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古代人の思考の基礎(こだいじんのしこうのきそ)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-8-29 15:59:55  点击:  切换到繁體中文


     二 威霊

天皇には、日本の国を治めるのに、根本的の力の泉がある。此考へが無ければ、皇室の尊厳は訣らない。其は威霊――我々は、外来魂と言うてゐるが、其を威霊と代へて見た。まなあの訳語――である。
天皇は、大和の国の君主であるから、大和の国の魂の著いた方が、天皇となつた(三種の神器には、別に、意味がある)。大和の魂は、物部氏のもので、魂を扱ふ方法を、物部の石上の鎮魂術といふ。此一部分が、神道の教派の中に伝つてゐる。此以外に、天皇になる魂即、天皇霊(敏達紀外一个処)がある。

モシハヾ者天地モロモロ神及天皇霊ニカケセム矣(敏達天皇十年閏二月)

此を平く言ふと、稜威みいつである。神聖な修飾語のやうに考へてゐるが、実は天皇霊で、大嘗祭に、聖躬に著くのである。
悠紀殿・主基殿と分れて建つのは古い事で、天武紀にも見られることである。前述のやうに、此は、初めは一つの御殿だつたに違ひない。其中、一番問題になるのは、御殿の中に、御衾を設けてあることで、神道家の中には、天照大神の御死骸が其中にあるのだ、と言うてゐる人もあるが、何の根拠もない、不謹慎な話である。天孫降臨の時、真床襲衾マドコオフスマを被つて来られたとあるが、大嘗宮の衾も、此形式を執る為のものであると思ふ。今でも、伊勢大神宮に残つてゐるかも知れないが、伊勢の太神楽に、天蓋のあるのは、此意味である。
尊い神聖な魂が、天皇に完全に著くまでは、日光にも、外気にも触れさせてはならない。外気に触れると、神聖味を失ふと考へてゐた。故に真床襲衾で、御身を御包みしたのである。その籠つてゐられる間に、復活せられた。
伊勢にあるのは、太神楽のもつと以前、恐らく三百年も前にあつたもので、近世まで、古い形のまゝ、諸国を廻つてゐる神楽の天蓋の中に、真床襲衾といふものがあつた。
五年目毎に、太神楽が廻つて来て、天蓋で、村の青年を包んで、外気に触れさせず、食物も喰べさせないで、願立てをして、踊りまはる。さうしてゐる間に、其青年は、村の若い衆となる。此は、村の中心勢力として、神事に与る資格を得るのである。実は祭りの時に、神になる資格を持つものが、若い衆である。今の太神楽以前に、諸国を歩いた神楽は、真床襲衾といふ、白い天蓋を持つて廻つた。伊勢の御師オシ達にも、そんな神楽をもつて廻つた時代があつた。其図が現存してゐるが、非常に変つたものである。
真床襲衾に包まれて復活せられた事は、天皇の御系統にだけ、其記録がある。其中で物もお上りにならずに、物忌みをなされた。その習慣がなくなつて後、逆ににゝぎの命が、真床襲衾に包まつて、此国に降り、此地で復活なされたのだと考へて来た。我々は、宮廷で、真床襲衾を度々お使ひになるので、天上から持つて降られたものと思ふが、其は、逆に考へ直す方が、正しいのである。
古代には、死の明確な意識のない時代があつた。平安朝になつても、生きてゐるのか、死んでゐるのか、はつきり訣らなかつた。万葉集にあるアラキミヤ又は、もがりのみやに、天皇・皇族を納められたことが知れる。殯宮奉安の期間を、一年と見たのは、支那の喪の制度と、合致して考へる様になつてからの事で、以前は、長い間、生死が訣らなかつたのである。死なぬものならば生きかへり、死んだのならば、他の身体に、魂が宿ると考へて、もと天皇霊の著いてゐた聖躬と、新しく魂が著く為の身体と、一つ衾で覆うておいて、盛んに鎮魂術をする。今でも、風俗歌をするのは、聖上が、悠紀殿・主基殿に、お出ましになつてゐられる間、と拝察する。
中休みをなさつた聖躬が、復活なさらなければ、御一処にお入れ申した、新しく著く御身体に、魂が移ると信じた。死と生と、瞭らかでなかつたから、御身体を二つ御一処に置けたのである。生と死との考へが、両方から、次第にはつきりして来ると、信仰的には、復活するが、事実は死んだと認識するやうになる。そして、生きてゐた者が出て来ても、一度死んだ者が、復活したのと、同じ形に考へた。出雲の国造家の信仰でも、国造の死んだ時には猪の形をした石に結びつけて、水葬したが、死んだものとは、少しも考へなかつた。其間に、新国造が出来たが、宮廷に於ける古い形と等しく、同じ衾から出て来るので、もとの人即、死者と同じ人と考へられてゐた。従つて、忌服即喪に籠る、といふ事はないのである。
