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我が人生観(わがじんせいかん)01 (一)生れなかった子供

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-9-6 8:58:49  点击:  切换到繁體中文


「生みたいのです」
 女房はそう答えた。
「ムリかも知れませんが、当分、一週に一度ずつ来てみなさい」
 との話であったそうだ。
 私はその話をきいてるウチに、なんだいバカバカしい、というような気持になった。張りつめたものが弛んだようであった。私は、ダタイさせない、という気持に、こだわっていたのかも知れない。そんなコダワリがあったようには思われないが、張りつめた気が弛んだ時には、そんな気がした。
 色々の取越苦労もナンセンスである。
 私の気持は素直になった。
「さッそく東京へ行って、南雲さんにみてもらうんだね。たぶん、同じ診断だろう。同じ診断だったら、さッそく手術をうけることだ。一日も早い方がいい」
 女房も、その気持であった。女房は、東京ではズッと南雲さんに診てもらっており、信頼しきっていた。私も、そうだ。南雲さんは婦人科医だが、そんなことはお構いなしに、ムシ歯以外は南雲さんに委せッ放しにしていた。ずいぶん柄の悪いことまで、お手数をわずらわしたが、先生も、看護婦も、みんな親切であった。
 どうも、私のように、過労を覚悟の仕事をしていると、仕事の責任は自分でもつが、身体の方は信頼できる先生に委せきった方がよい。その安心感で、瑣末な心配は忘れられるし、これ以上はどうなっても仕方がないのさと覚悟もつく。
 蒲田にいた時は南雲さんにお委せしていたが、事ある場合だけで、平常は没交渉であった。
 伊東へきてからは、天城さんに、毎日健康診断していただく。毎日、ブドウ糖とビタミンをうっていただく。これは大変いゝ方法であった。私はよくカゼをひくが、毎日診てもらっていると、今日はカゼだな、熱があるな、と思っても、安全感から、先生のすすめて下さる服薬を辞退するような気持になり、毎日先生にかかりながら、たいがい我流で処置している。安心感から逆にそうなるのである。
 そして、これ以上のことは仕方がないと見きわめがつけば、どんな過労に対しても、労働のよろこび、完成のよろこびを主にして暮すことができる。過労に対して、私はかなり爽快ですらある。現在苦しいのは、深夜の寒気と、眼の痛みだ。
 伊豆の山々は炭焼き地だから、炭はいくらでもあるが、私は炭酸ガスに弱いので、炭火をおこして仕事をすると、頭痛がし、メマイがし、全身の関節の力がぬけ、喪失状態にちかづいてくる。電気でやると、ヒューズがきれる。温泉につかる以外に仕方がないが、私の家の温泉はぬるくて(三十六度ぐらい)冬の用に立たないので、加熱しなければならない。それにしては、よく、やった。家族の協力のタマモノだ。女房は私の仕事の苦痛をやわらげるためなら、深夜に寒風の吹きすさぶ戸外でお風呂をわかすぐらいは平気であり、そんな時には、自分よりも私の方を大事にしていることがハッキリしている。それを自分の仕事だと思っているようである。その代り、私に無断で、容赦なく彼女はサラリーを消費する。女房というものが職業なら、彼女は私以上に高給をとっており、税務署は私の代りに彼女から取り立てるべきかも知れない。
 眼の痛みは、老眼と近眼のゴチャまぜから視覚が狂い、視力の減退と変調にともなう眼の過労の結果のようだ。すこし読書して眼をとじると、涙がにじみ、眼の焼けつくような痛みが分ってくる。そして、いつも、眼が乾きすぎたためのような痛さがつきまとっている。砂漠の砂上に落ちた目だ。

