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二都物語(にとものがたり)01 上巻

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-9-7 7:25:14  点击:  切换到繁體中文


    第二章 観物みもの

「お前はもちろんオールド・ベーリー★をよく知っているね?」とこの上もなく年をとった事務員の一人が走使いのジェリーに言った。
「へえい、旦那。」とジェリーはどこか強情な様子で答えた。「ベーリーは知っておりますとも
「あ、そうだろう。それからお前はロリーさんを知ってるな。」
「ロリーさんなら、旦那、わっしはベーリーを知ってるよりはよっぽどよく知ってますよ。実直な商売人のわっしがベーリーを、」とその問題の役所へ不承不承に出頭した証人に似なくもないように、ジェリーは言った。「知りたいと思ってるよりはよっぽどよく知ってまさあ。」
「よしよし。じゃあな、証人の入って行く戸口を見つけて、そこの門番にロリーさん宛のこの手紙を見せるんだ。そうすれば門番はお前を入れてくれるだろう。」
「法廷へですか、旦那?」
「法廷へだ。」
 クランチャー君の二つの眼はお互に更に少しずつ近よって、「こいつあおめえどう思う?」と尋ね合ったように思われた。
「わっしは法廷で待っているんですかい、旦那?」と彼は、眼と眼のその相談の結果として、尋ねた。
「今言ってやるよ。門番は手紙をロリーさんに渡してくれるだろう。そうしたら、お前は何でもロリーさんの目につくような身振りをして、あの人にお前のいる場所を見せてあげるんだぞ。それからお前のしなければならんことは、あの人の用事があるまでそこにずっといるだけだ。」
「それだけなんですか、旦那?」
「それだけだ。あの人は走使いの者を手許にほしいと仰しゃるのだよ。これにはお前がそこにいることをあの人に知らせてあるのさ。」
 老事務員が手紙を丁寧にたたんで表書をした時に、クランチャー君は、その行員が吸取紙を使う段になるまで彼を無言のまま眺めていた後に、こう言った。――
今朝けさは偽造罪を裁判するんでしょうね?」
「叛逆罪さ!」
「それじゃあき★だ。」とジェリーは言った。「むごたらしいことをするもんだなあ!」
「それが法律だよ。」と老事務員は、びっくりしたような眼鏡を彼に向けながら、言った。「それが法律だよ。」
「人間にくい[#「木+戈」、129-2]を打ち込むなんていくら法律だってひでえとわっしは思いますよ。人間を殺すのだって十分ひでえが、くい[#「木+戈」、129-3]を打ち込むなんて全くひでえこっでさあ、旦那。」
「そんなことはちっともないさ。」と老事務員は返答した。「法律のことを悪く言うものじゃない。自分の胸にあることと声にすることに気をつけるんだよ、ねえ、お前。そして法律のことは法律にまかせておくがいい。それだけの忠告をわたしはお前にしてあげるよ。」
「わっしの胸と声に宿ってるものってのは、旦那、湿気でさあ。」とジェリーは言った。「わっしの暮し方がどんなに湿しめっぽい暮し方だか、旦那のお察しにまかせますよ。」
「うむ、うむ、」と老行員は言った。「わたしたちはみんなさまざまな暮しの立て方をしてるんだよ。湿っぽい暮しの立て方をしている者もあれば、干涸ひからびた暮しの立て方をしている者もあるさ。さあ、手紙だ。行って来てくれ。」
 ジェリーは手紙を受け取った。そして、表面に見せかけているほどには内心では敬意を持たずに、「そういうお前さんだって実入みいりの少い爺さんだろうよ。」と心の中で言いながら、お辞儀をして、通りすがりに自分の息子に行先を告げて、出かけて行った。
 その時代には、絞刑はタイバーン★で行われていたので、ニューゲートの外側のかの街は、その後にそこの附物つきものとなった一の不名誉な醜名を、まだ受けてはいなかった。しかし、その監獄は厭わしい処であった。その中では大抵の種類の背徳や悪事が行われ、そこではいろいろの恐しい疾病が生れた。その疾病は囚人と共に法廷へ入り込んで、時としては被告席から裁判所長閣下にさえ真直に突き進んで、閣下を裁判官席からひきずり下すこともあった。黒い法冠をかぶった裁判官が囚人に死の判決を宣告すると同じくらいにはっきりと自分自身に死の判決を宣告し、しかも囚人よりも先に死ぬことさえも、一度ならずあった。そのほかのことについては、オールド・ベーリーは死出の旅宿のようなものとして名高かった。そこからは、色蒼ざめた旅人たちが、二輪荷車や四輪馬車に乗って、他界への非業の旅へと、絶えず出立したのである。もっとも二マイル半ばかりは一般公衆の街路や道路を通って行くのだが★、それを見て恥辱とするような善良な市民は、よしあったにしても、ごく稀であった。――それほど習慣というものは力強いものであり、またそれほど始めからよい習慣をつけておくということは望ましいことなのである。オールド・ベーリーは、また架形台★でも名高かった。これは賢明な昔の施設物の一つで、誰一人としてその程度を予知することの出来ない刑罰を課したものであった。なおまた、そこは笞刑柱★でも名高かった。これもなつかしい昔の施設物の一つであって、その刑の行われているのを見ると人をごく情深くし柔和にするのであった。それからまた、そこは殺人報償金★の手広い取引でも名高かった。これも祖先伝来の智慧の一断片であって、この下界で犯すことの出来る最も恐しい慾得ずくの犯罪へと当然に到らしめるものであった。結局、当時のオールド・ベーリーは、「何事にても現に起っていることはすべて正当なり。」という箴言の最良の例証なのであった。この格言は、かつて起ったことはすべて誤っていなかった、という厄介な結論さえ包含しなかったならば、ずいぶんものぐさな格言ではあるが、それと同時に決定的な格言であったろうが。
 この忌わしい所業の場所のあちらこちらに散らばっている不潔な群集の中を、こそこそと道を歩くことに慣れた人間の巧妙さでうまく通り抜けて、例の走使いの男は自分の探している戸口を見つけ出した。そして、そこのドアについている落し戸から例の手紙を差し入れた。人々は、その頃は、ベッドラム★にある芝居を見るのに金を払ったと同じように、オールド・ベーリーの芝居を見るのに金を払ったものであった。――ただ、後者のオールド・ベーリーの余興の方がずっと値段が高かったが。だから、オールド・ベーリーのあらゆる戸口は厳重に番人を置いてあった。――ただし、犯罪人たちが入って来る社会の戸口だけは確かにその例外で★、そこだけは常に広くけ放してあったのだ。
 しばらくぐずぐず遅滞していた後に、ドアはその蝶番ちょうつがいのところでしぶしぶとほんのわずかばかり囘転し、そしてジェリー・クランチャー君にようやく法廷の中へからだをぎゅっと押し入れさせた。
「何が始ってるんです?」と彼は自分の隣に居合せた男に小声で尋ねた。
「まだ何も。」
「何が始るとこなんですか?」
「叛逆事件でさ。」
「四つ裂きの事件ですね、え?」
「ああ!」とその男はさも楽しみそうに答えた。「あいつは網代橇あじろぞり★に載せて曳っぱられて行って半殺しに首を絞められ、それからおろされて自分の眼の前で薄割うすざきにされ、それから臓腑を引き出されて自分の見ている間に焼き捨てられ、それから次には首をちょんられ、体を四つにぶつ切られる。そいつが判決でさあ。」
「もし有罪ときまったら、って言うんでしょう?」とジェリーは但書と言ったような意味で附け加えた。
「いや、なあに! きっと有罪になりますよ。」と相手が言った。「そいつあ心配するにゃあ及びませんや。」
 この時、クランチャー君の注意は、さっきの手紙を片手に持ってロリー氏の方へ歩いて行くのが見える門番にらされた。ロリー氏は、仮髪かつらをかぶった紳士たちの間に、一脚の卓子テーブルに向って腰掛けていた。そこから遠くないところに、囚人の弁護士である、仮髪かつらを著けた一紳士が、大束の書類を前にしていたし、また、ほとんど向い合ったところに、今一人の仮髪かつらを著けた紳士が、両手をポケットに突っ込んでいたが、この人の全注意は、クランチャー君がその時眺めてみた時にもその後に眺めてみた時にも、いつも法廷の天井に集中されているように思われた。ジェリーは荒々しい咳払いをして、頤をさすり、手で合図をした挙句、立ち上って彼を探しているロリー氏の目に留った。ロリー氏は静かにうなずいて、そして再び腰を下した。
あの人はこの事件にどんな関係があるんですかい?」とジェリーのさっき口を利いた男が尋ねた。
「わっしはまるで知らねえんで。」とジェリーが言った。
「じゃあ、こんなことをお訊きしちゃ何だが、あんたはこの事件にどんな関係があるんですかね?」
「そいつもまるっきり知らねえんで。」とジェリーは言った。