といふ語は、腰巻き又は、平安朝の女房たちの用ゐた裳と思はれてゐるが、ほんとうは紐のない、風呂敷の様な、大きな布で、真床襲衾と称した処のものである。に籠るといふことは、衾に這入る事で、此間のものいみは、非常に広く、且厳重に行はれたもので、ものおもひと言うてゐる。後には、誤つた聯想から、服喪の意味に考へて来た。
元々一つの御殿を、悠紀殿・主基殿に分けたのは、生死を分けて考へる様になつたからであらう。二殿に、衾が別々に置いてあつても、其処で古い方の魂が、新しい方に移ると考へた。万葉の人麻呂の歌を見ても、天武天皇が、飛鳥の真神个原の御陵に移され、それから岩戸を開いて、天に昇られたとあるが、此は、信仰が変つてゐる。昇天するのではなく、其魂が、授受の形式で移るので、信仰的には、復活した事になるのである。
日本民族の、此国土に於ける生活は、長い歴史を持つてゐるのであつて、一部学者の言ふやうに、千年やそこらの事ではなく、かなり久しいものなのである。其長い歴史の間、天皇の魂の授受せられて行く中に、次第に天皇の死を考へて来た。もとは復活なさるとのみ考へ、天皇霊――稜威が著いたと信じてゐた。
天皇が、大和に移られてからは、大和を治める為には、大和の魂を持たねばならなかつた。其大和の魂を持つてゐたのは、物部氏だと考へられてゐた。最初は、にぎはやひの命であつた。神武天皇の大和入りより前に、既に降つてゐて、天孫は御一人である筈なのに、神武天皇の大和入りの時に、ひよつくり出て来て、弓矢を証拠に、天から降つたことを主張してゐる。
此話を正しく解釈出来ないで、政治的の意味があるやうに解いてゐるが、実はにぎはやひの命は、大和の魂で、神にまで昇つて来たのである。この命を擁立してゐたのがながすねひこであつた。にぎはやひの命が離れると、長髄彦は、直ぐに亡びて了うた。大和の国の君主のもつべき魂を、失うたからである。其魂を祀るのが、物部氏であつた。
此処で、日本神道の組織が変つて来て、神と神主との間に、血族関係を認める様になつた事を述べよう。
出雲の国造家では、もと、神と神主との間に、血族関係を認めなかつた。おほくにぬしの命の帰順後、天日隅宮に隠れて、あめのほひの命をして、祭りの事を代り司らしめた。後、おほくにぬしの命を祭ることになつて、神を祭る神主は、神の子であると言ふやうに、信仰が変化して、神と神主の家との血族関係が認められ、神主は神の子だ、といふ統一原理が出て来た。此点について、今までの研究は、非常に偏見に支配されてゐた。古代の神道を正しく見極め、新しい神道の道を進む為には、偏見があつてはならない。
以上のことから、にぎはやひの命と、其を祭る物部氏との間に、血族関係があるものと信ぜられて来た。由来物部氏は、魂を扱ふ団体で、主に戦争に当つて、魂を抑へる役をしてゐた。此点でも、物部氏をもつて、武器を扱ふ団体だ、としてゐた従来の考へ方は、改められねばならない。即、物部氏は、天皇霊の外に、大和国の魂、其他の国々の魂を扱ふ大きな家であつた。
天皇即位の時には、物部氏が魂を著け奉るだけでなく、新しく服従した種族の代表者も、出て来て其を行うた。奈良朝前までは、群臣中から、大臣・大連の人々が出て、天皇の前で、其詞を奏した。後、朝賀式が重視せられるに至つて、寿詞を奏するやうになつたのである。
今から考へると、寿詞の奏上は、新しく服従した国の外は、御一代に一度すればよい訣だが、不安に感じたのであらう、毎年其を繰り返した。新嘗を、毎年繰り返すのと同じ信仰で、魂は毎年、蘇生するものと考へたのである。此復活の信仰は、日本の古代には、強いものであつた。
近世神道で考へてゐる鎮魂の意味は、多少誤解からして、変化してゐるやうである。即游離した魂を、再、身につけるたましづめの意味になつてゐるが、古くは、外来魂(威霊)を身につける、たまふりの意味であつた。

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