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教祖の文学(きょうそのぶんがく)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-9-5 10:09:35  点击:  切换到繁體中文


 だから、歴史には死人だけしか現はれてこない。だから退きならぬ人間の相しか現はれぬし、動じない美しい形しか現はれない、と仰有おつしやる。生きてゐる人間を観察したり仮面をはいだり、罰が当るばかりだと仰有るのである。だから小林のところへ文学を習ひに行くと人生だの文学などは雲隠れして、彼はすでに奥義をきはめ、やんごとない教祖であり、悟道のこもつた深遠な一句を与へてくれるといふわけだ。
 生きてゐる人間などは何をやりだすやら解つたためしがなく鑑賞にも観察にも堪へない、といふ小林は、だから死人の国、歴史といふものを信用し、「歴史の必然」などといふことを仰有る。
「歴史の必然」か。なるほど、歴史は必然であるか。
 西行がなぜ出家したか、などいふことをいくら突きとめようたつて、謎は謎、そんなところから何も出てきやしない、実朝がなぜ船をつくつたか、そんなことはどうでもいゝ、右大臣であつたことも、将軍であつたことも、問題ではない、たゞ詩人だけを見ればいゝのだと仰有る。
 だから坂口安吾といふ三文々士が女に惚れたり飲んだくれたり時には坊主にならうとしたり五年間思ひつめて接吻したら慌ててしまつて絶交状をしたゝめて失恋したり、近頃は又デカダンなどと益々もつて何をやらかすか分りやしない。もとより鑑賞に堪へん。第一奴めが何をやりをつたにしたところで、そんなことは奴めの何物でもない。かう仰有るにきまつてゐる。奴めが何物であるか、それは奴めの三文小説を読めば分る。教祖にかゝつては三文々士の実相の如き手玉にとつてチョイと投げすてられ、惨又惨たるものだ。
 ところが三文々士の方では、女に惚れたり飲んだくれたり、専らその方に心掛けがこもつてゐて、死後の名声の如き、てんで問題にしてゐない。教祖の師匠筋に当つてゐる、アンリベイル先生の余の文学は五十年後に理解せられるであらう、とんでもない、私は死後に愛読されたつてそれは実にたゞタヨリない話にすぎないですよ、死ねば私は終る。私と共にわが文学も終る。なぜなら私が終るですから。私はそれだけなんだ。
 生きてる奴は何をやりだすか分らんと仰有る。まつたく分らないのだ。現在かうだから次にはかうやるだらうといふ必然の筋道は生きた人間にはない。死んだ人間だつて生きてる時はさうだつたのだ。人間に必然がない如く、歴史の必然などといふものは、どこにもない。人間と歴史は同じものだ。たゞ歴史はすでに終つてをり、歴史の中の人間はもはや何事を行ふこともできないだけで、然し彼らがあらゆる可能性と偶然の中を縫つてゐたのは、彼らが人間であつた限り、まちがひはない。
 歴史には死人だけしか現はれてこない、だから退ッ引きならぬギリギリの人間の相を示し、不動の美しさをあらはす、などとは大嘘だ。死人の行跡が退ッ引きならぬギリギリなら、生きた人間のしでかすことも退ッ引きならぬギリギリなのだ。もし又生きた人間のしでかすことが退ッ引きならぬギリギリでなければ、死人の足跡も退ッ引きならぬギリギリではなかつたまでのこと、生死二者変りのあらう筈はない。
 つまり教祖は独創家、創作家ではないのである。教祖は本質的に鑑定人だ。教祖がちかごろ骨董を愛すといふのは無理がないので、すでに私がその碁に於いて看破した如く彼は天性の公式主義者であり、定石主義者であり、保守家であり、常識家であつて、死人はともかく死んでをり、もう足をすべらして墜落することがないから安心だが、生きた奴とくると、何をしでかすか分らず、教祖の如く何をしでかす魂胆がなくとも、足をすべらしてプラットホームから落つこちる、どこに伏兵がひそんでゐるか分らない。実にどうも生きるといふことはヤッカイだ。
 だから教祖の流儀には型、つまり公式とか約束といふものが必要で、死んだ奴とか歴史はもう足をすべらすことがないので型の中で料理ができるけれども、生きてる奴はいつ約束を破るか見当がつかないので、かういふ奴は鑑賞に堪へん。歴史の必然などといふ妖怪じみた調味料をあみだして、料理の腕をふるふ。生きてる奴の料理はいやだ、あんなものは煮ても焼いてもダメ、鑑賞に堪へん。調味料がきかない。
