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八幡太郎(はちまんたろう)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-9-2 5:54:35  点击:  切换到繁體中文

底本: 日本の英雄伝説
出版社: 講談社学術文庫、講談社
初版発行日: 1983(昭和58)年6月10日
入力に使用: 1983(昭和58)年6月10日第1刷
校正に使用: 1983(昭和58)年6月10日第1刷

 

  一

 日本(にほん)のむかしの武士(ぶし)で一番(ばん)強(つよ)かったのは源氏(げんじ)の武士(ぶし)でございます。その源氏(げんじ)の先祖(せんぞ)で、一番(ばん)えらい大将(たいしょう)といえば八幡太郎(はちまんたろう)でございます。むかし源氏(げんじ)の武士(ぶし)は戦(いくさ)に出る時(とき)、氏神(うじがみ)さまの八幡大神(はちまんだいじん)のお名(な)を唱(とな)えるといっしょに、きっと先祖(せんぞ)の八幡太郎(はちまんたろう)を思(おも)い出(だ)して、いつも自分(じぶん)の向(む)かって行く先々(さきざき)には、八幡太郎(はちまんたろう)の霊(れい)が守(まも)っていてくれると思(おも)って、戦(いくさ)に励(はげ)んだものでした。
 八幡太郎(はちまんたろう)は源頼義(みなもとのよりよし)という大将(たいしょう)の長男(ちょうなん)で、おとうさんの頼義(よりよし)が、ある晩(ばん)八幡大神(はちまんだいじん)からりっぱな宝剣(ほうけん)を頂(いただ)いたという夢(ゆめ)を見(み)ると、間(ま)もなく八幡太郎(はちまんたろう)が生(う)まれました。七つの年(とし)に石清水(いわしみず)八幡(はちまん)のお宮(みや)で元服(げんぷく)して、八幡太郎(はちまんたろう)義家(よしいえ)と名(な)のりました。
 義家(よしいえ)は子供(こども)の時(とき)から弓(ゆみ)がうまくって、もう十二、三という年(とし)にはたいていの武士(ぶし)の引(ひ)けないような上手(じょうず)な弓(ゆみ)を引(ひ)いて、射(い)れば必(かなら)ず当(あ)たるという不思議(ふしぎ)なわざをもっていました。
 ある時(とき)清原武則(きよはらたけのり)というこれも弓(ゆみ)の名人(めいじん)で名高(なだか)かった人が、義家(よしいえ)のほんとうの弓勢(ゆんぜい)を知(し)りたがって、丈夫(じょうぶ)な鎧(よろい)を三重(みかさ)ねまで木の上にかけて、義家(よしいえ)に射(い)させました。義家(よしいえ)はそこらにある弓(ゆみ)に矢(や)をつがえて、無造作(むぞうさ)に放(はな)しますと、鎧(よろい)を三枚(まい)とおして、後(うし)ろに五寸(すん)も鏃(やじり)が出ていました。

