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狼園(ろうえん)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-9-6 8:57:19  点击:  切换到繁體中文


 話は至極簡単であつた。私が帰宅すると、出迎えた妹がへきなり私に言つたものだ。昨夜おそく秋子が私を訪れてきた、と。別にことづけはなかつた、と。挨拶のほかに殆んど言葉を残さずに、如何なる心も読むことのできぬ平静な然し失はれた表情をして帰つて行つた、と。
 私の心は忽ち顛倒する混乱の中へ投げ入れられた。混乱、自失、耳鳴、無言、無表情、化石の暫時の時間の後、私は書斎へはいり、この状態を沈めるために異常な長い放心を持続しなければならなかつた。
 なんのために来たのだらう……と、わけもなくただ無意識に訝つてみるそのあとで、しまつた! と私は急に理由もなく叫びだしてゐるのであつたが、その状態のこまかな描写は私にも無論のこと、恐らく読者にも無用であらうと思はれる。ただ一言附加へて言へば、秋子が私の不在によつて殆んど茫然と暗闇の道を帰る姿が、身を切られる思ひともなり、切なく胸にせまつてきたのだ。
 それは何故だ? 今それをきくな! 又私は答へまい。答へやうとも試みまい。恐らく明確に答へることは出来ないのだ。やがて私の行動が曲りくねつた過程のうちに何か答へるに相違ないから。実際のところを打ち開ければ、この微妙な心の動きをとりあげる差し当つての必要は毫もなかつたものである。然し、記るさねばならぬ理由もあつた! 私がやがて後章に於て起すであらう行動がこの場の心事に照らし合はせて如何にも奇怪であることよ。その秘密。すべて宿命を拒否し、しかも尚宿命のごときもののカラクリを最後に凝視めねばならぬとすれば――今は然しそれに就て語ることはできないのだ。
 私は斯様な饒舌のうちに、これから語りださうとする新らたな出来事に対して読者の興味を甚しく失はせはしなかつたかと怖れてゐる。実際思ひもよらぬ出来事がこの日をきつかけにして起つたのだ。

 その夕暮一通の電報が配達された。父からのもので、明日午後八時半着の急行で上野駅へつく筈だから迎ひを頼むといふ意味だつた。発信は三条。私はその文字を凝視めながら、妹の嘗ての亭主をとりまいて、父は昔馴染の三条芸者を口説きかへしてゐたのではあるまいかと疑ぐつたりした。然し三条の隣り町の見附には父の実妹の嫁いだ先もあつたのだ。
 夜になつた。妹が突然部屋へはいつてきた。手にびら/\と一枚の用箋をひらめかしてきたが、それを私に読めと言つて差し出した。文面は次の通り。
 ――親父の顔が見たくないので在京中は暫くほかへ行つてゐます。帰郷次第元気よく戻るでせう。呉々も御心配なく。(原文のまま)
「これはお前が書いたのか?」
「さう。それを置き残して黙つて出ちまふ筈だつたけど、やつぱり言つといた方がいいと思つて」
 妹は悪びれた様子もしてゐなかつた。とはいへ強ひてする明るさと、物憂いものに見えさへする誇張された呑気な様子が私の気持を暗くしたのは否めなかつた。
「どこへ行くのだ?」
「それだけは訊かないで。答へないことに決めてあるから」
「はやりものの女給か? 別に心やすい友達もないやうぢやないか」
「友達のうち。それだけは言つとく。言ひたくないのよ、それだけは。だから黙つて出かけやうと思つたの。私だつて大人なんだから自由にさせてよ。言ひたくないことだつて、案外ごくつまらない理由かも知れないけど、さういふことがあつたつていいぢやないの」
「誰も自由を妨げてゐないよ。無理に訊かうとも考へてゐない。俺はただ大袈裟な騒ぎがきらひだよ。疲れる、退屈だ。家出するほど大袈裟な事情なんてありやしない。お前のどこかに甘やかされ増長した計算があるのだ。考へただけでも胸糞がわるい。お前が自分すら偽り通してゐるならとにかく、さうでなかつたら他に言ひ方も、何か方法も有りさうぢやないか」
