作者が抗弁すると仮定したらではデティルが出てゐないぢやないかと反駁したい、部分的描写を無視して、あれだけ赤さ、黄さを表現する業はさすがである、あわてゝ色をかけた感じである。
△宮坂勝氏――『裸体』まづ見られる、人物の感情が良くでゝゐる、然しバックの調子をもつと落す度胸はない、一応は訴へる力をもつた作家だが、度胸なくて負けてゐる作家。
△別府貫一郎氏――『木曾川』の色の調子は自分のものをあれだけ手離さずに全体をまとめ得れば結構である、自分の個有の色を手離してしまつてゐる作家が更に多い、別府氏はその個性的な色を他人に開け渡してゐない強味がある。
△鈴木清氏――『自像』この絵はこれまで無理をしてまで絵を描かねばならないかと思はれる絵、それは絵の出来不出来ではなく、構図の上でゞある、高い所に鏡を置いて、それに自分を映し、自分が体を捻つて、上を仰いでは一筆描き一筆描きしたやうな絵。
△金井康次郎氏――『窓辺静物』(A)の簡略化は(B)とともに良し、調子は(B)の方向で進んだらよいと思ふ。
△東克巳氏――デッサンの裸体は端麗な線でリアリティをとどめようとしてゐる企てはよく判る。或る程度の成巧を見せてゐる、風景の細密描写の点ではこの人の右に出る人はあるまい、問題は描写の細かさではない、突込み方の態度の細かさで、態度の良心性がなければこの人の真似をしても出来るものではあるまい。
△佐藤哲三氏――『農婦』の色の同一性は問題であらう、現実には、どうしても一色にしてしまへないものがある、彼はそれを一色にする、環境には色などはない、環境をつくつてゐる、個々の具体的な物に色があるだけだ、環境とはこれらの綜合的な色の『答』へだ、この人のデッサンは見てゐて気持がよい、田舎にをくことは惜しい作家である、仕事が社会性がある(甚だ稀薄だが)あまりに社会性のない画家が多い折柄だから、この作家の農村をテーマにしたものを尊重したい気になる。
△武者小路実篤氏――『風景』『静物』何れもうまいものだ、素人だといはれてゐるが、会場を一巡して見落さないところを見るとその個性は玄人を凌いでゐる、作者は恥かしがらないで氏の平凡な人生観を平凡な絵にして行つたらいい。
△梅原龍三郎氏――『霧島』(一)を誰もほめる、そこで私は誰も褒めさうもない(二)を褒めてみる、どつちを褒めても同じだといふ意味で、人々の見落した側に、却つて作者の本質が露はれてゐる場合が多いからだ、画面の上下に物を描き、観る者の視覚を二つに分割させてから、第三にスーと真中に感覚を引つけてゆく手際の良さは、永年この路で苦労した、カラクリ師でなければ出来ない業だ、梅原氏は観る者を時間的デティルの上でピタリと押してゆく術を知つてゐる、それを知つてゐる人でなければ氏に反駁はできない、ただ蔭にまはつてガア/\言ふだけである。
△仰木ゲルトルード氏――『バラとカーネション』はいゝ神経である、然し日本人にはその佳さは理解されないだらう、殊に『ポトレー』の着物の色はヨーロッパ的理解であの色感の西洋的滋さといふものは、東洋人には理解困難なものである、この人の陰影のとりかたの明確性と作者の神経が細かいから少しも不自然でない、『冬の富士』は失敗作だらう。
△藤田太郎氏――『孔雀の見える窓』は、青山義雄ママに優るとも劣らない確かさがある、対象の理解の素直さ、色調の遊びが案外に少ない『金魚鉢』にまあ、まあ良しで『烏賊とほうぼう』は甚だ良ろしくない。
△平塚運一氏――(以下版画である)『日蓮岬』では波の停滞と動揺とを巧みに表現してゐてさすがである、岩の起伏も整つた上に変化があつて良かつた。
△棟方志功氏――『空海領』は戯画といふべきだらう、線の連絡の面白さをかふ。
△川西英氏――『新緑』は佳作。[#底本では「。」が欠如]