     二

 大きくなって、義家(よしいえ)はおとうさんの頼義(よりよし)について、奥州(おうしゅう)の安倍貞任(あべのさだとう)、宗任(むねとう)という兄弟(きょうだい)の荒(あら)えびすを征伐(せいばつ)に行きました。その戦(いくさ)は九年(ねん)もつづいて、その間(あいだ)にはずいぶんはげしい大雪(おおゆき)に悩(なや)んだり、兵糧(ひょうろう)がなくなって危(あや)うく餓(う)え死(じ)にをしかけたり、一時(じ)は敵(てき)の勢(いきお)いがたいそう強(つよ)くって、味方(みかた)は残(のこ)らず討(う)ち死(じ)にと覚悟(かくご)をきめたりしたこともありましたが、その度(たび)ごとにいつも義家(よしいえ)が、不思議(ふしぎ)な智恵(ちえ)と勇気(ゆうき)と、それから神様(かみさま)のような弓矢(ゆみや)の技(わざ)で敵(てき)を退(しりぞ)けて、九分九厘(くぶくりん)まで負(ま)け戦(いくさ)にきまったものを、もり返(かえ)して味方(みかた)の勝利(しょうり)にしました。
 それで戦(たたか)えば戦(たたか)うたんびに八幡太郎(はちまんたろう)の名(な)が高(たか)くなりました。さすがの荒(あら)えびすもふるえ上(あ)がって、しまいには八幡太郎(はちまんたろう)の名(な)を聞(き)いただけで逃(に)げ出(だ)すようになりました。
 けれども、強(つよ)いばかりが武士(ぶし)ではありません。八幡太郎(はちまんたろう)が心(こころ)のやさしい、神様(かみさま)のように情(なさ)けの深(ふか)い人だということは、敵(てき)すらも感(かん)じて、慕(した)わしく思(おも)うようになりました。
 それはもう長(なが)い長(なが)い九年(ねん)の戦(たたか)いもそろそろおしまいになろうという時分(じぶん)のことでした。ある日はげしい戦(いくさ)のあとで、義家(よしいえ)は敵(てき)の大将(たいしょう)の貞任(さだとう)とただ二人(ふたり)、一騎(き)打(う)ちの勝負(しょうぶ)をいたしました。そのうちとうとう貞任(さだとう)がかなわなくなって、馬(うま)の首(くび)を向(む)けかえして、逃(に)げて行こうとしますと、義家(よしいえ)は後(うし)ろから大きな声(こえ)で、

「衣(ころも)のたては
ほころびにけり。」

 と和歌(わか)の下(しも)の句(く)をうたいかけました。すると貞任(さだとう)も逃(に)げながら振(ふ)り向(む)いて、

「年(とし)を経(へ)し
糸(いと)の乱(みだ)れの
苦(くる)しさに。」

 とすぐに上(かみ)の句(く)をつけました。これは戦(いくさ)の場所(ばしょ)がちょうど衣川(ころもがわ)のそばの「衣(ころも)の館(たて)」という所(ところ)でしたから、義家(よしいえ)が貞任(さだとう)に、
「お前(まえ)の衣(ころも)ももうほころびた。お前(まえ)の運(うん)ももう末(すえ)だ。」
 とあざけったのでございます。すると貞任(さだとう)も負(ま)けずに、
「それはなにしろ長年(ながねん)の戦(いくさ)で、衣(ころも)の糸(いと)もばらばらにほごれてきたからしかたがない。」
 とよみかえしたのでした。
 これで義家(よしいえ)もいかにも貞任(さだとう)がかわいそうになって、その日はそのまま見逃(みのが)してかえしてやりました。
 けれども一度(ど)は逃(に)がしてやっても、いったい運(うん)の尽(つ)きたものはどうにもならないので、間(ま)もなく貞任(さだとう)は殺(ころ)され、弟(おとうと)の宗任(むねとう)も生(い)け捕(ど)りになって、奥州(おうしゅう)の荒(あら)えびすは残(のこ)らず滅(ほろ)びてしまいました。そこで頼義(よりよし)と義家(よしいえ)の二人(ふたり)は九年(ねん)の苦(くる)しい戦(いくさ)の後(のち)、生(い)け捕(ど)りの敵(てき)を引(ひ)き連(つ)れて、めでたく京都(きょうと)へ凱旋(がいせん)いたしました。

