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正雪の遺書(しょうせつのかきおき)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-9-2 7:40:39  点击:  切换到繁體中文




 とはいえさすがのこの私も、貴郎あなたから差し紙を戴いた時には、思わず呼吸いきを呑みました。
「これは少しくやり過ぎたな」
 咄嗟にこのように思いました。
「処士の身分で華美きらびやかな振舞、世の縄墨を乱す者とあって、軽く追放重くて流罪、遁れおおすことはよもなるまい」
 それで私は心ひそかに覚悟をめたのでございます。そうして当日は、乗物をも用いず辰の口のお役宅まで、お伺いしたのでございました。
 するとどうでしょう、お取次の人がさも鄭重に案内して、質素ではあるがいとも結構なお座敷へ、通されたではございませんか。それからお菓子、それからお茶――お客人としての待遇を致されたではございませんか。
「はてな?」と私は考えました。
「皮肉か? それともお戯むれか? しかしかりそめにも天下のご老中! 左様なことはよもあるまい。深い仔細のある事かも知れぬ」
 ――こう思わざるを得ませんでした。
 やがて傍らの襖が開いて姿を現わされたのは貴郎でした。
「由井殿ようこそ参られたの」
 立ったままこの様に声を掛けられ、双方の間三尺を距てず、ピタリとお坐りになられた時には、いよいよ驚いてしまいました。
「今日は公の会見ではのうて、平の松平信綱と正雪殿との懇談じゃと、斯様こう思召おぼしめし下されい……さてそこでご貴殿のご器量と、ご名声とにお縋りしてお頼み致したい一儀がござるが、お聞き届け下されようや? ――と藪から棒に申してはご返答にもお困りであろうが、余の儀ではござらぬ、謀叛遊ばされい!」
「え?」と私は眼を上げて、貴郎のお顔を見詰めたはずです。
「徳川幕府に弓引かれいと、信綱お進め申すのじゃ。いや驚くには及び申さぬ。勿論これは奇道でござって正道はその裏にござるのじゃ! ――徳川も今は三代となり平和の瑞気充々みちみちて見ゆれど、遠くは豊臣の残党や近くは天草の兇徒の名残り、又はご当家の御代となって取り潰された加藤、福島の、遺臣のともがら、徳川家を怨んで乗ずべき隙もあれかしと虚を狙っているに相違ござらぬ。一網打尽に致したけれど罪を犯さねばそれもならぬ。頼みというのはここのことでござる。貴殿の勝れた才覚をもってこれらの者共を糾合して、事を起こしては下さるまいか」
 つまり私に徳川幕府の細作かんじゃになれと云われるのでした。当代の政治しおき順服まつろわぬ徒輩とはいを一気に殲滅ほろぼす下拵えを私にせよというのでした。
 私は当惑する前に知己の恩に感じたのでございます。私のような一布衣ほいを限りなくお信じなされればこそ、この一大事をお任せ下さるのだ。自分は幕府に対しても、又徳川家に対しても、何等恩怨ある者ではない。ただ士は己を知る者のために死す。一つ大いに頼まれようと、決心したのでございました。
 お受けして帰ったその後の私は、益々辺幅を修めました。一層門戸を張りました。すると道場は、それに連れて繁昌するではございませんか。まもなく門弟三千人と註されるようになりました。一万石以上の大名生活ぐらし! それが私の生活でした。そういう生活をしている間も、私は隙無く目を配って、これはと思われる武士に対して、あるいは武芸で嚇し付け又は弁論で胆を奪い配下に附けることを忘れませんでした。集まって来た一味の中には、毛色の変わった人間も、幾人か見えて居りました。
 一貫弾の大砲を抱え打ちにする牧野兵庫――紀伊家のご家臣でございます。降雨晴天自由自在、天文に秀でた秦野式部……これらは分けても、党中にあっても異色のある者達でございます。この他奥村八右衛門をもって訴人致させましたその際に、お手許に迄差し出したはずの連判状に記されてある頭立ったる数十名の者は、いずれもそれぞれ何等かの方面の達人なのでございます。
 しかし、徳川の社稷しゃしょくに向かってかなえを上げようとするような者は、ほとんど一人もないということは確かな事実でございます。即ち一方の旗頭たる者は、済々として多士ではございますが、将帥の器を備えている者は、全然皆無なのでございます。正雪、鈍才ではございますが、この徒と肩を並べた時だけは、やはり采配を握る者は自分を措いて他にないということを、感じさせられるのでございます。それか有らぬかこれらの者は、ちょうど慈父でも慕うように、私を慕うのでございました。
 慕われるというこの苦痛! 慕われるというこの快感! この感情こそは、私を駆って私に貴郎を裏切らせ、私の生命を同志の者に投げ与えさせたのでございます。