「親父の顔さへ見なければ憎くまずにゐられるもの。憎くがるのは相手が誰に限らずいやだ」
「そんなことはいい加減な嘘つぱちだ。誰だつて一思ひに家ぐらゐ飛びだしてみたいや。親父の顔に関係のあることぢやないよ」
 この言葉は即興的な、かなりお座なりなものだつた。続いて起つた出来事に対して決して何等の洞察も含んではゐなかつた。第一私は人の身をそれほど真剣に考へてゐない。のみならず、私一人の肚の中では、かうは言ひながら寧ろ女の異常神経では厭な奴の顔を見るのが身の毛のよだつ思ひがする、さういふ場合もありうるだらうと考へてみたりしたのであつた。
 妹は宣言通りその夜いづれへか出掛けてしまつた。
 翌朝七時前のことであつた。赤城長平が寝不足な顔付をしてやつてきた。私を叩き起してから、この鈍重な、動作の至つて緩慢な男は暫く私をぼんやり凝視めてゐるばかりであつたが、
「君の妹がゆふべ僕の部屋へ泊つたのだよ」
 と、彼は細い幽かな声でぶつ/\呟いた。私はびつくり顔をあげたが、長平はふだん通りの悄然たる泣顔の一種で、ぼんやりと私を凝視めてゐた。
「それをわざ/\知らせに来てくれたのか」
「さうぢやないよ」と、再び幽かに呟いた。
「僕は一晩ねむらないのだ。あの人はかなり熟睡してゐたよ。今朝目覚めると突然僕に命じるのだ。あの人が僕のところへ泊つたことを君に知らせて欲しいといふのだ。迎へに来てくれと言ふのですかと尋ねると、さうぢやない、ただ知らせるだけで充分だといふ、会ひたくはないと言ふのだ。明日からの行動はもう一々知らせることはしないし、どこへ行くか分らない、然し今日もわざ/\会ひには来てくれるなと伝へてくれと言ふのだよ」
 長平は朦朧と目をつむり、耳を押へた。
「耳鳴りがしてゐるな。又近頃持病がすこし激しいのだよ」
「君にどんな話を語つたのだ?」
「親父がくるので暫く家へ帰れない、それは兄貴も承知だと言ふのだ。然し僕の部屋へ泊つたことは秘密にしてくれとゆふべのうちは言つてゐたのだ。僕はとにかく圧倒されたよ。なんのために僕の部屋へ泊る気持をもつたのかと考へてみたのだ。行く場所がなかつたためか? 僕に身体を許すつもりか? 正直なところ僕はそれを第一に頭の中でなんべんとなく反芻しつづけてゐたが、結局身体に指一本触る勇気も起きなかつたよ」
「そこを見抜いてゐたのではないか?」
「さうかな? 僕は然し……」
 長平は耳から両手を離さなかつた。
「僕の正直な感想を言ふと、あの人が僕を訪ねてきた気持はある程度まで娼婦的な、言ひ寄られたらどうなつても構はない気持が多分にあつたと思はずにゐられないのだ。勿論愈々こちらが言ひ寄る段になつたら、その時はその気持が又どう変つたか分りやしないよ。然しすくなくとも訪ねてきたときの気持は。……僕はその気配にひどく圧倒されたのだ。男、特に僕如きは眼中にない、それがひとえに娼婦的な意味で、ゆふべは特に、その感じが凄いものだつたね。直接それを表明するあの人の言葉はないんだ。全てがただ感じなんだよ。それだけに無言の肉体がやりきれない圧迫で、僕はなんべんその気配にまきこまれやうとしかけたか分らなかつたのだ。僕は一晩中のべつにサミュエル・バトラのエレホンをめくつてゐたが、牧童が酒をくすねるといふたつた一つの場景につかえたきり、どの頁をめくつてみても頭も眼も空転りをつづけてゐるのだ。僕は嘗てこんなにも強烈な無言の媚態で言ひ寄られたことはなかつたし、あの人の全ての感官が無言の肉体を通じて僕に言ひ寄つてゐたのだと確信せずにゐられなかつたよ。僕の肚の底を割ると、一人の稀代な妖婦を始めて目のあたり見た感じだつた」
