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愛と認識との出発(あいとにんしきとのしゅっぱつ)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-9-4 5:59:17  点击:  切换到繁體中文


 暗い暗い、気味悪く冷たい、吐く気息も切ない、混沌迷瞑こんとんめいめい、漠として極むべからざる雰囲気の中において、あるとき、ある処に、光明を包んだ、つや消しの黄金色の紅が湧然ゆうぜんとして輝いた。その刹那、ふるおののく二つの魂と魂は、しっかと相抱いて声高く叫んだ。その二つの声は幽谷にむせび泣く木精こだまと木精とのごとく響いた。
 君と僕との離れがたき友情の定めは、このとき深く根ざされたのであった。思えば去年私が深刻悲痛なる煩悶に陥って、ミゼラブルな不安と懊悩おうのうとに襲われなければならなかったとき、苦しまぎれに、寂しまぎれに狂うがごとき手紙をば幾回君に送ったことであろう。親類を怒らせ、父母を泣かせて君が決然として哲学の門に邁進まいしんしたとき、私の心は勇ましく躍り立った。月日の立つのは早いものだ。君が向陵こうりょうの人となってから、小一年になるではないか。思えば私らはこの一年間、何を求め得、何を味わい得たのであろう。奥底に燃ゆるがごとき熱誠と、犯すべからざる真面目とを常に手放さなかった私らは、目を皿のごとくにして美わしい尊いものを探し回ったのに、また機敏なる態度を持してかりそめにものがすまいと注意したのに、握り得たものは何であろう。味わい得たものは何であろう。私らは顧みて快くほほ笑み、過去一年の追憶を美わしき絵巻物を手繰たぐるがごとく思い浮かべることができるであろうか。この長き月日を冷たい、暗い喧騒な寮にくすぶって浮世の花やかさに、憧れたりしわが友よ、僕は君を哀れに思う。かくのごとくして歓楽に※(「りっしんべん+尚」、第3水準1-84-54)※(「りっしんべん+兄」、第3水準1-84-45)しょうけいする君は歓楽から継子ままこ扱いにされねばならなかったのだ。
 かの公園に渦のごとくもつるる紅、紫、緑の洋傘の尖端に一本ずつ糸を結び付け、一纏めにして天空に舞い上らしめたらどうであろう。しばしあっけにとられた後はわれに帰るであろう。清く崇き鐘の音をして花に浮き立つ群衆を散らしめよ。人無き後の公園は一種名状すべからざる神秘的寂寥を極むるであろう。清い柔らかな風がいま一度吹き渡る。天はますます青く澄み、緑草は気息を吹き返す。私はこの寂しき公園の青草の上に天を仰いでころびたい。そしてあのいい色の青空を視力の続くかぎりつめたい。その視線が太く短くなってやがてはたと切れたときそれなりに瞑目したらなお嬉しい。
 今年の私のこの心持ちはいっそうにエルヘーヴェンされたのである。私は所詮神秘と崇厳とを愛憬する若者であった。
 私は去年、花やかさにも湿うるおいにも乏しきO市の片隅の下宿において、冷たい、暗い、乾ききった空気の中に住むことをいかほど辛く味気なく思ったことであろう。しかし今年の私は君の濃き温かき友情に包まれることができる。H子さんが私を知っての上の熱き真情もある。加うるに真生命に対する努力と希望とがある。O市における燻った生活、淋しき周囲の状態はこれらの前には首を低うして、ひれ伏さねばならぬであろう。僕は君に喜んでもらわなくてはならない。
 それにしても君、今年の春ははやかんとするではないか。隣家の黒板塀からのさばり出た桃の枝は敗残の姿痛ましげに、今日も夕闇の空に輪郭をぼかしている。私は行く春の面影を傷手を負うたような心地で、しのばぬわけにはゆかぬのである。私は惜しくて惜しくてならない。地だんだ踏んでもいま一度今年の春を呼び返し、君とともに味わったかの清楽と、花やかなしかし見識のある歓楽が味わいたい。しこうして崇高の感に打たれたい。こう思うとき心の扉はぴりぴりと振うではないか。