△ブブノ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)氏――木版画『神社裏』は神社といふ痲痺的な存在の裏に、庶民的な貧しい人間の小屋があるといふ適確な社会意識がでゝゐて優れてゐた『子を抱いてゐる海女』と海の薄明の下に働く女が子を抱いて歩るいてゐる哀愁感は充分画面に出てゐる。
 この種のものにはこの人は独特な創意性がある。
△恩地孝四郎氏――『海』海女の居ない方の小さな二枚の海は優れてゐる、若しこの調子の油を描き得たら面白さうだと思ふ。
△彫刻では――阿部進六氏の『少女の首』柳原義造氏の『立像』福沢正実氏の『モンノンクル』など私を注意させたきりで、彫刻工芸は私は良く判らないから書かない。

    ルオーに就て

 ルオーの公開数点はだめになつた、或る画家は国展はつまらないが、ルオーがあるから見に行くなどと公言したが大変な不心得だ、ルオーの良さが判つたら国展の良さが判る筈である、国展を真に悪くいふことの出来る人であつたら正確にルオーを悪くいへる筈である、なぜこんな謎のやうなことをいふか、簡潔に言へば、日本の洋画壇を沈滞させてゐるものは、ルオー的な現象主義的な観方が画家全般を掩つてゐるからである、国展的なリアリストは観念の硬さに閉ぢこもつて、ルオーを何か動きのある自由な作家の良さと観察する、一方独立展的な観念の柔らかさとふしだらさから、せめてルオー風に観念を定着させたいものだといふ希望をもつて、ルオーの絵の前に頭を垂れてゐる、ルオーはこれらの非リアリスト達にカンバスの裏表から挾み撃になつた型で騒がれてゐる。
 ルオーの描法を解く鍵は出品のうちの『サンタンバンク』である、こゝではお汁でベタ柔らかな自由性で描いてゐる其他の絵はこれにただ幾度も重ねるといふ時間を掛けただけだ、ただ日本人はそれではルオーのやうに何べんも重ねたらルオーのやうな絵が出来るかといふと保証ができない、何故といふに、日本人はルオーのやうに画面の処理を浅く全面的にまとめることができるが、深く全面的な完成性を追究してゆく力がないから、画面に大きな欠点を作つて、手を入れることに依つて大きく完成させてゆくといふこの時間的繰り返しの、精神的エネルギーがない、なんでも完成、完成である、短距離には強いが、長距離には怪しいのである、ルオーの現象主義的方法が、その方法の誤りであるに拘はらず、あれだけの物質性を出してゐる理由はあの作画方法の偶然性が果す最後的な効果といふものを、ルオー自身ちやんと知つてゐるからである。
 日本にも偶然的なやり方で効果をねらつてゐる画家も少くないが、この偶然的方法の反覆をルオー程に頑張つてやるでもなし、やつたとしてもこれらの偶然性が、一つの必然性に転化した途端の瞬間的な把握力を作者自身がもたないから、だらしなく無駄な偶然性を追ひ廻すだけである。そして結局何も出来上らないのである、ルオーは怖るべき作家でも何でもない、作画方法は見え透いてゐる、もつとも現象的にルオーの画面の上つ面だと見るとすれば、日本の低度の現象主義者は、高度の現象主義者ルオーを理解できないことではあるが。
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革新の日本画展


    新日本画研究会展の評