 裁判官が入場し、それに続いて法廷内に非常なざわめきが起ってやがて鎮まってゆき、それらのために二人の対話は中止された。ほどなく、被告席が興味の中心点となった。今までそこに立っていた二人の看守が出て行き、やがて囚人が連れ込まれて、被告席に入れられた。
 天井を眺めている例の仮髪かつらを著けた紳士一人を除いて、その場にいる者は一人残らず、その被告を凝視した。場内のあらゆる人間の呼吸が、波のように、あるいは風のように、あるいは火のように、彼をめがけて押し寄せた。彼を見ようとして、多くの熱心な顔が柱の蔭や隅々から差し伸べられた。後の方の列にいる見物人たちは、彼の髪の毛一筋でも見逃すまいと、立ち上った。法廷の平場ひらばにいる人々は、誰に迷惑をかけようとも彼を一目見てやろうと、前にいる人々の肩に手をかけ、――彼の姿をどこからどこまで見ようと、足を爪立てて立ったり、何かの出張りの上に乗っかったり、ないも同然のものの上に立ったりした。この後者の仲間の中に一際目立って、ニューゲートの忍返しのびがえしを打ってある塀の一小片が生きて来たように、ジェリーが立っていた。彼はここへやって来る途中で一杯ひっかけて来たのだが、そのビール臭いいきを、囚人めがけてわめき出した。それは、囚人に向って流れている、他のビールや、ジン酒や、茶や、珈琲や、何やかやの波とまじった。その波は、既に、囚人の背後にある幾つかの大きな窓にぶつかって砕けて、よごれた霧と雨になっていたのだ。
 こういうすべての凝視と咆哮との対象というのは、日にけた頬と黒眼がちな眼とをした、体格もよく容貌もよい、二十五歳ばかりの青年であった。彼の身分で言えば青年紳士であった。彼は、じみに、黒かあるいはごく濃い鼠の服を著ていた。そして、長くて黒っぽい彼の髪は、頸の後のところでリボンで束ねてあった。それは飾りのためというよりは邪魔にならぬようにしておくためだった。心の中の感情は体のどんな覆いを通しても必ず現れ出ると同様に、彼の今の立場が生んだ蒼白い顔色は彼の頬の日にけた鳶色を通して現れていて、精神が太陽よりも力強いことを示していた。その他の点では彼は全く落著いていて、裁判官に一礼をして、静かに立っていた。
 この人間を見つめたりこの人間に呶鳴ったりする人々の興味は、人間性を高めるような種類のものではなかった。彼がこれほどの怖しい判決を受ける危険に臨んでいるのでなかったなら――その判決の残忍な細目の中のどれか一つでも免ぜられる見込があるのだったら――それだけ大いに彼は自分の魅力を失ったことであろう。あのように言語道断な切りさいなまれ方をされる宣告を受けることになっている人間の姿、それが観物みものなのであった。あのように惨殺され切れ切れに裂かれて末代まで名を残すことになっている男、それが人気を生み出していたのだ。種々雑多な見物人たちが、自己を欺くことにかけての自分たちのそれぞれの技巧と能力とに応じて、その興味をどんなに糊塗してみたところで、その興味は、その根底においては、食人鬼のような興味であった。
 法廷内はしいんとする! チャールズ・ダーネーは、彼を告発した(際限のないべちゃくちゃしたおしゃべりをもって)起訴に対して、昨日無罪の申立をしたのであった。その告発というのは、彼はわが畏くも高貴にして顕赫なる云々の君主なるわが国王陛下に対する不忠の叛逆者であって、その理由とするところは、彼は、種々の機会に、種々の手段と方法とをもって、フランス国王リューイスが上述のわが畏くも高貴にして顕赫なる云々の陛下に対してなせる戦争★において、彼リューイスを援助したのである。すなわち、彼は、上述のわが畏くも高貴にして顕赫なる云々の陛下の領土と、上述のフランスのリューイスの領土との間を往復し、上述ののわが畏くも高貴にして顕赫なる云々の陛下が幾何いくばくの軍隊をカナダ及び北アメリカに送る準備をしておられるかを、邪悪にも、不忠にも、叛逆的にも、その他種々奸悪にも、上述のフランスのリューイスに密告したのである、ということに対してである。これだけのことは、ジェリーは、いろいろの法律の用語のために髪の毛を逆立てられて頭がますます忍返しのようになりながらも、会得出来て大いに満足した。それで、前述の、幾度も幾度も前述のと言われた、チャールズ・ダーネーなる者が、彼の前で審問を受けようとしているのだということと、陪審官が就任の宣誓をしているのだということと、検事長閣下が弁論にかかろうとしているのだということを、曲りなりにもやっとのことで了解出来たのであった。
 その場にいるすべての人々の心の中で絞首され、斬首されて、四つ裂きにされていた(そして彼自身もそのことは知っていた)被告は、そうした立場にひるみもしなければ、そうした立場にあって少しでも芝居じみた態度をよそおいもしなかった。彼は平静にして傾聴していた。厳粛な関心をもって弁論の開始されるのを注視していた。そして自分の前にある厚板に両手を載せたまま立っていたが、極めて自若としているので、その手は板の上に撒いてある薬草の一葉をも動かしはしなかった。法廷には、獄舎臭と獄舎熱とに対する予防として、一面に薬草を撒き散らし酢を振り撒いてあったのだ。
 囚人の頭の上には鏡があって、彼に光を投げ下すようになっていた。これまでに幾多の悪人や幾多の卑劣漢がその鏡に映されては、その鏡の表面からもこの地球の表面からも共に姿を消してしまったのであった。大洋がいつかはその中に沈んでいる死者を出すことになっているように★、もしその鏡がそれに映った姿をいつか元へ戻すことが出来るならば、この厭わしい場所は実に物凄い幽霊屋敷となることであろう。恥辱不名誉という思いが、それのために鏡はそこに置いてあったのだが、その囚人の心にもちらりと浮んだのかもしれない。それはともかく、彼は姿勢をちょっと変えると、自分の顔に射した一条の光に気づいて、上を見た。そして鏡を見た時に彼の顔はさっと赧らみ、彼の右の手は薬草を押し除けた。
 その動作は、偶然、彼の顔を、法廷の彼の左手に当る側へ向かせたのであった。彼の眼と同じ高さのあたりに、裁判官席のそこの隅に、二人の人が腰掛けていて、彼の視線はただちにその人たちにとどまった。それが非常に突然であったし、また非常にひどく彼の顔付が変ったので、彼に向けられていたすべての眼が、今度はその二人の方へ振り向いた。
 見物人は、その二人の人物が、二十歳を少し出た若い婦人と、明かに彼女の父親である一紳士とであることを知った。その紳士というのは、頭髪の真白な点と、顔に一種名状しがたい強さがある点とで、極めて目に立つ外貌の男であった。強さと言っても活動的な強さではなくて、沈思黙考しているような強さであった。この表情が現れている時には、彼はあたかも老人であるかのように見えた。が、その表情が掻き動かされて消え去る時――ちょうど今も彼が自分の娘に話しかける際にたちまちそうなったように――には、彼はまだ人生の盛りを越えていない立派な男に見えるようになった。
 彼の娘は彼の傍に腰掛けながら、片手を彼の腕に通し、片方の手をその腕に押しつけていた。彼女は、この場の光景の恐しさと、囚人に対する同情とで、父親にひしと寄り添っていた。彼女のひたいには、被告の危難以外の何ものも見ないほどの一心の恐怖と同情とが、ありありと現れていた。それが極めて目に立ち、極めて力強く飾らずに表れていたので、今まで被告に対して何の憐憫の情も持たずにじろじろ見ていた連中も、彼女のためにさすがに心を動かされた。そして、「あの人たちは何者だろう?」という囁きが拡まった。
 走使いのジェリーは、それまで自己特有の流儀に自己特有の観察をしていて、夢中の余りに自分の指についている鉄銹をしゃぶり取っていたが、その二人が何者であるかを聞こうとして頸を差し伸ばした。彼の近くにいた群集が、その質問を、その親子の一番近くにいる傍聴者の方へだんだんと押し送っていた。そしてその傍聴者のところからそれはいっそうのろのろと押し送られて戻って来て、ようやくジェリーのところに著いた。――
「証人だとさ。」
「どちら側の?」
「反対側の。」
「どっち側に反対の?」
「被告側にだってさ。」
 検事長閣下が絞首索をい、首斬斧をぎ、処刑台に釘を打ち込まんがために立ち上った時に、裁判官は、ずうっと見※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)していた眼を元へ戻し、自分の座席でり返って、自分の手中にその生命を握っている人間をじっと眺めた。
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    第三章 当外あてはず

