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大捕物仙人壺(おおとりものせんにんつぼ)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-9-2 6:26:25  点击:  切换到繁體中文


18[#「18」は縦中横]

 ちょうど同じ夜のことであったが、芝三田の義哉よしやの家では、奇怪な事件が行なわれた。主人義哉が出かけて行った後、小間使のお花は雇女ばあやと一緒に、台所で炊事を手伝っていた。
 と、口笛の音がした。
 物みな懐かしい春の宵で、後庭では桜が散っていた。
 ヒューヒューと鳴る口笛の音も春の夜にはふさわしかった。
 しかしその時、居間の方で、変にカキカキいう音がした。
「おや」とお花は聞耳を立てたが、手にねぶかを持ったまま、急いでそっちへ行ってみた。
 一匹の奇形な動物が、背をうねらして走り廻っていた。犬のように大きな鼬であったが、口に手箱を銜えていた。
「あっ」とお花は悲鳴をあげ、無宙で葱を投げつけた。
 鼬の何よりも嫌いなのは、刺戟性の葱の匂であった。それで、鼬は一跳ね跳ねると、食わえていた手箱を振り落し、庭の茂へ走り込んだ。
「ああ恐かった」と溜息をしながら、お花はしばらく立ち縮んだものの、気が付いて手箱を取り上げた。
 彼女は利口な女であった。鼬が手箱を狙ったのは偶然ではあるまいと推量した。そこで、手箱を持ったまま女中部屋の方へ入って行った。ふたたび彼女が現われた時には、風呂敷に包んだ小さな箱を、大事そうに両手で捧げていた。そうして主人の居間へ行くと、袋戸棚をそっと開け大切そうにしまい込んだ。
 お花の聡明な心遣いが、無駄でなかったということは、その夜が更けてから証明された。
 庭の茂がかすかに揺れると、香具師やし風の若者が手拭でスッポリ顔を隠し、刻み足をして現われたが、ぴったりと雨戸へ身を寄せた。
 こういうことには慣れていると見え、二三度小手を動かしたかと思うと音もなく雨戸がスルスルとあき、横縁が眼前に現われた。その向こうに障子が見え、それを開けると義哉の居間で、主人がいないにも拘らず燈火あかりがポッと射していた。
 香具師風の若者は、膝で歩いて障子へ寄り、内の様子をうかがったが、誰もいないと確かめると躊躇せず障子を引きあけた。それからスックリ立ち上ると袋戸棚の前へ行き、手早く箱を取り出した。
 その時人の気勢けはいがした。
 あわてた彼は盗んだ箱を手早く懐中へ捻じ込んだが、もう足音を忍ぼうともせず、縁から庭へ飛び下りた。
 ざわざわと茂みの揺れる音、つづいて口笛の音がしたが、後は寂然としずかになった。引き違いに居間へ現われたのは、例の小間使いのお花であって、先ず静かに雨戸をとじ、それからしとやかに障子をしめた。
 見れば手箱を持っている。
 乙女に有り勝ちの好奇心が、彼女の心に湧いたのであろう、燈火ともしびの前へ坐りこむと、先ず髪から簪を抜き、その足を鍵穴へ差し込んだ。しかし錠前は外れなかった。
 で、手箱を膝の上へのせ、しばらくじっと考え込んだ。
 見る見る彼女の眼の中へ燃えるような光が射して来た。
 彼女は突然叫び出した。「泥棒どろぼうでございます泥棒でございます!」
 そうして手早く杉の手箱を自分のふところへ捻じ込んだ。
 けたたましい声に仰天して、家の人達が集まって来たのは、その次の瞬間のことであったが、いかさま縁にも座敷にも泥足の跡が付いているので、賊の入ったことは証拠立てられた。
 そこで八方へ人が飛んだ。しかし賊は見付からなかった。
 そうして何を盗まれたものか、かいくれ見当がつかなかった。
 と云うのは金にも器類にも、紛失したものがないからであった。

19[#「19」は縦中横]