 酒井亜人氏――『冬丘』絵の仕上げが粗雑なやうだ。筆触が大まかだが、それは日本画としてデテールを欠き、洋画風なマッスを作りあげようとしてゐるが無駄だらう。日本画の強みは細密に打ちこんだ点にあるがそれを逸脱してゐる、山岡良文氏――『煙具』色の近代性を覗つてゐるのは良い、煙草包紙の実物を貼りつけるやり方は甘い、実物を画に貼りつけるといふやり方などは第五流の洋画家に委してをいたらいゝ。『花束』白い牡丹の色の神経は美しい。西垣籌氏――『小供』色彩の混濁を避けようとして、避けきれなかつた、もつと猛烈な追求をやつて単純化に復したらよかつた。この人の作は色彩が一見幼稚さうに見えて決してさうでないところに味がある。岩橋英遠氏――『土』(ニ)非常にママ能的でタケノコの描き方など作者の感覚を美事に出してゐた、素朴なテーマを複雑に描くやり方は、とかく日本画では複雑なテーマを単純化したがる一方的なやり方を脱してゐる。島田良助氏――『夏蔭』度胸のある作家だ、度胸で負けるか、度胸で勝つかは芸術家の運命の決まるところだらう。白の色も特異性がある、木の幹の色、描き方は古い。ツツジ色の甘さは美しい。吉岡堅二氏――『馬』制約性の下で仕事をすゝめてゐる。つまり自己を繋ぐ方法を自分で作つて仕事をしてゐる態度は正しい。その意味で野放図の自由の中に制約性をみつけて仕事をしてゐる福田豊四郎氏と殆んど対蹠的である。『馬』は激情的な仕事である。問題はバックの銀と前に描いたものとの反映の仕方が充分でなかつた。黒と銀との関係より、黒と茶との関係の方が成功してゐたし、生きてゐた。総体的に今回は仕事が硬くなつてゐた。間宮正氏――『春郊』二つの丘の中に引かれた線の方向の苦心が面白い。然し成功とは言へない。船田玉樹氏――明瞭、空白、は好感がもてるが、画面に塊りが欲しかつた。部分的描写を全体的に高めるといふ方法に欠けてゐた。中江正樹氏――『風花』美しい感覚の持ち主である。このまゝ新しい色の発見に進むこと。風に折れまがつた葉と、折れまがらない葉との関係がはつきりしてゐない。風の吹く方向に神経の細かさが不足してゐたためであらう。久保田善太郎氏――『陶房』カマドの上に陶器を描いたのはやり方が突飛な割に少しも不自然ではなかつた。配列は一考の必要がある。柴田安子氏――『馬市帰路』光りの落ちてきかたは興味がある。子供の頬へ当つた光線は的確であつた。画の出来不出来を別にして、作者の思索生活が出てゐるのは観る者をうつ。井関雅夫氏――『風景』洋画的テーマは悪いとは言はないが、こゝまできたら、洋画への追従でなくもつと徹底してほしい。日本画の行くべき路へ。藤田隆治氏――『歯科室』画面に対象の生活がでゝゐるのは実力があることを示してゐるが、手前のものを突込んで、遠方を逸してゐるのはよくない。塗り方の粗雑さは感心できない。田口壮氏――『女』直線と曲線とのよき組み合せ、然し色が商業主義的な傾きがある。つまりポスター其他色刷的実用美術的な弊がある。バックは成功してゐたが。福田豊四郎氏――『華氷』冷めたい氷といふよりも、暖い氷を描いてゐる。それは作家自身の世界観、人生観だから、氷をまた火のやうに描いても一向差支ないことだらう。たゞ氷に閉ぢこめられた花の感覚的位置が明瞭でなかつた。『月と小魚』が好きであつた。泳いでゐる小魚が一尾づゝ己れの影をここでは魚自身の観念体としての影を、ひつぱりながら遊泳してゐる詩味は凡手の到底着想し得ないところであらう、水草をもまた生きたものとして生活させてゐる。ただラセンに曲げて描いた水草は常套的であるし、新味を感じられない。柳文男氏――『水辺』鯉の鈍重感迫力はある。部分的批評すれば、白い部分はあるまゝでいゝとして、魚の周囲を水の中だと思はせる描法が絶対的に必要である。藤田復生氏――『気象台』明析な態度、色の新しさの方向はいゝが、立体感の欠けてゐる点が難、テーマは甚だ立体的だが、描写力が併はなかつたのだと思ふ。島田良助氏――『女像』不思議な神経をもつてゐる作者である。例へば女の坐りの良い腰部や、重さうな肩などに魅惑的な神経があるのがそれである。色彩は総じて良くない。