 検事長閣下は陪審官に向って次のようなことを告げなければならないと言った。諸君の面前にいる被告人は、年こそ若いが、死刑に価する叛逆の術策では極めて老獪である。彼が吾々の公敵と通信していることは、今日きょう昨日きのうからのことではなく、昨年や一昨年からのことでさえない。被告が、それよりももっと永い間、秘密の用務を帯びてフランスとイギリスとの間を往復する習慣にあったことは確実であって、その用務については彼は何等明白な説明をすることが出来ないのである。もしも叛逆行為なるものが栄えるのがその自然であるならば(幸いにもそういうことは決してないのであるが)、彼の用務が真に邪悪であり有罪であることはそのまま発見されずにすんだかもしれない。ところが、天帝は、恐怖にも動かされず非難にも動かされない一人の人間の心にそのことを知らせて、彼をして被告の画策の性質を探出させ、嫌悪の念に打たれて、その画策を陛下の首席国務大臣ならびに尊敬すべき枢密院に暴露させたもうたのである。この愛国者は諸君の前に出頭させられるであろう。彼の立場及び態度は概して崇高である。彼は被告の友人であったのであるが、幸いにしてかつまた不幸にして被告の非行を看破すると、もはや腹心の友とは認め得ないその叛逆者を、国家の聖なる祭壇に捧げようと決心したのである。いにしえのギリシアやローマにおけるが如く、わが英国にももし公共の恩人に対して彫像を贈る法令が発布されるならば、この輝ける市民は確かにそれを受けるであろう。が、そういう法令が発布されていないので、彼はおそらくはそれを受けることはあるまい。美徳というものは、詩人たちが古来述べているように(そういう詩の幾多の文句を陪審官諸氏が一語一語舌端にそらんじておられるであろうことを自分はよく知っているが、――と検事長が言うと、陪審官たちの顔は彼等がそういう詩句については少しも知らぬことに気がついていささかやましいような色をあらわした)、ある意味では伝染するものであり、愛国心、すなわち国を愛する心として知られているかの赫々たる美徳はとりわけそうである。清浄潔白な一点の非難すべきところもない、国王陛下のためのこの証人、陛下の御事に言及するのはいかに些細なことであっても名誉であるが、この証人の示した気高い亀鑑は、被告の従僕に伝染し、彼の心に、その主人の卓子テーブル抽斗ひきだしやポケットを調べ、主人の書類を隠匿しようという、神聖な決意を生ぜしめたのである。自分(検事長閣下)はこの賞讃すべき従僕に加えられる若干の誹謗を聞くことを覚悟している。が、全体から言って、自分はこの従僕を自分の(検事長閣下の)兄弟姉妹よりも好み、彼を自分の(検事長閣下の)父母よりも以上に尊敬するのである。自分は陪審官諸氏に来って同じようになされよと確信をもって要求するものである。この二人の証人の証言は、やがてここに提出されるであろうところの彼等の発見した文書と共に、被告が、陛下の兵力と、その海陸における配慮と戦備とについての明細書を所持していたことを示すであろう。しかして、彼がそのような情報を敵国へ常習的に送っていたということに何等の疑いをも残さないであろう。これらの明細書が被告の手蹟のものであるということは証明出来ない。が、それはどちらでもよろしいのである。実際、それは、被告が警戒手段に巧妙なることを示すものとして、起訴にはかえって好都合なのである。その証拠書類は五箇年前まで遡り、被告が既に、英国軍隊とアメリカ人との間に行われた実に最初の戦闘の時日から数週間以前に、そういう有害な任務に従事していたことを示すであろう。これらの理由によって、陪審官諸氏は、忠誠なる陪審官であるがゆえに(諸君がそうであることを自分は知っている)、また責任を重んずる陪審官であるがゆえに(諸君がそうであることを諸君自らが知っておられる)、諸君の好むと好まざるとにかかわらず、断然この被告を有罪と決し、彼を殺さなければならないのである。この被告の頭の刎ねられない限り、諸君は決して枕を高うして眠ることが出来ないであろう。諸君は諸君の妻が枕を高うして眠っているという考えをも忍ぶことが出来ないであろう。諸君は諸君の子供たちが枕を高うして眠っているという思いをも堪えることが出来ないであろう。要するに、諸君にとっても諸君の妻子にとっても、もはや枕を高うして眠るなどということは決してあり得ないのである、と。検事長閣下は、順々に彼の考え得られるあらゆるものの名にかけて、また彼が既に被告をもう死んでいるも同然と考えているという彼の厳粛な誓言に基いて、その被告の首を陪審官たちに請求することによって、論告を終えたのであった。
 検事長の論告が終ると、法廷内ががやがやして来た。それはあたかも雲霞のような大きな青蠅のむれが、その囚人がまもなくどうなるかということを見越して、彼の身辺に群っているかのようであった。それがまた静まった時に、かの一点の非難すべきところもない愛国者が証人席に現れた。
 次席検事閣下が、それから、彼の指導者の指導に従って、かの愛国者を審問した。名はジョン・バーサッド、紳士である。彼の純潔な精神の物語は検事長閣下がさっき述べたところと寸分の違いもなかった。――それに何か欠点があったとすれば、おそらく、いささか寸分の違いもなさ過ぎたことであろう。彼はその高潔な胸中の重荷を卸してしまったので、つつましげに引下ったであろうが、ロリー氏から遠くないところに腰掛けている、書類を前にした、あの仮髪かつらを著けた紳士が、彼に二三の質問をしたいと請うたのであった。向い合って腰掛けている例の仮髪かつらの紳士は、まだやはり法廷の天井を眺めていた。
 君はかつて自分で間諜スパイをやっていたことがあるか?★ いいや、自分はそういう卑劣なあてこすりを軽蔑する。君は何によって衣食しているか? 自分の財産によってだ。君の財産はどこにあるか? どこにあるかは正確に記憶していない。その財産は何であるか? 何も他人に関係のあることではない。君はその財産を相続したのか? そうだ、相続したのだ。誰からか? 遠縁の親戚から。非常に遠縁か? かなり遠縁である。監獄に入ったことがあるか? 確かにない。債務者監獄に入ったことは一度もないか? そんなことが今の件とどんな関係があるのかわからない。債務者監獄に入ったことは決してないか? ――さあ、もう一度問う。決してないか? ある。何度か? 二三度。五六度ではないか? あるいはそうかもしれない。何の職業か? 紳士だ。人から蹴られたことがあるか? あったかもしれぬ。たびたびあったか? いいや。階段から蹴落されたこと★があるか? 断然ない。一度階段の頂上のところで蹴られて、自分勝手に階段を落ちたことがある。その時は博奕ばくちでごまかしをやったために蹴られたのか? そういうような意味のことを、自分にそういう乱暴を加えた酔っ払いの嘘つきが言った。がそれはほんとうではない。それがほんとうではないということを誓うか? きっぱりと。賭博でごまかしをやって生活したことがあるか? 決してない。賭博をやって生活したことがあるか? ほかの紳士のする程度以上ではない。被告から金を借りたことがあるか? ある。返したことがあるか? ない。被告と親交があると言っても、それは実際のところはごくちょっとした交際で、乗合馬車や宿屋や郵船などの中で被告に無理に押しつけた交際ではないか? いいや。その明細書を被告が持っているのを見たということは間違いないか? 確かだ。その明細書についてはそれ以上のことは知らないのか? 知らない。例えば、君はそれを自分で手に入れたのではなかったか? そうではない。この証言によって何かを得ようと期待しているのではないか? いいや。いつも政府に雇われてかねを貰って、他人を罠に陥れることを仕事にしているのではないか? とんでもないことだ。それとも何かためにしようとしているのではないか? とんでもないことだ。それを誓うか? 幾度でも。全くの愛国心という動機以外には動機はないのか? ちっともない。
 かの謹直な従僕、ロジャー・クライは、非常な速度でさっさと宣誓しては証言して行った。自分は四年前から誠実にかつ純樸に被告に奉公していたのである。カレー通いの郵船の中で、自分は被告に向って小用しを雇うつもりはないかと尋ねた。すると被告は自分を雇ったのである。自分はお情に小用足しを使ってくれと頼んだのではない。――そういうことは思いもよらぬことだ。まもなく、自分は被告を怪しいと思うようになり、彼を監視し始めた。旅行中、彼の衣服を整頓する際に、何囘となく自分はこれと似た明細書が被告のポケットにあるのを見たことがある。自分はここにある明細書を被告の机の抽斗から取り出したのである。自分が最初にそれをそこに入れておいたのではない。自分は、被告がこれと同じ明細書をカレーでフランスの紳士たちに見せ、またこれと似た明細書をカレーとブーローニュ★との両地でフランスの紳士たちに見せているのを見た。自分は自分の国を愛するから、それを忍ぶことが出来ず、密告をしたのである。自分は銀製の急須を盗んだという嫌疑をかけられたことは一度もない。芥子からし壺に関して中傷されたことはあるが、しかしそれは鍍金めっきの品に過ぎないことがわかった。自分はさっきの証人を七八年来知っている。それは単に暗合に過ぎない。自分はこれを特に不思議な暗合とは考えない。暗合というものは大抵不思議なものであるから。また、自分の場合でもまた真の愛国心が唯一の動機であるということも、自分は不思議な暗合とは考えない。自分は真の英国人であり、自分のような者の多からんことを希望するものである。