 淫蕩の血は私の血族に流れてはゐる、それを充分承知の上でも妹の行動は私にあまり唐突であつた。とにかく妹に会つてみるほかに仕方がない。頭の中でどのやうに解釈しても始まらなかつた。私は然し妹に会ひたい気持が全然なかつた。あいつのやりたいやうにさせるがいいさ、と私は肚に呟いてゐたのだ。家庭を逃げたがらない人間がこの世に一人とあつてならうか! それが性的な衝動によるなら、それはそれでいいぢやないか! 妹のコケティッシュな裸身がくね/\と否応なしに私の脳裡に蠢めきまはつてゐるのである。然しそれが特に不快でもなかつたのだ。
 私達は然し長平の下宿の方へ歩いてゐた。下宿の前へ辿りつくと、鈍重な足の運びでひきずるやうに歩きながら、背をまるめ黙りこくつて歩いてゐた長平が、ふと自分の部屋をぼんやり見上げて呟いてゐた。「ゐるかな? ゐないと思ふが……」と。その予感は的中した。私がむしろホッと重荷を下したことには、まぎれもなく長平の部屋のどこにも妹はゐなかつた。書き残したものもなかつた。私は暫く妹に会はずにゐたい思ひがしたのだ。妹の魂が汚れてゐるなら、魂の汚れと同じ線まで肉体の汚れることを望む思ひがむしろ私の心にあつた。
 ――お前もひとたび家庭を逃げる人になるなら、行きつくところまで行きついてみるがいいのだ。中途半端な娘気質の気位はむしろ御免だ。そんなお前を見ることは、救はれない私自身の血を見るやうに私に苦痛だ。淫売婦の汚れきつた肉体になつて、肉は膿をもちズダ/\にさけて帰つてきても私は決してお前を叱りはしないだらう。むしろ私は一息ホッとつくかも知れぬ。私達ははじめて兄妹になつたのだぜ、と。しみじみと始めて話を交さうぢやないか、と。
 私は心にそんなことを呟いてゐた。とはいへそれも感傷的な、自暴自棄な、要するに若干の悲愴を気取る甘さのせいに他ならないと言はれても、私はたしかに一応は返す言葉がなかつたのである。
 それにつけてもその宵は私達の遺伝因子が上野駅へ着く筈であつた。因子上京の報ひとたび伝はるや、因子自ら雄姿の片鱗だに現はさぬうち生殖細胞の混乱たるやくだんの如し。私は然し冷酷なまで冷静だつた。

   その三 少女予言者を訪れて

 五月十一日――と、改めて言ひだすまでのことはなく、これは前章と同じ日で、即ち妹の失踪の翌日、私が長平に呼び起されて妹の不可解な行動を確かめるために彼の下宿へ赴いたその当日、この夜は父が上京の筈であつた。
 妹の行動が私に大きな衝撃を与へたといふ言ひ方は全然当らないが、然し一人にもなりかねた私は、恐らく同じ思ひの長平と油の乗らない沈黙がちな対坐にすつかりくたびれてしまひながらも、思ひ切つて立ち上る勇気がなかつた。正午近い時刻になつて昼食のために肩を並べて外出した二人が一旦アトリヱへ立ち寄つてみると、置き残してきた珍客兄妹に異常はなく、思ひがけないことには、秋子とあぐりとこれも同じ画学生の巨勢こせきそのといふ有閑婦人の三人が我物顔にアトリヱを占領してゐた。
 巨勢きその(木曾野と書くのが本当で、父親の木曾の役人時代に生れたのだと言ふことである)は三十五六の富裕な未亡人で、金と行動が至極自由になるところから、自然十数名の画学生から党主的待遇を受けてゐたが、その割合に我無者羅でなく、ある優しさと弱々しさのつきまとふのが、がつちりした娘子軍に利用されながらも、先頭に立つた家鴨のやうな愚劣な形になることがなく、深さある人柄を感じさせるのであつた。
 ところが或る日、女画学生のズラリと並居る面前で、私は突然この弱々しい婦人から誰憚らぬ高声で極めて単刀直入に普通決して人前で言ふべきではない話を受けた。言ふまでもなく木曾野は東京に住んでゐたが、この日は何かの都合があつて静浦の別荘へ泊らなければならないと言ふのだが、汽車道の長さもやりきれないし別荘の寂しさも堪らないから、四五日滞在の心算で私に一緒に来てくれないかと言ふのであつた。
