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心機妙変を論ず(しんきみょうへんをろんず)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-8-31 10:49:36  点击:  切换到繁體中文

底本: 現代日本文學大系 6 北村透谷・山路愛山集
出版社: 筑摩書房
初版発行日: 1974(昭和44)年6月5日
入力に使用: 1985(昭和60)年11月10日初版第15刷
校正に使用: 1988(昭和63)年7月25日初版第15刷

 

哲学必ずしも人生の秘奥を貫徹せず、何ぞいはんや善悪正邪の俗論をや。秘奥の潜むところ、幽邃いうすゐなる道眼の観識を待ちて無言の冥契を以て、或は看破し得るところもあるべし、れども我は信ぜず、何者といへどもこの「秘奥」の淵に臨みて其至奥に沈める宝珠を探り得んとは。
 むかし文覚もんがくと称する一傲客、しばしが程この俗界を騒がせたり。彼はすべての預言者的人物の如く生涯真知己を得ることなく、傲逸不遜磊落らいらく奇偉の一人物として、幾百年の後までも人にうたはれながら、一の批評家ありて其至真を看破し、思想界に紹介するものもなく今日に及びぬ。時なるかな、今年こんねんの文学界漸く森厳になりて、幾多思想上の英雄墳墓をいでて中空に濶歩する好時機と共に、かれも亦た高峻なる批評家天知子の威筆に捕はれて、明治の思想界に紹介せられたり。
 天知君は文覚の知己なり、我は天知君をして文覚と手を携へて遊ばしむるを楽しむ、暗中禅坐する時、彼の怪僧天知君をとぶらひ来て、豪談一夜つひに君をおこして彼の木像を世に顕はさしむるに至りたるをうらやまず。わが所望は一あり、渠が知己としてにあらず、渠が朋友としてにあらず、渠が裡面の傍観者として、渠の心機一転の模様を論ずるの栄を得む。
 蓮池に臨みて蓮蕾れんらいの破るゝを見るは、人のかたしとするところなり。蓮華何の精あるかを知らず、俗物の見るを厭ふて幾多の見物人を失望せしむること多しと聞く。暁鴉にさきだちて寝床を出で、池頭に立ちて蓮女第一回の新粧を拝せんとするの志あるもの、既に俗物を以て指目するに忍びず、れども佳人何すれぞ無情なる、往々にして是等の風流客を追ひへすことあるは。人間界の心池の中に霊活なる動物の、心機妙転の瞬時の変化も、或は蓮花開発に似たるところあり。
 風静かに気沈み万籟ばんらい黙寂たるの時に、急卒一響、神装をらして眼前めのまへ亢立かうりつするは蓮仙なり、何の促すところなく、何の襲ふところなく、悠然泥上に佇立ちよりつする花蕾の、一瞬時に化躰して神韻高趣の佳人となるは、驚奇なり、しかり驚奇なり、極めて普通なる驚奇なり、もし花なく変化なきの国あらば、之を絶代の奇事と曰はむ。絶代の奇事にして奇事ならざるもの、自然の妙力が世眼に慣れて悟性を鈍くしたるの結果とや言はむ。
 人間の心機に関して深く観察する時は、この普通なる驚奇の変化最も多く、各人の歴史に存するを見る。然りこの変化の尤も多くして尤も隠れ、尤も急にして尤も不可見みるべからざるのもの、他の自然界の物に比すべくもあらざるものあるは、人生の霊活を信ずるものゝいやしくも首肯しゆこうせざるはなきところなり。悪を悪なりとし、善を善なりとし、不徳を不徳とし、非行を非行とするは、俗眼だもあやまつことなきなり、たゞ夫れ悪の外被に蔽はれたる至善あり、善の皮肉に包まれたる至悪あるを看破するは、古来哲士の為難なしがたしとするところ、凡俗の容易に企つるあたはざる難事なり。もし夫れ悪の善に変じ、善の悪に転じ、悪の外被に隠れたる至善の躍り出で、善の皮肉にかくれたる至悪のね起るが如き電光一閃の妙変に至りては、極めて趣致あるところ、極めて観易からざるところ、達士も往々この境に惑ふ。
 人間の無為は極めて暗黒なるところと極めて照明なるところとあり。その無心のさかひに入れりとすべきは、生涯のうちに幾日もあらず。誰かく快楽と苦痛の覊束きそくを脱離し得たるものぞ。誰か能く浄不浄の苦闘を竟極きやうきよくし得たるものぞ。誰か能くまことに是非曲直の鉄鎖を断離し得たるものぞ。唯だ夫れ人間に賢愚あり、善悪あり、聖汚あるは、その暗黒と照明との時間の「長さ」を指すべきのみ。いかに公明正大を誇負する人ありとも、我は之を諾する能はず、畢竟するにその所謂いはゆる公明なる所以ゆゑんのものは、暗黒の「影」の比較的に薄きに過ぎず、照明なる時間の比較的に長きに過ぎず、真の大知、大能、大聖に至りては、我は之を人間界にもとむるの愚を学ぶ能はず。然り、大知、大能、大聖は人間界に庶幾しよきすべからず、然れども是を以て人間の霊活をひくうするところはなきなり、人間と呼べる一塊物(A piece of work)を平穏静着なるものとする時は、何の妙観あるを知らず、善あり、悪あり、何等思議すべからざるところありて始めて其本性を識得するをうるなり、善鬼悪鬼美鬼醜鬼、人間の心池に混交し、乱戦するを以て始めて人間なるものゝ他の動物と異なる所を見るべし。