 ちょうど同じ夜の出来事である。
 岡山頭巾で顔を包んだ、小兵の武士が供もつれず、江戸の街を歩いていた。
 すると、その後をけるようにして、十人ばかりの屈強の武士が、足音を盗んで近寄って来た。
 覆面の武士は幕府の重鎮勝安房守安芳かつあわのかみやすよしで、十人の武士は刺客なのであった。
 今日の東京の地図から云えば、日本橋区本石町ほんごくちょうを西の方へ向かって歩いていた。室町を経て日本橋へ出、京橋を通って銀座へ出、尾張町の辻を真直ぐに進み、芝口の辻までやって来た。
 この間二三度刺客達は、討ち果そうとして走りかかったが、安房守の威厳にたれたものか、いつも途中で引き返してしまった。
 だが一体何のために勝安房守を殺そうとするのだろう? そうして一体刺客達は、どういう身分の者なのだろう。
 それを知りたいと思うなら、当時の歴史を調べなければならない。
 慶応けいおう三年九月であったが、土佐とさ山内容堂やまのうちようどう侯は、薩長二藩が連合し討幕の計略をしたと聞き、これは一大事と胸を痛めた。そこで一通の建白書を作り、後藤象二郎ごとうしょうじろう福岡孝悌ふくおかこうてい、この二人の家臣をして将軍慶喜にたてまつらしめ、平和に大政を奉還せしめ、令政をして一途に出でしめ、世界の大勢に順応せしめ、日本の国威を揚げしめようとした。そこで慶喜は十月十三日、京都二条城に群臣を集め、大政奉還の議を諮詢しじゅんした。その結果翌十四日、いよいよ大政奉還の旨を朝廷へ対して奏聞そうもんした。一日置いた十六日朝廷これを嘉納した。つづいて同月二十四日、慶喜は更に将軍職をも、辞退したき旨奏聞したが、これは保留ということになった。
 さて一方朝廷に於ては、施政方針を議定するため、小御所こごしょで会議を行なわせられた。中山忠能なかやまただよし正親町實愛おおぎまちさねなる徳大寺實則とくだいじさねのり岩倉具視いわくらともみ徳川慶勝とくがわよしかつ松平慶永まつだいらよしかげ島津義久しまづよしひさ山内容堂やまのうちようどう西郷隆盛さいごうたかもり大久保利通おおくぼとしみち後藤象二郎ごとうしょうじろう福岡孝悌ふくおかこうてい、これらの人々が参会した。十二月八日のことであった。その結果諸般の改革を見、翌九日、天皇親臨しんりん、王政復古の大号令を下され、徳川幕府は十五代、二百六十五年を以て、政権朝廷に帰したのであった。
 慶喜に対する処置としては、内大臣を辞すること、封土一切を返すべきこと、この二カ条が決定された。
 旧幕臣は切歯した。慶喜としても快くなかった。会桑かいそう二藩は特に怒った。突然十二月十二日の夜慶喜は京都から大坂へ下った。松平容保かたもち、松平定敬さだよし、他幕臣が従った。
 こうして起ったのが維新史に名高い伏見鳥羽の戦いであった。明治元年正月三日から、六日に渡って行なわれたのであった。そうして幕軍大いについえ、六日夜慶喜は回陽丸に乗じ、海路江戸へ遁竄とんざんした。
 ここでいよいよ朝廷に於ては、慶喜討伐の大軍を起され、江戸に向けて発することにした。有栖川宮熾仁ありすがわのみやたるひと親王を征東大総督せいとうだいそうとくに仰ぎまつり、西郷隆盛さいごうたかもり参謀、薩長以下二十一藩、雲霞うんかの如き大軍は東海東山とうかいとうざん、北陸から、堂々として進出した。そうして三月十五日を以て、江戸総攻撃と決定された。
 江戸はほとんど湧き返った。旗本八万騎は奮起した。薩摩と雌雄を決しようとした。しかし聡明な徳川慶喜は、惰弱に慣れた旗本を以て、慓悍な薩長二藩[#「薩長二藩」は底本では「薩摩二藩」]の兵と、干戈かんかを交えるということの、不得策であることを察していた。それに外国が内乱に乗じ、侵略の野心を逞しゅうし、大日本国の社稷しゃしょくをして危からしめるということを、特に最も心痛した。そこで幕臣第一の新知識、勝安房守に一切を任せ、自身は上野の寛永寺に蟄居し、恭順の意を示すことにした。
 初名義邦よしくに、通称は麟太郎りんたろう、後安芳やすよし、号は海舟かいしゅう、幕末じゅう位下いげ安房守あわのかみとなり、軍艦奉行、陸軍総裁を経、さらに軍事取扱として、幕府陸海軍の実権を、文字通り一手に握っていたのが、当時の勝安房守安芳であった。武術は島田虎之助に学び、蘭学は永井青涯に師事し、一世をむなしうする英雄であったが、慶喜に一切を任せられるに及び、大久保一翁、山岡鐡舟などと、東奔西走心胆を砕き、一方旗本の暴挙を訓め、他方官軍の江戸攻撃をい止めようと努力した。
 幕臣の中過激な者は、その安房守の遣り口を、手ぬるいと攻撃するばかりでなく、徳川を売って官軍にく獅子身中の虫だと云って、暗殺しようとさえ企てた。
 それを避けなければならなかった。
 日々幕兵は脱走した。それを引き止めなければならなかった。
 で、この夜もただ一人府内ふないの動静を探ろうとして、こうして歩いているのであった。