 寛永十三年十一月、七十五名の頭立った者が血判を据えた謀叛の趣意書を私の前へ突き付けて、私に謀叛を勧めました。頭目になるようにというのでした。彼等をしてこの様にいわしめたのはやはり私でございましたが、いよいよ彼等にこう出られて見ると、気の毒に思わざるを得ませんでした。
「俺を幕府の細作かんじゃとも知らず、俺の詭計に引っかかるとは思えば気の毒な連中ではある」
 惻隠の情とでもいうのでしょうか、こういう感情が湧くと一緒に自己譴責けんせきの心持も、起こらない訳にはいきませんでした。
 爾来私は彼等を相手に、所謂る謀叛の旗上げの準備に取りかかったのでございます。
 私は彼等に云いました――
「先ずそれがしの方寸としては最初江戸にて事を起こし漸次駿府大阪京都と火の手を挙ぐるがよろしかろう。また甲斐国甲府の城は要害堅固にして征むるに難い。しかし某の兵法をもってすれば陥落おとしいれることも容易である。一手は下野しもつけ日光山に立籠もることも肝要でござろう。華麗を極めた東照宮を焼き立てるのも一興じゃ」
 それから私はなお細々と、策戦について語りました。
「江戸は本丸西丸の、両丸に兵燹へいせんを掛けねばならぬ。機を見て城中へ兵を進め新将軍を奪取する。又京都は二条の城及び内裏へも火を放ち、勿体至極もないことながら、帝の遷幸を乞い奉れば公卿くげ百官は草の如くに必ず伏し靡くに相違ござらぬ……」
 こう云って説いて行く中に私はふっとこんな事を心の隅で思いました。
「この従順な勇士達を、手足のように使いこなし、ほんとに自分が徳川家に対して、不軌を計ったとしたならばどういう結果になるであろう? 三月、いやいや二月でもよい、二月の間幕府の軍を、支えることは出来ないであろうか? 二月幕兵を防ぎ得たとしたら、四国九州に残っている、豊臣恩顧の大名達が、旗を動かさないものでもない。それらの大名と呼応したならば面白い賭博ばくちが打てるかもしれない」
 私は一種の武者振いを禁ずることが出来ませんでした。
「しかし」と直ぐに思い返しました。
 乱を起こすことはいと容易やすい。防ぎ戦うことも出来るかもしれない。しかし然諾ぜんだくをどうしよう? 知己のご恩をどうしよう? ……この大任を委ねて下された貴郎に対する知己の恩! その大任をお引き受けした貴郎に向かっての私の然諾! この信と義とをどうしよう? これは滅多には棄てられない! それではやはり一味徒党を貴郎に内通した上で、私だけ党中から遁れようか? それにしては彼等が私を信じ私を敬い私を慕うこの感情をどうしよう? 彼も棄てられず是も背かれぬ。ここまで考えて来ました時に忽然と胸中に浮かびましたものは、自殺ということでございました。一死もって党内に酬い、一死もって然諾を全うしよう! こう考えたのでございます。
 一旦決心が付いてからは、私の心は豁然と開け一切の煩悶はなくなりました。仕事も捗取はかどって行きました。
 こうして私は江戸を立って駿府へ参ったのでございます。駿府の町を焼打に掛け、駿府の城を乗っ取るというのが、表向きの私の意見でしたが、その実そこで心静かに自殺するつもりなのでございました。
 今や旅宿は捕り方によって、十重二十重に囲まれて居ります。容易に踏み込んで来られますのに、それを来ないというものは、私一人を逃がせよという貴郎からの内命があったからでしょう。
 しかし私は逃げません。同志と一緒に自殺します。
 同志の者は今も私を限りなく信じて居るのです。
 今回の露見に関しても、私が奥村八右衛門をして訴人させたとは夢にも知らず、忠弥の粗忽の結果であろうと勝手に定めて居る程です。
 そして恐らく私の遺書かきおきを、貴郎が発表なさらぬ限りは慶安謀叛の真相とその発覚の顛末については、多くの後世の史家達も首を捻ることでございましょう。
 待ち飽ぐんだものと見えまして、捕り方衆の立ち騒ぐ声が表や裏から聞こえてきます。踏み込んで参るのももう直ぐでしょう。いよいよ死ぬときが参りました。もうこの遺書を書きつづけるひまも、たくさんはあるまいと存ぜられます。
 遺書は覚善に託します。私を初め同志の者を悉く介錯した後で、単身囲みを突き破って必ず遺書はお届けすると、彼は大変意気込んで居ります。
 いよいよ踏み込んで参りました。乱れた跫音が聞こえて参ります。しかし早速にはこの部屋へは入って来ることはなりますまい。鴨居から鴨居へ麻縄を張り渡してあるからでございます。
 今生の名残りに壁のおもてへ辞世を書くことに致します。
「翼の調わざるものは高く飛ぶあたわず。四足の未だ整わざるものは遠く行く事能わず。整えども、高く飛び遠く行くこと能わざるはこれ天なりとして止まん。おのれ天下に深き恨み無しといえども慈父の憤りを継げるのみ。更に黄金こがねの鞭を取りしろがねの鞍に跨がりかなえを連ねて遇わんとするに非ず、いでや事成れば天が下の君とはなれずとも一国の主たらんとのいにしえの人の言葉慕うにたえたり」
 みんな出鱈目でございます。私の本当の心持といえば板挟みになった苦しまぎれに同志の者達と心中をする――つまりこれなのでございます。





底本:「国枝史郎伝奇全集 巻五」未知谷
   1993(平成5)年7月20日初版
初出:「サンデー毎日」
   1924(大正13)年4月1日春季特別号
※「大刀」と「太刀」の混在は、底本通りです。
入力:阿和泉拓
校正:湯地光弘
2005年6月3日作成
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