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秦始皇帝(しんしこうてい)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-9-4 9:00:06  点击:  切换到繁體中文

底本: 桑原隲藏全集 第一卷 東洋史説苑
出版社: 岩波書店
初版発行日: 1968(昭和43)年2月13日
入力に使用: 1968(昭和43)年2月13日
校正に使用: 1968(昭和43)年2月13日


底本の親本: 東洋史説苑
初版発行日: 1927(昭和2)年5月10日

 

     一

支那四千年の史乘、始皇の前に始皇なく、始皇の後に始皇なし。瞶々者察せず、みだりに惡聲を放ち、耳食の徒隨つて之に和し、終に千古の偉人をして、枉げて桀紂と伍せしむ。豈に哀からずや。

 こは私が去る明治四十年十月十日、始皇の驪山リザンの陵を訪うた當時の紀行の一節である。五年後の今日、復た始皇の傳を作つて、彼の爲に氣を吐くとは、淺からぬ因縁といはねばならぬ。
 從來始皇帝の評判は餘り馨くない。彼を世界の偉人の伍伴に加へることに就いては、多少の反對あるべきことと思ふ。漢初政略的に使用した暴秦とか無道秦とかいふ語が、所謂先入主と爲り、吾人の腦裏に拔くべからざる印象を存して居て、始皇帝といへば、直に破壞壓制を連想する程である。いかにも始皇帝に幾多の缺點短處があらう。しかし之が爲に彼の美點長處まで全然沒了するのは偏頗である。過酷である。〔已に司馬遷もこの點は六國表に注意して、

秦取天下暴。然世異變。成功大。傳曰。法後王何也。以其近己而俗變相類。議卑而易上レ行也。學者牽於所一レ聞。見秦在帝位日淺。不其終始。因擧而笑之。不敢道。此與耳食異。悲夫。

と述べて居る。〕虚心にして考へると、始皇帝が支那歴代の君主中、稀有の大政治家であり、又その立てた制度が、久しく且つ廣く後世に影響して居ることは、到底否定し難い事實と思ふ。又その人格も、一般に信ぜられて居るよりは、餘程善い方面があると思ふ。この批評の當否は、彼が一生の事蹟を根據として、判定するより外はない。事實が最後の裁決者である。

         二

 始皇帝は孝公五世の孫、秦の莊襄王の子で、年十三の時、父の後を承けて秦王となつた。その最初の十年間は、政を大臣、殊に相國の呂不韋に委ね、二十三歳の時から萬機を親しくした。彼は爾後十六年間に天下を統一した。即ち西暦前二百三十年に韓を滅ぼしたを手初に、趙・魏・楚・燕といふ順序に列國を併せ、西暦前二百二十一年に、最後の齊を滅ぼして天下を統一した。始皇帝五世の祖に當る孝公が、かの商鞅を任用して、富國強兵の大政策を建ててから、天下の大勢は已に秦に歸しかかつて居たが、始皇帝の親政時代、僅々十數年の間に、首尾よく一統の實を擧げ得たに就いては、彼の功績も亦尋常ならずといはねばならぬ。
 天下統一後に實行した始皇帝の事業は、中々多端であるが、要するに内政と外交とに區別することが出來る。内政では君權の擴張、外交では漢族の發展が主眼となつて居る。從つて彼一代の政策は、尊王攘夷の實現に在るとも解釋し得るのである。先づ内政の主要なるものを列擧すると下の如くである。
 〔君主專有の名稱撰定〕 始皇帝は法家の説を奉じて居る。君主の位置は無上絶對、あらゆる點に於て、下民と儼然たる區別がなければならぬといふ信條から、彼は六國統一の年に、君主のみに限り使用し得べき名稱を制定した。その四五の實例を示すと、
 (イ)皇帝 始皇帝以前の君主は皆王と稱した。夏・殷・周三代の君主は、何れも王と稱して居る。所が春秋時代となつて、周の王室が衰微すると、楚・呉・越等南蠻の國君が王號を僭し初め、降つて戰國時代となると、中國の諸侯達も亦之に倣ひ、最後に陪臣より諸侯となつた韓・魏・趙の三晉の君すら王と稱して、王號の價値は甚だ低落して來た。そこで國富み兵強き大諸侯は、最早王號では滿足出來ず、別に他の美號を稱したものもある。始皇帝の曾祖父に當る昭襄王が、齊の※(「さんずい+緡のつくり」、第4水準2-78-93)王と約して、一時相並んで、西帝東帝と稱したのもこの理由に本づく。六國を討平し海内を混一した始皇帝が、今更王號や帝號を襲ぐを潔とせず、新に一層の美號を採用せんとするのは、必然の要求といはねばならぬ。かくて彼は群臣の意見を參酌し、その功徳は古の三皇五帝を兼ねたりとて、皇帝と稱することとなつた。
 (ロ)朕 先秦時代には朕は一人稱として、上下の區別なく使用された。楚の屈原の離騷にも、その父のことを朕皇考と書いてある。然るに始皇の時から、朕は皇帝專有の一人稱となつた。
 (ハ)陛下 臣民が天子を呼ぶに陛下と稱するのは、始皇以後のことで、秦以前には見當らぬ。『史記』の始皇本紀が、この字面の出處であらう。
 (ニ)詔 詔は告知の義である。秦以前には、上下ともにこの字を通用した。『左傳』に晉の將欒書ランショが※[#「安/革」、読みは「あん」、507-12]の役に齊軍を打ち破つて、國に凱旋の日、功を同僚の※(「燮」の「又」に代えて「火」、第3水準1-87-67、507-13)しせふに讓つて、今囘の戰勝は士※(「燮」の「又」に代えて「火」、第3水準1-87-67)の軍令宜しきを得、部下よくその命を聽きし故なりといへるを記して、「※(「燮」の「又」に代えて「火」、第3水準1-87-67)之詔也。士用命也」とある。始皇の時から天子の命令に限つて詔と稱することとなつた。
 (ホ)璽 玉にて作つた印を璽といふ。秦以前は上下の區別なく之を使用した。『韓非子』に秦の甘茂といふ人が、太僕といふ官につき、兼ねて行人の職を執つたことを、佩僕璽而爲行事と記してある。僕璽とは太僕の官印のことである。始皇の時に天子の印に限つて玉を用ゐ、之を璽と稱することとなつた。
 これらの規程は、要するに始皇帝が金科玉條と奉じて居る、尊君抑臣主義の一端を發揮したに過ぎぬ。先秦の歴史を通覽すると、代一代と君權漸長の痕を認めることが出來る。周禮の作者たる周公旦の如きは、君權擴張の棟梁である。天子は七廟、諸侯は五廟、大夫は三廟、士は一廟とか、天子の堂は高さ九尺、諸侯は七尺、大夫は五尺、士は三尺とか、天子に崩といひ、諸侯に薨といひ、大夫は卒、士は不禄、庶民は死といふとか、天子の墳には松を樹ゑ、諸侯は柏、大夫は欒、士は槐、庶民は楊柳を樹うるとか、あらゆる方面に於て、煩瑣なる規程を設けて、上下の區別を嚴にしたのは周時代である。始皇帝は要するに古來漸長しつつあつた、尊君抑臣主義を大成した人といはねばならぬ。漢以後陽に秦を非難しつつ、陰に秦にならつて、是等の名稱を採用して居るのは、始皇の政策が時代の要求に適した證據ともいへる。

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