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念珠集(ねんじゅしゅう)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-9-5 9:31:28  点击:  切换到繁體中文


    6 初詣

 明治二十九年に丁度僕が十五になつたので、父は湯殿ゆどの山の初詣はつまうでに連れて行つた。その時父は四十五六であつただらうから現在の僕ぐらゐの年であるがもう腰がまがつてゐた。これは田畑に体を使つたためであつた。しかしそれまで幾度となく湯殿山に参詣さんけい道中だうちゆう自慢じまんであつた。
 僕も父もしばらくの間毎朝水を浴びて精進し、その間に喧嘩けんくわなどをけ魚介虫類のやうなものでも殺さぬやうにし、多くの一厘銭を一つ一つ塩で磨いて賽銭さいせんに用意した。参詣というても今時のやうに途中まで汽車で行くのではない。夜半にならぬ頃に出立して夜の明けぬうち五六里は歩くのである。第一日は本道寺ほんだうじといふところに泊つた。そこまでは村から行程かうてい十四里である。第二日は、まだ暁にならぬうちに志津しづといふ村に著いて、そこで先達せんだつを頼んだ。それからの山道は雪解ゆきどけの水を渡るといふやうなところが度々あつた。まだ午前であつたが、湯殿山の谿合たにあひにかかると風の工合があやしくなつてきてたうとう『御山おやま』は荒れ出して来た。豪雨が全山をでて降つてくるので、かさは飛んでしまひ、ござもちぎれさうである。大木の枝が目前でいくつも折れた。それでも先達せんだつはひるまずに六根清浄御山繁盛ろくこんしやうじやうおやまはんじやうと唱へて行つた。さうするうち、渡るべき前方の谿は一めんの氷でうづめられてそれが雨で洗はれてすべすべになつてゐる。下手しもての方は深い谿に続いてひどくあぶないところである。僕は恐る恐るその上を渡つて行つたが、そこへ猛風が何ともいへぬ音をさせて吹いて来た。僕は転倒しかけた。うしろから歩いて来た父は、茂吉もきちへ。べたつと匍へ。鋭い声でさういつたから僕は氷のうへに匍つた。やつとのことでしがみ付いてゐたといふ方が好いかも知れない。さういふことを僕はおぼえてゐる。
『語られぬ湯殿ゆどのにぬらすたもとかな』といふ芭蕉の吟のあるその湯殿の山に僕は参拝して、『初まゐり』のねがひを遂げた。かねの鎖で辛うじて谿底の方へくだつて行つたことだの、それから、谿間のいはから湯が威勢よくいてながれてゐるところだのをおぼえてゐる。もどりに志津しづに一泊して、びしよぬれの衣服をほした。この日の行程十六里と称へられてゐる。
 第三日は、うららかな天気に帰路に就いた。七八里も来たころ、父は茶屋に寄つてぬたもちを註文した。ぬた餅とふのは枝豆を擂鉢すりばちつて砂糖と塩で塩梅あんばいをつけて餅にまびつたものである。父は茂吉なんぼでも食べろと云つた。それから道中をするには腹をこしらへなければ駄目である。山を越す時などには、ふもとで腹を拵へ、頂上で腹を拵へて、少し物を持つて出懸けるといいなどといつてなかなか上機嫌であつた。
 もう山形やまがたまちも近くなつたころ、当時の中学校で歴史を担任してゐる教諭の撰した日本歴史が欲しくなり、しきりにそれを父にせがんだ。その日本歴史は表の様に出来てゐて工面のいい家の子弟は必ず持つてゐたし小学校でも先生がそれを教場に持つて来たりするので、僕は欲しくて欲しくてまらなかつたものである。然るに父はどうしてもそれを買つて呉れない。僕らは山形の街に入つた。僕は幾たびも頼むが父は承諾しない。そのうち、書物の発行書店のまへを通りすぎてしまつた。僕はなぜ父はそんなに吝嗇りんしよくだらうかなどと思ひながら父の後ろを歩いたのであつた。