「貴方お一人だけ来ていただきたいのです。大勢来ていただいてもおもてなしも出来ませんし、陽気に騒ぐでもなく、語りながらブラ/\一緒に海岸を歩いて下さる方が欲しいんですわ。伊豆の西海岸は余り知られてゐませんけど、湘南の海岸に比べたら、もつと本格的な堂々とした風景ですわ。額縁の中の絵のやうに調ととのひすぎたきらひはありますけど」
 私は衆人看視の中で、なんの言葉をかざるでもなくいきなり真向から右様の招待を受けたものだが、だいたい私はこの日までこの人と個人的な対談をしたことすらなかつた。呆気にとられたのは私一人のことではなく、並ゐる婦人の表情には一様に侮蔑をふくんだ驚愕がおし流されたほどであつた。然し木曾野は人々の驚愕や侮蔑が想像すらできないやうに無関心だつた。
「江の浦から水津みとのあたり折があつたら散歩したいと思ふんですけど、歩いたことすらないんですの、一緒に来ていただけたら、あたし歩きますわ、一晩でも。砂浜がありませんの。それが生憎ですけど、海岸から手にとるやうな近いところで大謀網だいぼうあみをしめてたりしてましてよ」
 相変らずザックバランに淡々と言ひまくるこの人の顔付には陰がなかつた。驚愕や侮辱の情が戸惑ひするほかにすべを失つた人々は、後々この出来事を思ひ出して興味的な話題にする根気も手掛りもないほどだつた。私は極めて因習的な羞恥感から反射的に理由のない躊躇を覚え一も二もなく招待に応ずることのできないむねを答へたのだが、むしろ私の羞恥感がこの時いかほど不自然に見え、私の心労が醜怪に見え、私自身の立場のみが見窄らしく感じられたか知れなかつた。
 さういふことがあつてから数ヶ月後、品川駅前の広場をたつた一人歩いてゐるこの人に出会つた。もとよりアトリヱでは屡々顔を合はしてゐたが、二人きりで出会ふ折はなかつたのだ。私達はお茶をのんだ。
「ナポレオンは悪性の頑癬に悩まされてゐたんですつて? 頑癬の痒さで眠れない夜寝床の上をのたうちながら大遠征を計画したんですつて? 頑癬のひろがるたびに版図も拡大したんですつての? ほんとでせうか?」
「さういふ暗合もあつたかも知れませんね」
 と私は答へたが、婦人にはチョコレートを語らしめよといふチエホフの意見の通り、この有閑未亡人のチョコレートに私は深く耳を傾けもしなかつたが、夫人は厭味のない爽快な語調で、歯切れよく語りつづけた。
「ナポレオンはインポテンツだつたんですつて? ほんとでせうかしら?」
「然し子供があるぢやありませんか?」
「ワイマールでゲーテに会つたんですつてね。そのころゲーテは六十過ぎのお爺さんでワイマールの宰相なんですつて。部屋へ這入つてきたゲーテを見ると、ナポレオンは突然これは人物だつて叫んださうですわ」
「さうですか」
「でもそんな直感はナポレオンの偉さの証明にはなりませんわね。子供のやうに独断的ぢやありませんの? まるでだだつ子のやうに」
「さうかも知れません」
「スタール夫人はナポレオンを攻撃しすぎて巴里退去を命ぜられたんですつてね。スタール夫人の印象によると、ナポレオンは暴君とも違ふんですつて。優しくはないけど残酷でもなく誰に比べやうもない人物で、親しみも同感も受けないやうな人なんですつて、此方の感情も全然先方へ通じない人、ナポレオンに会つてゐると、人間を一つの物として見てゐるやうで少しも同類と思つてゐないといふことが、圧迫する力となつて感じられたさうですわ。社交や教育で涵養された品性とは何の関係もない強い力に打たれるのが普通で、思想や意志の力とは別な、たとへば人類に対して一片の好感の閃めきもまぢつてゐない人柄から、辛辣な諷刺皮肉を与へられずにゐられなかつたさうですわ」
「攻撃よりも感激にちかい印象ぢやありませんか?」
