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日本文化私観(にほんぶんかしかん)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-9-6 6:14:12  点击:  切换到繁體中文

底本: 坂口安吾全集14
出版社: ちくま文庫、筑摩書房
初版発行日: 1990(平成2)年6月26日
入力に使用: 1993(平成4)年3月10日第2刷
校正に使用: 1990(平成2)年6月26日第1刷


底本の親本: 日本文化私観
出版社: 文体社
初版発行日: 1943(昭和18)年12月5日

 

  一 「日本的」ということ

 僕は日本の古代文化について殆んど知識を持っていない。ブルーノ・タウトが絶讃する桂離宮も見たことがなく、玉泉も大雅堂も竹田ちくでんも鉄斎も知らないのである。いわんや、秦蔵六はたぞうろくだの竹源斎師など名前すら聞いたことがなく、第一、めったに旅行することがないので、祖国のあの町この村も、風俗も、山河も知らないのだ。タウトによれば日本に於ける最も俗悪な都市だという新潟市に僕は生れ、彼のさげすみ嫌うところの上野から銀座への街、ネオン・サインを僕は愛す。茶の湯の方式など全然知らない代りには、みだりに酔いれることをのみ知り、孤独の家居にいて、床の間などというものに一顧を与えたこともない。
 けれども、そのような僕の生活が、祖国の光輝ある古代文化の伝統を見失ったという理由で、貧困なものだとは考えていない(然し、ほかの理由で、貧困だという内省には悩まされているのだが――)。
 タウトはある日、竹田の愛好家というさる日本の富豪の招待を受けた。客は十名余りであった。主人は女中の手をかりず、自分で倉庫と座敷の間を往復し、一幅いっぷくずつの掛物を持参して床の間へ吊し一同に披露して、又、別の掛物をとりに行く、名画が一同を楽しませることを自分の喜びとしているのである。終って、座を変え、茶の湯と、礼儀正しい食膳を供したという。こういう生活が「古代文化の伝統を見失わない」ために、内面的に豊富な生活だと言うに至っては内面なるものの目安が余り安直で滅茶苦茶な話だけれども、然し、無論、文化の伝統を見失った僕の方が(そのために)豊富である筈もない。
 いつかコクトオが、日本へ来たとき、日本人がどうして和服を着ないのだろうと言って、日本が母国の伝統を忘れ、欧米化に汲々きゅうきゅうたる有様を嘆いたのであった。成程、フランスという国は不思議な国である。戦争が始ると、先ずまっさきに避難したのはルーヴル博物館の陳列品と金塊で、巴里パリの保存のために祖国の運命を換えてしまった。彼等は伝統の遺産を受継いできたが、祖国の伝統を生むべきものが、又、彼等自身に外ならぬことを全然知らないようである。
 伝統とは何か? 国民性とは何か? 日本人には必然の性格があって、どうしても和服を発明し、それを着なければならないような決定的な素因があるのだろうか。
 講談を読むと、我々の祖先は甚だ復讐心が強く、乞食となり、草の根を分けて仇を探し廻っている。そのサムライが終ってからまだ七八十年しか経たないのに、これはもう、我々にとっては夢の中の物語である。今日の日本人は、およそ、あらゆる国民の中で、恐らく最も憎悪心のすくない国民の中の一つである。僕がまだ学生時代の話であるが、アテネ・フランセでロベール先生の歓迎会があり、テーブルには名札が置かれ席が定まっていて、どういうわけだか僕だけ外国人の間にはさまれ、真正面はコット先生であった。コット先生は菜食主義者だから、たった一人献立が別で、オートミルのようなものばかり食っている。僕は相手がなくて退屈だから、先生の食欲ばかりもっぱら観察していたが、猛烈な速力で、一度さじをとりあげると口と皿の間を快速力で往復させ食べ終るまで下へ置かず、僕が肉を一きれ食ううちに、オートミルを一皿すすり込んでしまう。先生が胃弱になるのはもっともだと思った。テーブルスピーチが始った。コット先生が立上った。