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人生の意義(じんせいのいぎ)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-8-31 10:51:15  点击:  切换到繁體中文

底本: 現代日本文學大系 6 北村透谷・山路愛山集
出版社: 筑摩書房
初版発行日: 1969(昭和44)年6月5日
入力に使用: 1985(昭和60)年11月10日初版第15刷
校正に使用: 1977(昭和52)年4月20日初版第7刷

 

人間の外に人間を研究すべき者なし、ライフある者の外にライフを研究すべき者なし。近頃ライフの一字、文学社会に多く用ひらるゝに至れるを見て、ひそかに之を祝せんとするの外、あに敢て此大問題を咄嗟とつさの文章にて解釈することをせんや。然るに吾人がこゝにて物好きにも少しくライフの意義に就きて言はんと欲するに至りたるは、決して偶然の事にあらざるなり。
 ライフの一字に真正の解釈を加へんとせば、汎く哲学、宗教、及び諸科学に渉りて之を窮めざるべからず、何となれば、もろ/\の学芸は実にライフを解釈するが為に成立すと云ふとも不可なき程なればなり。然れども、吾人もとより哲学者にあらず、いづくんぞ斯かる面倒なる事を議論するの志あらんや。然るに近頃吾人を評難する者あり、吾人「文学界」の一団を以て、ライフに関する、すべての事を軽んずる者の様に言ひして、しきりに攻撃を試むると覚えたり。余は一個人としては、「文学界」の社末に連れる若年書生のみ、「文学界」全躰として受けたる攻撃に対しては、従来編輯の要務に当れる天知翁の申開まうしひらきありと聞けば、余は決して「文学界」全躰としての攻撃に当る事をせじ、唯だ余一個に対しての攻撃即ち人生問題に関しては、あくまで其責を負ふ積なり。然れども、讒謗ざんばう罵詈ばりを極めたるものに対しては、例令たとひ如何なる名説なりとも、又如何なる毒説なりとも、之に対して何等の答弁をもなさざるべし、余は批評を好むものなり、争ふことを好むものなり、争ふは争ふ為にせざるなり、文章の争に於て敵を作るとも、人と人との間に於て敵を作るを好まざるなり、故に余は讒謗罵詈の始まりたる喧嘩には御暇を頂戴すべし、政党などの争には随分反目疾視してステッキ騒ぎまでるも好し、思想界に於て此の真似をせば、世人誰れか之を健全なる喧嘩と言はむ。
 そも人生といへる言葉には種々の意味あるべしといへども、極めて普通なる意味は、人間の生涯といふ事なり。然るに、近頃英文学思想の漸く入りてより、この人生といふ一字を、彼の語なるライフに当篏あてはめて用ふる事多くなれり。ライフとは前にも言ひし難問にて、哲学上にも随分面倒なるものなるからに、其の字の意義も仲々広きなり。人間成立の今日の有様にも用ひ、すべての生物の原力にも用ひ、宗教上にては生命の木など言ひて之も亦た別の意義なり、その外種々の意義に用ひらるゝものなることは、少しく英書を解するものゝ容易に見分けらるゝ事なり。
 吾人が「人生相渉論」にて用ひたる「人生」の一字は、「頼襄論」の著者が用ひたる字を取りしなり、吾人は其当時に於て、その著者にその字の意義を訊ねしに、著者は之をファクト(事実)の事なりと答へたり(「頼襄論」の著者は余が敬愛する先輩なり、議論こそ異なれ、余は過去に於ても今日に於ても、著者を敬愛するの情に於ては、一点の相違なきなり、但し口頭の争ひが筆端の争となりたるばかりなり)、爰に於て余は、著者の用ひたる「人生」は、人間現存の有様といふ意義にして、決して人性とか生命とかの義に用ひたるにあらざることを知りたり。別に又た、「頼襄論」の著者が文学嫌なることは兼ねて之を承知せり、而して其文学嫌なる原因は、世の中が華文妙辞をもてあそぶを事として、実際道徳にとほざかるを憂ふるに出でたる者なることをも承知して居たるなり。実の所、吾人は「頼襄論」を読んで、非文学党の勢力の余りに強大になりて、清教徒がしたる如き極端にまで進みては、一大事なりと心配したるなり。愛山君は文学が何処までも嫌ひなり、余は文学が何処までも好きなり。余が愛山君にさからひたるも之を以てなり。然るに世間には「人生」といふ字の誤り易きところから、往々にして吾人を以て、ライフといふものを軽んずる者の如く認めて、気早なる攻撃を試むる者あり。人性といひ、人情といふなど、元より「人生」、少くとも「頼襄論」の著者が用ひたる「人生」、とは其の意義を異にせり。故に余が評論したるところの「人生」も亦た、人性とか、人情とか、生命とか云ふものには毛頭の関係も無かりしなり。