「あたしの言ひ方も悪いんですけど。(彼女は笑つた)あたしが感激してるんですわ。スタール夫人て、バンヂャマン・コンスタンを愛人にしてた人ですわね。アドルフの作者とナポレオン……でも、さうですわね、あたしもさう思ふんですの、スタール夫人はナポレオンに感動したに相違ありませんわ。深い理由はないんですけど、ただ女の直感だけで思ふんですわ。水のやうなナポレオンに恋したつて始まりませんもの。悧巧な女の感動は愛慕になるより反撥になりがちですわね。ナポレオンが気の利いたダンディなら反撥を愛の方向に変えさせるのは造作もないことなんですわ。そんなナポレオンならつまらない男でせうけど、ほんとの愛人は恋愛の中にゐやしませんわ。恋愛なんて愚劣で退屈ぢやありませんの。拗ねてみる、憎んでみる、愛さうとしてみる、とつまらなく苛々する、鋳型の中で馴合ひの芝居に疲れてゐるやうなものですわ。あたし愛さうともしないで、いきなり男を憎んでみたいと思ふことがありますわ。憎みぬいてみたいんですの。どこまで憎みぬかせるか、反撥し通せるか、女には自分の力がないんですもの、男の力男の冷酷さが憎み通させてくれるほかに仕方がないのですわ。ナポレオンは偉大ですわね。アドルフの作者と馴合ひの鋳型の中で人並みの感動だけは得やうとしたつて、スタール夫人は面白くも可笑しくもなかつたのぢやありませんの? みんなあたしの空想なんです」
 私達は通りへでた。
 私は木曾野に冷笑されてゐるやうに自らの立場を考へてみなければならないのかと思ひつかずにゐられなかつた。然し木曾野にそんな素振りはないばかりか、自らの言葉に対して気おくれとかうしろめたさを微塵も感じぬ颯爽とした清潔さが、恰も初々しい処女のやうに私の印象に残るのであつた。私は更に考へた。これはこの人のチョコレートであらうか? それともチエホフをして私の席にあらしめたなら、この婦人に向つてすら「いいえ、ナポレオンを語つてはいけません。貴女の大好きなチョコレートに就いて語りなさい」と言ふであらうか?
 私達は電車通りで左右に別れた。私と木曾野との交渉といへば後にも先にもただそれだけで、今語り得たやうにしか語ることができないのだ。それ以上に語るためには凡そ手掛りがないのであつた。さりとて私の印象の中に神秘的な影を宿して残るといつては余りにことが大袈裟すぎる。ありていを語れば、この婦人の人柄が甚だ私の好感に訴へるところがあるとはいへ、今語り得た以上にまで印象をまとめ、その気質や性格を突きとめる誠実なる情熱が私にとつては全く必要なものではなかつたのだ。

 私はアトリヱの中に秋子、あぐり、木曾野等三名の姿を認め、明らかに当惑せずにゐられなかつた。こんな時に貴方達の顔なんて思ひだしたくもなかつたのにと私の心は呟いてゐたが、然し秋子を見出したことの名状すべからざる感動が、私を激しく混乱させ、それが私の当惑を深かめさせもしてゐたのだ。
「僕は帰へらう」と長平は尻込みしながら沈んだ声で呟いた。私はあらはに狼狽して激しい視線でたしなめるやうに長平を凝視めながら、「もう暫く。せめて夜がくるときまで一緒にゐてくれ」と哀願せずにゐられなかつた。確たる理由はないのである。宿酔の朝に全く同じ神経的な恐怖であつて、別れることがたまらなかつた。
「別室でお話したいことがあるのですけど」
 女の群から木曾野が一人離れてきて私に言つた。二人は私の部屋へ這入つた。
「秋子さんのことなんですけど。秋子さんの姙娠のこと御存知でせうか? 御両親に隠し通せることでもありませんし、男が悪いんですの。くだらない因縁をつけてきてうるさいこともあるんですけど、そんなこと一々取り合ふ必要はありませんし、たいしたことぢやありませんわね。さう言つてしまへば別段理由はなくなるわけですけど、色々とうるさいものですから、赤ちやんの生れるまで静浦の別荘へ秋子さんをお預りしやうと思ふんですのよ。生れた赤ちやん誰かの子供といふことにして届けてしまへば八方無難で、何より事がおだやかに済みますわね。栗谷川さんはどうお考へになりますでせうか?」
