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街はふるさと(まちはふるさと)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-9-6 6:25:09  点击:  切换到繁體中文


       三

 長平は礼子の恋文と、青木の借金状と、二通ならべて、異様な思いに悩んだものだ。
 二つの手紙が時を同うして舞いこんだのは、偶然だろうか、夫婦談合の手筋の狂いからだろうか、と。ナレアイの離婚というのは悪意に解しすぎるようだが、根の深い別居だとも思われない。ちょッとした不和のハズミだろうと考えた。仲のよい夫婦だったのだ。
 しかし、二人の別居と、借金の申込みと、無関係なのだろうか。どう考えても、この結論がつかない。ともかく、愉快ならざることではあった。
 礼子はその後十通ほどの一通は一通ごとに露骨な恋文を長平に送ったが、返事がないので、三度、京都まで訪ねてきた。長平は居留守をつかって会わなかった。真にうけかねて、バカらしくもあったし、恋を語るような甘い気持が一切なかったからである。
 礼子の弟という若い中学教師がわざわざ京都の長平を訪れたこともある。この時は上京中で会えなかったが、あとで手紙で、姉の気持が哀れだから何とかしてくれないか、何とかすべきだ、と、当然その義務があるような叱るような文面だった。姉を一方的に信じている実の弟だからムリもなかろう、と、長平は気にしなかった。
 ところが、青木夫妻の親友で、長平にも旧友の海野という史学者が、上洛のついでに長平を訪ねて、
「青木夫人礼子さんが別居して鎌倉の実家にいるが、ぼくも鎌倉だから時々会うが、金に困って、気の毒な状態だね。君から、なんとかしてやれないだろうか」
「なんとかッて、どんなことを。そして、何かしなければならないワケが、ぼくにあるのかい」
 海野はムッとした様子だが、親友のために私憤を殺しているらしく、にわかに物分りのよい顔をして、
「実は青木が、これは又、猛烈な四苦八苦なんだよ。あらゆる事業がおもわしくない」
「手広くやりすぎたのだよ。戦後のバカ景気がいつまで続くわけがないということを、ずいぶん云ったんだが、うけつけようともしないのだから」
「それで、君から、百万ぐらい都合してやれないかね」
 長平は呆れて旧友をうちながめた。海野に悪意はないのである。彼は書斎人の一徹で、何か一方的に思いこんでいるのである。
 一日か二日がかりで言葉をつくして説明すれば、半分ぐらい説得できるかも知れないが、そうまでして、この単純に思いこんだ書斎人を説得する根気もなかった。
「その話なら、うちきりにしよう。君は事情を知らないのだし、ぼくも君のために事情を説明したいとは思わない。第三者が介入すべきことではないよ。話があれば、青木とぼくが直接するにかぎるのだから」
 と、それ以上、ふれさせなかった。
 しかし、それがキッカケとなって、この上京中に、青木と会うことになったのである。
 長平の気持は複雑であった。しかし、青木はそれ以上にも複雑で、悲しさに打ちひしがれているのかも知れない。ただ虚勢だけで持ちこたえているのかも知れなかった。
 長平はその青木をいたわるべきだと思いながら、なんとなく不快であり、万事につけて腑に落ちなかった。