     三

 京都(きょうと)へ帰(かえ)って後(のち)、敵(てき)の大将(たいしょう)の宗任(むねとう)はすぐに首(くび)を切(き)られるはずでしたけれど、義家(よしいえ)は、
「戦(いくさ)がすんでしまえば、もう敵(てき)も味方(みかた)もない。むだに人の命(いのち)を絶(た)つには及(およ)ばない。」
 と思(おも)いました。そこで天子(てんし)さまに願(ねが)って、自分(じぶん)が御褒美(ごほうび)を頂(いただ)く代(か)わりに、宗任(むねとう)はじめ敵(てき)のとりこを残(のこ)らず許(ゆる)してやりました。その中で宗任(むねとう)はそのまま都(みやこ)に止(とど)まって、義家(よしいえ)の家来(けらい)になりたいというので、そばに置(お)いて使(つか)うことにしました。
 宗任(むねとう)はいったん義家(よしいえ)に命(いのち)を助(たす)けてもらったので、たいそうありがたいと思って、義家(よしいえ)の徳(とく)になつくようになったのですが、元々(もともと)人を恨(うら)む心(こころ)の深(ふか)い荒(あら)えびすのことですから、自分(じぶん)の一家(いっか)を滅(ほろ)ぼした義家(よしいえ)をやはり憎(にく)らしく思(おも)う心(こころ)がぬけません。それでいつか折(おり)があったら、殺(ころ)して敵(かたき)を討(う)ってやろうとねらっておりました。けれども義家(よしいえ)の方(ほう)はいっこう平気(へいき)で、昔(むかし)から使(つか)いなれた家来(けらい)同様(どうよう)宗任(むねとう)をかわいがって、どこへ行(い)くにも、「宗任(むねとう)、宗任(むねとう)。」とお供(とも)につれて歩(ある)いていました。
 するとある晩(ばん)のことでした。義家(よしいえ)はたった一人(ひとり)宗任(むねとう)をお供(とも)につれて、ある人の家(いえ)をたずねに行(い)って、夜(よる)おそく帰(かえ)って来(き)ました。宗任(むねとう)は牛車(うしぐるま)を追(お)いながら、今夜(こんや)こそ義家(よしいえ)を殺(ころ)してやろうと思(おも)いました。そこで懐(ふところ)からそろそろ刀(かたな)を抜(ぬ)きかけて、そっと車(くるま)の中をのぞきますと、中では義家(よしいえ)がなんにも胸(むね)にわだかまりのない顔(かお)をして、すやすや眠(ねむ)っていました。宗任(むねとう)はその時(とき)、
「敵(てき)のわたしにただ一人(ひとり)供(とも)をさせて、少しも疑(うたが)う気色(けしき)も見(み)せない。どこまで心(こころ)のひろい、りっぱな人だろう。」
 と感心(かんしん)して、抜(ぬ)きかけた刀(かたな)を引(ひ)っこめてしまいました。そしてそれからはまったく義家(よしいえ)になついて、一生(いっしょう)そむきませんでした。
 それからまたある時(とき)、義家(よしいえ)はいつものとおり宗任(むねとう)を一人(ひとり)お供(とも)につれて、大臣(だいじん)の藤原頼通(ふじわらのよりみち)という人のお屋敷(やしき)へよばれて行ったことがありました。頼通(よりみち)は義家(よしいえ)にくわしく奥州(おうしゅう)の戦争(せんそう)の話(はなし)をさせて聞(き)きながら、おもしろいので夜(よ)の更(ふ)けるのも忘(わす)れていました。ちょうどその時(とき)、このお屋敷(やしき)にその時分(じぶん)学者(がくしゃ)で名高(なだか)かった大江匡房(おおえのまさふさ)という人が来合(きあ)わせていて、やはり感心(かんしん)して聞(き)いていましたが、帰(かえ)りがけに一言(ひとこと)、
「あの義家(よしいえ)はりっぱな大将(たいしょう)だが、惜(お)しいことに戦(いくさ)の学問(がくもん)ができていない。」
 とひとり言(ごと)のようにいいました。するとそれを玄関先(げんかんさき)で待(ま)っていた宗任(むねとう)が小耳(こみみ)にはさんで、後(あと)で義家(よしいえ)に、
「匡房(まさふさ)がこんなことをいっていました。何(なに)もわからない学者(がくしゃ)のくせに、生意気(なまいき)ではありませんか。」
 といって、怒(おこ)っていました。けれども、義家(よしいえ)は笑(わら)って、
「いや、それはあの人のいう方(ほう)がほんとうだ。」
 といって、そのあくる日改(あらた)めて匡房(まさふさ)のところへ出かけて行って、ていねいにたのんで、戦(いくさ)の学問(がくもん)を教(おし)えてもらうことにしました。

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