 青蠅がまたぶんぶん唸った。そして検事長閣下はジャーヴィス・ロリー氏を呼んだ。
「ジャーヴィス・ロリー氏、あなたはテルソン銀行の事務員だね?」
「そうです。」
「一千七百七十五年の十一月のある金曜日の夜、あなたは用向でロンドンとドーヴァーとの間を駅逓馬車で旅行しましたか?」
「しました。」
「その駅逓馬車にはほかに誰か乗客がありましたか?」
「二人ありました。」
「その二人は夜の間に途中で降りましたか?」
「降りました。」
「ロリー氏、被告を見なさい。被告はその二人の乗客の中の一人ではなかったか?」
「そうであったとお請合うけあいは出来ません。」
「被告はその二人の乗客の中のどちらかに似てはいませんか?」
「二人ともすっかり身をくるんでおりましたし、真暗まっくらな晩でしたし、それに私たちは皆一向に口も利きませんでしたので、それさえもお請合うけあいは出来ません。」
「ロリー氏、もう一度被告を見なさい。被告がその二人の乗客のしていたように身をくるんでいると仮定して、彼のかっぷくと身長とに、彼がその中の一人でありそうにもないと思わせるようなところがありますか?」
「いいえ。」
「ロリー氏、あなたは被告がその中の一人ではなかったとは誓わないんですな?」
「それは誓いません。」
「それでは少くともあなたは彼がその中の一人であったかもしれぬと言われるんですね?」
「そうです。ただ一つ違いますのは、その二人とも――私と同様に――追剥をこわがってびくびくしておりましたと記憶いたしますが、この被告には小胆な様子がございません。」
「あなたはいかにも臆病らしく見える人間というのを見たことがありますか、ロリー氏?」
「確かにそういう人間を見たことがございます。」
「ロリー氏、もう一度被告を見なさい。あなたの確かに知っておられるところでは、あなたは以前に彼に逢ったことがありますか?」
「あります。」
「いつです?」
「私はそれから数日後にフランスから帰ろうといたしましたが、カレーで、被告が私の乗っておりました定期船に乗船して参りまして、私と一緒に航海をいたしました。」
何時なんじに彼は乗船しましたか?」
「夜半少し過ぎに。」
「真夜中にだね。そんな時ならぬ時刻に乗船した乗客は被告一人だけでしたか?」
「偶然にも被告一人だけでした。」
「『偶然にも』などということはどうでもよろしい、ロリー氏。その真夜中まよなかに乗船した乗客は被告一人だけだったのですな?」
「そうでした。」
「あなたは一人で旅行していたのですか、ロリー氏、それとも誰かつれがありましたか?」
「二人のつれがありました。紳士と婦人とです。その二人はここにおられます。」
「その二人はここにおられるのだね。あなたは被告と何か話をしましたか?」
「ほとんどしません。天候は荒れておりましたし、その航海は長くかかって海が荒れましたので、私はほとんど岸から離れて岸に著くまで長椅子ソーファに寝ていましたのです。」
マネット嬢ミス・マネット!」
 さっきも場内のすべての眼がその方へ振り向き、今また再び振り向けられた、かの若い婦人は、自分の腰掛けていた場所に立ち上った。彼女の父親も一緒に立ち、自分の片腕に彼女の片手を通したままにしていた。
マネット嬢ミス・マネット、被告を御覧なさい。」
 そういう同情と、またそういう真心のこもった若さと美しさとに対することは、その被告にとっては、場内のすべての群集と対するよりも遥かにつらいことであった。いわば自分の墓穴のふちに彼女と共に別になって立っているので、じろじろと見つめているすべての人の好奇心の眼は、しばらくの間は、彼に全くじっとしているように力をつけることが出来なかった。彼の右の手は前にある薬草をあわてて掻き分けて空想の中で庭園の花壇にした。そして息遣いを落著かせてしっかりさせようとする彼の努力のために脣はぶるぶる震え、その脣からは血の気がさっと心臓へ戻った。例の大きな蠅のぶんぶん唸る音がまた高まった。
マネット嬢ミス・マネット、あなたは以前に被告に逢ったことがありますか?」
「はい。」
「どこで?」
「ただ今お話に出ました定期船の中で。同じ折に。」
「あなたは今話に出た若い御婦人ですね?」
「はあ! ほんとに不仕合せなことに、さようなのでございます!」
 彼女の同情から出たその悲しげな声音こわねは、裁判官が幾分荒々しく「あなたに尋ねられた質問に答えればよろしい。それについて意見がましいことを言ってはならぬ。」と言った時の、彼のあまり音楽的でない声の中に消されてしまった。
マネット嬢ミス・マネット、あなたはイギリス海峡を渡る時のその航海中に被告と何か話をしましたか?」
「はい。」
「それを思い出して御覧なさい。」
 深い静けさの中で、彼女は弱い声で言い始めた。――
「あの紳士が乗船なさいました時に――」
「あなたは被告のことを言っておられるのか?」と裁判官は眉をひそめながら尋ねた。
「はい、閣下。」
「では被告と言いなさい。」
「被告が乗船して参りました時に、被告は、私の父が、」と彼女は傍に立っている父親に自分の眼を愛情をこめて向けながら、「たいそう疲労していまして、からだもひどく弱っておりますのに、目を留めました。父はずいぶん衰弱しておりましたので、私は父を外の空気のあたらないところへ連れて参りますのはよくないと存じまして、船室の昇降段の近くの甲板の上に父のために寝床ベッドを拵えておきました。そして、父の世話をするために、私は父の傍の甲板に坐っていたのでございます。その晩は私ども四人のほかに乗客はございませんでした。被告は、親切に、私に私のいたしましたよりも上手に父を風や寒さに当てないようにするにはどうしたらよいか教えてあげてもよろしいかと申してくれました。私は、港の外へ出ますと風がどんなに吹くものか存じませんでしたので、それを上手にするにはどうしたらよろしいのかわからなかったのでございます。被告は私に代ってそれをしてくれました。被告は私の父の様子についても大変やさしく親切に言って下さいましたが、きっとほんとうにそう思われたのだと私は思っております。こんな風にして私たちは言葉をかわし始めたのでございました。」
「ちょっと話の途中ですが。被告は一人だけで乗船したのですか?」
「いいえ。」
「何人被告と一緒にいましたか?」
「フランスの紳士が二人でした。」
「三人で一緒に相談していましたか?」
「フランスの紳士たちが御自分たちのはしけに乗って陸へ引揚げなければならなくなる最後の時まで、その三人は一緒に相談していらっしゃいました。」
「この明細書に似た何かの書類が、彼等の間で遣り取りされていませんでしたか?」
「何か書類がその人たちの間で遣り取りされておりました。けれどもどんな書類だか私は存じません。」
「形や寸法がこれに似ていましたか?」
「そうかもしれません。でもほんとうに私は存じませんの。その人たちは私のごく近くでひそひそ話をしながら立っていらしたのではございますけれども。と申しますのは、その人たちは船室の昇降段の一番上のところに立っていらしたのですから。それはそこにつるしてありましたランプの光を使うためなのでした。そのランプは暗いランプでしたし、それにその人たちはごく低い声で話していらっしゃいましたので、私にはその人たちの言っていらっしゃることは聞き取れませんでしたし、またそのかたたちが書類を見ていらっしゃるということだけしか見えなかったのでございます。」
「では、被告の話したことについて言って下さい、マネット嬢ミス・マネット。」
「被告は、私の父に対して親切で、好意を持って、いろいろ世話をして下さいましたように、私にも打解けて何でも話して下さいました。――それは私の頼りない境遇から起ったことでございましょうが。私は、」とわっと泣き出して、「今日きょうあのかたに御迷惑をおかけして、あのかたに恩をあだで返すようなことがなければよいがと存じます。」
 青蠅がぶんぶん唸る。
マネット嬢ミス・マネット、もし被告が、あなたがそれを述べることがあなたの義務であり――あなたの述べなければならない――またあなたがどうしてもそれを述べずにいる訳にはゆかない――ところの証言を非常に気が進まぬながら述べておられるのだ、ということを完全に理解していないとするなら、彼はここにいる者の中でそのことを理解していないただ一人の人間です。どうか先を続けて下さい。」
