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晋室の南渡と南方の開発(しんしつのなんととなんぽうのかいはつ)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-9-4 9:01:04  点击:  切换到繁體中文

底本: 桑原隲藏全集 第一卷 東洋史説苑
出版社: 岩波書店
初版発行日: 1968(昭和43)年2月13日
入力に使用: 1968(昭和43)年2月13日
校正に使用: 1968(昭和43)年2月13日


底本の親本: 東洋史説苑
出版社: 弘文堂
初版発行日: 1927(昭和2)年5月10日

 

この論文を讀む人は、更に大正十四年十二月發行の『白鳥博士還暦記念東洋史論叢』中に收めた拙稿「歴史上より觀たる南北支那」を參照ありたい。


 晉室の南渡は支那の世相の一大廻轉で、種々の方面に重大なる影響を及ぼして居る。從つて支那歴史上決して輕々に看過すべからざる事變である。晉室の南渡を起頭とした三百年間、概して言へば六朝時代は、多くの場合に於て、一般の史家より餘り重要視されて居らぬが、支那の文化史の上より論じても、將た民族史の上より觀ても、重大なる意義を有して居ることと思ふ。

         一

 支那の古代に於ける漢族の根據地、從つて支那の文化の中樞は、北支那に限つたもので、南支那は全然無關係であつた。南北支那の區別は、必ずしも一定して居らぬが、大體より論じて、北支那とは主として黄河の流域地で、今の直隷・山西・山東・河南・陝西・甘肅の地に當るのである。南支那とは揚子江の流域、殊に主として江南の地を指すのである。今の地理でいへば、湖南・江西・浙江・福建・廣東・廣西諸省の地である。湖北・安徽・江蘇三省の地は、その大部は江北に在るけれども、勿論南支那の範圍に屬すべきものである。但この三省の北部殊に淮北の地は、むしろ北支那の色彩を帶びて居る事實を否定することが出來ぬ。
 ドイツの Richthofen は古代に於ける漢族の發展に就いて、大要次の如き見解を下して居る(1)。
 (1)漢族は所謂堯舜時代より遙か以前に於て、支那本部の地に移轉して來た。彼等の原住所は不明であるが、支那の古典の記事から推して、彼等が曾て甘肅西部の所謂河西地方に住居したことは疑を容れぬ。
 (2)この河西地方から崑崙山脈の北麓に沿ひ、今の蘭州府(甘肅)鞏昌府(甘肅)等を經て、渭水の上流に出で、次第に東に進み、今の西安府(陝西)管下の平原へ來て、茲で彼等が中央アジアから將來した農耕を試むることとなつた。
 (3)渭水の流域を占領した後ち、漢族は成るべく山地を避けて、灌漑の便利ある平地を選びつつ、尤も農耕に適當した方面に發展して往つた。この結果として、彼等は自然下の如き二つの方向をとることとなつた。

(a)彼等は一方では黄河を越えて、汾水の下流より山西方面に向うた。
(b)一方では彼等は黄河の流に沿うて、河南府(河南)附近の平原に出で、それから更に三方面に發展して往つた。その一は懷慶府(河南)を經て、黄河と太行山との間に沿うて北に進み、一つは伊水を溯つて、汝州(河南)南陽府(河南)を經て南に進み、一は東進して山東方面に出で、茲から北して黄河の下流地に發展し、又は南して淮水の流域から、次第に揚子江の下流に發展したことと思ふ。

