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わが町(わがまち)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-8-29 10:20:47  点击:  切换到繁體中文


     3

 高津神社坂下の小さな店で剃刀屋を始めたが、はやらなかった。東西屋を雇って開店した朝、蝶子は向う鉢巻きでもしたい気持で店の間に坐っていた。午頃、
「さっぱり客が来えへんな」
 と、柳吉は心細い声をだしたが、蝶子はそれに答えず、眼を皿のようにして表を通る人を睨んでいた。
 午過ぎ、やっと客が来て安全剃刀の替刃一枚六銭の売上げという情けないありさまだった。
「まいどおおけに」
「どうぞごひいきに」
 夫婦がかりで、薄気味悪いくらいサーヴィスを良くしたが、人気が悪いのか新店のためか、その日は十五人客が来ただけで、それも殆んど替刃ばかり、売上げは〆めて二円にも足らなかった。
 そんな風に客足がさっぱりつかず、ジレットの一つも出るのは良い方で、大抵は耳かきか替刃ばかりの浅ましい売上げの日が何日も続いた。
 話の種も尽きて、退屈したお互いの顔を情けなく見かわしながら店番していると、いっそ恥かしい気がし、退屈しのぎに昼の間の一時間か二時間浄瑠璃を稽古しに行きたいと言いだす柳吉を、蝶子はとめる気も起らなかった。
 柳吉は近くの下寺町で稽古場をひらいている竹本組昇に月謝五円で弟子入りし、二ツ井戸の天牛書店で稽古本の古いのを漁って、毎日ぶらりと出掛けた。柳吉は商売に身を入れるといっても、客が来なければ仕様がないといった顔で店番をするときも稽古本をひらいて、ぼそぼそうなった。その声がいかにも情けなく、蝶子は上達したと褒めるのもなんとなく気が引けた。
 毎月食い込んで行ったので、蝶子は再びヤトナに出た。苦労とはこのことかとさすがにしんみりしたが、宴会の席ではやはり稼業(しょうばい)大事とつとめて、一人で座敷を浚って行かねばすまぬ、そんな気性はめったに失われなかった。ひとつには、柳吉の本妻は先年死に、蝶子も苦労の仕甲斐があった。
 ところが、柳吉はそんな蝶子の気持を知ってか知らずにか、夕方蝶子が三味線を入れた小型の手提げ鞄をもって出掛けて行くと、そわそわと早仕舞いして、二ツ井戸の市場の中にある屋台店で、かやく飯とおこぜ[#「おこぜ」に傍点]の赤出しを食べ、鳥貝の酢味噌で酒をのみ、六十五銭の勘定を払って、安いもんやなあと、「一番」でビールやフルーツをとり、肩入れしている女にふんだんにチップをやると、十日間の売上げが飛んでしもうた。
 ヤトナの儲けでどうにか食いつないでいるものの、そんな風に柳吉の使い方がはげしいので、だんだん問屋の借りも嵩んで来て、一年辛抱した挙句、店の権利の買手がついたのを倖い、思い切って店を閉めることにした。
 店仕舞いの大投売りの売上げ百円余りと、権利を売った金百二十円と、合わせて二百二十円余りの金で問屋の払いやあちこちの支払いを済ませると、しかし十円も残らなかった……。
「……蝶子はんもお気の毒な人やわ。折角維康さんを一人前にして、維康さんのお父さんに、水商売をしてた女に似合わん感心な女や言うて認めて貰おう思たはるのに、維康さんがぼんぼんで、勘当されてても親御さんの財産が頭にあるさかい、折角剃刀店しはっても、一年経つか経たぬうちに、到頭そんな風に店を閉めはって、飛田の近所に二階借りしやはったそうでんねん……」
 君枝がそう語ると、
「へえ? そうですか。それから、どないしやはったんです?」
 蝶子と柳吉の消息を知りたいという気持よりも、君枝の話を並んで歩きながらききたいという気持から、次郎は言った。君枝は声が綺麗だった。おまけに、次郎には久し振りの大阪弁だ。
「それから、なんでも三年ほど蝶子はんが食うやのまずの苦労して貯めはった金と、維康さんが妹さんから無心して来やはった金で、また商売はじめはったんです」
「どんな商売……?」
「関東煮屋(だきや)……」
 をやろうということになり、適当な売り店がないかと探すと、近くの飛田大門通りに小さな関東煮の店が売りに出ていた。