「被告は、私に、自分はある面倒なむずかしい性質の用事で旅行しているのだが、その用事はいろいろの人に迷惑をかけることになるかもしれない、だから自分は変名を使って旅行しているのだ、と話しました。また、自分はその用事のために数日前にフランスへ行って来たのだが、これから先も永い間そのために折々フランスとイギリスとの間を行ったり来たりすることになるかもしれない、と申しました。」
「被告はアメリカのことについて何か言いましたか、マネット嬢ミス・マネット? 詳細に述べなさい。」
「被告はあの戦争がどうして起るようになったかということを私に説明してくれようといたしました。そして、自分の判断し得る限りでは、あれはイギリス側が間違った愚かな戦争をやったのだ、と申しました。また、常談のように、たぶんジョージ・ウォシントンは歴史上ジョージ三世とほとんど同じくらいの偉大な名声を残すだろう★、と言い足しました。でも、その言い振りには少しも悪気はございませんでした。それは、笑いながら、時間をまぎらすために、話されたのでございます。」
 芝居の非常に興味のある場面で、多くの眼の注がれている主役俳優の顔に、何か強く目立つ表情が現れるたびに、その表情は見物人に無意識の中に模倣されるものである。彼女がこの証言を述べている時にも、また、それを裁判官が書き留めている間彼女が言葉を切っている合間に、その証言が弁護士に与える印象がよいか悪いかを注視している時にも、彼女のひたいは痛々しいまでに懸念と緊張とを現した。すると、法廷内の到る処で傍聴者の間にそれと同じ表情が現れた。裁判官がジョージ・ウォシントンについてのあの恐しい異端の言を聞いて、自分の控書から顔を上げてぎろりと眼を光らせた時には、そこにいた人々の額の大部分は、この証人を映す鏡となったと言ってもよいくらいであった。
 検事長閣下はこの時裁判長閣下に、念のためと、また形式上から、この若い婦人の父マネット医師を呼び出すことを必要と認める、ということを知らせた。それで彼が呼び出された。
マネット医師ドクター・マネット、被告を見なさい。あなたはいつか以前に彼に逢ったことがありますか?」
「一度だけ。彼がロンドンの私の寓居へ訪ねて来ました時に。約三年か、三年半ばかり前。」
「あなたは彼があの郵船にあなたと同船した乗客に相違ないと認めることや、あるいはあなたの令嬢と彼との会話について話すことが出来ますか?」
「閣下、私にはどちらも出来ません。」
「あなたがそれをどちらも出来ないということには何か特別の理由がありますか?」
 彼は、低い声で、答えた。「あります。」
「あなたは、あなたの生国で、公判も、告発さえも受けずに、永い間の監禁を受けるという不幸な目に遭われたのですか、マネット医師ドクター・マネット?」
 彼は、あらゆる人の心を動かす語調で、答えた。「永い間の監禁でした。」
「あなたは今問題になっている折に釈放されたばかりだったのですか?」
「皆が私にそう申しております。」
「その折の記憶が少しもありませんか?」
「少しも。私が監禁の身で靴造りに従事しておりましたある時――それがいつであるかということさえ私には言えないのでありますが――その時から、ここにおります可愛いい娘と一緒に自分がロンドンに暮しているのだと気がつきました時まで、私の心は白紙なのです。お恵み深い神さまが私の心の力を囘復して下された時には、娘は私とごく親しくなっておりました。しかし、どんな風にして親しくなって来たのかということを申し上げることさえ私には全く出来ないのです。それまでの経路については少しも記憶がありません。」
 検事長閣下は腰を下し、そしてその父と娘とは一緒に腰を下した。
 一つの奇妙な事柄がその次にこの事件に生じた。目下の目的は、被告が、まだ逮捕されない誰かある共犯者と共に、五年前の十一月のその金曜日の晩にドーヴァー通いの駅逓馬車に乗って出かけたが、人目をごまかすために、夜中よなかにある土地で馬車を降り、そこには足を留めずに、そこから約十二マイルかそれ以上も後戻りして、兵営と海軍工廠とのある処まで行き、そこで情報を蒐集した、ということを証拠立てることなのであった。で、一人の証人が呼び出されて、被告はその兵営と海軍工廠とのある町のある旅館の食堂に、誰か他の人間を待ちながら、ちょうどその必要な時刻にいた男に違いない、ということを鑑定させることになった。例の被告の弁護士はこの証人にいろいろ対質訊問★をしていたが、この証人がその時より以外のどんな機会にも被告を見たことが一度もないということのほかには、何一つ得るところがなかった。この時、これまでずっと法廷の天井を眺めていた例の仮髪かつらの紳士が、小さな紙片に一二語書いて、それをひねって、その弁護士に投げてやった。弁護士は、訊問の次の合間にその紙片を開いて見ると、非常な注意と好奇心とをもって被告をうち眺めた。
「君はそれが確かに被告であったということを十分に確信していると今一度言えますね?」
 その証人はそれを十分に確信していると言った。
「君はこれまでに誰でも被告に非常に似た人を見たことがありますか?」
 被告と見違えるくらいに似た人は見たことがない(と証人が言ったのであるが)とのこと。
「では、あの紳士、あそこにいるわたしの同僚を、」とさっき紙を投げてよこした男を指さしながら、「よく見たまえ。それから次に被告をよく見たまえ。どう思います? 二人は互に非常に似ていやしませんか?」
 二人をそうして見比べてみると、その同僚弁護士の風采が放埓なというほどではないにしても無頓著でじだらくなのを差引すれば、二人が互に非常に似ていることは、証人ばかりではなく、その場に居合せたすべての人を驚かすに十分であった。裁判長閣下が、仮髪かつらを脱ぐようにその同僚弁護士に命じて頂きたいと請われて、あまり快くもなさそうな承諾を与えると、二人の似ていることはますます目立つようになった。裁判長閣下は、ストライヴァー氏(被告の弁護人)に向って、では吾々は次にはカートン氏(彼の同僚弁護士の名)を叛逆罪のかどで審理しなければならないのか? と尋ねた。けれども、ストライヴァー氏は裁判長閣下に答えて、そうではない、しかし、自分はその証人に、一度あったことは二度あるものかどうか、もし証人が彼の軽率を示すこういう例証をもっと前に見ていたなら、今のような確信を持ったかどうか、現にそれを見た上でも、今のような確信を持つかどうか、云々、ということを答えてもらいたいのだ、と言った。その訊問の結果は、この証人を瀬戸物のうつわのように粉砕し、この事件における彼の役割を無用のがらくたとしてしまうまでに打ち砕いたのであった。
 クランチャー君は、ずっと今までの証言を聴きながら、この時分までには自分の指から全く一昼食ランチ分くらいの鉄銹を食べてしまっていた。彼は、今度は、ストライヴァー氏が被告側の申立をきっちりした一著の衣服のように陪審官に合せて造ってゆくのを、傾聴しなければならなかった。ストライヴァー氏は陪審官たちに次のことを証示した。愛国者と称せられるバーサッドはお傭い間諜スパイで、友を売る人間であり、他人の血を売る鉄面皮な商人であり、呪うべきユダ★からこのかたこの地上に現れた最大悪党の一人であり――そのユダに彼は確かに顔も幾らか似ている、ということ。謹直な従僕と称せられるクライは彼の友人で同類であり、またそうであるに恥じぬものである、ということ、この二人の事実捏造者で偽証者が自分たちの喰い物にしようとして被告に油断のない眼を注いでいた訳は、被告はフランス生れであるので、フランスにおける何かの家庭問題のためにそのようにイギリス海峡を渡って幾度も往復しなければならなかったからであり、――もっとも、その家庭問題というのが何であるかは、彼の近親の人々に対する考慮から、被告には、生命を賭しても、打明けることが出来ないのである、ということ。陪審官諸氏の現に見られたようにあの若い婦人をあのように苦しめて述べさせ、彼女から※(「てへん+丑」、第4水準2-12-93)じ取り※(「てへん+宛」、第3水準1-84-80)ぎ取ったところのあの証言は、誰でもそういう風に出会った若い紳士と若い淑女との間にありがちな、ほんのちょっとした無邪気な慇懃と礼儀とを意味するだけであって、何にもならぬものであり、――ただ、ジョージ・ウォシントンに関するあの言葉だけは例外であるが、それとても全く余りに途方もないあり得べからざる言葉であるので、しからぬ常談としての見地より以外の見地で見らるべきものではない、ということ。最も下等な国民的反感と恐怖心とを利用して人気を博そうとするこの企てが失敗すれば、政府における一つの弱点となるであろうから、検事長閣下は極力努力されたのである、ということ。さりながら、この企てには、余りにしばしばこのような事件を醜悪化するところの、またこの国の国事犯裁判に充満しているところの、あの陋劣で破廉恥な性質の証拠のほかには、何等拠るべきものがないのである、ということ。しかし、ここまで彼の弁論が進んで来た時に裁判長閣下は言を挟んで(あたかも彼の言ったことが真実ではなかったかのようにしかつめらしい顔をしながら)、自分はこの法官席に坐っていて、そういうあてつけを忍ぶことは出来ない、と言った。