 蘇峰先生の「観察論」は、近来の大文と申すもかしこし、元よりわれら如きが讃美し奉るも恐れ多き事なり。哲学にあらざる哲学は吾人の尤も多く敬服する所なり、吾人も亦た詩人哲学者小説家等がみだりに真理を貪るをにくむ者なり。然れども蘇峰先生は、悉皆しつかいの詩人哲学者小説家を以て、ベベルの高塔を築くものなりとは言はれざりし、神知霊覚といふ事は先生も亦た之を認められたり、赤心を以て観るといふ事も大に吾人の心を得たるものなり。人間は霊質二界に棲む者なり、と「現金世界」に於て言はれたる民友子の金言、吾人之を記憶す、民友子は霊界を非認する人にあらざる事知れてあり、その質界を非認する人にあらざる事も知れてあり。然るに世間には、この論文を以て、理想的文学を排撃する目的より出たる者の様に誤解して、幸ひ「人生問題」のある時なれば、彼等理想を重んずる人々は、全く人性を顧みざる者なり、足の無き仙人の様な者なりなど、兎角京童きやうわらべ口善悪くちさがなき、飛んだ迷惑をするものも出来いできたれる次第なるが、これも一つは「人生」といふ字の意義の誤解され易きに因せし者なれば、無暗に敵になり味方になる事なく、心を静めて「人生」の一字を玩味するこそ願はしけれ。
「高蹈派」といふ名称は、何人に加へられたる者なるか、吾人之を知る能はず、然るに例の口善悪なき京童等は、高蹈派とは足の無き仙人の事なり、足の無き仙人とは「文学界」の連中であらうなど言散らして、矢鱈やたらに仙人よばりせられんは余り嬉しき事にあらず。尤も「高蹈派」一条は、「人生問題」とは全く離れたる者なり。人性といふ字も人情といふ字も余り見受けざれば、京童が誤解の種も自然少なき筈なり。
 右の如く、「人生」といふ字の意義によりては、議論も種々になるべければ、傍より口を出す人々は能々よく/\御熟考の上にて御名論を出され可くと存ず。更に之を言へば、余(「文学界」といふ団躰を離れて)と愛山君との議論の焼点は、文学は必らずしも写実的の意義を以て人生に相渉らざる可からざるか、或は又た理想といふものを人生に適用することを許すものなりやの如何いかんにあり。余は理想家でも何でも無し、唯だ余りきびしく文学を事実ファクトに推しつけたがるが愛山君の癖なれば、一時の出来心にて一撃を試みたるのみ、考へて見ればつまらぬ喧嘩にあらずや。
     ~~~~~~~~~~
 愛山君も人が悪るい御方ならずや。僕が「人生相渉論」を難じて君を苦しめたる返報には、唯心的とか凡神的とか、大層なものを持ち出して、十字軍とは余り大袈裟おほげさにあらずや、凡神的とは多分、禅道を唱へらるゝ天知翁をるしめるつもりにて、唯心的とは僕をいぢめる積ならむ。成程、耶蘇教から云へば唯心的は悪るからう、さりながら耶蘇教の中にも唯心的に傾いたものも有らうし、唯物的に傾いた者もあらう、さては又た、君の所謂いはゆる唯心的とは絶対に悪るいといふのであるか、し左様なれば、カントでもヘーゲルでも、スピノザでも御相手に成されて、主観的アイデアリズムでも客観的アイデアリズムでも、絶対的アイデアリズムでも何でも彼でも撃ち平げられたが宜からうと存ずるなり。僕が少しくアイデアリズムに傾いたからとて、十字軍まで起して方々を騒がせるは、僕を人間の片端と思つて下さる事、何とも有難き仕合せなるが、僕は未だアイデアリズムを奉ずる者だとも云はず、如何なる学派の、如何なるアイデアリズムを取るとも云はぬに、十字軍は余り早からずや。僕の詩文が多少アイデアルに流れるは僕も知つて居る。併し、それは詩文の上の事にて、宗教上の問題でもなく、哲学上の問題でもなし。アイデアルとリアルとは詩文の上では誰も免かれない事にて、これをしも攻撃せば文学全躰を攻撃するより外はあるまじ、君の所謂非文学とは此の意味なりや、僕はく信ぜざるなり。十字軍丈は御中止を願ふものに候。

(明治二十六年五月)




 



底本:「現代日本文學大系 6 北村透谷・山路愛山集」筑摩書房
   1969(昭和44)年6月5日初版第1刷発行
   1985(昭和60)年11月10日初版第15刷発行
初出:「文學界 五號」文學界雜誌社
   1893(明治26)年5月31日
入力:kamille
校正:鈴木厚司
2005年3月30日作成
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