 あまり自分勝手だよ、教祖の料理は。おまけにケッタイで、類のないやうな味だけれども、然し料理の根本は保守的であり、型、公式、常識そのものなのだ。
 生きてる人間といふものは、(実は死んだ人間でも、だから、つまり)人間といふものは、自分でも何をしでかすか分らない、自分とは何物だか、それもてんで知りやしない、人間はせつないものだ、然し、ともかく生きようとする、何とか手探りででも何かましな物を探し縋りついて生きようといふ、せつぱつまれば全く何をやらかすか、自分ながらたよりない。疑りもする、信じもする、信じようとし思ひこまうとし、体当り、遁走、まつたく悪戦苦闘である。こんなにして、なぜ生きるんだ。文学とか哲学とか宗教とか、諸々の思想といふものがそこから生れて育つてきたのだ。それはすべて生きるためのものなのだ。生きることにはあらゆる矛盾があり、不可決、不可解、てんで先が知れないからの悪戦苦闘の武器だかオモチャだか、ともかくそこでフリ廻さずにゐられなくなつた棒キレみたいなものの一つが文学だ。
 人間は何をやりだすか分らんから、文学があるのぢやないか。歴史の必然などといふ、人間の必然、そんなもので割り切れたり、鑑賞に堪へたりできるものなら、文学などの必要はないのだ。
 だから小林はその魂の根本に於いて、文学とは完全に縁が切れてゐる。そのくせ文学の奥義をあみだし、一宗の教祖となる、これ実に邪教である。
 西行も実朝も地獄を見た。陰惨な罪業深い地獄、物悲しい優しい美しい地獄。そして西行の一生は「いかにすべき我心」また、孤独といふ得体の知れぬものについての言葉なき苦吟をやめたことがなかつたし、実朝は殺されたが然し実朝の心はこれを自殺と見たかも知れぬ、と言ふ。まさしく、その通りだ。邪教も亦、真理を説くか。璽光じこう様が天照大神あまてらすおおみかみの生れ変りの如くに。
「西行はなぜ出家したか、その原因に就いて西行研究家は多忙なのであるが、僕には興味がないことだ。凡そ詩人を解するには、その努めて現はさうとしたところを極めるがよろしく、努めて忘れようとして隠さうとしたところを詮索したとて、何が得られるものでもない」(西行)
 そして近代文学といふ奴は仮面を脱げ、素面を見せよ、そんなことばかり喚いて駈けだして、女々しい毒念が方図もなくひろがつて、罰が当つてしまつたんだ、と仰有る。
 然り、詩人を解すには、詩を読むだけで沢山だ。こんなこともした、こんな一面もあつた、と詮索して同類発見を喜んだところで詩人を解したわけでもなく、まさしく詩を読むことだけが詩人を解す方法なのだ。小林は詩を解す、といふ。然り、鑑賞はそれだけでよい。鑑賞家といふものは。
 然し、こゝに作家といふものがある。彼の読書は学ぶのだ。学ぶとは争ふことだ。そして、作家にとつては、作品は書くのみのものではなく、作品とは又、生きることだ。小林が西行や実朝の詩を読んでゐるのも彼等の生きた翳であり、彼等が生きることによつて見つめねばならなかつた地獄を、小林も亦読みとることによつて感動してゐるのだ。
 仮面を脱げ、素面を見せよ、といふことはそれを作品の上に於いて行つたから罰が当つただけで、小説といふ作品の場合に於いては、作家は思想家であると同時に戯作者でなければならぬ。仮面を脱いで素面を見せることは小説ではない。これを小説だと思へば罰が当るのは是非もない。然し作家の私生活に於いて、作家は仮面をぬぎ、とことんまで裸の自分を見つめる生活を知らなければ、その作家の思想や戯作性などタカが知れたもので、鑑賞に堪へうる代物ではないにきまつてゐる。
 小説は(芸術は)自我の発見だといふ。自我の創造だといふ。作家が自分といふものを知つてしまへば、作品はそれによつて限定され、定められた通路しか通れなくなる。然し本当の小説といふものは、それを書き終るときに常に一つの自我を創造し、自我を発見すべきものだ、と、これは文学技師アンドレ・ジッド氏の御意見だ。ちなみにジッド氏は文学に通暁し、あらゆる技法を心得、縦横に知識を用ひ、術をつくし、ある時は型を破つて、小説をつくる技師であるが、本当の小説家だとは私は思つてゐない。ジッド氏が自身の小説に於いて、自我を創造、発見したか、私は疑問に思つてゐる。

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