  ゆく春や 鳥啼き 魚の目に涙

 芭蕉は何を見てこの句をつくったのだろう。これは、たしか、奥州の旅に立ってまもなく、よんだ句のようだが、旅日記を読むと、意味がハッキリする句だったかな? 私は温泉につかりながら、天城さんが持ってきて下さった洗眼器で、目に噴水の水をあてる。この時は、やや爽快である。疲れが、眼からだけでなく、頭全部からも、やや、ひいたように思われる。
「魚の目だ」
 私は、そう考える。水にぬらしたからではなく、乾いて、風に吹きさらされて、ザラザラ痛いから魚の目なのだ。死んで、乾いた、魚の目。
「芭蕉の奴、乾物屋の店先で、シッポを荒縄でくくってブラ下げた塩鮭を見やがったのかも知れないな」
 私は忘れていたのである。魚の目というのは、お魚の目の玉のことではなくて、足にできる腫物のような魚の目のことだろう。しかし、どうも、そう分ってみると面白くない。お魚の目の玉であってくれると、私の方にはピッタリするのであった。
 女房は東京へ出かけて行った。
 南雲さんの診断も同じで、即日、ダタイ手術したそうだが、胎児はすでに死んでいたそうである。
「ダタイ手術も、お産も、疲れは同じことです」
 と、天城さんは女房に同情した。私は哀れを覚えて、使いの者にさらに余分の金を届けさせたが、女房は雑誌社からも原稿料をとりよせ、退院と同時に銀座に現れ、所持金使い果して、悠々御帰館であった。
 女房は私に買ってきたミヤゲの品をくれたが、ダタイ手術の報告は一言もしなかった。私も、きかなかった。女房が私にミヤゲをくれる時は、自分がその十倍ぐらいの買い物をした時にきまっていた。
「お前はダタイして残念がっているかも知れぬが、その方が身のためだってことを気がつかないな」
 私は深夜に起き上って、机に向い、机の向うに見える女房の寝姿を見ながら考えた。
 子供が生れなくて良かった、ということの方が、ほとんど私の気持の全部を占めていた。
 私は元々、女房と一しょに住むつもりではなかったのである。私はどのような女とでも、同じ家に住みたいと思っていなかった。
 私は彼女に云った。
「家をかりてあげる。婆やか女中をつけてあげる。私は時々遊びに行くよ」
 彼女はうなずいた。私たちは、そうするツモリでいたのである。
 ところが、彼女をその母の家から誘いだして、銀座で食事中に、腹痛を訴えた。医者に診てもらうようにすすめたが、イヤがるので、私の家につれてきて、頓服をのませて、ねかせた。一夜苦しんでいたのだが、苦しいかときくと、ニッコリしてイイエというので、私は未明まで、それほどと思わなかった。超人的なヤセ我慢を発揮していたのである。私が未明に気附いた時には、硬直して、死んだようになっていた。
 このとき来てくれたのが、南雲さんであった。もっと近いところに二三医者がいたが、ヤブ医者のくせに、未明の往診に応じてくれなかった。この時が南雲さんとの交渉のハジマリだが、私のためにも、女房のためにも、幸運であったと云えよう。そして、南雲さん以外の医者は、たぶん女房を殺したであろう。なぜなら、手術に一時を争う状態であるのに、この界隈では、南雲さんのほかに手術室をもつ医者がなかったからである。
 女房は腹膜を併発して一月余り入院し、退院後も歩行が不自由なので、母のもとへ帰すわけにいかず、私の家へひきとって、書斎の隣室にねかせて、南雲さんの往診をうけた。やがて、人力車で南雲さんへ通うことができるようになったが、部屋の中で靴をはいて纏足の女のような足どりで、壁づたいに一周したり、夜更けに靴をだきしめて眠っているのを見ると、小さな願いの哀れさに打たれもしたが、それに負けてはいけないのだ、という声もききつづけた。
 しかし、こういう偶然を機会に、女房はズルズルと私の家に住みつくことゝなったのである。
 私は、しかし、不満ではなかったと言えよう。彼女の魂は比類なく寛大で、何ものに対しても、悪意が希薄であった。私ひとりに対してなら、私は苦痛を感じ、その偏った愛情を憎んだであろうが、他の多くのものにも善意と愛情にみちているので、身辺にこのような素直な魂を見出すことは、時々、私にとっては救いであった。
 私のようなアマノジャクが、一人の女と一しょに住んで、欠点よりも、美点に多く注意をひかれて、ともかく不満よりも満足多く暮すことができたというのは、珍しいことかも知れない。
 女房は遊び好きで、ハデなことが好きであったが、私に対しては献身的であった。ふだんは私にまかせきって、たよりなく遊びふけっているが、私が病気になったりすると、立派に義務を果し、私を看病するために、覚醒剤をのんで、数日つききっている。私はふと女房がやつれ果てていることに気附いて、眠ることゝ、医者にみてもらうことをすすめても、うなずくだけで、そんな身体で、日中は金の工面にとびまわったりするのであった。そして精魂つき果てた一夜、彼女は私の枕元で、ねむってしまう。すると、彼女の疲れた夢は、ウワゴトの中で、私ではない他の男の名をよんでいるのであった。