 現在年寄夫婦が商売しているのだが、士地柄客種が柄悪く荒っぽいので、おとなしい女中はつづかず、といって気性の強い女はこちらがなめられるといった按配で、ほとほと人手に困って売りに出したのだというから、掛け合うと、存外安く造作から道具一切附き三百五十円で譲ってくれた。
 階下は全部漆喰で商売に使うから、寝泊りするところは二階の四畳半一間ある切り、おまけに頭がつかえるほど天井が低く陰気臭かったが、廓の往き戻りで人通りも多く、それに角店で店の段取りから出入口の取り方など大変良かったので、値を聞くなり飛びついて手を打った。
 新規開店に先立ち、法善寺境内の正弁丹吾亭や道頓堀のたこ福をはじめ、行き当りばったりに関東煮屋の暖簾をくぐって、味加減や銚子の中身の工合、商売のやり口を覚えた。
 そして、お互いの名を一字ずつ取って「蝶柳」と屋号をつけ、いよいよ開店することになった。
 まだ暑さの去っていなかった頃とて、思い切って生ビールの樽を仕込んでいた故、早く売り切ってしまわねばビールの気が抜けてしまうと、やきもき心配したほどでもなく、存外よく売れた。
 人手を借りず、夫婦だけで店を切り廻したので、夜の十時から十二時頃までの一番たてこむ時間は眼のまわるほど忙しく、便所に立つ暇もなかった。
 廓をひかえて夜更けまで客があり、看板を入れる頃はもう東の空が紫色に変っていた。くたくたになって二階の四畳半で、一刻(いっとき)うとうとしたかと思うと、もう眼覚しがジジ……と鳴った。寝巻きのままで階下に降りると、顔も洗わぬうちに、「朝食出来ます、四品附十八銭」の立看板を出した。朝帰りの客を当て込んで味噌汁、煮豆、漬物、御飯と都合四品で十八銭、細かい儲けだとたかをくくっていたところ、ビールなどを取る客もいて、結構商売になったから、少々の眠さも我慢出来た。
 秋めいて来て、やがて風が肌寒くなると、もう関東煮屋にもって来いの季節で、ビールに代って酒もよく出た。酒屋の払いもきちんきちんと現金で渡し、酩酒の本鋪から看板を寄贈してやろうというくらいで、蝶子の三味線もこんどばかりは空しく押入れにしまったままだった。
 柳吉もこんどは半分以上自分の金を出したというせいばかりでもなかったろうが、身の入れ方は申し分なかった。
 公休日というものも設けず、毎日せっせと精出したから、無駄費いもないままに、勢い残る一方であった。柳吉は毎日郵便局へ行った。
 身体のえらい商売だから、柳吉は疲れると酒で元気をつけた。酒をのむと気が大きくなり、ふらふらと大金を使ってしまう柳吉の性分を蝶子は知っていたので、ヒヤヒヤしたが、売り物の酒とあってみれば、柳吉も加減して飲んだ。が、そういう飲み方もしかし、蝶子にはまた一つの心配で、いずれはどちらへ転んでも心配は尽きなかった。大酒を飲めば莫迦に陽気になるが、チビチビやる時は元来吃りのせいで無口の上に一層無口になり、客のない時など椅子に腰かけてぽかんと何か考えごとしているらしい容子を見ると、梅田の実家のことを考えてるのとちがうやろか、そう思って、矢張り蝶子は気が気でなかった。
 案の定、妹が婿養子を迎える婚礼に出席を撥ねつけられたといって、柳吉は気を腐らせ、貯金の中から二百円ほど持ち出して出掛けたまま、三日帰って来なかった。蝶子は柳吉を折檻した。
「あんたはそれで良うても、わてがあんたのお父さんに笑われま。二人で、苦労してこれだけの人間になりました言うて、お父さんの前へ早よ出られるようにしよ思て、一所懸命になってるわての気持は、あんたには判れしめへんのんか。いつになったら、真面目な人間になってくれまんねん」
「も、も、も、もうわかった。お、お、おばはん、わかった」
 二度と浮気遊びはしないと柳吉は誓ったが、蝶子の折檻は何の薬にもならなかった。暫らくすると、また遊びだした。二人の世帯を築きあげて行こうという気持には、到底なれないらしかった。そろそろ肥満して来た蝶子は折檻するたびに息切れした。
 柳吉が遊びに使う金はかなりの額だったから、遊んだあくる日はさすがに彼も蒼くなって、盞も手にしないで、黙々と鍋の中をかきまわしていた。が、四五日たつと、もう客の酒の燗をするばかりが能やないと言いだし、水を混ぜない方の酒をたっぷり銚子に入れて、銅壺の中へ浸け、チビチビと飲んだ。