       四

 青木と礼子の別居が、どの程度のものだか、それすらも見当がつかなかった。現に二人はその後も会っているに相違ない。なぜなら、礼子は長平を訪ねたが会えなくて残念がっていた、と青木が云っているのだから。
「そう。そんなことがあったね。せっかく京都まで訪ねて来られたそうだが、あいにく上京中で会えなかったよ」
 長平は、こう答えるまでに甚しく迷ったのである。礼子が三度訪れたこと、居留守をつかって会わなかったこと、それをハッキリ云うべきではないかと迷った。自分の態度をハッキリ示すことは、相手のハッキリした態度を要求することでもあるからだ。
 しかし、青木夫妻の別居が決定的なものだとすると、いかにも礼子が哀れであるし、二人を突き放している自分が、思いあがったようで、イヤでもあった。
「一度、礼子に会ってやってくれないか」
 青木の言葉は静かであった。それを受けとる長平の気持は複雑だ。
「君からそんなことを頼まれると、ぼくは、迷いもするし、ヒガミもする。また、疑いもするし、怒りたくもなるよ。そう思わないかい? 君は?」
 長平は返答を待ったが、答えがなかった。そこで、言葉をつづけて、
「ぼくは礼子さんに一度だけ返事を書いたことがあったよ。別居したという手紙をもらった時だね。こんな返事だ。夫婦喧嘩だけでは足らないのですか。ぼくはあなた方二人が誰よりも愛し合った夫婦だったことを知っています。一度そうであった者は、それ以上のものを探す必要はありません。どこにもそれ以上のものはないから。あなた方お二方の生活がつまらなければ、そのほかの誰の生活もつまらないのです。みんな諦めているだけです。元の枝へ急がれんことを。ザッとこんな手紙だったね。しかし、この手紙は出さなかったよ。なぜなら、まだ出さないうちに、君からの借金の手紙が来たからだ。ぼくはインネンをつけられているような気がした。そして君たちのことは二度と考えてみるのもイヤになったのさ」
 ツツモタセのインネンを、と云わんばかりであったが、青木はそれが気にならないのか、まるで念頭にかからぬ様子で、
「あのときは取り乱して、失礼したね。金詰りで、四苦八苦の時だから。みすみすモウケが分っているのに、それが出来ないのさ。鉱石を駅まで十里の山径やまみちを運びださなきゃならないのさ。その運賃で赤字なのだ。鉱石をきりだしてるのは海岸なんだぜ。港をつくりゃ、もうかるのさ。大きな港じゃないんだ。百トン積みの小船を横づけにするだけでタクサンなんだからね。いくらでもない工費なんだが、その工面がつかないのさ。ぼくの数年はその苦闘史さ。こんど立候補するのも、そうする以外に築港を完成する手がないからだよ」
 青木は再びカラカラと高笑いした。まるで立候補の抱負と高笑いをきかせるために会見しているかのように、その時だけは生き生きと見えるのだった。
 また長平はちょッとむかついて、
「話の本筋にふれないかね」
「まアさ。ぼくの夢だって、きいてくれよ。数年の苦闘史をね。受難史だよ。仕事は外れる。女房は逃げる。来る時には一とまとめに来やがるからなア。なんど首をくくりたくなったか知れないよ」
 青木はまたカラカラと笑った。そして、
「ナア。長平さん。ビールをのもうよ」
 にわかにグニャ/\と構えをくずして、なれなれしくビールをさした。