 神の如き性、人の中にあり、人の如き性、人の中にあり、此二者は常久の戦士なり、九竅きうけううちにこの戦士なければ枯衰して人の生や危ふからむ。神の如き性をたもつこと多ければ、戦ひは人の如き性を倒すまでは休まじ、休むも一時にして、程れば更に戦はざる能はず。人の如き性をたもつこと多ければ終身惘々まう/\として煩ふ所なく、想ふ所なく、憂ふる所なからむ。この両性の相闘ふ時に精神活きて長梯を登るの勇気あり、闘ふこといよ/\多くして愈激奮し、その最後に全く疲廃して万事をわする、この時こそ、悪より善に転じ、善より悪に転ずるなれ、この疲廃して昏睡するが如き間に。
 人の一生を水晶の如く透明なるものと思惟するは非なり、行ひに於いては或は完全にちかきものあらむ、心に於ては誰か欠然たらざる者あらむ。人は到底絶対的に善なるものとなること能はず、れども或限りある「時」の間に於て、極めて高大なりと信ずる事は出来ざるにあらず、其限りある時間の長短は一問題なり、われは思ふ、其極めて短かきは石火の消えぬ間にして、長きも流星の尾に過ぎじ。虚無を重んじ無為を尚ぶも畢竟この理に外ならず、施為せゐ多く思想豊かにして而して高遠なること能はざるは、寧ろの施為なく思想なくして、石火中の大頓悟を楽しむにかじとすらむ。
 文覚の袈裟けさに対するや、如何いかなる愛情をたもちしやを知らず、然れども世間彼を見る如き荒逸なる愛情にてはあらざりしなるべし。当時夫婦間の関係をすゐするに、徳川氏時代の如く厳格なるべきものにあらず、袈裟の如き堅貞の烈女、実際にありしものなりや否やを知らず、常磐ときはの如き、ともゑの如き節操の甚だ堅からざる女人をんな多き時代にありて、袈裟御前なるもの実際世にありしか、或は疑ひを※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)むの余地なきにあらず。然れども凡てのドラマチカルの事蹟を抹殺し去りても、文覚が其妄愛に陥りし対手を害せし事は事実なるべし。文覚が世に伝説するが如き驕暴なるものにあらずとするも、少なくとも癡迷惑溺ちめいわくできの壮年たりしことは許諾せざるべからず。
 かれは「油地獄」の主人公の如く癡愚無明なりしものなるか。余は、しかく信ずること能はず。彼の文、彼の識、世間の道法を弁ぜざるものとは認め難し。れども渠は迷溺するを免かれざりしなるべし、彼の本地は世間の道法に非ず、世間の快楽にあらず、世間の功利にあらず、進取にあらず、退守にあらず、全然一個の腕白むすこたりしなるべく、何物にか迷ひ何物にか溺るゝにあらざれば、遂に一転するの機会は非ざりしなり。渠はすべてのものを蔑視したるなるべし、浄海も渠を怖れしめず、政権も渠を懸念せしめず、己れの本心も渠を躊躇ちうちよせしむるところなく、激発暴進、鉄欄てつらんの以て繋縛する者あるに至るまでは停駐するところを知らざるなり。
 渠は悪を悪とするを知る、れども悪の悪なるが故にみづから制止することは能はず、能はざるに非ず、するの意志を有せざるなり。善の善なることを知る、れども善の善たるを知りて之をほどこすことは能はず、能はざるに非ず、施すの念をたもたざるなり。彼の一身は一側より言へば、わんぱくなり、他の一側より見れば頑執なり。人のなることを知りて之を姦せんとす、元より非道なり、れども彼は非道を世人の嫌悪する意味に於ての非道とせず。人を己れの慾情の為に殺害するの悖虐はいぎやくなるを知る、れども悖虐を悖虐とする所以は極めて冷淡なる意味に於てなり。故に彼は此大悪を犯さんとする時に、左転右※(「目+分」、第3水準1-88-77)さてんうへんせず、白刃を睡客に加ふるの時に於てすら、彼はなほ大悪の大悪たるを暁知せざるなり。
 かくの如くに冷絶なる傲漢がうかんをして曇天の俄然として開け、皎々たる玉女天外にひかり出でたるが如くならしめたる絶妙の変化は、いかにして来りたるか。殺人の大悪彼を驚懼きやうくせしめ、醒覚せしめしか。しからず。彼は始めより畏懼を知らず。彼に妙変を与へたるもの、別に存するあり、少しく是を言はむ。

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