 ストライヴァー氏はそれから自分の方の数人の証人を呼び出し、そしてクランチャー君は、次には、検事長閣下がストライヴァー氏がさっき陪審官に合せて造った衣服をそっくり裏返しにしてゆくのを、傾聴しなければならなかった。検事長閣下は、バーサッドとクライとが彼の考えていたよりも百倍も善良であり、被告が百倍も悪人であることを述べ立てた。最後に、裁判長閣下自身が立って、その衣服を時には裏返しにしたり、また時には表返しにしたりしたが、だいたいにおいて、それを被告の屍衣になるようにてきぱきと裁って型をつけて行った。
 それから今度は、陪審官たちが審議するために向うへ向き、例の大蠅がまた群って来た。
 これまであのように永い間法廷の天井を眺めながら腰掛けていたカートン氏は、この騒ぎの中にあってさえ、座席も変えなければ姿勢も変えなかった。彼の同僚弁護士のストライヴァー氏は、自分の前にある書類を一纒めにしながら、近くに腰掛けている人々と私語したり、時々は陪審官の方を心配そうにちらりと見たりしていたし、すべての観客は多少とも移動したり、新たに集団を造ったりしていたし、裁判長閣下でさえ、その席から立ち上って、壇上をゆっくりと往ったり来たりして歩いていて、観衆の心に裁判長も興奮しているのではなかろうかと疑わせないではなかったのに、この一人の男だけは、やぶけた弁護士服は半ば脱げかかったまま、また、きちんとしていないその仮髪かつらはちょうどさっき脱いだ後に彼の頭の上に偶然載っかったようにかぶり、両手はポケットに入れ、眼は終日そうであったように天井に向けたまま、り返って腰掛けているのだった。彼の態度に何となく特に無頓著なようなところのあるのが、彼を不体裁に見せたばかりではなく、疑いもなく彼と被告との間に存するあの強い類似(それは、二人が見比べられた時には、彼が一時だけ真面目まじめになったために、強められたのであった)を非常に減じたので、見物人の多数の者たちは、今彼に注目すると、その二人がそんなに似ているとは思えなかったはずだがと互に言い合ったくらいであった。クランチャー君はその考えを自分のすぐ隣の者に話して、それからこう言い足した。「あの男なんかにゃあ弁護の口なんざ一つも手にへえりっこねえってことにゃ、わっしは半ギニー賭けたっていいでさあ。一つだって手にへえりそうな奴にゃ見えやしねえ。そうでしょう?」
 だが、このカートン氏は、場内の細かなことを、見掛よりはもっと呑込んでいるのだった。というのは、マネット嬢の頭が父親の胸へがくりと垂れた時に、彼は、それを見つけて、聞き取れる声で「守衛! あすこの若い婦人を介抱してあげろ。あの紳士に手伝って外へ連れ出してあげるんだ。あの婦人が倒れようとしているのがわからんか!」と言った最初の人であったから。
 彼女が連れ去られた時に、人々は彼女を大いに不憫がった。また彼女の父親に大いに同情した。自分の監禁の時代を思い出させられることは、彼には明かに非常な苦痛であったのだろう。彼は訊問を受けた時に強烈な内心の動揺を色に現した。そして、彼を老人に見えさせるあの思いに沈んだような考え込んでいるような様子は、それ以来ずっと、重苦しい雲のように、彼に蔽いかかっていたのであった。彼が出て行った時に、向き直ってちょっと待っていた陪審官は、陪審長を通じて発言した。
 彼等は意見が一致しないので、退廷して協議したいと希望した。裁判長閣下は(たぶん例のジョージ・ウォシントンの件を心に思い浮べていたのであろう)彼等の意見が一致しないということに幾分驚いた様子を示したが、監視附きで退廷してもよろしいという意向を告げて、自分も退廷した。公判は終日続き、やがて法廷内のランプがともされ出した。陪審官は永い間退席しているだろうという噂が立ち始めた。見物人たちは飲食しにぽつりぽつりと去り、囚人も被告席の後の方へ引下って、腰を下した。
 ロリー氏は、さっきあの若い婦人とその父親とが出た時に外へ出て行っていたが、この時再び入って来て、ジェリーを手招きした。ジェリーは、興味が弛んで人が減っていたので、容易たやすく彼の近くへ行くことが出来た。
「ジェリー、お前何か食べたいなら、食べに行ってもいいよ。だが、遠くへは行かないようにな。陪審官が入って来る時には間違いなく聞いていてほしいのだ。ちょっとでも陪審官に遅れちゃいけないよ。その評決をお前に銀行まで持って帰ってもらいたいんだからね。お前はわたしの知ってる中じゃ一番足のはやい使いだから、わたしよりはずっと前にテムプル関門バーに著くだろう。」
 ジェリーはちょうど指のふしで触れられるだけの幅のひたいをしていた。それで彼はこの通牒と一シリングとを受けたしるしに指の節を額に触れた★。ちょうどその時にカートン氏がやって来て、ロリー氏の腕に手をかけた。
「あの御婦人はいかがです?」
「非常に苦しんでおられます。が、お父さんがいたわっておられますし、法廷から出たのでそれだけ気分がよいようですよ。」
「僕が被告にそう話してやりましょう。あなたのような体面を重んずる銀行員が、公然と被告と口を利いているのを見られては、よくないでしょうからねえ。」
 ロリー氏は、あたかも自分が心の中でその点を考えていたことに気づいたかのように、顔を赧らめた。それでカートン氏は被告人席の外側の方へ歩いて行った。法廷の出口もその方向にあったので、ジェリーは体中を眼にし、耳にし、忍返しのびがえしにしながら、その後について行った。
「ダーネー君!」
 囚人はすぐに進み出て来た。
「君はもちろんあの証人のマネット嬢ミス・マネットの様子を聞きたがっているだろうね。あの人はやがてよくなるよ。君の見たのはあの人の興奮の一番ひどい時だったんだから。」
「私がその原因であったことを非常にすまなく思っています。私の代りにあなたからあのかたに、私の熱心な感謝と一緒に、そう伝えていただくことは出来ないでしょうか?」
「ああ、出来るよ。君が頼むなら、伝えてやろう。」
 カートン氏の態度はほとんど横柄と言ってもいいくらいに無頓著であった。彼は、囚人から半ば身をそむけて、被告人席に片肱で凭れかかりながら、立っていた。
「ぜひお頼みします。私の心からの感謝を受けて下さい。」
「ダーネー君、」とカートンは、やはり半ばだけ彼の方へ向きながら、言った。「君はどうなると思っているかね?」
「最悪の事を予期しています。」
「そう予期しているのが一番賢明だし、また一番ありそうなことだね。だが、陪審官たちが退出したことは君に有利だと僕は思うな。」
 法廷の出口にぶらぶらしていることは許されなかったので、ジェリーは、それ以上は聞かずに、その二人――容貌では互に実に似ていながら、態度では互にまるで似ていない――両人とも上にある鏡に姿を映しながら相並んで立っている――を後に残して出て行った。
 階下の盗賊や悪漢などの雑沓しているような廊下では、一時間半という時間は、羊肉パイとビールとの助けを藉りて過してさえ、のろのろとたって行った。そのしゃがれ声の走使はしりづかいは、それだけの食事をとった後に一つの長腰掛に窮屈そうに腰掛けながら、ついうとうとと居睡りしかけたが、その時、声高なざわめきの声が起り、法廷へと続く階段を人々がどっとうしおのように速く駈け上って行くので、彼もその中に一緒に運ばれて行った。
「ジェリー! ジェリー!」彼が戸口のところまで行くと、ロリー氏はそこで既に彼を呼んでいた。
「ここです、旦那! 戻って来ますなあまるで戦争でさあ。ここにおりますよ、旦那!」
 ロリー氏は人込みの間から一枚の紙を彼に手渡しした。「大急ぎでな! お前受け取ったか?」
「へえ、旦那。」
 その紙に急いで書いてあったのは「放免」という語であった。
「もしあんたがもう一度あの『よみがえる』って伝言ことづてを出して下すったんなら、」とジェリーはぐるりと向き変った時に呟いた。「わっしも今度はあんたの言う意味がわかったんだがなあ。」
 彼はオールド・ベーリーをすっかり出てしまうまでは、それ以外に何かを言う機会は、あるいは何かを考える機会さえも、なかった。なぜなら、群集は彼の足をさらいそうなくらいの猛烈な勢でどっと押し出していたし、あてはずれた青蠅が他の腐肉を捜し求めに四方へ散ってゆくかのように、蠅の唸るような声高いうわあっという声が街路へ流れ出ていたからである。