 この間の長い手紙丁寧に読んだ。じつを言うとあの手紙は私にとってあまり嬉しい感じを与えてくれなかった。苦心して探し回って、ついにどうか、こうか快楽という一事を捕えたまではよかったが、その「快楽」を捕えたときは、君はすくなからず蕭殺しょうさつたる色相とデスペレートな気分とを帯びてるごとく見えたからである。快楽主義は君にとっては今や一つの尊き信念になった。しかし君はあの手紙を書いて以来、柔らかな、優しい、湿うるおうた、心地で日を送ってるかい。おそらくはすさんだ、すてばちな気持ちであろう。君の結論は私はこう断定した。「人間の本性は快楽を欲求する意志である。ゆえに最もよき生を得んには意志の対象たる快楽の存するところに赴くべし」と。私だって快楽にインディフェレントなほどに冷淡な男では万々ない。私らがある信念を得てそれに順応してゆくところ、必然になんらかの快楽が生ずることは今から信じている。しかし人間の行為の根本義は快楽であろうか。快楽だから欲求するのであろうか。経験の発達した私らには快楽だから欲求することはずいぶんある。しかし発生的、心理的に考えてみたまえ。欲求を満足せしむるとき初めて快楽を生ずるので、欲求する当初には快楽は無かったに違いない。約言すれば快楽は欲求を予想している。元来快楽主義は脳力の発達した動物にのみあり得べき主義である。それに人間にはおぼろながら理想というものがある。なんとなれば欲求に高下の差別はあり得ぬにしても、われらはある欲求は制してある欲求はばしているが、この説明者は理想でなければならぬからである。私は自己運動の満足説を奉じたい。もっとも自己の満足するところ快楽ありとすれば、客観的には快楽だから欲求したのだともいえようが、しかしそれは客観的、経験的の立言で主観的ではない。それにまた人間がこの世の中にポッと生まれ出て、快楽のために快楽を味おうて、またポッと消えてしまうとはあまりにあっけないではないか。ただそれだけでは私らの形而上学的欲求が許してくれない。快楽主義の奥に何か欲しいではないか。少なくともいわおのごとき安心の地盤に立って堂々と快楽が味わいたいではないか。姑息こそくな快楽だけで満足できるようだったら、私らは初めから哲学に向かわなかったであろう。享楽主義の文芸家と私らとの分岐点はじつにこのところに存する。彼らよりも私らが人生に対していっそう親切に、忍耐に富み、真摯なりと高言し得るのはじつにこのところに存する。君の性格は享楽主義の誘惑に対してすこぶる危い。人生の真の愛着者たらんとする君ならばそこを一歩勇ましく踏み止まらなくてはならない。君の享楽主義は荒涼たる色調を帯びている。君はいま泣き泣き快楽を追わんとしているのだ。まことにすさんでいる。君の吐く息は悽愴せいそうの気に充ちている。君の手紙のなかには「ああ私は生に執着する」とあった。しかし私にはこの言葉がいかにももの凄く響いたのである。君の態度は君の手紙のなかにあったごとく、平将門たいらのまさかど比叡山ひえいざんから美しい京都の町を眺めて、「ええッあの中にあばれ込んでできるだけしつこく楽しんでやりたい」といったようにしか思えなかったからである。愛着の影さえ荒んで見えたのである。私は君がみずから緑草芳しき柔らかな春のしとねに背を向けて、明けやすき夏の夜の電燈輝く大広間の酒戦乱座のただなかに狂笑しに赴くような気がしてならない。四畳半に遠来の友と相対して湿やかに物語るの趣は君を惹かなくなって、某々会議員の宴会の夜の花やかさのみが君の心をそそるようになるようにも思われる。君はいま利己的快楽主義のほこをまっこうにかざして世の中を荒れ回らんとしている。快楽の執着、欲求の解放、力の拡充、財の獲得! ああ君の行方には暗澹たる黒雲が待っている。恐ろしい破滅が控えている。僕はこれを涙なくしてどうして見過ごすことができよう。これらもみな今までの君のライフが充実していなかったがためである。しみじみと統一的に生き得なかったためである。そう思えばますますいとしくなる。揃いも揃って美しい七人の姉妹の間に、父母の溺愛にちやほやされて、荒い風に揉まれず育った君は素直な、柔らかな稚松わかまつであった。思えば六年前僕らが初めて中学に入校した当時、荒い黄羽二重の大名縞の筒袖に短いはかまをつけて、褐色の鞄を右肩から左脇に懸けて、赤い靴足袋を穿いた君の初々ういういしい姿は私の目に妙に懐しく映ったのであった。どうかすると君はぱっと顔を赤くする癖があった。その愛らしい坊ちゃん坊ちゃんした君を知ってるだけに、今の荒んだ、歪んだ君がいっそうのこといとしい。