       五

 長平はなるべく腹を立てないようにと、自制するのに努力した。
「受難史はいずれ承ることにして、別居のテンマツをきかせたまえ。もっとも、君が語りたくなければ、ぼくの方はこれ幸いで、ききたいと思ってるわけではないがね」
「まアさ。長さんは相変らず堅苦しいね。それで女にもてるんだから。アッハッハッ」
 ひとしきり笑いたてて、真顔にかえった。
「だからさ。礼子に会ってやってくれよ」
「なぜ」
「礼子がそれを語る適任者だからさ。ぼくなどの出る幕じゃないよ。礼子が君に語るであろう切々たる胸のうちが、全てを語って余すところなしさ」
 思いがけない言葉だから、まさか本心ではなかろうと疑った。
 しかし苦笑のひいた青木の顔は、打ちひしがれたように蒼ざめている。いったい本気なのか、と長平は呆れた。
「実は、礼子がくることになってるのだがね」
「ここへかい」
「いや、喫茶店で待ってる。もう来てるだろうよ。会ってやってくれよ」
「どうして君は会わせたがるんだい」
「ジャケンなことを言う人だねえ。会ってやったって、いゝじゃないか」
 カンジンなところへくると、青木は返答の急所をはずす。彼の気の弱さだと長平は考えるが、策謀と受けとれぬこともない。
 嫌いでもない女房に逃げられたという。逃げた原因はほかの男に気が移ったせいだと女房自身言明している。
 当の男が、逃げられた亭主の前に現にいるのだ。そして、一方的に気が移ったからと云って、離婚の責任を男に押しつけられては困るし、それぐらいの常識は誰しも持つのが当然だが、この御夫婦に限って妙に押しつけがましいのが腑に落ちない、と男が亭主にきいているのだ。
 ところが亭主はまるで謎々をたのしむように、わざと正体をぼかして、じらしているのである。
 長平は不愉快だったが、しかし自分のことが原因で夫婦別れをしたと云う以上は、一方的に押しつけられたものでも、オレの知ったことかと突き放すこともできない。
「君。もっと素直に話せないのか」
 と、長平が態度に窮して、つい懇願的になると、青木もこたえたらしく、
「すまん。実に、バカなんだ。ぼくは、ね。女房のことでも悩んだが、しかし、金の悩みにくらべれば、微々たるものさ。女のことで死ぬなんて、まだ花ある人生ですよ。ぼくみたいに、金々々、金ゆえに首くくりを何年何ヶ月思いつめた人間というものは、これはもう首をくくる先に骨の皮の餓鬼なんだ。逆さにふっても鼻血もでないなんて、昔の奴は、無慙なことを、いとカンタンに云いやがるよ」
「書斎へ戻るのが賢明だと思うがな。昔のようにさ。たった五年前の昔だ。礼子さんも事業家からは逃げだしたが、書斎の君のところへは戻るだろうと、ぼくは思うよ」
「まアさ。小人には君子の道を説いても、ムダなものだよ」
 青木はわざとらしく爽やかに高笑いして、
「ぼくじゃなくて、女の小人に道を説いてやってくれ。彼女は救われるかも知れないからさ。なぜなら、汚れが少いから。ぼくは今もなお最も多く彼女を尊敬しているよ」

       六

 青木に別れて、二人は銀座裏のバーへ行った。長平の二十年来の行きつけの店だ。二階になじみのバーテンが寝泊りしていて二人を迎えてくれたが、営業は夜だけだから、昼は人のくる気づかいがない。
 薄暗いなかでジンヒーズをつくってもらって飲んでいると、ノックの音がした。
 放二が錠を外して扉をあけると、青木が礼子を案内してきて、じゃア、また六時に、と、自分はそそくさ姿を消した。
 この会見のあとで、長平はもう一度青木に会わなければならないのである。宵の六時にもう一度と青木はきかないのである。
「ここで、みんな話をすますわけにはいかないのかい」
 長平は面倒がってたのんだのだが、
「いちど、その前に、礼子に会ってやってくれよ。それからぼくは君に会って、胸の中をきいてもらいたいのだ」
 青木はそう頼んで、きかなかった。そして六時の会見は、長平のきゝなれない、豪勢らしい料亭が指定されていた。
 礼子は一別以来の尋常な挨拶を終ると、放二の方にチラと目をやって、
「こちら、北川さん?」
「そうです。在京中は形影相伴う血族ですから、お心置きなく」
 青木が放二のことを説明しておいたのだろうと思うから、長平は気にとめず、答えたが、実際は、意外千万な意味があった。しかし、そのときは、わからなかった。
 営業前の薄暗い酒場というものは、坐り場所に窮するような落付かないものだが、礼子はむしろそうでもなく悠々と見まわして、
「ここ、カフェーというんでしょうか? バーですか。キャバレーですか」
「バーというんでしょうね。定義は知りませんが、洋酒を最も安直にのませるところです」
「女給さんは?」
「おります」
 一方的に思いつめて、そのために離婚までして、手紙では事足らず、遠く京都まで三度もムダ足を運んでひるまない礼子。ひたむきに思いまどって何の余裕もないかと思えば、長平よりも落ちつきはらって、静かに四囲を見まわしている。そして、究理の学徒がするような冷静な態度でくだらぬ質問をしている。礼義とか外交手腕じゃないようだ。余裕がありすぎるから、余裕のない世界を弄び、たのしんでいるのじゃないか、と長平は疑りたくなるのであった。
 礼子の知識慾はまだつゞいて、
「バーの繁昌はお酒の良し悪しですか、女給さんの良し悪しですか」
「そうですね。お酒の良し悪しと答えると女給は怒るだろうな。しかし、女給の良し悪しと答えてもバーテンは腹を立てないだろう。してみると、女給のせいだ。なア、エーさん」
「ヘッ。お酒と女の良し悪しのため。こう言ってくれなきゃ、アタシといえども怒りますよ」
 バーテンは口をへの字に曲げてニヤリとして、
「酒道地におちたり。バーもカフェーも知らないどこかの貴夫人とさ。バーに於てランデブーとは、乱世さ。ギョッですよ。先生」
 気がよくて一徹のバーテンは礼子が気に入らないらしく、皮肉った。下賤のものには手をふれたことのないような礼子の態度は、この社会から異端視されるに相違ない。