 漢族の原住地の問題はしばらく措き、古代の漢族が黄河流域の北支那を根據地として、發展して往つたことは、殆ど疑を容るる餘地がないのである。
 漢族は夙に自らその四隣の異族と區別して、夏と稱し、又は諸夏・中夏・華夏・中華・中國等と稱して、彼等自身の優秀を誇り、高く標置して居つた。當時謂ふ所の中國若くば中夏とは、今の河南・山東の大部、直隷・山西の南部、陝西の一部に過ぎぬ。彼等はこの以外の國若くば人を、戎狄若くば蠻夷として擯斥もし輕侮もした。當時南支那に國して居つた荊楚・句呉・於越の諸王は、自らその蠻夷たることを認めて、鋭意北方の文化を輸入することを圖つたのである。
 春秋の末より戰國にかけて、支那の學術は勃興したが、その重なる學者は、殆ど皆北支那の産である。しばらく孔門の諸弟子に就いて之を觀ても、勿論魯人最も多く、衞人・齊人・宋人之に次ぐ、皆北支那の人である。呉・楚の産は僅々數輩に過ぎぬ。『史記』には子游を呉人と記してあるけれど、そは頗る疑はしい(2)。公孫龍・任不齊・秦商の三人は、或は楚人となす者もあるけれど、皆後世の説で、一層信憑するに足らぬ。この四人を除くと、濟々たる孔門の諸弟子中、殆ど一人も南支那の産はないのである。或は儒家の學を齊魯の學と稱へて、北方思想を代表するものとし、道家の學を荊楚の學と呼び、南方思想を代表するものとして、春秋戰國の交、早く已に南北支那の文化が相頡頏すべき状況にあつたかの如く論ずる學者もあるが、こは※(「耳+冉」、第4水準2-85-11)ラウタン・莊周・列禦寇ら道家の大立者は、何れも今の河南の産であるといふ事實を無視した、粗笨の議論である(3)。
 秦の始皇帝が六國を統一して、南方經營に着手して以來、呉・越の故地は固より、遠く南粤ナンヱツの地までも皆秦の版圖に列し、漢族の南下するもの日に多きを加へて、南支那の風氣開發に多大の影響を與へたが、秦漢時代を通じて、依然北支那が文化の中樞であつた。
 西漢時代には山東出相、山西出將といふ語がある(4)。東漢時代にも、關西出將、關東出相といふ諺がある(5)。是に謂ふ所の山東・山西は華山を基點として定めた名稱で、函谷關を基點として定めた關東・關西と、ほぼ同一の意義をもつて居る(6)。要するに兩漢時代の文武の名士は、北支那の産に限つたものである。
 西漢の高祖は沛から起つた。從つて西漢時代の卿相は、蕭何セウカ・曹參・王陵・周勃・※(「口+會」、第3水準1-15-25)ハンクワイを始め、沛を中心とした徐・※(「亠/兌」、第3水準1-14-50)二州の人物が多い。東漢時代には光武帝の故郷である南陽出身の大臣が多い。※(「登+おおざと」、第3水準1-92-80)トウウ・李通・岑彭シンパウ・呉漢・賈復ら皆それである。沛と南陽と地は異つても、等しく北支那の範圍に屬するのである。
 兩漢時代に北塞南徼の外に偉功を建てた人物も亦北支那の産が多い。張騫・李廣・蘇武・趙充國・甘延壽・傅介子・段會宗・馬援・班超・班勇・梁※[#「りつしんべん+槿のつくり」、読みは「きん」、140-5]など、何れも所謂關西の産である。
 兩漢の學問といへば儒學に限るが、その儒學者中にも南支那人は餘り見當らぬ。經學の傳統をたづねると、易は六家に分れて居るが、施氏易の施讎(沛)、孟氏易の孟喜(東海)、梁丘氏易の梁丘賀(琅邪)、京氏易の京房(東郡)、費氏易の費直フツチヨク(東莱)、高氏易の高相(沛)皆北支那人である。書については歐陽氏學の歐陽高(千乘)、大夏侯氏學の夏侯勝(魯)、小夏侯氏學の夏侯建(魯)、古文尚書の孔安國(魯)、詩については魯詩の申公(魯)、齊詩の轅固生ヱンコセイ(齊)、韓詩の韓嬰(燕)、毛詩の毛萇マウチヤウ(趙)といふ風に、經學に大關係ある學者は皆北支那、殊に齊・魯の産が多い。
 孟子は楚人を南蠻鴃舌けきぜつの人と罵つた(7)。秦漢以來南土の風化は日に開けたけれど、楚人は矢張り沐猴もくこう而冠と酷評されて居る(8)。三國西晉時代にかけて北支那人は南人を貉奴ばくど又は貉子ばくしと稱して指斥した(9)。江南は一般に卑薄之域と評價されて居る(10)。秦漢魏晉五百年の間、南方にも范増出で、韓信・英布が出てゐる。みな江淮の間に人となつたのである。初めて漢の西域都護となつた鄭吉、『論衡』の著者王充は、等しく會稽(浙江)の産である。東漢の末には大臣として胡廣あり周景あり、名士として徐穉ヂヨチあり臧洪サウコウ[#ルビの「サウコウ」は底本では「ゾウコウ」]がある。詞賦の陳琳、經學の包咸と併せて、何れも南人の精華である。三國時代に降ると、呉には孫堅・孫策・孫權の父子兄弟、陸遜・陸抗・陸機・陸雲の父祖子孫、周瑜シウユ・魯肅の才、韋昭・虞翻グホンの學、濟々たる多士の觀はあるが、併し大體より觀察すると、北支那と南支那との間に、當時猶ほ文野の大懸隔の存したことは、動かすべからざる鐵案である。西晉の陳※[#「君+頁」、読みは「いん」、141-1]の豫州人士、常半天下の一語によつても、豫州(河南)を中心とする北支那が、當時文化の淵藪たりし事實を、容易に悟了することが出來る(11)。

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