 明らかに商売に飽いた風で、酔うと気が大きくなり、自然足は遊びの方に向いた。紺屋の白袴どころでなく、これでは柳吉の遊びに油を注ぐために商売をしているようなものだと、蝶子はだんだんに関東煮屋をはじめたことを後悔しだした。するうちに、酒屋への支払いなども滞り勝ちになり、結局やめるに若かずと思って、その旨柳吉に言うと、柳吉は即座に同意した。
「この店譲ります」と貼り出ししたまま、陰気臭くずっと店を閉めた切りだった。柳吉は浄瑠璃の稽古に通いだした。
 貯えの金も次第に薄くなって行くのに、一向に店の買手がつかなかった。蝶子はそろそろ三度目のヤトナに出ることを考えていた。
 ある日、蝶子が二階の窓から表の人通りを眺めていると、それが皆客に見えて、商売をしていないことがいかにも残念であった。向い側の五六軒先にある果物屋が、赤や黄や緑の色が咲きこぼれて、活気を見せていた。客の出入りも多かった。果物屋は良え商売やなあとふと思うと、もう居ても立っても居られず、柳吉が稽古から帰って来ると、早速「果物(あかもん)屋をやれへんか」と相談した。が、柳吉は「さいな」と呟いたきり、てんで乗気にならなかった。いよいよ食うに困れば、梅田へ行って無心すれば良しと考えていたのだ。
 ある日、どうやら本当に梅田へ出掛けたらしかった。帰って来ての話に、無心したところ、妹婿が出て応待したが、訳のわからぬ頑固者の上に、いずれはこの家の財産は養子の自分のものと思ってか随分けちんぼ[#「けちんぼ」に傍点]と来ていて、結局鐚一文も出さなかった――と、柳吉はしきりに興奮した。 
 そして、「果物屋をやるより仕様がない」顔をにがり切って見せた。
 関東煮の諸道具を売り払った金で店を改造した。仕入れや何やかやで大分金が足らなかったので、衣裳や頭のものを質に入れ、なおヤトナ倶楽部を経営している昔の朋輩のおきんの所へ金を借りに行った。おきんは一時間ばかり柳吉の悪口を言ったが、結局「蝶子はん、あんたが可哀想やさかい」と百円貸してくれた。「あんたが維康さんと晴れて夫婦になる日を待ってまっせ」おきんに言われて蝶子は泣けた。
 その足で父親の種吉の所へ行き、果物屋をやるから二三日手を貸してくれと頼んだ。西瓜の切り方など要領を柳吉は知らないから、経験ある種吉に教わる必要があったのだ。種吉は若い頃お辰の国元の大和から車一台分の西瓜を買って、十六の夜店で切り売りしたことがある。その頃蝶子はまだ二つで、お辰が背負うて、つまり親娘三人総出で、一晩に二百個売れたと種吉は昔話をし喜んで手伝うことを言った。
 種吉は娘夫婦の商売を手伝うことが嬉しくてたまらぬ風であった。店びらきの日、筋向いにも果物屋があるのを見て、「西瓜屋の向いに西瓜屋が出来て、西瓜(すいた)同志の差し向い」と淡海節の文句を言いだした。その果物屋は店の半分が氷店になっているのが強味で、氷かけ西瓜で客を呼んだから、白然蝶子たちは切身の厚さで対抗しなければならなかった。が、言われなくとも種吉の切り方は頗る気前が良かった。一個八十銭の西瓜で十銭の切身何個と胸算用して、柳吉がハラハラすると、種吉は、「切身でまけて丸口で儲けるんや。損して得とれや」と言った。そして、
「ああ西瓜や、西瓜や、うまい西瓜の大安売りや!」
 と、派手な呼び声を出した。向い側の呼び声もなかなか負けていなかった。蝶子も黙って居られず、
「安い西瓜だっせエ!」
 と、金切り声を出した。それが愛嬌で客が来た。蝶子は鞄のような大きな財布を首から吊して、売り上げを入れたり、釣銭を出したりした。
 柳吉は割合熱心に習ったので、四五日すると西瓜を切る要領などを覚えた。種吉は丁度生国魂の祭で例年通りお渡御(わたり)の人足に雇われたのを機会に、手を引いた。帰りしな、林檎はよくよくふきんで拭いて艶を出すこと、水蜜桃には手を触れぬこと、いったいに果物は埃を嫌うゆえ始終はたきをかけることなど念押して行った。
 その通りに心掛けたが、しかしどういうものか足が早くて水蜜桃など瞬く間に腐敗した。店へ飾って置けぬから、辛い気持で捨てた。毎日捨てる分が多かった。といって品物を減らすと店が貧相になるので、仕入れを少なくするわけにも行かず、巧く捌けないと焦りが出た。儲けもあるが損も勘定に入れねばならず、果物屋も容易な商売ではないとだんだん分って来ると、急に柳吉に元気がなくなった。