いなそればかりではない。君の認識論はほとんど唯我論に帰着して、自他を峻別して自己に絶対の権威を置くの結果、三之助なる者の君の内的生活において占有する地位は淡い、小さい影にすぎなくなった。僕と君とのフロインドシャフトは今や灰色を帯びてきた。君の手紙のなかには「君と別れてもいい」といったような気分が漂うてるなと私は感じた。ああしかし僕は君を離したくない、君が僕を離れんとすればするほど君を僕の側に止めておきたい。そしてできるだけ私の暖かな気息いぶきを吹きかけてじんわりと君の胸のあたりを包んであげたい。君よ、たとい僕と離るるとも、もし君が傷ついたならまた僕の所へ帰ってきたまえ。うるおえる眸と柔らかな掌とは君を迎えるべくやぶさかではないであろう。
 ああ、今やわれら二人の間をかくして、無辺際の空より切り落とされたる暗澹たる灰色の冷たい幕。われらの魂はこの幕を隔てて対手の微かな溜息を聞き、涙を含む眸と眸とを見合わせながら、しかも相抱くことができぬのである。ああ僕はどうすれば好いのだろう。

 私は哀れな、哀れな虫けらである。野良犬のごとくうろうろとして一定の安住所が無い。寂寞せきばくと悲哀と悶愁と欲望とをこんがらかして身一つに収めた私はときどき天下真にわれ独りなりと嘆ずることがある。今や私には気味悪い厭世思想が心の底に萌している。この思想は蕭殺たる形を成して意識の上に現われては私を威嚇したり揶揄やゆしたりする。
 そこでM町を去ってF村へ鞍替えをしたがここもできたことはない。無限に続く倦怠は執念深きこと蛇のごとくここでも私に付き纏う。孤独の寂し味のなかに包まれて、なんのことはない、餅の上に生えたかびのようなライフを味おうている。
 M町から帰った夜、兄と一つコップの酒を飲んでいろいろ語った。蚊帳かやのなかにわだかまる闇の裡に私らのさざめきは聞こえた。黙契の裡に談話を廃して後しばらくして、「蛙が鳴くなあ」兄の声はしめやかであった。
「独歩がいったごとくに宇宙の事象に驚けるといいなあ」と兄がいった。私は腹のなかでうなずいてる。そして、
「現象の裡には始終物自爾みずからがくっついてるのだから驚いた次の刹那にはその方へ回って、その驚きを埋め合わせるほどの静けさが味わいたい」と私がいった。
「それは理知の快味だ。驚いた刹那は争うべからざる驚きの意識で占領された刹那じゃないか。その意識こそ尊い意識だ」
森鬱しんうつとして、巨人のごとき大きな山が現前したとき、吾人は慄然りつぜんとして恐愕の念に打たれ、その底にはああ大なる力あるものよとの弱々しい声がある。しかしその声に応じてすがりつくものが欲しいではありませぬか」
「縋りたいという意識の生じ得ない刹那がいっそう高い。とにかく人間の現象のなかでは驚きということがいちばん高いなあ」
 私は口を緘してじっと考えた。明け放した障子の間から吹き込む夜風はまたしても蚊帳のすそを翻した。突然柱時計が鳴り始めた。重い、鈍い音である。数は三つであった。
 今宵は形而上学的な友である。ランプの黄ばんだ光は室をぼんやり照らしている。本箱には金文字の背を揃えた哲学書が行儀正しく並んでいる。ガラス瓶にした睡蓮の花はそのほそい、長い茎の上に首を傾けて上品に薫っている。その直後にデカルトの石膏像が立ってる。この哲人はもっともらしい顔をして今にも Cogito ergo sum といい出しそうである。
 私は読むともなしに卒業前後の日記を読んだ。そしてしばらくの間過去の淡い、甘い悲哀の内を彷徨ほうこうしていた。うっちゃるごとく日記を閉じて目をそらしたとき、ああ君が恋しいとつくづく思った。そして発作のごとく筆を執った。しかしこの頃のやや荒廃した心で何が書けよう。ただただ君が恋しい。これ以外には書くべき文字がみつからない。私は近頃たびたびトリンケンに行く。蒼白い、悲哀が女の黒髪の直後にわだかまる無限の暗のなかに迷い入るとき、皮一重はアルコールでほてっても、腹の底は冷たい、冷たい。
 ああ初秋の気がひしひしと迫る。今宵私の心は著しく繊細になっている。せめて今宵一夜は空虚の寂寞を脱し、酒の力をりて能うだけ感傷的になって、蜜蜂が蜜をすするほど微かな悲哀の快感が味わいたい。