特異な神経は大切にして欲しい。大石哲路氏――『小児』陶器製のやうな小供その覗ひはわかる、物質感がでゝゐる。恩田耕作氏――『葉蔭』青い色や、犬の眼は生きてゐる。犬は細い感じはでゝゐるが痩せた感じがでゝゐない。作者がもしこの種の犬は細いのであつて痩せてはゐないなどと抗弁されたら評者は一言もないが。青木崇美氏――『保護樹』繩でしばられてゐる樹、保護の名目で自由を束縛されてゐる人間も少くないから、この保護樹はさうした人間的なものを感じられる。描きかたでは画面のとりかたはいゝが、地面の工夫が足りない。山崎隆氏――『海水魚』いゝ作家である。魚達の列、四つの魚の集団が四つの生活を水の中で営んでゐる。茶色の岩の上の写実性はすばらしい。この作者がもし大作主義でばかりゆくとしたらよくない。小品もたくさん作ることだ。この人の小品の力量を見たいものである。

 新日本画研究会には、福田豊四郎氏、吉岡堅二氏、小松均氏といふ日本画の新しい方向に対する真面目な探究者が加はつてゐるから、特別に指導理論をふりまはす人がゐなくても、これらの人々の作品が語る論理的なものは決して影響が小さいものではない。この三人は決してこの会の代表的作家といふ意味で言つてゐるのではない。この三人の作画の型は、この研究会内に止まらずに、広く日本画の三つの心理的な型として、福田、吉岡、小松といふ人の作品は重要な意義がある。誰でも作風の上ではとにかく、心理的にはこの三人の型のうちのどれかを通らなければならないからである。
 小松均氏は、日本画につきまとつてゐる封建的な要素、つまり古い亡霊と闘ひながら新しい日本画を描かうとする悩みがある。
 福田豊四郎氏は、日本画の中古の亡霊と闘つて新しい仕事をしようとしてゐる。中古とは、半封建性である。それと闘つてゐる。つまり画壇にブルジョア革命を起さうとしてゐる。
 吉岡堅二氏は、それでは少壮な立場から直ちに新しい仕事にかゝつて――差支ないか。こゝでは伝統のない洋画とはちがふ。
 吉岡氏は意外なことには『新しい亡霊』と闘はなければ新しい仕事ができない立場にある。彼は『日本画』を自覚してゐるからである。新しい日本画を主張する人は多い、そしてこれらの人々は洋画に刺激されて、どんどんと油絵のやうに絵の具を盛り上げるのである。真に日本画の伝統を生かして新しい日本画をつくることの困難さと闘ふためには、ニセものの日本画革新論者や、日本画家と吉岡氏は闘ふ必要があらう。若い日本画家が新しい方向を求めるのはいゝ。然し新しい亡霊につかれてはお終ひである。古い亡霊、中古の亡霊、新しい亡霊、この三つの日本画の亡霊と闘ひつゝ新しい仕事を進めてゆくまた困難なるものがあらう。
 小松氏はその作風でみても判るやうに、『原始共産体』の自由精神を闘つてゐれば、福田氏は『ブルジョア革命』を成しとげようとしてゐる。そして吉岡氏は若い『プロレタリア革命』をやらうとしてゐる。然しこれらの日本画壇での三つの心理的革命は、同時的に行はれ一つとして欠けてはならないし、また三氏の個人的な事業ではなく、広く同志の協力の下に完成される事業だと考へる。

    大日美術院展の評

 北村寿一郎氏――『残響』造船所を扱つたテーマは良いが、あれほど大作をしなければならない必然性があるかどうか、もつと小さな画面にでも、対象を生かすことができよう。コンクリートの壁の質感は巧みにでゝゐた。菅沢幸司氏――『芭蕉』こゝでも大作がある。この作は大日美術院賞だが、迫力がある作風と、カスレタ描き方の魅力がある。菊沢栄一氏――『競馬場所見』『スタート』共に※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)画なり。