       七

「あなた方の離婚のテンマツについては、青木君が語ってくれませんから分りませんが、お二方を知るぼくが公平に判断して、青木君は書斎へ戻り、礼子さんは書斎の青木君のもとへ戻るべきではないでしょうか」
 礼子に一方的に心境を語られ迫られてはたまらないから、長平の方から、こう切りだした。礼子の一方的な情熱を拒否する意味も含まれている。
 極度に私事にわたる会見に放二を同席させて非礼をかえりみないのも、そのためだ。差向いで一方的な情熱を押しつけられては捌きに窮する。非礼も承知、身勝手も承知であるが、礼義にかなって、ぬきさしならぬハメになるには及ぶまい。
 礼子に会うのは五年ぶりだが、童女のような面影が今も残って、三十四という年には見えない。美人というほどでもないが、清楚で、みずみずしい肉感もある。懐剣を胸にひめた古武士の娘の格と色気がしのばれる。
 こうして警戒に警戒を重ねたアゲクの会見でも、会えば目を惹かれるものがあるのだ。してみると、そんな警戒もなく会っていたころは、見る目に礼賛の翳がかくれもなかったかも知れず、別して青木のもとで酔っ払ったりしたときには、目尻を下げて、礼子の気持に訴えるような卑しい色ごのみを露出したに相違ない。
 痩せて小さなからだをキッと身がまえて、いつもリンリンと気魄をはりつめているようだが、どこかに、何かが抜けたような、けだるさがひそんでいる。それがないと、気位のバカ高い奥方の典型で、可愛げなどの感じられないリリしさだが、童女めく痴呆さが色気をつくっている。しかし総じて悪童には煙たいような奥方だ。
 長平は自分の話し方が軽薄だったので、礼子が敵意を見せたのかと思った。なぜなら彼には答えずに、チラと目を光らせて、放二に向って話しかけたからである。
「北川さんとおッしゃいますわね」
「ええ」
「北川……放二さん?」
「そうです」
 放二もいぶかしそうであったが次の問いは唐突だった。しかし礼子の声は静かで、
「梶せつ子さん。御遠縁とか、そうでしたわね」
「ええ。血のツナガリはありませんが、親同志が親しかったのです。同窓ですか」
「私の?」
「ええ」
「同級生?」
「え? 同窓ですか」
「フフ」
 放二は他意なく応答しているが、見ている長平はイライラした。奥歯にもののはさまった、じらされる不快さだ。青木もそうだったがと考え、夫婦は悪い癖が似るものだ、別居なんて、たいがいに、止すがいゝや、と思うのだ。
「同じ学校の卒業生ですか」
 長平がたまりかねて放二にかわって大声できくと、
「あら。大庭さんまで。同級ときいては下さらないわね。私、そんな婆さんかしら。あの方は、おいくつ?」
「満ですと、二十九です」
 礼子は素直にうなずいて、
「女の五ツは男の十以上に当るらしいわ」
 と、つぶやいたが、それにつけたして、事もなげに言った。
「梶せつ子さんは、青木の新しい恋人なんです」