「さうですね。それが何より無難でせうけど……」
 私は煮えきらなく呟いたが、なぜなら私の脳裡には一つの疑念が動きだしてきたからであつた。この婦人は私がまるで秋子の愛人であるかのやうに言つてゐる。まるで私に秋子の支配権があるかのやうにすら言つてゐるのだ。それを疑ぐらずに軽卒な返事を答へていいのだらうか? さういふ疑念もさることながらこの婦人の例の如く淡々とした歯切れのよい語調の裏には、最も繊細な叡智によつて包まれた微妙な揶揄が、私の野暮な疑念に向つて已にその複雑な伏線をふせてゐるやうにすら思はれたのだつた。私は暫く沈黙して私の疑念を虚しく追ひまはしてゐたが、思ひきつて顔をあげた。
「貴女の言葉は僕にまるで秋子さんの支配権があるかのやうに聞えます。言葉を換えて、もつと僕自身の肚の底を打ち割つた言ひ方をすれば、僕の愛情がもはや疑ふ余地すらないほど明確に秋子さんに向けられてゐるものに語られてゐるやうです。そのことを僕が疑らずにゐていいのでせうか? 貴女は何か御存知のやうですね。然し僕は全く知らないのです。分らないのです。これは皮肉ぢやありませんよ。他人の方が僕の心をずつと余計知つてたつて不思議なことはないのですから。自分が自分に向つてするあくどい偽りほど割りきれない奴はありませんよ。僕は弱つてゐるのです」
「だつて貴方は秋子さんを愛してらつしやるんでせう?」
「さういふ貴女の聡明な言ひ方が僕には困るんですよ。人情の機微を知りつくした媒妁人のやうに仰有おつしやられては困るのです。僕が秋子さんを愛してゐるといふことは一応ほんとかも知れません。その一応の真実から世間並みの結婚と幸福が算出されるかも知れません。然しさういふ常識が愛に解決を与へる筈はありません。もと/\僕は世間並みの幸福には徹底的に魅力を感じてゐないのです。これは強がりではありません。僕は断言できるのです。僕はワイフのカツレツが特に清潔だとすら思はないのです。一応の聡明さで、ワイフのカツレツが清潔だといふ中途半端な誤魔化し方をしただけでも芥川龍之介の錯乱を認めることができないのです。秋子さんの愛に就いて僕には全く自信がありません。余計なことかも知れませんが、あの人のほかに、僕には現に二人の情婦があるのです」
 木曾野は真剣な顔付をしたが、そのどこやらに然し親しさが流れてゐた。
「いいぢやありませんか、そんなこと。秋子さんの今後の生活に責任を持つていただきたいなんて、あたし望んでもゐませんし、その心算でお話きいていただいたわけでもありませんわ。秋子さんがよしんば百人の情婦の中の一人だつて、それでいいぢやありませんか。とにかく静浦の別荘へ秋子さんをお預りすることだけは承諾してくださるんでせうね? これは現在の話ですわ。未来のことなんて考へてみたくもありませんもの」
「さういふ意味でしたら勿論不賛成をとなへる筋はないわけです。然し、ちよつと、待つてください……」
 私は何事か附け加へて言ふ必要にかられた思ひで言ひかけたが、私の脳裡は恰も中断されたやうに空虚であつて、もとより附け加へて言ふべき言葉があらう筈はなかつたのだ。然し私は言はねばならない気持であつた。この婦人に向つて何事であれ告白したい親しさに駆られたものであつたらうか? 然りとすれば私の無意識の肚裡に於て已に一つの姦淫を挑みかけてゐたことを認めぬわけにもいかぬであらうが、左様な意志を私は意識もしなかつたし、無意識のうちにそれらしい表情や態度をつくることもなかつた。私は火によつて背中から追はれるやうに口走りはじめてゐた。