石田吉次氏――『端午の河岸』生活的なテーマであるが、テーマの割に生活がでゝゐない。特殊なものがない。岩崎清之助氏――『港Y』革進性はある。沖中陽明氏――『内海の春』悩みなし。吉永叢生氏――『木兎』テーマ古し。結城素明氏――『清湍』日本画の材料で質感の出し方と色重ねの利かしたとの最も良き見本である。常岡文亀氏――『萌芽』甘さと渋さとがとけあつてゐる。是永仲一氏――『竜華寺の庭』怪異をねらつた作。簡略化がうまい。青木大乗氏『焚火』しつかりとしたデッサン、本格なり。然しいつまでも日本画はテーマの上で焚火にもあたつてもゐられまい。藤森青芸氏――『渓間』日本画的雰囲気として申し分なし、渓間にはキヂがゐる風景である。自然科学者の描いたものより芸術的である。そのかはりに自然科学者よりも不真実である。長谷川勇作氏――『つゝじ垣』ユーモラスな好感をもてる作、籠の中の鶏は、すぐれた描き方であつた。この調子で全体をまとめたら新しい日本画の一タイプをつくるだらう。西村雨北氏――『巣』鳥の性格がよく出てゐた、描き方に類型性がないのは気持がよい。長嶺雅男氏――『蘇鉄』部分描写はいゝ。漆畑青果氏――『庭の一隅』何の変哲もなし。高田美一氏――『薫風』藤の紫の色をもつとママ能的に出して欲しかつた。若井善三部[#「部」はママ]氏――『千住風景』絵の具の盛り上げは不賛成。勝木春光氏――『J2LU局』着物の黄と顔との対照が美しい、手が少しく※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)絵風。若林景光氏――『西港の初夏』この程度の明るさは欲しいが、実業美術的になつてははじまらない。深海石山氏――『雨後のしじま』日本画でなければやれない業である。丸橋進吾氏――『乙女たち』窓外の風景は出鱈目である。小野頴山氏『硫黄採る山』描写力をもつた作家である。硫黄にけぶつた屋根の色がさつぱり出てゐない。
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二科展を評す
   前進性を示す諸作


 何といつても二科展では中堅どころの活躍が目立つ、岡田謙三氏の大作「つどひ」は氏の平素の小品の持ち味は失はれてゐた、この作者は物質感を出す力を全く喪失してゐる。単に画面をデティルと色彩の混沌美で処理してゆく方法はこれ以上前途がないことを自覚して良い筈だ、その点伊藤継郎氏は彼は形態を探る前に、先づ色彩上でリアリティを画風として確立したために、岡田氏より仕事は地味だが一歩前進してゐる、伊藤氏の「鳩を配した裸婦」など凄涼の写実味を帯てゐる、北川民治氏の「メキシコ、タスコの祭日」其他の作品は特に驚かせるほどのものではなかつた。
 その画風が庶民的でも階級的でもなく、単に人間性一般を語る作者であるといふことは、画面の人物のどの顔も類型的であるのをみても判る、多少の異国主義が北川氏に日本画家にしては珍しい作品を描かせてゐるにすぎない。帰朝後の「瀬戸工場」では氏は異国主義をふりまくわけにはいかないから、彼もまた風俗は一日画家に帰りつゝあることを証明してゐる。
 二科が会友に福島金一郎氏を推したのは聡明であつた、この人の作は場中で光彩を放つてゐた、力量からみてもこの人など既に重鎮組の作家であらう、棟方寅雄、吉原治郎、石井万亀(石井氏この人の感覚的な鋭さはその辺りの偽前衛作家のやうな付け焼刃ではない)高岡徳太郎、江崎義郎、古家新(鳩舎)島崎鶏二、竹谷富二雄、梨本正太郎、森繁、松下義晴の諸氏など追求的で野心的な快ろよい制作意図を示してゐた、彫刻は中村暉氏の良きヒューマニティ、河合芳雄氏の作では女の重量感を腰のくびれで堅めた技術的洗練さ、渡辺小五郎氏の美しい線、長谷川八十氏の激しい