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    第四章 祝い

 法廷の薄暗い灯火のついている廊下から、終日そこで煮られていた人間の蒸煮肉シチューの最後のかすが濾し取られている時に、マネット医師と、その娘のリューシー・マネットと、被告人の弁護の依頼者のロリー氏と、被告の弁護人のストライヴァー氏とが、チャールズ・ダーネー氏――今釈放されたばかりの――を取囲んで、彼が死から免れたことに祝詞を述べていた。
 そこよりはもっとずっと明るい明りで見ても、面貌の理智的な、挙止の端正なマネット医師が、パリーのあの屋根裏部屋にいた靴造りだと認めることは、むずかしかったであろう。けれども、誰でも彼を二度目に見ると、おやっと思って彼を見直さずにはいられなかったろう。もっとも、そうしたところで、まだ、彼の低い沈んだ声の物悲しい調子や、何も明かな原因もなしに発作的に彼に覆いかぶさる放心状態までは、観察する機会は来なかったであろうが。ただ一つの外部からの原因、それは彼のあの永年の間の永引いた苦しみに話が触れることであったが、それはいつでも――さっきの公判の時のように――彼の魂の奥底からそういう状態を喚び起すのであった。が、一方、その状態はまたその性質上ひとりでに起って、彼の上に暗雲を曳いて来ることもあった。それは、彼の身の上をよく知らない人々にとっては、まるで、三百マイルも離れたところにある本物のバスティーユ★が夏の太陽を受けて彼の上に投げかける影を見たかのように、不可解なことだった。
 彼の心からこの陰鬱な物思いを払い除ける魅力を持っているのは彼の娘だけであった。彼女は、彼をその災難の彼方かなたの過去と、その災難の此方こなたの現在とに結びつける黄金こがねの糸であった。そして彼女の声音こわね、彼女の顔の明るさ、彼女の手の接触は、ほとんどいつでも、彼には強い有益な効力を持っていた。絶対にいつでも、という訳ではない。彼女にも自分の力の及ばなかった場合もあるのを思い起すことが出来たからである。が、そういう場合はわずかでちょっとしたものであったので、彼女はそんなことはもうすんでしまったものと信じていたのであった。
 ダーネー氏は熱情と感謝とをこめて彼女の手に接吻し、それからストライヴァー氏の方へ振り向いて、彼に厚く礼を言った。ストライヴァー氏は、三十を少し越しただけだが、実際よりは二十歳もけて見える、太った、大声の、赭ら顔の、ざっくばらんな男で、敏感デリカシーなどというひけめは一切持ち合せていなかった。人中ひとなかへも会話へも他人を肩で押し分けて(精神的にも肉体的にも)割込んでゆく押の強いたちであった。それは、彼が実生活でも他人を肩で押し分けて出世してゆくことを十分証拠立てているのだった。
 彼はまだ仮髪かつらと弁護士服とを著けていた。そして、人のいいロリー氏をその一団からすっかり押し出してしまうまでに、自分のさっきの弁護依頼人に向って肩肱を張って、言った。「わたしは君を立派に救い出してあげたんで嬉しいですよ、ダーネー君。あれはどうも不埓な告発でした。実に不埓なものでした。だが、そのためにかえってうまくゆきそうだったんですな。」
「私は一生御恩にます、――二つの意味で。」と彼のさっきの弁護依頼人が、相手の手を取りながら、言った。
「わたしは君のためにわたしの全力ベストを尽したんです、ダーネー君。そしてわたしの全力ベストほかの人のに劣らんつもりですがね。」
「劣るどころかずっとまさっていますよ。」と明かに誰かが言わなければならないところだったので、ロリー氏がそれを言った。たぶん、少しの私心もなかったという訳ではなく、もう一度元のところへ割込もうという私心的な目的もあってのことらしかった。
「あなたはそうお考えですかね?」とストライヴァー氏は言った。「なるほど! あなたは一日中出席しておられたんだから、御存じのはずだ。それに、あなたは事務家ですからなあ。」
「ところでその事務家としまして、」とロリー氏が言った。彼は、その法律に精通した弁護士に先刻その一団から肩で押し出されたようにして、今度はその一団の中へ肩で押し戻されていたのである。――「その事務家としまして、私はマネット先生ドクター・マネットにお願いいたしたいんですが、この会議をこれで打切りにして、私どもみんなをうちへ帰らせていただきたいものですね。リューシーさんは工合がお悪いようですし、ダーネー君は恐しい目に遭われたのですし、私どもは疲れ切っておりますから。」
「御自分だけのことを話しなさい、ロリーさん。」とストライヴァーが言った。「わたしはまだしなけりゃならん夜の仕事があるんだ。御自分だけのことを話しなさい。」
「私は、自分のためと、」とロリー氏は答えた。「それからダーネー君に代って、申すのです。それからリューシーさんにも代って、それからまた――。リューシーさん、あなたは私が私どもみんなに代って話してもいいとお考えになりませんか?」彼はきっぱりと彼女にそう尋ねて、彼女の父親にちらりと目をやった。
 彼の顔はダーネーをひどく詮索的な眼付で見つめていわば凍ったようになっていた。そのじっと見入った眼付はだんだんと深まって、嫌悪と疑惑とのしかめ顔となり、恐怖の色をさえまじえた。そういう奇妙な表情を浮べたまま彼の思いは彼からふらふらと脱け出ていたのだ★。
「お父さま。」とリューシーは、自分の手をそっと彼の手に載せながら、言った。
 彼は幻影をゆっくりと払い除けて、彼女の方へ振り向いた。
「あたしたちはおうちへ帰りましょうか、お父さま?」
 長い息をつきながら、彼は答えた。「うむ。」
 放免された囚人の友人たち★は、彼がその晩釈放されることはあるまいと考えて、――そう考えたのは彼自身が発頭人なのであったが、――もう散り散りになってしまっていた。廊下の灯火はほとんど全部消され、鉄の門はぎいっと軋り音を立てて鎖されかけ、その気味の悪い場所は、明日の朝、絞首台や、架刑台や、笞刑柱や、烙鉄やきがねなどの興味が再び見物人を集めるまでは、人気ひとけがなくなってしまった。リューシー・マネットは、父親とダーネー氏との間に挟まれて歩きながら、戸外へ出た。一台の貸馬車が呼び止められて、父と娘とはそれに乗って去って行った。
 ストライヴァー氏は廊下で皆と別れて、肩で風を切って衣裳室へと引返して行ってしまっていた。その一団に加わりもせず、また彼等の中の誰とも一語をかわしもせずに、壁の蔭の一番暗いところに凭れかかっていたもう一人の人間は、黙々として皆の後からぶらぶらと出て行って、馬車が馳せ去るまで見送っていた。彼はそれからロリー氏とダーネー氏とが鋪道に立っているところまで歩いて行った。
「やあ、ロリーさん! 事務家ももう今じゃあダーネー君と口が利けるようになったという訳ですかな?」
 誰一人としてこの日の弁論におけるカートン氏の役割について少しでも感謝の意を表した者はなかった。誰一人としてそれを知りもしなかった。彼は法服を脱いでいたが、そのために別段風采がよくなっているという訳でもなかった。
「事務家の心が善良な直情と事務上の体面との二つに分れる場合に、その人がどんなつらい思いをするものかということが君にわかれば、君も面白がるんだろうがね、ダーネー君。」
 ロリー氏は顔を赧くして、むきになって言った。「あなたはさっきもそのことを仰しゃいましたね。会社などへ勤めているわれわれ事務家は、自分が自分の思い通りにならんのですよ。われわれは自分自身のことよりももっと会社のことを考えなくちゃあならんのです。」
「わかってますとも、わかってますとも。」とカートン氏は無頓著に答えた。「そう怒っちゃいけませんよ、ロリーさん。あなたが人に劣らない善い人だってことは、僕は少しも疑いませんよ。いや、人より以上に、と言ってもいいでしょう。」
「それにですな、実際、」とロリー氏は、相手の言うことにも構わずに、言い続けた。「わたしにはあなたがそういう事柄にどういう関係がおありになるのか全くのところわからんのです。わたしはあなたよりはよっぽど年長者だから、それに免じて言わしてもらえるならですな、そういうことがあなたの関する事務だとはわたしには全くわからんのです。」
「事務ですって! とんでもない、僕には事務なんてものはありゃしませんよ。」とカートン氏が言った。
「事務がないとはお気の毒なことですな。」
「僕もそう思います。」
「もしおありでしたら、」とロリー氏は言い続けた。「たぶんあなただってそれに身をお入れになるでしょうがね。」
「いやいや、どういたしまして! ――身を入れるものですか。」とカートン氏が言った。