       八

 長平は事の意外に驚いたが、青木や礼子には同情がもてず、放二の気持が切なかろうと、気の毒に思った。しかし放二の表情から感情の変化はよみとれなかった。
 長平は放二への同情を礼子への攻撃にかえて、
「すると、青木君に新しい恋人ができたので、あなた方は別居されたんですね」
「あら。そんな。青木の恋愛は最近のことですわ。私たちが別居したのは、昨年の早春でしたわ」
 じゃア、よけいなことは言わないことさ、と長平は顔にそう語らせて、
「早晩そんなことも起るでしょうよ。別居しているうちには、ね。しかし、北川君も知らないことを知ってるようじゃ、あなたも青木君が気がかりなんでしょう。元の枝へ急ぐべし。しかし、その恋愛を北川君が知らないようじゃ、あなたの思いすごしでしょう」
「あら。私、よろこんでるんです。青木に新しい恋人ができて」
「青木君からそんな報告がきたんですか。新しい恋人ができたから喜んでくれッて」
「まさか」
「じゃア、大きなお世話じゃありませんか。人の色話はよしましょうよ。もっとも、口惜しい、というのなら、ま、ごもっとも、合槌ぐらいうつ気持にはなれますがね」
「私、ホッとしましたのよ。どなたか見てあげなければ、青木は淋しくって、やってけない人なんです」
 礼子は言いはった。強情なところはなくて、素直でシミジミした述懐のようだった。
 別れた妻としてはそうあるべきかも知れないが、長平の気持には、ひッかかった。要するに言わない方がよい性質のキザな文句だ。
 礼子は長平のヒガミ根性にはとりあわず、放二に向って、
「梶せつ子さんて、どんな方? 物ごとをテキパキ手際よく処理なさる方? そして、それが容姿にあらわれて、スラリと、小牛ぐらいも大きくてユッタリとしたペルシャ犬のような方かしら」
「そうかも知れません。ペルシャ犬は知りませんが」
「義理人情に負けない方。しかし、どっちかと云えば、あたたかい感じ。表面はね。姐御肌、いえ、女社長タイプというのね。あわれみ深いんだわ。恋人をあわれむけど、愛せない方。恋人は愛犬。そして、本物の犬はお嫌いでしょう、その方」
「そうでもありません。ぼくには弱々しい人に見えます。仕事に身を託して、孤独と悲哀をようやくせきとめておられるようです」
「そうでしょうか」
 礼子はクスクス笑って、
「知らない方のことを、私がなんですけど、三十女はそんなに詩的じゃありませんわ」
 皮肉なところはミジンもなかった。むしろ親愛の情とイタワリをこめて、礼子はこう言っているのだ。
 してみると、梶せつ子と放二の特別な関係を知らないのかな、と長平は思った。少年期からただ一人のせつ子を思いつめて成人した孤児の放二。それを知ってる礼子なら、皮肉の色は隠せなかろう。
 礼子の洞察によると、放二の立場も青木同様、スラリと小牛ほどもユッタリした女の愛犬というわけだ。どうやらこの観察は当っているな、と長平は思った。