意慾的な仕事など彫刻は相当粒揃ひであつた、今回の二科は形容してみれば平静にして前進的な佳作揃ひと言つてよい、画壇に於ける二科会の社会的立場を以て、移は単純に保守的地位に見ることをしたくない、前衛的といふ意味では独立展は二科より一歩の長があると言はれてゐる、然し画風の上を検討してみると、二科の洋画家には独立展に較べて始末に負へない日本主義者といふのが案外少ない、彫刻に渡辺義知氏の系統をひいた、国土を護れ式の傾向が若い彫刻家の作風にちらちらしてゐるが、結局渡辺氏の制作意図といふものも、制作上の精力主義からきた現れにすぎなくて必ずしも反自由主義的作風とは断定できないものがある。
 藤田嗣治氏の「千人針」また同様である、この絵からは批判的なものを少しも求めることができないが藤田氏が描く千人針に何の情熱も期待も覗はれない様にこの作の様に現実もまた凡作であるといふ意味で藤田氏の作は写実性がある、藤田氏や野間仁根氏の作品は腹の底からの自由主義者の作風といふものが感じられ、熊谷守一、坂本繁二郎氏等の芸術への絶対的な奉仕者を加へて、若い出品者にとつてこの団体はさう不自由な研究場所ではないのである、その点新興団体としての独立展などは、その新興的なる理由の下にも却て封建的要素が多く、尚自由主義的傾向へ転落する危険性も多分に含まれてゐる。岡田謙三氏、島崎鶏二氏の両作風は二科に於ける両極を示すものとして、画風の上ではなくイデオロギー上の反撥期は当然来るものと見なければならないが、そこまでに至る間に両者のよきヒューマニズムの協力が二科の若い作家達を勉強させるだらう。
 横井礼一氏の「月と星」は二科に擡頭した新しい癌の証明であり、当然かゝる無反省な出品は何らかの型で拒否されていゝものだらう、浪江勘次郎氏の「漁業」「蒼天」は良き日本的作家たらうとして、少しく仕事を焦りすぎた感がある、その方向には充分な同感をもつことができるが、対象の認照?認識の方法には疑問少なくない。
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文展日本画展望


 東洋画の特長である静穏な美も、最近の世相でともすれば[#「ともすれば」は底本では「ともすれは」]、狂気染みた動的な雰囲気に捲き込まれてしまひさうである、混沌美を造るには日本画の絵具は余りに聡明にすぎよう、洋画家のやうに時代と一緒に混乱できないところが日本画家の苦しい立場であり、またそこに自づと新しい開拓の分野もある、文展日本画は更生幾回転の後に我々の眼前に示した、新陣容であり、収穫である、文展の組織の混乱とは別に、画人の態度は自ら別なものがあらう。

△西山英雄――『内海風景』の表現の方法には山と樹木の描き方の矛盾がある、山の図案化を樹木に適用しきれなかつた度胸の無さが目立つ、汚点のやうな雲(或は汚点か)は画面をきれいに処理する勢力が足りない。
△浜田観――『初夏の花』距離感が不足してゐた、絵の具の盛り上げの効果は、ある域に達してゐたが、写実に喰ひ下り方が足りない。
△上村松篁――は、逸性と童話味とを汲む。
△橋本明治――『浄心』は特選であつた、仏像の前の女人は古いテーマとモダニズムとの結びつきを割に成功させてゐる、女の衣服の腰の線の簡略化はうまい、線の動きに奇妙な柔らかな感触を感じさせる作家である。
△福田豊四郎――『樹氷』は線の躍動味がねらひである、鹿の立体を筆触の重ねでこれほど出すといふことは非凡である、難を云へば月の位置が不確定なことゝ、鹿の尻に加へた色が平俗的である、月明りと雪明りとの交錯が美しい。
△吉岡堅二――作者の切迫感をかんじさせる『馬』は、単純化をねらつてゐる、線の錯雑な味が有機化してゐない恨みがあるが、色彩の調和は良かつた。