 風のはやい、星の凄いこの頃の夜半、試みに水銀を手の腹に盛ってみたまえ、底冷たさは伝わってわれらの魂はぶるぶると慓える[#「慓える」はママ]であろう。このとき何者かの力はわれらに思索を迫るであろう。かくてわれらはかたちを改め、えりを正しくして厳かに、静かに瞑想の領に入らねばならぬ。霜凍る夜寒の床に冷たい夢の破れたとき、私は蒲団ふとんの襟を立ててじっと耳を傾ける。窓越しに仰ぐ青空は恐ろしいまでに澄み切って、無数の星を露出している。嵐は樹にえ、窓に鳴ってすさまじく荒れ狂うている。世界は自然力の跳梁ちょうりょうに任せて人の子一人声を挙げない。このとき私は胸の底深くわが魂のさめざめと泣くのを聞く。人は歓楽の市に花やかな車をきしらせて、短き玉の緒の絶えやすきを忘れている。しかし、死は日々われらのために墓穴を掘ってるではないか。瞼が重だるく閉じて、線香の匂いが蒼ざめた頬にすすりなくとき、この私は、私の自我はどこをどう彷徨してるだろう。これが暗い暗い謎である。肉ただれては腐り、腐りして、露出した骨の荒くれ男の足に蹈まるるとき、ああ私の影はどこに存在してるだろう。かの微妙な旋律に共鳴した私の情調、かの蒼く顫える星にかけり行く私の詩興、これらすべてはようとして空に帰すのであろうか。そればかりではない。われらを載す地球も、われらを照らす太陽も、星も、月も、ありとあらゆる者はついに破滅するというではないか。バルフォアは世界大破滅の荒涼たる光景を描いてほぼ次のごとく述べている。

 The energies of our system will decay, the glory of the sun will be dimmed, and the earth, tideless and innert, will no longer tolerate the race which has for a moment disturbed its solitude. Man will go down into the pit, and all his thoughts will perish. Matter will know itself no longer.‘Imperishable monument’and‘Immortal deeds’death itself, and love stronger than death will be as if they had not been. Nothing, absolutely nothing remains. Without an echo, without a memory, without an influence. Dead and gone are they, gone utterly from the very sphere of being.


 かくのごときは唯物論の到達すべき必然の論理的帰結である。けれども、私は物質の器械力に無限の信仰を払うにはあまりに宗教的であり、芸術的である。いわんや、この恐るべきバルフォアの自殺的真理をばいかにして奉ずることができよう。ヘッケルに身慄いして逃げ回った私のどきどきと波打つ胸をじっと抱えて、私の耳に口を触れんばかりにしてゼームス博士は、Is the matter by which Mr. Spencer's process of cosmic conclusion is carried on any such principles of never ending perfection as this? No, Indeed it is not! と力ある声で囁かれたのである。じつに私の内的生活に消ゆべくもない唯心的傾向を注入したのはゼームス博士の A world of pure experience とショウペンハウエルの Die Welt als Wille und Vorstellung とであった。Die Welt ist meine Vorstellung. Alles, was irgend zur Welt geh※(ダイエレシス付きO小文字)rt ist nur f※(ダイエレシス付きU小文字)r das Subjekt da. というショウペンハウエルの一句は私にとって無量の福音であったのである。