と、先生の声は沈痛なもので、突然、クレマンソーの追悼演説を始めたのである。クレマンソーは前大戦のフランスの首相、虎とよばれた決闘好きの政治家だが、丁度その日の新聞に彼の死去が報ぜられたのであった。コット先生はボルテール流のニヒリストで、無神論者であった。エレジヤの詩を最も愛し、好んでボルテールのエピグラムを学生に教え、又、自ら好んでむ。だから先生が人の死について思想を通したものでない直接の感傷で語ろうなどとは、僕は夢にも思わなかった。僕は先生の演説が冗談だと思った。今に一度にひっくり返すユーモアが用意されているのだろうと考えたのだ。けれども先生の演説は、沈痛から悲痛になり、もはや冗談ではないことがハッキリ分ったのである。あんまり思いもよらないことだったので、僕は呆気あっけにとられ、思わず、笑いだしてしまった。――その時の先生の眼を僕は生涯忘れることができない。先生は、殺しても尚あきたりぬ血に飢えた憎悪をらして、僕をにらんだのだ。
 このような眼は日本人には無いのである。僕は一度もこのような眼を日本人に見たことはなかった。その後も特に意識して注意したが、一度も出会ったことがない。つまり、このような憎悪が、日本人には無いのである。『三国志』に於ける憎悪、『チャタレイ夫人の恋人』に於ける憎悪、血に飢え、八ツざきにしても尚あき足りぬという憎しみは日本人には殆んどない。昨日の敵は今日の友という甘さが、むしろ日本人に共有の感情だ。およそ仇討にふさわしくない自分達であることを、恐らく多くの日本人が痛感しているに相違ない。長年月にわたって徹底的に憎み通すことすら不可能にちかく、せいぜい「食いつきそうな」眼付ぐらいが限界なのである。
 伝統とか、国民性とよばれるものにも、時として、このような欺瞞ぎまんが隠されている。凡そ自分の性情にうらはらな習慣や伝統を、あたかも生来の希願のように背負わなければならないのである。だから、昔日本に行われていたことが、昔行われていたために、日本本来のものだということは成立たない。外国に於て行われ、日本には行われていなかった習慣が、実は日本人に最もふさわしいことも有り得るし、日本に於て行われて、外国には行われなかった習慣が、実は外国人にふさわしいことも有り得るのだ。模倣ではなく、発見だ。ゲーテがシェクスピアの作品に暗示を受けて自分の傑作を書きあげたように、個性を尊重する芸術に於てすら、模倣から発見への過程は最も屡々しばしば行われる。インスピレーションは、多く模倣の精神から出発して、発見によって結実する。
 キモノとは何ぞや? 洋服との交流が千年ばかり遅かっただけだ。そうして、限られた手法以外に、新らたな発明を暗示する別の手法が与えられなかっただけである。日本人の貧弱な体躯が特にキモノを生みだしたのではない。日本人にはキモノのみが美しいわけでもない。外国の恰幅かっぷくのよい男達の和服姿が、我々よりも立派に見えるに極っている。
 小学生の頃、万代橋ばんだいばしという信濃川の河口にかかっている木橋がとりこわされて、川幅を半分に埋めたて鉄橋にするというので、長い期間、悲しい思いをしたことがあった。日本一の木橋がなくなり、川幅が狭くなって、自分の誇りがなくなることが、身を切られる切なさであったのだ。その不思議な悲しみ方が今では夢のような思い出だ。このような悲しみ方は、成人するにつれ、又、その物との交渉が成人につれて深まりながら、かえって薄れる一方であった。そうして、今では、木橋が鉄橋に代り、川幅の狭められたことが、悲しくないばかりか、極めて当然だと考える。然し、このような変化は、僕のみではないだろう。多くの日本人は、故郷の古い姿が破壊されて、欧米風な建物が出現するたびに、悲しみよりも、むしろ喜びを感じる。新らしい交通機関も必要だし、エレベーターも必要だ。伝統の美だの日本本来の姿などというものよりも、より便利な生活が必要なのである。京都の寺や奈良の仏像が全滅しても困らないが、電車が動かなくては困るのだ。我々に大切なのは「生活の必要」だけで、古代文化が全滅しても、生活は亡びず、生活自体が亡びない限り、我々の独自性は健康なのである。なぜなら、我々自体の必要と、必要に応じた欲求を失わないからである。