20[#「20」は縦中横]

 芝口の辻を北へ曲がり安房守あわのかみは悠々と歩いて行った。
 下桜田しもさくらだ[#「下桜田」はママ]まで来た時であった。ふと彼は足を止めた。その機会を狙ったのであろう、刺客の一人が群を離れ、さっと安房守の背後に迫った。
 と、突然安房守が云った。
「うむ、日本は大丈夫だ! この騒乱の巷の中で、三味線を弾いている者がある。うむ、曲は『山姥やまうば』だな。……唄声にも乱れがない。ばちさばきもあざやかなものだ。……いい度胸だな。感心な度胸だ。人はすべからくこうなくてはならない。蠢動するばかりが能ではない。亢奮するばかりが能ではない。宇内うだいの大勢も心得ず、人斬包丁ばかり振り廻すのは人間の屑と云わなければならない。……いい音締だな小気味のよい音色だ」
 それは呟いているのではなく、大声で喋舌しゃべっているのであった。背後に迫って来た刺客の一人へ、聞かせようとして喋舌っているらしい。
 宵ながら町はひっそりと寂れ、時々遙かの方角から脱走兵の打つらしい小銃の音が響いてきたが、その他には犬の声さえしない。
 その静寂を貫いて、咽ぶがような、清元の音色が、一脈綿々と流れてきた。
 刺客の一人は立ち止まり、じっと安房守を見守った。その安房守は背を向けたまま、平然として立っていた。まことに斬りよい姿勢であった。一刀に斬ることが出来そうであった。
 それだのに刺客は斬らなかった。一間ばかりの手前に立ち、ただじっと見詰めていた。彼は機先を制されたのであった。叱※(「口+它」、第3水準1-14-88)するような安房守の言葉に、強く胸を打たれたのであった。しかし今にも抜き放そうとして、しっかり握っている右の手を柄から放そうとはしなかった。
「斬らなければならない! たたっ斬らなければならない! 二股武士、勝安房守かつあわのかみ[#「勝安房守かつあわのかみ」は底本では「勝安房安かつあはのかみ」]! だが不思議だな、斬ることが出来ない」
 刺客の心は乱れていた。
 と、唄声がはっきり聞こえた。