    7 日露の役

 日露戦役のあつたときには、僕はもう高等学校の学生になつてゐた。日露の役には長兄も次兄も出征した。長兄は秋田の第十七聯隊から出征し、黒溝台こくこうだいから奉天ほうてんの方に転戦してそこで負傷した。その頃は、あの村では誰彼だれかれが戦死した。この村では誰彼が負傷したといふうはさが毎日のやうにあつた。あたかも奉天の包囲戦がたけなはになつた時であつただらう。夜半を過ぎて秋田の聯隊司令部から電報がとどいた。そのとき兄嫁などはぶるぶるふるへて口が利けなかつたさうであつた。父は家人の騒ぐのを制して、はかま穿きそれから羽織をた。それから弓張ゆみはりともし、仏壇のまへに据わつて電報をひらいたさうである。そのことを僕が※(二の字点、1-2-22)たまたま帰省したりするとあねなどがよく話して聞かせたものである。
 父は若いころ、田植をどりといふのを習つてその女形をんながたになつたり、堀田ほつたの陣屋があつた時に、農兵になつて砲術を習つたり、おいとこ。しよがいな。三さがり。おばこ。木挽こびきぶし。何でもうたふし、祖父以来進歩党時代からの国会議員に力※ちからこぶ[#「やまいだれ+(「堊」の「王」に代えて「田」)」、124-下-1]いれて、※(「宀/隆」、第4水準2-8-9)りゆうおう和尚から草稿をかいてもらつて政談演説をしたり、剣術に凝り、植木に凝り、和讃に凝り、念仏に凝り、また穀断ごくだち塩断しほだちなどをもした。
 僕のやうな、物に臆し、ひとを恐れ、心の競ひのすくないものが、たまたま父の一生をおもひ起すと、そこにはあまり似寄によりの無いことに気付くのであつたが、けれどもこれは自らう思ふといい。僕は父がたんを煩つたときの子である。生薑しやうがの砂糖漬などをねぶつてゐたときの子である。さういふ時に生れた子である。ただ、どちらにしても馬胎ばたいでて驢胎ろたいに生じたぐらゐに過ぎぬとは僕もおもふ。

    8 青根温泉

 父は五つになる僕を背負ひ、母は入用いりようの荷物を負うて、青根あをね温泉に湯治たうぢに行つたことがある。青根温泉は蔵王山を越えて行くことも出来るが、そのふもとを縫うて迂回うくわいして行くことも出来る。
 父の日記を繰つて見ると、明治十九年のくだりに、『八月七日。雨降。熊次郎、おいく、茂吉、青根入湯にゆく。八月十三日、大雨降り大川の橋ながれ。八月十四日。天気よし。熊次郎、おいく、茂吉三人青根入湯がへり。八月廿三日。天気吉。伝右衛門でんゑもん、おひで、広吉、赤湯あかゆ入湯に行。九月ついたち。伝右衛門、おひで、広吉、赤湯入湯かへる』。ここでは、父母が僕を連れて青根温泉に行つたことを記し、ついで、祖父母が僕の長兄を連れて、赤湯温泉に行つたことを記してゐる。父の日記はおほむね農業日記であるが、かういふ事も漏らさず、極く簡単に記してある。青根温泉に行つたときのことを僕は極めてかすかにおぼえてゐる。父を追慕してゐると、おのづとその幽微になつた記憶が浮いてくるのである。
 父は小田原提灯ちやうちんか何かをつけて先へ立つて行くし、母はその後からついて行くのである。山の麓の道には高低いろいろの石が地面から露出してゐる。石道であるから、提灯の光が揺いで行くたびにその石の影がひよいひよいと動く。その石の影は一つ二つではなく沢山にある。僕が父の背なかでそれを非常に不思議に思つたことをおぼえてゐる。
 まだ夜中にもならぬうちに家を出て夜通よどほし歩いた。あけがたに強雨がううが降つて合羽かつぱまで透した。道は山中に入つて、小川は水嵩みづかさが増し、濁つた水がいきほひづいて流れてゐる。川幅が大きくなつて橋はもう流されてゐる。山中のこの激流を父は一度難儀してわたつた。それからもどつてこんどは母の手をかへて二人して用心しながら渡つたところを僕はおぼえてゐる。それから宿へ著くとそこの庭に四角な箱のやうなものが地にいけてある。清い水がそこに不断にながれおちてうなぎが一ぱいおよいでゐる。そんなに沢山に鰻のゐるところは今まで見たことはなかつた。
 帳場のやうなところにゐる女は、いつも愛想よく莞爾にこにこしてゐるが、母などよりもいい著物きものを著てゐる。僕が恐る恐るその女のところに寄つて行くと女は僕に菓子を呉れたりする。母は家に居るときには終日せはしく働くのにその女は決して働かない。それが童子の僕には不思議のやうに思はれたことをおぼえてゐる。
 僕は入湯してゐても毎晩夜尿ねねうをした。それは父にも母にも、もはや当りまへの事のやうに思はれたのであつたけれども、布団のことを気にかけずには居られなかつた。雨の降る日にはそつとして置いたが、天気になると直ぐ父は屋根のうへに布団を干した。器械体操をするやうな恰好かつかうをして父が布団を屋根のうへに運んだのを僕はおぼえてゐる。
 或る日に、多分雨の降つてゐた日ででもあつたか、湯治客たうぢきやくがみんなして芝居の真似まねをした。何でも僕らは土戸つちどのところで見物してゐたとおもふから、舞台は倉座敷であつたらしい。仙台から湯治に来てゐるおうななども交つて芝居をした。その時父はひよつとこになつた。それから、そのひよつとこめんをはづして、囃子手はやしてのところで笛を吹いてゐたことをおぼえてゐる。
 父の日記にると、青根温泉に七日ゐたわけである。それから、明治二十丁亥ひのとゐ年六月二日。晴天。夜おいく安産。と父の日記にあつて、僕の弟が生れてゐるから、青根温泉湯治中に母は懐妊くわいにんしたのではないかと僕は今おもふのである。