 タウトが東京で講演の時、聴衆の八九割は学生で、あとの一二割が建築家であったそうだ。東京のあらゆる建築専門家に案内状を発送して、尚そのような結果であった。ヨーロッパでは決してこのようなことは有り得ないそうだ。常に八九割が建築家で、一二割が都市の文化に関心を持つ市長とか町長という名誉職の人々であり、学生などの割りこむ余地はない筈だ、と言うのである。
 僕は建築界のことに就ては不案内だが、例を文学にとって考えても、たとえばアンドレ・ジッドの講演が東京で行われたにしても、小説家の九割ぐらいは聴きに行きはしないだろう。そうして、矢張り、聴衆の八九割は学生で、おまけに、学生の三割ぐらいは、女学生かも知れないのだ。僕が仏教科の生徒の頃、フランスだのイギリスの仏教学者の講演会に行ってみると、坊主だらけの日本のくせに、聴衆の全部が学生だった。尤も坊主の卵なのだろう。
 日本の文化人が怠慢なのかも知れないが、西洋の文化人が「社交的に」勤勉なせいでもあるのだろう。社交的に勤勉なのは必ずしも勤勉ではなく、社交的に怠慢なのは必ずしも怠慢ではない。勤勉、怠慢はとにかくとして、日本の文化人はまったく困った代物しろものだ。桂離宮も見たことがなく、竹田も玉泉も鉄斎も知らず、茶の湯も知らない。小堀遠州などと言えば、建築家だか、造庭家だか、大名だか、茶人だか、もしかすると忍術使いの家元じゃなかったかね、などと言う奴がある。故郷の古い建築を叩きこわして、出来損いの洋式バラックをたてて、得々としている。そのくせ、タウトの講演も、アンドレ・ジッドの講演も聴きに行きはしないのである。そうして、ネオン・サインの陰を酔っ払ってよろめきまわり、電髪嬢をさかなにしてインチキ・ウイスキーをあおっている。呆れ果てた奴等である。
 日本本来の伝統に認識も持たないばかりか、その欧米の猿真似に至ってはたいをなさず、美の片鱗へんりんをとどめず、全然インチキそのものである。ゲーリー・クーパーは満員客止めの盛況だが、梅若万三郎は数える程しか客が来ない。かかる文化人というものは、貧困そのものではないか。
 然しながら、タウトが日本を発見し、その伝統の美を発見したことと、我々が日本の伝統を見失いながら、しかも現に日本人であることとの間には、タウトが全然思いもよらぬへだたりがあった。即ち、タウトは日本を発見しなければならなかったが、我々は日本を発見するまでもなく、現に日本人なのだ。我々は古代文化を見失っているかも知れぬが、日本を見失う筈はない。日本精神とは何ぞや、そういうことを我々自身が論じる必要はないのである。説明づけられた精神から日本が生れる筈もなく、又、日本精神というものが説明づけられる筈もない。日本人の生活が健康でありさえすれば、日本そのものが健康だ。彎曲わんきょくした短い足にズボンをはき、洋服をきて、チョコチョコ歩き、ダンスを踊り、畳をすてて、安物の椅子テーブルにふんぞり返って気取っている。それが欧米人の眼から見て滑稽千万であることと、我々自身がその便利に満足していることの間には、全然つながりが無いのである。彼等が我々を憐れみ笑う立場と、我々が生活しつつある立場には、根柢的に相違がある。我々の生活が正当な要求にもとづく限りは、彼等の憫笑びんしょうが甚だ浅薄でしかないのである。彎曲した短い足にズボンをはいてチョコチョコ歩くのが滑稽だから笑うというのは無理がないが、我々がそういう所にこだわりを持たず、もう少し高い所に目的を置いていたとしたら、笑う方が必ずしも利巧の筈はないではないか。
 僕は先刻白状に及んだ通り、桂離宮も見たことがなく、雪舟も雪村も竹田も大雅堂も玉泉も鉄斎も知らず、狩野派も運慶も知らない。けれども、僕自身の「日本文化私観」を語ってみようと思うのだ。祖国の伝統を全然知らず、ネオン・サインとジャズぐらいしか知らない奴が、日本文化を語るとは不思議なことかも知れないが、すくなくとも、僕は日本を「発見」する必要だけはなかったのだ。

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