※(歌記号、1-3-28)雁がとどけし玉章たまづさは、小萩のたもとかるやかに、返辞へんじしおんも朝顔の、おくれさきなるうらみわび……

 安房守は立っていた。同じ姿勢で立っていた。それからまたも喋舌り出した。
「女ではない、男だな。しかも一流の太夫らしい。一流となれば大したものだ。政治であれ剣道であれ、遊芸であれ官教であれ、一流となれば大したものだ。もっとも中には馬鹿な奴もある。剣技精妙第一流と、多くの人に立てられながら、物の道理に一向昏く無闇と人ばかり殺したがる。この安芳やすよしをさえ殺そうとする。馬鹿な奴だ。大馬鹿者だ。今この安芳を暗殺したら、慶喜公の御身はどうなると思う。徳川の家はどうなると思う。俺は官軍の者どもに、お命乞いをしているのだ。慶喜公のお命乞いを。……俺の命などはどうなってもよい。俺はいつもこう思っている。北条義時ほうじょうよしときに笑われまいとな。実に義時は偉い奴だ。天下泰平のそのためには、甘んじて賊臣の汚名を受け、しかも俯仰天地ふぎょうてんち[#「俯仰天地」は底本では「俯抑天地」]に恥じず、どうどうと所信を貫いた。……俺は義時にのっとろうと思う。日本安全のそのためには、小の虫を殺し大の虫を助け、敢て賊子ぞくしに堕ちようと思う。……どだい薩長と戦って、勝てると思うのが間違いだ。いかんともしがたいは大勢だ。社会の新興勢力は、どんなことをしても抑制出来ぬ。王政維新は大勢だ。幕府から人心は離れている。それはもう旧勢力だ。利益のなくなった偶像だ。徳川の天下も二百六十年、そろそろ交替していい時だ。偶像をおがむのは惰性に過ぎない。こびり付くのは愚の話だ。新時代を逃がしてはいけない。日本を基礎にした世界主義! 国家を土台にした国際主義! これが当来の新思想だ。仏蘭西フランスを見ろ仏蘭西を! ナポレオン三世の奸雄かんゆう振のいかに恐ろしいかを見るがいい! 日本の国土を狙っているのだ。内乱に乗じて侵略し、利権を得ようと焦心あせっているではないか。それだけでも内乱を止めなければならない。……第一江戸をどうするのだ。罪のない江戸の市民達を。兵戦にかけて悔いないのか。いやいやそれは絶対にいけない。江戸と市民は助けなければならない。そうして徳川の大屋台と慶喜公とは助けなければならない。……どいつもこいつも血迷っている。醒めているのは俺だけだ。俺がそいつらを助けなかったら、一体誰が助けるのだ。俺を絶対に殺すことは出来ぬ。殺したが最後日本は闇だ。……官軍の中にもわかる奴がいる。他でもない西郷だ。西郷吉之助ただ一人だ。で俺はきゃつに邂逅ゆきあい、赤心を披瀝して談じるつもりだ。解ってくれるに相違ない。そこで江戸と江戸の市民と、徳川家と慶喜公とは、助けることが出来るのだ。その結果内乱は終息し、日本の国家は平和となり、上下合一、官民一致、天皇帰一、八こう、新時代が生れるのだ」

21[#「21」は縦中横]

 安房守あわのかみ[#ルビの「あわのかみ」は底本では「あはのかみ」]はじっと耳を澄ました。
 空では星がまばたいていた。ふと小銃の音がしたが、しかしたった一発だけであった。
 清元きよもとの唄はなお聞えた。
「ああいいなあ。名人の至芸しげいだ」安房守は嘆息した。それから大声でやり出した。「俺はもとからの江戸っ子だ。俺の好きなのは平民だ。勝麟太郎かつりんたろう、これでいいのだ。つめて云うと勝麟だ。従五位も無用なら安房守も無用だ。勝麟々々これでいいのだ。だがそう云ってはいられない。勝麟では済まされない。世間の奴らが酔っていて、俺一人醒めているからよ。そこで救世と出かけたのだ。厭な役廻りだがしかたがない。扶桑ふそう第一の智者と称し、安房の国の旋陀羅せんだらの子、聖日蓮セントにちれん[#「日蓮」は底本では「日連」]は迫害を覚悟で、世の荒波へ飛び出して、済民さいみんの法を説いたではないか。現代第一の智者と云えば、この俺の他にはない。つまり俺は日蓮なのだ。つまり俺は祖師そしなのだ。その祖師様を殺そうとは、とんでもない不届者だ。すぐに仏罰を蒙ろうぞ。……ああ、だが、本当に、いい音色だなあ。……」
 春の夜風がそよぎ出した。
 手近の木立で小鳥が啼いたが、きっと夢でも見たのだろう。
 なまめかしい春の夜の、甘い空気を顫わせて、艶な肉声と三味線の音とは、なおあざやかに聞こえていた。
 刺客は頭をうな垂れた。柄を握っていた右の手は、いつかダラリと下っている。と、一足しりぞいた。それからグルリとむきを変えると、もと来た方へ引っ返した。
 その時、安房守は振り返った。
「これちょっと待て、伊庭いば八郎!」
「はっ」と云うとその刺客は、足を止めて振り返った。うら若い美貌の武士であり、それは伊庭八郎であった。八郎は父軍兵衛ぐんべいと共に、この時代の大剣豪、斉藤弥九郎さいとうやくろう、千葉周作、桃井春蔵ももいしゅんぞう、近藤勇、山岡鐡舟、榊原健吉さかきはらけんきち、これらの人々と並称されている。身、幕臣でありながら、道場をかまえて門下を養い、心形刀流を伝えたが、直門二千名に及んだという。
 幕臣も幕臣、奥詰めだったので、親衛隊のさきがけであり、伏見鳥羽の戦いにも出て、幾百人となく敵を斬った。
 その彼は直情の性格から、同じ幕臣の勝安房守が、いわゆる恭順派の総師として、薩長の士と交渉することを、徳川家のために歯掻く思い、獅子身中の虫と感じ、いっそ暗殺して害をのぞこうと、日頃から画策していたのであったが、この夜いよいよ断行すべく、門下の壮士九人を率い勝安房守の後をつけ、剣を揮おうとしたのであった。
「どうだ、少しはわかったかな?」安房守は微笑した。
 しかし八郎は黙っていた。
「ないない」と安房守は穏やかに云った。「勿論全部は解らないだろう。だがこの俺を殺すことの、理不尽だという事は解ったらしいな」
「はい、さようにございます」伊庭八郎は一礼した。「見損ないましてございます」
「世の中は近々平和になるよ。だが今後とも小ぜりあいはあろう。幕臣たる者は油断してはならない。八郎、お前、久能山くのうざんへ行け! 函嶺かんれいけんやくしてくれ!」
「それは、何故でございますな?」
「二三日中に西郷と逢う。そうして俺は談判する。俺の言葉を入れればよし、もし不幸にして入れなかったら、幕府の軍艦を一手に集め、東海道の薩長軍を、海上から俺は殲滅して見せる。函根はこね、久能山は大事な要害だ。敵に取られては面白くない。……まあ八郎聞くがいい、どうだ冴え切った三味線ではないか」
「よい音色でございますな」
 思わず八郎も耳を澄した。
 遠くで二つバンが鳴っていた。
 どこかに火事でもあると見える。
 しめやかに三味線はなお聞えた。
 にわかに八郎は呻くように云って、
「これは不思議! 剣気がござる!」
「ナニ剣気? ほんとかな?」安房守は眼を見張った。
「これは只事ではございません」
「お前は剣道では奥義の把持者はじしゃだ。俺などよりずっと上だ。お前がそう云うならそうかもしれない」
「これは危険がせまって居ります」
「ふうむ、そうかな。そうかもしれない」
「これは助けなければなりません」
 八郎は背後を振り返り、手を上げて門下を呼んだ。
 曲は終りに近づいてきた。