しかし私は今この暗い深い死後の生活に関して盲目の手探りをなす前に、さらにいっそう痛切なる問題に接触する。それはわれらの現世の「生」をばいかに過ごすべきかという平凡なしかし厳粛な問題である。「生きたい」ということは万物の大きな欲求である。これと同時に統一、充実して生きたいということは意識が明瞭になればなるほど悲痛な欲求の叫びである。ああ私は生きたい、心ゆくばかり徹底充実して生きたい。燃ゆるがごとき愛をもって生に執着したい。されどされど退いて自己の内面生活を顧みるとき、さまよいて周辺の事情を見回すとき、内面生活のいかに貧弱に外情のいかに喧騒なるよ。前者の奥にはらんとして輝く美わしき色彩が潜んでいるらしいけれど、いかんせん灰色の霧の閉じめて探る手先きの心もとない、後者の裏には心喜び顫える懐しきもののかくれていて、私の探りあてるのを待っているらしいけれど、種々の障害と迷暗とに逢瀬のほどもおぼつかない。けれど私は生を願うものである。たとい充実せぬはかない気分で冷たい境地をうろついていても、たとえば浮き草の葉ばかり揺らいで根の無いごとく、吹けば消え散る心の靄、こんな生活をして、果ては恐ろしい倦怠のみが訪れても私は死にたくない。かかる生が続けば続くほど、ますます運命を開拓して心の隈々まで沁み込むような生が得たい。私はあくまで生きたい。しかし恐ろしい力を持つ自然は倨然として死を迫る。こんな悲惨なことがどこにあろう。これじつに人生の大なる矛盾不調和でなくてはならない。かくのごとく強烈に生に執着するわれらにとっては死の本能を説くメチニコフの人生観はなんの慰安にもならぬのである。かくのごとくしてわれらは自然の大きな力の前に詮方せんかたなく蹲いて行く。われらの「ウォルレン」の反抗を嘲笑して、自然は生死に関しては「ザイン」そのままを傲然として主張するのだ。またわれらの生も一面から見れば一つの「ザイン」である。刹那主義の立脚地はここにあるかもしれない。混沌の境に彷徨する私はともすればこうした生活に引きさらわれやすいけれど、涙無くしてみすみす引きさらわれてゆくことがどうしてできよう。生死の問題は今のところいかんともすることはできない。ただ発作的恐怖に戦慄するのみである。しかし深く考えてみれば要するに生きんがための死ではあるまいか。死に対する恐怖の本能よりも、よく生きんとする欲求的衝動の方が強烈である。人生の中核はいかにしてもよく生きんとする意志あるいは衝動、さらに言をたくましくすれば一種の自然力であるらしい。私はショウペンハウエルと共にこの真理を信仰し、謳歌し、主張したい。倦怠の裡には寂愁があり、勝利の裏には悲哀がある。一つは生を欲するための死に対する恐怖であり、他は生の充実を感じたための死に対する思慕ではあるまいか。
 われらは人間の有する性情を「何所いずこより」「何処いずこへ」「何のために」「かくあるべし」と詮索するよりも「何である」と内省することこそ緊要である。自己の真の奥底より湧き起こる声に傾聴して、自己の真の性情に立脚するところ、そこに充実せる生は開拓さるるであろう。ただのがれがたきは個性の差異である。個性こそは自我の自我たる所以ゆえんの尊き本質である。普汎的自我の白帛を特殊的自我の色彩をもって染めねばならない。この個性に対して忠実に働き、個性の眼鏡を透して、そのままを認識し、情感し、意欲する心的態度をしも真面目と呼びたい。
 自然主義は一つの過渡期の思想であったし、現にある。私はけっしてこれに満足することはできないがまた多くを学び得たのである。われらがまさに到らんとする幻滅とともに、眠れる自覚をそそり起こして、われらを偉大なる自然の前に引きいだし、実生活に対する自然の権威、自然に対する主観の地位等を痛感せしめた。しかしわれらは自然の器械力の前にひれ伏して現実そのままの生活に執着して大なる価値を掘りいださんには適しなかった。自然の足下に恐縮して心を形の質とせんには謙虚でなかった。ただ神経の鋭敏と官能の豊富とに微かな気息を洩らして、感情生活の侵蝕に甘んずるにはあまりに真率であった。現実生活をしていっそうよきものたらしめんがために自然力の偉大を悟り、生の悲痛を感じ、神経のデリカシイと官能のあでやかさとを獲得したのである。