       九

「梶せつ子のことが御心配なら、それを北川君に問いただすのは筋違いですよ。センサクの鋭鋒はあげて夫君に向けらるべきものですよ。青木君も、あなたを忘れかねているのですよ。今もって最も尊敬していると云いましたね。亭主と女房の関係においてはメッタに使わぬ言葉ですが、十年もつれそって、別居して、いまだに最も等敬してるというんですから、おだやかならん表現ですね。なにをか云わんや」
 礼子はそれに答えずに、考えこんだ。
 顔をあげて、長平の目を見つめたが、
「私、どうすれば、よろしいのでしょう」
 ジッと見つめて、視線は放れない。屁理窟ではごまかされませんと、礼子の気魄が語っている。しかし、こんな気魄というものは、いわば非常時的なもので、平時の心がこれをマトモに相手にすると、無用な傷もつくらねばならない。一方的な気魄よりは、空論の方が、まだマシだ。長平は空々しく、
「御自分で、おきめなさい」
 いと簡単に突ッぱねる。
 そんな言葉は相手にしません、と礼子の全身の気魄も語っている。
 一段と、たたみこんで、
「私が無用な存在だとおッしゃって下されば、私は死にます」
 視線は益々放れない。
 しかし、長平も、たじろがなかった。
「会話というものは、急所にピンとふれていなくては、こまるものです。ぼくたちの場合、急所がどこにあるか、先ずそれを考えようではありませんか。急所はずれのキワドイ文句を述べ合ったんじゃ、カケアイ漫才じゃありませんか」
 まさしく茶番にほかならない。かほどの茶番を自覚しない礼子のリリしさ、高慢さが、長平をいらだたせた。
「あなたとぼくのオツキアイの上で、ぼくの一存で、あなたの生死が左右できるようなイワレがあったでしょうか。かりにも一人の生死にかかわることであれば、ぼくも責任をもちたいとは思いますが、イワレなく責任をもつわけにはいきません。あなたは健全な常識を身につけた方でしたが、かりに立場をかえて、あなたがよその男から、同じことを持ちかけられた場合を考えていただきたいと思います」
「非常識は承知いたしております。ですが、ただ御返事をいただくだけでよろしいのですが、それも御迷惑でしょうか」
「それがですよ。返事の仕様のない場合も、あるものですよ。一方の感情がたかぶりすぎて、非常事態宣言の線を突破しているときには、平時の安眠にふける庶民の魂は、ついて行けないのが自然です。たとえば、です。夜道にオイハギにやられつつある男が、たまたま通りかかった人に、助けをよびかけます。これに対して、よびかけられた方は返事の仕様がありませんよ。余は武術のタシナミもなく、非力であるから、助けたい気持もあるが、兇器をもてるオイハギに立ちむかって汝を助ける力量はないと自覚している。余としては、侠気と生命慾との差引勘定にしたがって、余の行動を決せざるを得ない。よって余は汝を見すてて逃げ去るであろうが、汝これを諒せよ。こう事をわけて返答してもいられませんよ。あなたの場合も、これに類する場合です」
 こんな屁理窟を言いながら、礼子の言い方があんまり身勝手で非常識だから、イライラしながら、妙にさしせまった色気にもむせたりした。