「えっ、何ですって!」と、彼の冷淡さにすっかりかんかんになって、ロリー氏は叫んだ。「事務は非常に結構なものですし、また非常に尊敬すべきものです。それでですな、事務上から拘束を受けて黙っていたり差控えていたりしなければならないとしても、ダーネー君のような寛大な青年紳士は、その辺の事情を大目に見られることなどはちゃんと心得ておられるのです。ダーネー君、おやすみなさい。御機嫌よう! あなたが今日きょう命拾いをされたのはこれから順調な幸福な生涯を送られるためであるようにと思いますよ。――おうい、かご★だ!」
 その弁護士にと同様にたぶん自分自身にも少し腹を立てて、ロリー氏はせかせかと轎に乗って、テルソン銀行へと担がれて行った。ポルト葡萄酒★の匂いをぷんぷんさせて、全くの素面しらふとは見えないカートン氏は、この時笑い声を立てて、ダーネーの方へ振り向いた。――
「君と僕とが落合うとはこれあ不思議な※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)り合せだ。自分にそっくりの人間とここで二人だけでこの鋪石しきいしの上に立っているなんて、君にとっても不思議な晩に違いないだろう?」
「私にはまだ、」とチャールズ・ダーネーが答えた。「この世へ戻ったような気が十分しないのです。」
「そいつあ不思議じゃあないよ。何しろ君があの世の方へだいぶ遠くまで行きかけたのはついさっきのことだからな。君は気が遠くなっているようなのに口を利いているね。」
「私は確かに気が遠くなりそうな気がして来ました。」
「それなら一体どうして君は食事をしないんだ? 僕は、あの馬鹿野郎どもが君をどちらの世界に置いたものか――この世か、それともどこか別の世か――と頭をひねっている間に、食事をしたのさ。うまい食事をさせてくれる一番近くの飲食店へ案内しようか。」
 腕と腕とを組み合せながら、彼は相手の男をひっぱって、ラッドゲート・ヒル★を下ってフリート街に出て、それから、廊道を上って一軒の飲食店へ入った。そこで二人は小さな一室に案内され、チャールズ・ダーネーは上等のあっさりした食事と上等の葡萄酒とでまもなく力を恢復していた。その間カートンは同じ卓子テーブルに向って彼と向い合せに腰掛けていて、前に自分の別なポルト葡萄酒の罎を置き、例の半ば横柄な態度をすっかり現していた。
「君はもうこの世の人間に戻ったような気がするかね、ダーネー君?」
「私はまだ時間と場所については恐しく混乱していますが、それくらいの気がするほどには気分がよくなりました。」
「それはさぞかし御満足だろうね!」
 彼はにが々しげにそう言って、また自分の杯に一杯にいだ。それは大きな杯であった。
「ところが僕はだ、僕の何よりの願いは、自分がこの世のものだということを忘れたいということなんだ。この世は僕にとっては――こんな酒を除けばだね――何のいいところもないし、また、僕もこの世にとってはそうなんだ。だから、その点では僕たちは大して似ちゃあいないんだな。いや、そればかりか、僕たちはどの点でも大して似ていないような気がして来たよ、君と僕とはね。」
 昼間ひるまの感情の激動で頭が乱れてもいたし、粗野な振舞のこの生写いきうつしの人間と一緒にそこにいるのが夢のように思れもするので、チャールズ・ダーネーはどう答えていいかまごついた。で、とうとう、何も答えなかった。
「さあ、もう君の食事もすんだのだから、」とカートンはやがて言った。「なぜ君は健康を祝さないのさ、ダーネー君? なぜ君は乾杯をしないんだい?」
「何の祝杯を? 何の乾杯を?」
「なあに、そいつあ君の口先まで出ているさ。そうあるべきだよ、そうに違いないよ。そうだということは僕は誓ってもいいぜ。」
「では、マネット嬢ミス・マネットに!」
「では、マネット嬢ミス・マネットに!」
 その乾杯をしている間相手の顔をまともに眺めていたカートンは、自分の杯を肩越しに壁に投げつけた。杯は粉微塵に砕けた。それから、彼は呼鈴ベルを鳴らして、別のを持って来いと言いつけた。
「あれなら暗がりで手を貸して馬車に乗せてやりがいのある美人だね、ダーネー君!」と彼は、新たな杯に酒をぎ込みながら、言った。
 ちょっと眉をひそめて簡単に「そう。」と言うのがその答であった。
「あれなら同情されたり泣いてもらったりされがいのある美人だよ! どんな気持がするかなあ? ああいう美人の同情と憐憫の対象になるのなら、命がけで裁判されるだけの値打があるかね、ダーネー君?」
 もう一度ダーネーは一ことも答えなかった。
「あのひとは、僕が君の伝言ことづてを伝えてやったら、それを聞いてとても喜んでいたよ。いや、なあに、あのひとが喜んでいる素振りを見せたという訳じゃあないんだがね。喜んでいたろうと僕が推量しているのさ。」
 こう言われたことから、ダーネーは、この不愉快な相手が昼間の難関で我から進んで自分を助けてくれたことを、折よく思い出した。それで彼は話をそこへ向けて、彼にその礼を言った。
「僕はどんな礼だって言ってほしくもなければ、言ってもらうだけの資格もないのさ。」というのがその無頓著な応答だった。「第一に、あれは何でもないことだし、第二には、僕はなぜあんなことをしたのか自分でもわからないんだ。ダーネー君、僕は君に一つ尋ねたいことがあるんだがね。」
「どうぞ。あなたの御親切な御尽力に対してわずかな返礼ですが。」
「君は僕が君に特別に好意を持っていると思うかね?」
「全くのところ、カートン君、」と相手は妙に度を失って返答した。「私はそんなことを考えてみたことがないんです。」
「でも今ここで考えてみたまえ。」
「あなたはいかにも私に好意を持っておられるように振舞われました。が、好意を持っておられるとは私は思いません。」
僕も自分が好意を持っているとは思わないんだ。」とカートンが言った。「僕は君の頭のよさにすこぶる敬服するようになったよ。」
「それにしても、」とダーネーは、呼鈴ベルを鳴らしに立ち上りながら、言い続けた。「そのために、私が勘定を持って、私たちがどちら側とも悪感情なしでお別れすることは、差支えがないようにしたいものですね。」
 カートンが「そりゃあちっとも差支えはないとも!」と答えたので、ダーネーは呼鈴ベルを鳴らした。「君は勘定を全部持つか?」とカートンが言った。肯定の返事をすると、「じゃあこれとおんなじ葡萄酒をもう一パイント★おれに持って来てくれ、給仕。それから十時になったらおれを起しに来てくれ。」
 勘定書を払うと、チャールズ・ダーネーは立ち上って、カートンにおやすみを言った。その挨拶には返答せずに、幾らかおどすような挑戦するような態度で、カートンも立ち上って、それから言った。「最後にもう一ことだ、ダーネー君。君は僕が酔っ払っていると思うかね?」
「あなたはだいぶお飲みになったと私は思いますがね、カートン君。」
「思うって? 君は僕が飲んでいたことは知っているじゃないか。」
「そう言わなければならないのでしたら、私はそのことを知っています。」
「ではなぜ飲むかってこともついでに知らしてあげよう。僕はね、失望した奴隷なんだよ、君。僕は誰一人だって好きでもなければ気にもかけないし、また誰一人だって僕を好きでもなければ気にもかけやしないんだ。」
「たいそう遺憾なことです。あなたは御自分の才能をもっと有効に御利用出来ますでしょうに。」
「そうかもしれんさ、ダーネー君。そうでないかもしれんさ。だが、君は酒を飲まんからっていい気になってちゃいけないぜ。どんなことになるか君だってわかりゃしないんだからね。おやすみ!」
 一人だけになると、この不思議な人物は蝋燭を取り上げて、壁に懸っている鏡のところへ行き、それに映る自分の姿を綿密にうち眺めた。
「お前はあの男に特別に好意を持っているのか?」と彼は自分自身の姿に向って呟いた。「お前に似ている男だからといって特別に好意を持たなければならん訳があるのかい? 人に好意を持つなんてことはお前のがらじゃない。それはお前も承知しているはずだ。えい、畜生め! 何というお前の変り果てようだ! お前の堕落しない前の姿と、お前のなれたかもしれない姿を見せてくれた男だからといって、その男を好くというのは立派な理由さね! あの男と位置を換えてみろ。そうしたら、お前はあの男と同じようにあの青い眼で見つめられたり、あの男と同じようにあの不安そうな顔で同情されたりしたろうか? さあ、いいか。遠慮なくあからさまに言ってみろ! お前はあいつを憎んでいるのだ。」
 彼は心の慰めを一パイントの葡萄酒に求めて、それを数分のうちにすっかり飲み尽すと、それから両腕の上に突っ伏して寐込んでしまった。彼の髪の毛は卓子テーブルの上に乱れかかり、蝋燭の長い蝋垂れが彼の上にたらたらと滴り落ちるのだった★。
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