私はこの意味において自然主義存在の理由と価値とを認容する。自然主義を眺めた私の心の目はショウペンハウエルの観念主義の色調を帯びて、ここに一種の特殊な見方に陥ったのである。「世界は吾人の観念にほかならない。主観を離れて客観は無い。自然は主観の制約の下にある」といった命題はいかに私に心強く響いたであろう。しかしまた裏へ回って「見ゆる世界の本体は意欲である。世界は意志の鏡であり、またその争闘場裡である」と聞いたとき慄然としておののいたのである。しかしまた本体界の意志を無差別、渾一体のものとして認めた彼はなんとなく私の心の動揺を静めるようにも思われた。かくて最後に残った者は自然を前にしてよく生きたいという一事であった。
 享楽主義者たるをも、イリュウジョンに没頭し得るロマンチシストたるをも得なかった私には、いかにせばよき生が得らるるかが緊要な問題であり、また日々の空疎なる実生活がやるせなき苦悶であらねばならなかったし、現にあるのである。私は考えた。悶えた。しこうしてどうしても人間の根本性情の発露にあらずんばよき生は得られないと思った。人性の曇らさるるところ、そこに憂鬱があり、倦怠がある。その発露の障害さるるところ、そこに悲哀があり、寂愁がある。人性のさんとして輝くところ、そこに幸福があり、悦楽がある。人性の光輝を発揚せしめんとするところ、そこに努力があり、希望がある。人性の内底に鏗鏘こうそうの音を傾聴するところ、そこにみなぎる歓喜の声と共に詩は生まれ、芸術は育つ。かるがゆえにわれらは内面生活の貧弱と主観の空疎とを恐れねばならない。外界に対する感受性の麻痺を厭わねばならない。われらはいたずらに自然の前にひれ伏して恐れ縮んではならない。深き主観の奥底より、暖かき息を吐き出して自然を柔かに包まねばならない。とはいうものの顧みればわれらの主観のいかに空疎に外界のいかに雑駁なるよ。この中に処して蛆虫うじむしのごとく喘ぎもくのがわれらである。これをしも悲痛と言おう。されどされど悲痛という言葉の底には顫えるような喜びがきざしてるではないか。悲痛に感じ得るものは充実せる生を開拓する大なる可能性を蔵してるということは今の私には天堂の福音のごとく響くよ。私はまだまだライフに絶望しない。冷たい傍観者ではあり得ない。
 この夏休暇以来、君と僕との友情がイズムの相異のために荒涼の相を呈せざるを得なくなるにつれて、私の頭のなかには「孤独」という文字が意味ありげに蟠っていた。私は種々の方面からこれを覗いてみた。ああ、しかし孤独という者はとうてい虚無に等しかったのである。私が一度認識という事実に想到するとき絶対的の孤独なるものは所詮成立しなかったからである。われらは認識する。表象はわれらの意識の根本事実である。表象を外にして世の中に何の確実なる者があろう。「表象無くんば自我意識無し」元良もとら博士はくしのこの一句のなかには深遠な造蓄が含まれている。認識には当然ある種の情緒と意欲とを伴う。これらの者の統合がすなわち自我ではないか。われらは対象界に対して主観の気息を吹きかけ、対象界もまた主観にある影響を及ぼす。かかる制約の下にありながらいかにして絶対孤独に立ち得よう。ああ認識よ! 認識よ! おまえの後ろには不思議の目を見張らしむる驚嘆と、魂をそそり揺がすほどの喜悦とが潜んでいる。
 最後に私は今や蕭殺たる君と僕との友情を昔の熱と誠と愛との尊きにめぐらさんとの切実なる願望をもって、君の利己主義に対して再考を乞わねばならない。
 君と僕との接触に対する意識が比較的不明瞭であって、友情の甘さのなかに無批評的に没頭し得た間はわれらはいかに深大なる価値をこの接触の上に払い、互いに熱涙を注いで喜んだであろう。しかし一度利己、利他という意識が萌したときわれらは少なからず動揺した。惨澹たる思索の果て、ついに唯我論に帰着し、利己主義に到達したる君はまっ蒼な顔をして「君を捨てる!」と宣告した。その声は慄えていた。鋭利なる懐疑の刃をすべての者に揮うた君は、とどろく胸を抑えて、氷なす鉾尖ほこさきを、われらの友情にザクリと突き立てた。その大胆なる態度と、純潔なる思索的良心には私は深厚なる尊敬を捧げる。僕だって君との接触についてこの問題に想到するときどれほど小さい胸を痛めたかしれない。始めから利己、利他の思想の頭をもたげなかったならばと投げやりに思ってもみた。しかしこの思想は腐った肉にあつまる蠅のごとくに払えど払えど去らなかったのである。このとき私の頭のなかにショウペンハウエルの意志説が影のごとくさしてきた。