 毛脛けずね屋敷の床の下に、大きな地下室が出来ていた。
 この屋敷が建てられたのは、正保しょうほ年間のことであって、慶安謀反の一方の将軍、金井半兵衛正国かないはんべえまさくにずっと住んでいたということであった。で、恐らく地下室は、その時分に造られたものであろう。素行山鹿甚五右衛門やまがじんごえもんの高弟、望月作兵衛もちづきさくべえもそこに住み著述をしたということであるが、爾来幾度か住人が変わり、建物も幾度か手を入れられたが、天保てんぽうになって一世の剣豪、千葉周作政成の高弟、宇崎三郎が住んだことがあったが、この時代から怪異があったと、翁双紙おきなぞうしなどに記されてある。本所七不思議のその中にも、毛脛屋敷というのがあるが、それとこれとは別物なのである。
 百目蝋燭が地下の部屋の、一所に点っていた。
 黄色い光がチラチラとだだっ広い部屋を照らしている。
 かすかではあったが三味線の音が、天井の方から聞えてきた。
 十四五人の人間がいる。
 そうして気絶した美しい紫錦が、床の上にたおれていた。

22[#「22」は縦中横]

「ふん、こうなりゃアこっちの物さ。……三ピンめ、驚いたろう」
 こう云ったのは源太夫であった。「だが案外手強かったな、唄うたいにゃ似合わねえ」
「坊主の六めどうしたかな」こう云ったのは小鬢の禿た四十年輩の小男であった。「三ピンめに一太刀浴びせられたが」
「ナーニ大丈夫だ、くたばりゃアしねえ。死った所で惜しかアねえ」もう一人の仲間がこう云った。
「三ピンめ、さぞかし驚いたろう」源太夫は繰り返した。「よもや地下室があろうとは、仏さまでも知るめえからな。消えてなくなったと思ったろうよ。……紫錦しきんめ、そろそろ目を覚さねえかな」
 紫錦は気絶からまだ醒めない。グッタリとしてたおれていた。髪が崩れて額へかかり、蝋燭の灯に照らされていた。
 源太夫はじっと見詰めていたが、溜息をし舌なめづりをした。
「だが親方はどうしただろう?」
 もう一人の仲間が不安そうに云った。
「大丈夫だよ、親方のことだ、ヘマのことなんかやるはずはねえ」
「それにえて物を連れて行ったんだからな」
あいつときたら素ばしっこいからな」
 二三人の仲間が同時に云った。
 地下室は寒かった。蝋燭の灯がまたたいた。
「酒を呑みたいなあ」と誰かが云った。
「まあ待ちな、もう直ぐだ。なんだか知らねえが親方が宝箱を持って来るんだとよ」
「何が入っているんだろう?」
「小さな物だということだ」
「で、うんと金目なんだな」
「一度にお大尽だいじんになるんだとよ」
「源公!」
 と一人が呼びかけた。「ひどくお前は幸福そうだな。思う女を取り返したんだからな。……幸福って物ア直ぐに逃げる。今度逃がしたら取り返しは付かねえ」
 源太夫はそっちへ眼をやった。
「ふん、女に惚れているんだな」
「あたりめえだ、惚れてるとも、だから苦心して取り返したんだ」
「だがくねえぜ、そういうれ方は、古い惚れ方っていうやつだ
 源太夫はその眼を光らせたが
「じゃ何が新らしいんだ」
「お前は承知させて、それからにしようって云うんだろう? だめだよだめだよそんなことは……」
「俺には出来ねえ、殺生な真似はな」
「じゃあお前は縮尻しくじるぜ」
 源太夫は返辞いらえをしなかった。
「叩かれると犬はいて来る。すると犬は喰らいつく。……」
 源太夫は考え込んだが、突然飛び上り喚声をあげた。
「お前の云うことは嘘じゃねえ!」