    9 奇蹟。日記鈔

 不思議奇蹟などいふことは中江兆民には無かつた。それは開化を輸入するには物質窮理の学を先づ輸入せねばならぬから、兆民は当時『理学』とつてゐる哲学をも輸入したが、いきほひ『奇蹟』を対治たいぢする立場にあつた。けれども僕のやうな気の弱いものには、『奇蹟』は幾つもある。
 大正十三年の暮に火事があつて、僕の書籍なんどもあんなに焼け果ててしまつたのに、僕が郷里から持つて来て、新聞紙に一包にしてゐた祖父と父の覚帳おぼえちやうが煙にこげたまま焼けずにゐた。びしよぬれになつてゐた日本紙でつづつた帳面を一枚一枚火鉢の火で乾かしながら、僕は実に強い不思議を感じてゐた。僕のをひは、紙を乾かすのを手伝ひながら、『軽いものですから、二階の焼落ちるときに跳ね飛ばされたんでせう』などと云つた。また『被服廠ひふくしやうの時のやうにつむじ風が起つて吹き飛ばしたのかも知れませんね』『しかしあんなぺらぺらな紙の帳面ですから、直ぐ焼けてもいいはずですがね』などとも云つた。甥はなるべく物理学の理屈で説明をつけようとするのであるがそれでは分からない点が幾らもあつた。
 祖父のものは、俳諧はいかい連歌れんがか何かを記入したものであつたが、父のものには、『品々万書留帳しなじなよろづかきとめちやう』といふ、明治七甲戌きのえいぬ年二月吉日にこしらへたものである。これは長兄が生れたとき、いはひもらつた品々などの記入から始まり、法事の時の献立こんだて、病気見舞の品々、婚礼のときの献立など、こまごまとしるしてあるので、僕は珍しいと思つて貰ひ受けたのであつた。例へば、明治廿三年二月廿三日夜より廿四日。盛華院清阿妙浄善大姉三回忌仏事献立控の廿四日十二人まへくだりに、平(かんぴよう。いも。油あげ。こんにやく。むきたけ)。手しほ皿(奈良漬。なんばん)。ひたし(にら)。皿(糸こん。くるみ合)。巻ずし(黒のり、ゆば)。吸物(包ゆば二つ。しひたけ。うど)。あげ物(牛蒡ごばう。いも。かやのみ。くわい。柿)。煮染にしめ(くわい。氷こん。にんじん。竹の子。しひたけ)。手しほ皿(焼とうふ。くづかけ。牛蒡黒煮)。皿(うこぎ。わらび漬)。下あげもの(くわい。牛蒡。柿。かやのみ。赤いも)。大平おほひら(くわい。しひたけ。ゆづ)。汁(とうふ。ふのり)。茶くわし(せんべい)。引くわし(うんどん五わただし四十めたば。まんぢゆう七つただし一つに付四厘づつ)。こんなことが書いてある。これで思起おもひおこすのは、陰暦の二月すゑには、既に韮がえ、木の新芽がせんに供し得る程になつてゐるといふことである。それから、『わらび漬』などとあるのも少年の頃をしのばしめるのであつた。