 私は女房が哀れであった。そんなとき、憎い奴め、という思いが浮かぶことも当然であったが、哀れさに、私は涙を流してもいた。
 私は、よい仕事をしたいとは思っているが、聖人になりたいとは思っていない。
 女房は私に対して比類なく献身的であるが、それは経済的に従属しているためで、私から独立して、今の程度の生活が営めるなら、私に従属することはないだろう。そして、私よりも堂々と、浮気をするかも知れない。
 私は、しかし、そのことを口実にして、私の浮気の弁護をしているワケではない。私は数ヶ月、門外にでず、仕事に没頭する代りには、いったん家をでると、流連、帰るを忘れるような無頼の生活にふけることも多い。そういう時の借金で、数ヶ月門外不出の勤労も、今もって客人用のフトン一枚買うことができなくなってしまうのである。
 女房はまだ知らないが、私は子供を生まなかったことによって、女房を祝福しているのである。変な賭はしない方がいいのだ。私のような人間の場合は。私は女や犬の仔を選ぶことはできるが、生れてくる子供を選ぶことはできない。うまく私の気に入る子供が生れてくればよいが、さもないと、女房も子供も不幸になるだけだ。こんな因果物的な賭は、私自身も好んでしたくはないのだ。
 恋愛などというものは、タカの知れたものである。夢であり、さめる性質のものでもある。私は元来物質主義者だ。精神などというものも、物質に換算できる限り、換算して精算した方が、各人に便利でもあり、清潔でもあるし、幸福でもあると考えている。クサレ縁などというものは好まない。クサレ縁を人情で合理化しようというような妖怪じみた頭脳の体操は好まないのである。
 男女関係は別してそうだ。夫婦でも、子供でも、義理人情クサレ縁よりは物質に換算した方が清潔で各人に幸福なのだと思っている。私は女房と離別することに躊躇はしない。このことは、女房に子供が生れたところで変りはない。私は子供の養育費と、女房の生活費に換算して支払う。税務署の支払いには応じなくとも、女房や子供への支払いは、必ずまもるであろう。
 しかし一人の女と別れて、新しい別な女と生活したいというような夢は、もう私の念頭に九分九厘存在していない。残る一度に意味を持たせているワケではなく、多少の甘さは存在しているというだけのことだ。
 恋愛などは一時的なもので、何万人の女房を取り換えてみたって、絶対の恋人などというものがある筈のものではない。探してみたい人は探すがいゝが、私にはそんな根気はない。
 私の看病に疲れて枕元にうたたねして、私ではない他の男の名をよんでいる女房の不貞を私は咎める気にはならないのである。咎めるよりも、哀れであり、痛々しいと思うのだ。
 誰しも夢の中で呼びたいような名前の六ツや七ツは持ち合せているだろう。一ツしか持ち合せませんと云って威張る人がいたら、私はそんな人とつきあうことを御免蒙るだけである。
 私は一月の大半は徹夜して起きているが、私の書斎は離れになっているので、私の動静は他の部屋からは分らない。ここへ越してきて、私の書斎へ寝ることを許された時に、女房はこの上もなく嬉しそうであった。そして、私が仕事している机の向うに、毎晩ねむっているのである。女房は時々うなされたり、ウワゴトを云ったり、叫びをあげて目をさましたりする。
「今、何か言わなかった?」
「何か言ったが、ききとれなかった」
「人の名をよばなかった?」
「ききとれなかったよ」
 女房は安心して、また、目をつぶる。時々そういうことがあるが、女房はウワゴトから心の秘密をさとられることを、さのみ怖れてもいないようである。しかし、親しい人のウワゴトをきくのは、切ないものである。うなされるとき、人の子の無限の悲哀がこもっているのだから。断腸の苦悶もこもっている。そして、あらゆる迷いが。
 人の子は、必ず、うなされる。哀れな定めである。その定めに於て、私と人とのツナガリがあるのだし、別して、女房とのツナガリがあるのだろう。誰も解くことのできない定め。それ故、この上もなく、なつかしい定めが。
 女房よ。恋人の名を叫ぶことを怖れるな。





底本:「坂口安吾全集 09」筑摩書房
   1998(平成10)年10月20日初版第1刷発行
底本の親本:「新潮 第四七巻第五号」
   1950(昭和25)年5月1日発行
初出:「新潮 第四七巻第五号」
   1950(昭和25)年5月1日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:花田泰治郎
2006年3月24日作成
青空文庫作成ファイル:
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