△久連石雨董――『仔馬』デッサンの不確かな割に、画面をよく生かしてゐる、殊に馬の鼻ヅラの鈍角な線は、よく仔馬を語つてゐる色彩も良い意味の甘さが流れてゐる。
△小川翠村――『追はるゝ山鹿』鹿の形態をよく観察してゐる態度がみえ、三匹の鹿の形の交叉のうまさ、皮膚の実感性、など日本画の質感の出し方として上々である、但し追ふ犬が拙い。
△野口謙次郎――『焼岳』山はよし、たゞ樹の形が殆んど同じ、その類型的なのはよくない。全体的雰囲気に救ひを求めすぎた感あり。
△和高節二――黒の色彩に新味あり、牛の下部へ鶏を配置したのは成功、平和と素朴とが洗練された形式でにじみ出てゐた、女の冠り物と顔の色が少し強すぎて調和を破つてゐる。
△岡田昇――『凪』漁師の母子の生活が良く出てゐた、ただ画面が汚ない感がした、生活的な庶民性を描くこと賛成であるが、画面はあくまで美しく処理することである、海のやゝカサ/\とした潮気を含んだ画面の効果はよく出てゐた。
△不二木阿古――『将棋親旧』白の全体のまとめはうまい、人物中離れて坐つてゐる少女は少し投げ出したといふ形で親切な観方ではない。
△堂本印象――『観世音』現世の苦を語るものとしては少し象徴的すぎる、線は整理されてさすがに形の制約を知つてゐるが、叙述的な絵画の方法をとつたにしては、バラ/\な図案化がある散漫である。
△横山大観――『雲翔る』大観のものといふ先入観を入れなければ批評の出来ないやうな絵である、画庫から何時でも引出して出品できさうな凡作である。
△松元道夫――『花苑』柔らかい花弁のまとめあげ、茎もよく描いてあるが、茎を支へてゐる竹を、茎と同じ質感で描くといふことはない筈。
△竹内栖鳳――『若き家鴨』ユーモラスな家鴨がよく出てゐた、たくまない野放図な投げ出したやうな構図は度胸人である、たゞ金を散らしたのは最大の不調和である、ゴモク飯を思はせる絵である。
△蓮尾辰雄――『罌粟』もう一息といふところ、衣服の質感はよく出てゐたし、背景の花も良い。
△望月春江――桜の実にそゝぐ雨、雨の白さが汚れのやうにみえる、降つてゐるのは雨であらうがそのために実や樹の葉に何の変化のあることも感じられないのが変である。
△吉村忠夫――『麻須良平』日本画的題材を感覚的新しさで塗りつぶしてゐるといふ域を出てゐない。
△木谷千種――『義太夫芸妓』掴み方、色彩の落ちつきは良い、何かぬけぬけとした年増女が感じられて面白い、言ひわけのやうに蝋燭を点したのはおかしい。
△村山三千男――『閑日』不安定な女の腰掛け方、落つこちて来さうな椅子の上の小鳥籠。
△望月定夫――『ふるさとの駅』日本画材料をある程度の新しい方法に処理して成功してゐた、細密描写の場合絵の具を盛り上げてゆくとすれば洋画に敗けることを考へたらいゝ。
△中村岳陵――『砂浜』砂浜の凸凹を線でゆかずに、窪み(面)でかきすぎた恨みがある。空はよいとして水はにぶい、小鳥は古いが、色の小砂の散らしは抒情的で美しい。
△森守明――『青潭』難ない、たゞ鳥ををいたことは意味なし、静寂感の出方が乏しい。
△森本修古――『奥春日』藤の絢爛たる美は良い、春の日の妖しさは出てゐた、たゞ仏ををくことはその理由は別として考へ過ぎである。
△曲子光男――『鵜城』鵜と樹木の形の面白さ、あまりに形の面白さに惚れこみすぎた感あり。
△中塚一杉――『菜園初秋』いりくんだ菜園を混沌もなく描き得てゐる日本画の本領の優れた点はかういふ時に良く現はれるといふべきだらう。
△三原清宏――『南紀の浜』南紀地方色がよく出てゐる、熱つぽい南国の触感がある、植物の厚みや葉の飜転がよく出てゐない恨みがある。
△森戸国次――『猿』猿は必ず虱をとり、木に登るものらしい、さうした平凡な取材に陥つてゐる。