「妹が昨夜家出したのです。妹の嫌つてゐる父親が今晩上京するからといふ口実ですが、むろん誰だつて一思ひに知らないところへ逃げて行きたいにきまつてますよ。今アトリヱへ僕と一緒に這入つてきた男があるでせう。赤城長平といふちよつと知られた懐疑的な新進作家なんですが、妹の奴昨夜はあの人の住居へ現れたといふのです。長平の報告によると、その一夜の妹の態度が、彼の始めて接した本格的な妖婦そのものであつたといふのですね。僕には長平の観察が決して狂つてゐないことを認めることができるのです。勿論妹がよしんば高橋お伝だつて、それがどうしたといふのです。そんなことで僕の心が悩んだり、悲しみにとざされるなら、僕はむしろ自分の純情に乾杯したいばかりですよ。そんな僕ならどんなに助かるか知れませんよ。これはキザな話ですが、僕は長平の報告をきいてこんなことを考へたのです。妹よお前の魂がそんなに汚れてゐるものならお前の肉体も同じやうに汚れてくれる方がいい。売春婦の肉体となり蛆虫を肉に宿して戻つてきても僕は決して叱らないばかりか始めてお前と兄妹になつたやうな偽りのない親しさを感じるだらう、と。これは勿論咄嗟なキザな感傷でしたよ。今ではそれだけの感傷すら持ち合はしてはゐないのです。無関心。こいつはたまらないことなんです。全然無関心に生き通せるものかといへば、どつこい決してさうは問屋で卸しませんよ。こいつが又生来中途半端なものとなると、どんな敵より凡そ不気味で妖怪的ぢやないですか? 無関心といふ奴が自分のほかにもう一人影のやうに朦朧と身近かに突つ立つてゐるのだと考へてごらんなさい。喧嘩をしても勝負のない勝負だと思ひませんか? 僕はたしかに秋子さんが好きなんです。僕の本心の一ヶ所には秋子さんに詫びたい気持が年中動いてゐるのですよ。突然あの人の前に跪いて許して下さいと叫びたくて仕方がないのです。それから先はどうならうと僕にはてんで見当もつきませんし、既定の計算もないのです。それどころかてんで見当がつかないから、いつそ一思ひにあの人の前に跪いて許しを乞ひたくて仕方がないのかも知れないのです。もとよりキザなことですよ。滑稽ですよ、だいたい何を許してくれといふのです? なんだつていいぢやないかと僕は怒鳴りたくなるのです。許さるべく努力しなければならないといふのですかね? さうかと思ふと、あとは野となれ山となれといふ奴なんです。あの人の前で許して下さいと一思ひに叫んだら、どんなに清々するだらう! 苦しさを一皮ぬぎすてたやうにホッとすると思ふんですよ。すぐそのあとで、あの人の目の前で、いきなり誰かほかの人に抱きついて接吻してもいいくらゐだと思ひませんか? いいえ、僕はほんとにやらなければならないやうな気がするのです。我々の生活ではそれが普通でなければならないのです。我々の心理を表現する生活が全くないくせに、我々がとにかく生活してゐるといふことは、考へただけでたまらなく不愉快になることですよ。表現する生活があれば、心理だつてもつと深く単純になり、生き生きとするのだ。たとへば僕が、今貴女に、然し、あはゝゝゝゝゝ」
 私の口から無礼な言葉が流れでたにも拘らず、私の想念の中にはそれらしい意欲が決して生々しく浮きあがつてはゐなかつた。そのために私の高笑ひは開け放された明るさで高らかに鳴りひびいた。私は尚も無限に語りつづけずにゐられぬ気持を持てあましながら、突然荒々しく立ち上つた。私の言葉の一々が頭の中を素通りし決して頭にたまらないのが明瞭に感じられ、思念の中絶が明確に意識されて不愉快であつた。
「我々は散歩しませう」と私は叫んでゐた。
「外は爽やかな初夏ですよ。エルテルの詩人の言葉にかういふ一句があるのです。大方の人は生きるために大部分の時を働いてゐます。さうして僅かばかりの自由が彼等に残されても、それが心配になつて、あらゆる手段を講じてその自由から脱けださうとするのです。ああ、人間の運命」
 そのとき木曾野も立ち上つた。微笑を浮べて私を凝視めながら言つた。
「あたしもエルテルの言葉を一つ覚えてますわ。

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