       十

 礼子はながく無言である。
 別居のイキサツはまだ何一ツきいていないが、きいたところで、どうなろう。もう会見は終るべきだ、と長平は思った。
「ぼくの年齢になると――あながち年齢のせいではないかも知れませんが、恋愛なんて、もう面倒くさくてダメなんです。浮気の虫は衰えを見せませんが、恋に生きぬくなんて気持はもはや毛頭ありません」
 長平は一方的に心境を語りはじめた。礼子の一方的な愛情の押しつけに対するシメククリの返答としてであった。
「女房に満足してる亭主はいないものですよ。世界中の女をテストして女房を選ぶわけじゃなし、かりに偶然世界一の女房に当った男がいても、よその花に憧れるのは自然の情ですから。そこで、正直によりよき恋人をもとめると、次々と、棺桶にねむるまでキリがありません。おまけに人間の愛慕の激情というものは、いくつの年齢になっても、初恋と同じだけ逆上的なもので、この感情に身をまかせると、仙人でもそうなる。そのくせ、短時間で例外なくさめます。又、新しくやらねばならぬ。精神病の発作と同じものですよ」
 無礼、軽薄な言辞だと長平は自ら思った。人の目にさぞイヤらしく見えるだろうと思ったが、気にしなかった。一時も早くこの茶番を終らねばならぬ。その思いだけだった。
「恋に生き、恋に死ぬのも立派かも知れません。しかし、ケチンボーが食う物も食わず、お金をためて、貯金通帳をだきしめながら、栄養失調で生涯の幕をとじる。バカさ加減も、立派さも、恋の勇士と同じことですよ。要するに、思想と実践の問題かな。しかしですね。万事面倒くさくって、やる気がないというのも、結局同じようなものです。これを不純だの堕落だのというべきではありません。面倒くさいということも、一つの思想であり、よって何もしないということも実践であり、バカさ加減も同じなら、立派さも同じことさ。ただ、否定的だというだけのことで」
 否定的なものを肯定的なものと同列におくのも身勝手な話だが、長平は気にかけない。
 目的のために手段をえらばず。格言は便利なものだ。使い用でどうにでもなり、格言を楯に使うと、あらゆる矛盾をしのぐことができる。
 茶番の幕をおろせばいいのだ。
「あなたと青木君はむつまじい一対でしたよ。どんな似合いの一対もあれが限度で、あれ以上ではありません。あなたが今後いかほど探しても、所詮、青い鳥ですよ。最初に捨てたものが最高のものであったと悟るだけです。万人がそうだというのではありません。初恋、必ずしも、真の恋ならず。初恋の一対でも、ずいぶん離婚して然るべきようなのがあるものですが、あなた方の場合はそうではないのです。最初のものが最高のものでしたよ。あなたが今後恋愛遍歴をしてみると、この真実が分るのですが、そのためにムダな遍歴をなさることもないでしょう。ぼくのバカな一生が、そう教えてくれるのです。バカの代表が身をもって証した事実を利用するのが、利巧者の生き方ですよ」
 長平がこう結んで、幕をおろしたツモリになりかけると、無言をやぶって、礼子がきいた。
「私が押しつけがましく甘えたりして、あなたに御迷惑をおかけしなかった場合、それでも青木と私が幸福な一対とおッしゃったでしょうか」

       十一

「それはもう、ぼくの立場がどうあろうとも、あなた方が幸福な一対であったという判断には、変りがありません。難を云えば、平凡だったかも知れません。けれども、これは当事者の心事に同情しすぎての判断で、第三者の公平な目でみると、夫婦生活の平凡さは賀すべく珍重すべきことかも知れず、概して幸福な一対というものはその一生が平凡な性質のものでしょうよ」
 長平は、又、つけたして、
「幸いにして、今回は、一挙に平凡をくつがえす大地震があったじゃありませんか。もとの平凡へ戻るための調節作用だったと解釈するのが賢明でしょうよ。今度は耐震耐火建築にしろという暗示でもあります。夫婦生活の自壊調節作用はどこの家庭にもあることで、この程度の大地震も、そう珍しいものじゃありません。幸福な一対に限って、時に大紛争を起しがちなものです。ここに哀れをとどめたのはぼくで、御二方が元の平穏へ戻るための地ならし道具に使われたようなものですが、あなた方が元々通りの幸福におちついて下されば、ぼくも道具のお役にたって満足、けっしてインネンはつけません」
 長平がバカのように高笑いをしたので、礼子もその場に見切りをつけた。
 思いきりよく立ち上って、
「おいそがしくてらッしゃるのに、時間をさいていただいて、ありがとうございました。私、青木と会う約束がございますので、失礼させていただきますが、今夕、青木とお会いなさるんでしょうか」
「ええ。その約束はしております」
「でしたら、そのあとでゝも、も一度、お目にかからせていたゞきたいと思いますけど」
「もうお話することもないようですが」
 礼子はクスリと笑って、
「ムリですわ。そんな。男と女の話ですもの、差向いて、きいて下さらなくちゃ」
 全身に媚がこもった。
 長平の方が思わず目をそらして、
「じゃア、青木君と三人で」
「ええ、青木となら、かまいません」
「じゃア、ぼくたちの話が終るころ、七時ごろにでも、いらして下さい」
 礼子は去った。
 去る前にもらした礼子の媚が、長平の頭のシンにからみついて放れない。毒にあてられたようだ。長平の血に浮気の虫が多すぎるせいだが、浮気の血が騒ぎたっても陽気になれない時もある。長平の心はふさぎ、にがりきるばかりであった。
「君、ぼくに代って青木夫妻に会ってくれ」
 と、彼は放二にたのんだ。
「ぼくの気持は、きいての通り、あれで全部だよ。君の一存で、自由に捌いてきてくれたまえ」
「お気持だけはお伝えしてきます。ですが、一存で捌きはつけかねますが」
「今夜一夜の間に合せの捌きだよ。あとは、どうなろうと、かまやしないさ。こんなバカバカしい話はもうタクサン」
 長平はふと梶せつ子に思いつき、放二をやるのは、いけないかな、と考えたが、放二の澄んだ落付きを思うと、自分以上の老成した大人が感じられ、すべての不安は無用に見えた。
「ギョですよ。先生。ギョギョッ」
 バーテンは腹をかかえて大笑い。
「ビール二本のみますよ。罰金。冗談じゃないよ。銀座の女給だって、あんなハデな口説かれ方はしないね。バカバカしい」