 蝶子は柳吉がもう果物屋商売に飽きたのかと、心配しだした。が、その心配より先に柳吉は病気になった。もうせんから柳吉はげてもの料理を食べ過ぎたせいか胃腸が悪くて、二ツ井戸の実費医院(じっぴ)へ通い通いしていたが、こんどは尿に血がまじって、小用の時泣声を立てた。実費医院で診て貰うと、泌尿科の専門医へ行くが良かろうとのことで、島ノ内のK病院が有名だときいて、診せると、膀胱がわるいという。
 十月ばかり通ったが、はかばかしくなおらなかった。みるみる痩せて行った。蝶子も身体は肥えていたが、眼のふちが黝み、柳吉の病気が気がかりでならなかった。診立て違いということもあるからと、市民病院で診て貰うと、果して違っていた。レントゲンを掛けて腎臓結核だとわかった。その日から、入院した。
 附添いのため店を構っていられなかったので、蝶子は止むなく店を閉めた。果物が腐って行くことが残念だったから、種吉に店の方を頼もうと思ったのだが、運の悪い時はどうにも仕様のないもので、母親のお辰が四五日まえから寝ついていたのだ。子宮癌とのことで、今日明日がむつかしかった。
 柳吉が腎臓を片一方切るという大手術を受けた翌朝、お辰は死んだ。蝶子は柳吉の傍に附き切りで、母親の死に目に会えなかった。柳吉の命が助かったことだけがせめてもの慰めだったが、しかし、親不孝者だという気持は矢張りチクチク胸を刺して来た。お辰は蝶子が駈けつけて来ぬことをすこしも恨まず、それどころか、「維康さんも蝶子のために、苦労して来やはった。維康さんの手術(しりつ)が味善(あんじょ)ういってくれたら、わては蝶子の顔見んと死んでも満足や」と、蝶子を俥で迎えに言ってやろうといいだした他吉へ言った――ときいて、さすがに蝶子は身もだえした。
 葬式にだけは出て、そして病院へ飛んで帰って来ると、十二三の女の子を連れた若い女が見舞いに来た。顔かたちを見るなり、柳吉の妹だと分った。はっと緊張し、
「よう来て呉れはりました」
 初対面の挨拶代りにそう言って、愛想笑いを泛べた。母親の葬式の日に笑顔を見せるのは辛かったが渋い顔は気性からいって出来なんだ。連れて来た女の子は柳吉の娘だった。ことし四月から女学校に上っていて、セーラー服を着ていた。頭を撫でると、顔をしかめた。
 主に病気の話をして、半時間ののち柳吉の妹は帰って行った。送って廊下へ出ると柳吉の妹は、
「おうちの苦労はお父さんもこの頃よう知ったはりまっせ。よう尽してくれはる、こない言うてはります」
 と言い、そっと金を握らせた。蝶子はこの言葉を本当と思いたかった。死んだ母親にきかせたかった。二年前、柳吉の家から人が来て、別れ話が出されたことなども、ちらと想い出された。
 柳吉はやがて退院して、湯崎[#「湯崎」は底本では「湯畸」と誤記]温泉へ出養生した。費用は蝶子がヤトナで稼いで仕送りした。二階借りするのも不経済だったから、蝶子は種吉の所で、寝泊りした。他吉は種吉に、
「種さん、おまはんはええ子をもった。わいは昔蝶子はんのことあんな風に言ったけど、悪う思いなや。いや、実際感心な娘やなあ」
 と、言った。
 ところが、柳吉は湯崎で毎日散財していたのだ。見舞いがてら湯崎へ出向いた蝶子は、柳吉が妹からもこっそり送金させていたと知って、気が狂ったようになった。
「兄妹やから、なにもお金を送らせて、わるい法はないけど、しかし、それではわての苦労がなんにもならん。散財さえしてくれなんだら、わてだけの力であんたを養生させられた筈や」
 柳吉と一緒に湯崎から大阪へ帰ると、蝶子は松坂屋の裏に二階借りした。相変らずヤトナに出た。こんど二階借りをやめて一戸構え、ちゃんとした商売をするようになれば、柳吉の父親もえらい女だと褒めてくれ、天下晴れて夫婦(めおと)になれるだろうとはげみを出した。その父親はもう十年以上も中風で寝ていて、普通ならとっくに死んでいるところを持ちこたえているだけに、いつ死なぬとも限らず、生きているうちにと蝶子は焦った。が、柳吉はまだ病後の身体で、滋養剤を飲んだり、注射を打ったりして、それがきびしい物入りだったから、半年経っても三十円と纒った金はたまらなかった。

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