△岩田正己――『富士の聖僧日蓮』この絵を生かしたものは背景の雲である。衝突して舞ひあがる自然現象の美は描かれて、なまじつか日蓮が立つてゐるのが俗物的に見える位である。
△川上拙以――『粧ひ』衣服がよく描けてゐたが、眼は何処を見てゐるとも思はれぬ虚洞の愚。
△野田九浦――『一休禅師』顔より手にかけて動物的な人間味がある手は思索家の爪の長いだれた感じの手である。
△杉山寧――『秋意』馬はねつとりした皮膚の感じがでゝ、背後に適当なムラをつけたのもさすがである。鮮女を描いたのは俗気にすぎる。
△石渡風古――『おしばな』少女の表情、デッサン、主題いづれも良い、髪の上の色のあせた淡さはさらにいゝ、髪の生え際は美しいが、眉と眼の関係は拙い。
△尾竹国観――『常闇』火の消えるのを防ぐ神々は出てゐたが、火の消えるのを恐怖する表情は出てゐなかつた。
△有元一雄――『錦鯉』よく描けてゐたが、光沢がない。
△下川千秋――『いでゆ』湯殿からあがる湯気で画面の描写を節約した感じ、素朴な甘みはある。
△西垣寿一――『新妓』線の堅さもよい、肩幅の広いきよとんとした田舎女も観察的である。
△小早川清――『春琴』日本の室内の気分がよく出てゐる、ぽつとした中の女の感傷、薄鼠と白襟の妖性色、顔への疲労の現はれなどいゝ。
△下村正一――『雪構』うまいんだが材料に偏してゐる、繩木、枝の交錯に酔ひすぎてゐる。
△稲田翠光――『架鷹』かういふ材料は日本の伝統的なものだけ、新味と新解釈が加はらねば意味がない。
△勝田哲――『茶室』女の指の先に朱をさしてゐるが、その割に顔に若さが現はれてゐない。
△遠山唯一――『木馬ひき』谷の上で木を曳く労働婦人を描いた良いテーマ、たゞ危険な仕事に擁る女の悲惨を感じさせる、絵の実感の効果であらう。
△三宅凰白――『雪合戦』洒脱な線で子供の生活をよく出してゐる、デッサンも確かであり、詩情も豊かである。
△寺島紫明――『朝』すぐれた意図がある、一人の女はレースの腰巻を露出して指を組んでゐる、一人は股に手をいれ一人は履物に指をやつてゐる、額に頭痛膏をはつてゐる、愚鈍な救ひ難い女の生活の三態でその個性が各自よく出てゐた。
△田岡春径――『南総宮谷の秋二題』色感及び線の動きの特長も日本画としての優れた点がこの辺にあらう、たゞ淡彩から極彩へ移るときに失敗がある。
△谷角日娑春――『一日一話』母は良く描けてゐたがモダン娘は足の割に顔が小さきに過ぎる、表現化が深慮に過ぎた。
△菊地契月――『麦ふるひ』左に農具の一端を描いたのは味噌である、伸びきつた姿の農婦もよく、落ちてくる麦の色彩の掴へ方も優れ袖のきれめにも肉感的なものがあり、髪の僅かなほつれもさすがに巧い。
△西岡聖鵑――『渦』波の動きをよく捉へてゐる、自然観察の絵はやはり面白い。
△横内大明――『山静』茶と青とに南画家に珍らしい、いゝ感能がある写実に執着してゐる点、墨の色に近代的な理解を加へてゐる点等佳作を産んだものだらう。
△太田天洋――『国防の覚め』余りに説明的すぎて、作者の調査の努力を見せつけられる感あり、題材の計画としては良いが。
△小早川秋声――『軍国の秋』日本画の仕事といふものは斯ういふ処にあるものではない、その通俗性と世俗性は余りに底が知れてゐる。
△藤森青芸――作者が力んでゐる割に出来が良いとも思はれない、色にリアリティがあるが形が一様である。
△保間素堂――『閑隠寮の秋』一人の女が化粧してゐるが、その手の形の小さゝ、お白粉のつきの悪さ、色の剥げた肩など過去の女を思はせる、古い東洋性の没落を代表してゐるやうな女性を描き得てゐる。
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