 表われた世界は意志の鏡であり、写しである。この世界にあっては時間と空間という着物を着て万物は千差万別、個体としてせめぎ合ってる。しかし根拠の原理を離れた世界、すなわち本体界にあって、万物の至上の根源、物自爾としての実在は差別無く、個体としてでなき渾一体の意志である。この渾一体の意志は下は路上にうる一葉より、上は人間に至るまで、完全に現われている。たとえばその意志は幻燈の火のごときものである。ただ映画によって濃きも淡きも生じて白いとばりの上にさまざまの姿を映す。そのさまざまの姿こそ万物である。


 これに次いで前述の認識、表象という文字が湧き起こる。主観を離れて客観はなく、客観を離れて主義はない。これに連接せしめて「表象なくば自己意識なし」ということを考えてみれば、どうも自己意識は絶対的には成立せぬらしい。唯我論は動揺せねばならない。いわゆる、利己、利他の行動は、本来この偉大なる渾一体としての意志の発現ではあるまいか。本体界の意志という故郷を思慕するこころは宗教の起源となり、愛他的衝動の萌芽となるのではあるまいか。これじつに遠深なる形而上学の問題である。
 何が人生において最もよきことぞと問い顧みるとき、官能を透してくる物質の快楽よりも、恋する女と、愛する友と相抱いて、胸をぴたりと融合して、至情と至情との熱烈なる共鳴を感ずるそのときである。魂と魂と相触れてさやかなる囁きを交すとき人生の最高の悦楽がある。かかるとき利己、利他という観念の湧起する暇は無いではないか。もしかかる観念に虐げられてその幸福を傷つけるならば、その人はみずからの気分によりてみずからをそこなうものである。気分というものは人生において大なる権威をなすものだ。君は君の本性と正反対の気分をもって反動的にイリュウジョンを作り、それに悩まされているのではあるまいか。
 君は他人は自分の「財」として、すなわち自分の欲求を満足せしむる材料としてのみ自分にとって存在の理由があるという。しかし、ここが問題である。私は他人との接触そのものを大なる事実であり、目的であると考えたい。たとえば相愛する女と月白く花咲けるまがきに相擁して、無量の悦楽を感じたとする。このときの情緒そのものが大なる目的ではないか。この情緒の構成要素としては女の心の態度、用意、気分またはその背後に潜む至情が必要であるとともに君の心のこれらの者も同時に必要である。この際しいて女を手段と見るならば、君自身をも同様に手段と見ねばなるまい。君は自他の接触をばあまり抽象的に観察してはいまいか。愛らしい女がいるとする。これを性欲の対象として観るとき、そこに盲目的な、荒殺の相が伴う。これを哲学的雰囲気のなかに抱くとき、尊き感激は身に沁み渡って、彼女の長きまつげよりこぼるる涙はわれらの膝を潤すであろう。虞美人草ぐびじんそうの甲野さんが糸子に対する上品な、優しい気持ちこそわれらの慕うところである。私は君との友情のみはあらゆる手段を超越せる尊厳なる目的そのものだとしか思えない。君よ! 哲学的に分離せんとしたわれらは再びここに哲学的に結合しようではないか。哲学の将来はなお遼遠である。ともに思索し、研究し、充実せる生を開拓しよう。この頃私は「生きんがため」という声を聞けば一生懸命になるんだ。耳を澄ませば滔々とうとうとして寄せ来る唯物論の大潮の遠鳴りが聞こえる。われらは、pure experience と Vorstellung との城壁に拠ってこの自殺的真理の威嚇の前に人類の理想を擁護せねばならない。
 ああ愛する友よ、わが掌の温けきを離れて、あしそよぐ枯野の寒きに飛び去らんとするわが椋鳥むくどりよ、おまえのか弱い翼に嵐は冷たかろう。おまえに去られて毎日泣いて待っている私のところへ、さあ早く帰ってお出で。

(一九一二・二)


 

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