23[#「23」は縦中横]

 この時二階の一室では、最後の節が唄われていた。
 小堀義哉こぼりよしやの心の中は泉のように澄んでいた。
 なんの雑念も混じっていなかった。死に面接した瞬間に、人間の真価は現われる。驚くもの恐れるもの、もがくもの泣き叫ぶもの、そうして冷やかに傍観するもの、又突然悟入ごにゅうするもの、しかし義哉の心持は、いずれにもはまっていなかった。彼は三味線の芸術境に、没頭三昧することによって、すべてを忘れているのであった。
山姥やまうば』の曲が終ると同時に、彼は死ななければならなかった。そうして殺し手が白刄をげ、彼の背後に立っていた。
 時はズンズン経って行った。
 もう直ぐ曲は終わるのである。

※(歌記号、1-3-28)つゆにもぬれてしっぽりと、伏猪ふすいの床の菊がさね……

 彼は悠々と唄いつづけた。
 異風変相の浪士達にも、名人の至芸はわかると見えて、首を垂れて聞き惚れていた。
 独楽師に扮した一人の浪士は「旨い!」と思わず呟いた、居合抜に※(「にんべん+肖」、第4水準2-1-52)やつしたもう一人の浪士は、「ウーン」と深い呻声を洩らし、商人に扮した二人の浪士は顔と顔とを見合わせた。
 一座の頭領と思われる、琵琶師風の一浪士は、刀の柄を握ったまま堅くその眼を閉じていた。
 時はズンズン経って行った。
 伊庭八郎とその同志は、勝安房守の指図の下に、毛脛屋敷の表戸を、踏み破ろうと待ち構えていた。
「まずつがよい」
 と安房守は云った。「めったに聞けない名人の曲だ。唄い終えるまで待つとしよう」
 それで、一同は鳴りを静め、三味線の絶えるのを待っていた。
 さてそれから行なわれたのが、その当時の人が噂した所の「毛脛屋敷の大捕物」であり、そうして後になってその捕物が「仙人壺」というものに関係あり、と知り、改めて「大捕物仙人壺」と呼んだ、その風変りの捕物であった。
 何故この捕物が風変わりであり、何故有名になったかというに、先づ第一にそれを指揮した者が、勝海舟という大人物であり、捕物のしょうにあたった人物が、伊庭八郎とその門下という、これも高名の人々だったからで。……
 そうして捕えられた者共が、千代田城へ放火しようとした精悍な浪士の一群と、当時江戸を騒がせていた、いたち使いの香具師やし一派という、風変わりの連中であったからである。
 しかし捕物そのものは、まことに簡単に行なわれた。
 即ち伊庭八郎一派の者が、三味線の音の絶えると同時に、毛脛屋敷へ乱入するや、浪士の群は狼狽し、逃げようとしてひしめくところを、あるいは斬り、あるいは捕縛し、その物音に驚いて、地下室にいた源太夫一味が、周章あわてて遁がれようとするところを、これも斬ったり捕えたりして、一人のこさず狩取った迄であった。
 その結果お錦と小堀義哉とは、命を助かることが出来た。
 香具師の親方「釜無しの文」だけは、ちょうどそこに居なかったので、これも命を助かった。

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