 その父の帳面に、僕が生れた時祝に貰つた品々を記した個所があるから一寸ちよつと書とどめておきたいと思ふ。明治十五壬午みづのえうま年三月廿七日出生しゆつしやう守谷もりや茂吉義豊。安産見舞受帳あんざんみまひうけちやう。小王余魚七枚、菅野弥五右衛門やごゑもん。金二十銭外に味噌一重、金沢治右衛門。金十銭、鈴木庄右衛門。金十銭、鈴木作兵衛さくべゑ。金十銭、斎藤三郎右衛門。かつをぶし一本外に味噌一重、永沢清左衛門。焼かれい三枚、松原村山本善十郎。金五銭、斎藤富右衛門。金十銭、大沢才兵衛。以上である。同じ村から八軒祝を貰つてをり、他村から一軒貰つて居る。他村の松原村と記してあるのは、母の姉が嫁入つたところである。それから最後に、大沢才兵衛とあるのは、父の弟で、漆の芽で僕の腕に小男根を描いてくれた童子の父である。明治十五年頃の東北の村ではこんな程度であつた。
 僕は留学から帰つて来て、家兄に頼んで少しばかり父の日記から手抄して貰つたのであつた。そのうちに僕にぜにを呉れたのを記したところが処々に見つかる。明治十九年十月十五日曇り。二銭柿代富太郎、茂吉えつかはし。明治二十年七月十五日。四銭茂吉え遣し。明治廿三年正月七日。十八銭、茂吉授業料正二二ヶ月分。三銭茂吉え遣し。十日休日。三銭茂吉え遣し。十五日休日。一銭茂吉え遣し。七月二日。五銭茂吉書物代しよもつだい。十二日。四銭茂吉え遣し。十二月廿四日。二十二銭茂吉薬代くすりだい。こんな工合である。ここに二十二銭茂吉薬代とあるのは、僕が絵具に中毒して黄疸わうだんになつたとき、父は何処どこからか家伝の民間薬を買つて来てくれた。それを云ふのである。
 明治廿四年。二月十五日。一銭直吉笛代。五銭富太郎え遣し。三銭茂吉え遣し。三月三日。二十銭茂吉書物代画学紙共。十五日。一銭茂吉え遣し、廿八日。二銭茂吉え遣し。八月十四日。天気よし。茂吉直吉おみゑ上山かみのやま行。九銭茂吉筆代。十月廿一日。天気よし。七銭茂吉下駄代げただい。廿二日。天気吉。広吉茂吉は半郷学校え天子てんし様のシヤシン下るに付而行ついてゆく。熊次郎紙つき。富太郎金三郎深田の葦刈よしかり。女中三人は午前つけ。午後裏畑うらはた草取くさとり。伝太郎をたのんで十一俵買。
 合併になつた隣村の学校に、御真影ごしんえいがはじめて御さがりになつた時の趣で、それは明治廿四年十月廿二日だつたことが分かるが、これはすべて陰暦の日附である。大雪にならぬ前に深田の葦を刈り、菜を漬け、畑の草を取つてくべきものは播き、冬ごもりの準備をする光景である。父の日記は、大凡おほよそ農業日記であつて、そのなかに、ぽつりぽつり、僕に呉れた小遣銭こづかひせんの記入などがあるのである。明治廿二年のくだりに、宝泉寺え泥ぼうはひり、伝右衛門下男げなんもちて表よりゆく。熊次郎やりもちて裏より行、などといふ事件の記事もある。これは、宝泉寺住職※(「宀/隆」、第4水準2-8-9)りゆうおう和尚が上京して留守中、泥棒が入らうとして日本刀で戸をずたずたに切つた。倔強くつきやうの若者が二人ばかり宿とまつてゐたが、恐れてしまつて何の役にも立たなかつた時の話である。伝右衛門は祖父の名で未だ存命中であつた。熊次郎は父の名である。
 一時剣術に凝つたり、砲術を習つたりした名残なごりで、どちらかといへば、さういふ時に槍など持つことを好んでゐた。父はさういふとき『得手えてまへ』といふ言葉をく使つた。

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