     金の泥沼


       一

 青木は放二の話をきき終り、長平が来ないことをたしかめると、うなだれて、蒼ざめた。ぶちのめされて、ゆがんだ顔からは、あえぐようにしか声がでないらしく、
「わがこと、終れり」
 よくききとれない声であった。しかし、努力して顔をやわらげ、
「ぼくの顔に書いてあるだろ。お金を借りたかったんだ。百万ほど」
 フッと溜息をもらして、
「ここの勘定も、実は長平さんを当てにしていたのさ。こうなると、お酒もノドを通らないね」
「ここの勘定ぐらいでしたら、ぼく、おたてかえ致しておきます」
「え? 君、そんなお金持かい」
「大庭先生からお預りしたお金ですけど、事情を申上げれば了解して下さると思います」
「君、どれぐらい、預ってる?」
 青木は卑しげな顔色を隠さなかった。もう、泥沼へおちたんだ。藁一本、にがすものか。ノドからでも手をだしてみせる、という毒々しい決意が露骨であった。
 しかしそれを見つめる放二の目はむしろいたわりの翳がさした。
「ここの勘定だけになさっては」
 放二は言葉を探していたが、
「ちょッとの水で旱魃はどうしようもありません。生活原理を変えなければ。ぼく自身、旱魃のさなかで考えついたことなんですけど」
 青木は驚いて青年を見つめた。
 青年は目をふせて、一語ずつ探すように、静かに語っている。あらゆるものに未知な、あらゆる汚れに未知な青年の口から、大らかな言葉が高鳴りひびくのがフシギである。
「君、お金に困ったことなんか、ないだろう」
「そうでもありません」
 放二の返事にはこだわりがない。しかし青木はそれを素直にうけとりかねて、
「君、ぼくを嘲笑っているのだろう。金の泥沼に落ちこんだ餓鬼をね」
「そんなことはありません」
「旱魃はちょッとの水じゃ救われないッて、それが、なにさ。金の泥沼は、そんなものじゃないんだよ。金の世界は、その日ぐらしのものさ。一日の当てがありゃ、又、なんとかなる。攻略し、退却し、又、攻略し、まさに絶えざる戦場だよ。まだ、あんたには分らない。分らなくて、しあわせなのさ」
 しかし、この青年に敵意はもてなかった。
「君はやさしい心をもってるんだ。そして、ぼくをいたわってくれたんだ。な、そうだろう。ついでに、甘えさせてくれよ」
 青木は泣きたいような気持だった。
「長平さんはオレに百万かさないかな。君、たのんでくれよ。二百万でも、三百万でも、五百万でも、多いほど。なア、君。ぼくのノドからは手がでているんだよ」
 冗談めかしても、気持は必死になる。それが顔をゆがめた。
「君がもうけさせてくれゝば割り前をだす。もうけの半分君にやる。百万なら五十万。二百万なら百万。なア、君。半分だぜ。こんな割前をだしてもとは、金欲しやの一念きわまれり。鬼の心境さ」
 襖が静かに開いた。姿を現したのは礼子であった。
 顔の冷めたさは、すべてをきいたと語っていた。

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