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郷愁(きょうしゅう)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-9-6 9:19:37  点击:  切换到繁體中文

底本: 佐左木俊郎選集
出版社: 英宝社
初版発行日: 1984(昭和59)年4月14日
入力に使用: 1984(昭和59)年4月14日初版
校正に使用: 1984(昭和59)年4月14日初版

 

私はよく、ホームシックにおそわれる少年であった。
 八百屋の店頭に、水色のキャベツが積まれ、赤いトマトオが並べられ、雪のように白い夏大根が飾られる頃になると、私のホームシックはなお一入ひとしお烈しくなるばかりであった。
 そんなとき、私は憂鬱ゆううつな心を抱いて、街上の撒水うちみずが淡い灯を映したよいの街々を、かすかな風鈴ふうりんの音をききながら、よくふらふらと逍遙さまよいあるいたものであった。
 店の上につるされた、五十しょくぐらいの電燈が、蒼白あおじろい、そしてみずみずしい光をふりまき、その光に濡れそぼっている果物屋の店や、八百屋の店は、ますます私の心を、憂鬱に、感傷的にしてしまうばかりであった。併し私は、馬鹿馬鹿しいほど淋しく、物哀れな気分になりながらも、こうして八百屋の店や果物屋の店頭を覗いて歩くのが好きだった。
 そうして逍遙さまようた揚句あげくには、屹度きっと上野の停車場ていしゃばへやって行ったものであった。
 停車場の待合室にはどこの停車場にも掛かっているような、全国の、国有鉄道の地図がかかげられていた。
 その地図の下に立ってみすぼらしい身装みなりの青年が、その地図の上の距離を計ったり、っと凝視みつめていたりして、淋しい表情で帰って行くのを、私は幾度いくど見かけたか知れなかった。
 私はそういう人々を、殆んど毎晩のように見かけた。なかには、眼をうるませて帰る青年もあったし、ちかちかと睫毛まつげを光らせて戻る少年もあった。
 併し私は、そういう人々を、ただ単に、見たとばかり言い得ないような気がする。
 その人々の姿こそ、当時の私の姿ではなかったろうか? 歩いてでも郷里にかえりたかった。当時の私の心ではなかったろうか?

 或る夜のことであった。私は停車場で、偶然一人の友人と落ち合った。彼は非常に沈んでいたようであった。
「誰か送って来たの? それとも誰か来るの?」と私はいた。
「ううん。」
 彼は神経質な眼をして頭を振った。
「君は?」と彼は訊いた。
「僕も、ただ散歩に。――ここへ来ると、田舎の言葉が聞けるもんだから……」
「僕もそうなんだよ。ただそれだけで、僕は小石川からわざわざ出掛けて来るんだよ。」
 彼はこう言って、深い深い溜め息を一つついた。
 私と彼とは、黙々として目を伏せて公園前の方へ歩いて行った。そうして歩きながら、彼は低声バスに、哀れっぽい調子をつけて歌ったのであった。

停車場ていしゃばの、地図に指あて故里ふるさと
都の距離をはかり見るかな。


 私も彼も、大望を抱いて東京へ出て来たのであった。故里を去る時には、その意志を貫かないうちは、石に噛りついても帰らないはずであった。
 併し、私も彼も、もう……。

 その月の末に、私は彼が郷里に帰ったということを聞いた。もう再び東京には出て来ないつもりだということをも聞いた。
 併し、彼の意志の弱かったことを誰がわらい得よう? 故郷を持っている人々、そして都会の無産者の生活を知っている人々は、誰も嘲うことは出来ないはずだ。
 私はその後も、折々停車場へ出掛けて行った。その帰り途、私はきっと、あの時彼が歌ったあの歌を、低声バスで歌って見たものであった。

停車場の、地図に指あて故里と
都の距離をはかり見るかな。


 この歌を私は幾度も繰り返した。繰り返しているうちに、私の歌はいつか、泣き声になっていた。そして、睫毛まつげに涙のちかと光っているのを意識したものであった。

 今では、もう停車場へ出掛けるようなことはなくなった。
 けれども、夏が来て、八百屋の店頭に赤いトマトオが積みあげられ、水色のキャベツが並べられ、白い夏大根が飾られる頃になると、私は今でも、彼のあの歌を思い出すのである。

――大正十五年(一九二六年)『若草』十二月号――




 



底本:「佐左木俊郎選集」英宝社
   1984(昭和59)年4月14日初版発行
初出:「若草」
   1926(大正15)年12月号
入力:大野晋
校正:鈴木伸吾
1999年9月24日公開
2003年10月21日修正
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